[雑伊]記憶のハーブ
『雑渡さん』
『雑渡さん、お団子、一緒に食べましょう』
縁側で、いつものように待ち人の現れるのを待っていた雑渡は、聞きなれた声を間近に感じ、目を開けた。あまりにも長く待っていたものだから、雑渡はいつの間にやら眠ってしまっていたらしい。地面には人ひとり分の影が落ちている。顔をあげればそこには、雑渡の待ち人ではなく――否そもそも待ち人が誰だったのか、雑渡はわからないのであるが――、白い半袖のTシャツに身を包み、リュックサックを背負った伊作が立っていた。彼は、雑渡が営むこなもん荘の、下宿人である。
「伊作くん、どうしてきみが、ここに」
『遅くなってしまって、ごめんなさい』
会話がかみ合わない。いずれにしても、どうせ夢の話である。雑渡は適当に話を合わせることにした。
「ああ、ごめん。約束していたお団子は、陣左と尊奈門にあげてしまったよ」
「大丈夫です。ぼく、さっき買ってきました」
まだあったかいです。早く食べましょう、と伊作は、菓子屋の名の印字された包装紙で包まれた、プラスチックのパックを両手で、雑渡に手渡した。先日まさに伊作が買ってきて、ふたり仲良く下宿の居間で食べた、こなもん荘の近くにある和菓子屋のそれだった。ずっしりと重く、あたたかい。菓子を受け取った雑渡の手首には、否、きっと着物の袖に隠れた奥、二の腕のほうまで、きっちりと包帯が巻かれている。そしてこの夢のなかではいつも、雑渡は、左目が見えないのだった。
『事情があって、ここへくるのがずいぶんと遅くなってしまいました』
ずっと待っていてくださったんですか、と伊作は、団子をもつ雑渡の両手にそっと自身のそれを重ねた。乾燥の目立つ部分をやさしく撫でられる。雑渡は涙があふれそうになった。なんとかこらえ、そうだよ、とうなずく。私はずっと、伊作くんが現れるのを、待っていたんだよ。
――どっ、と居間から聞こえてくる諸泉と伊作のにぎやかな笑い声で、雑渡は目を覚ました。最近の20代30代の若者は達観しているかと思いきや、ときに朝から元気でよろしい。
「……変なの」
近頃は、昔から変わらずよく見るこの夢に、最近雑渡が経験した実際の出来事が加わって、変化が起こり始めた。具体的には、伊作の存在である。夢の中ではどこか切なくさびしかった雑渡の心が、現実世界で偶然居合わせた伊作によって満たされ、そしてその静かな日々のよろこびが、夢にも反映されているのである。夢のなかの生活空間はいつも、雑渡に、いつか教科書や時代劇で見た戦国の世を彷彿とさせたが、最近そこへ登場するようになった伊作は、現代の彼のまま現れるので、それがちぐはぐで、おもしろかった。まるで、未来からやってきた少年のようである。否、まだ頬のあたりに幼さの残る顔をしてはいても、彼はもう立派な青年だったか。
「時をかける伊作くん、だね」
んふ、と雑渡は昨晩、学生時代以来久々に読んだタイムトラベルもののSF小説を思い出して笑った。
☆
ソテーした豚肉に、トマトソースがたっぷりとかけられている。ガーリックと黒こしょうのかおりが食欲をそそった。フライパンのなかで豚肉とともに炒められていたのだろう、つやつやと光る大きなローズマリーが房ごと、肉に添えられている。雑渡はこの日、主食として行きつけのベーカリーで購入したバゲットを添えていたが、食欲旺盛な下宿人のために、ごはんも炊いておいた。この料理には白米も合うのを、雑渡自身が知っていた。いまは亡くなってしまった雑渡の母が、好んでこのハーブを実家の庭のプランターで栽培し、食べ盛りの雑渡によく出してくれた料理のひとつだったからだ。幼き日、はじめてこの料理を食べた雑渡は、おしゃれなごはん、とひかえめな声で、台所に立つ彼女に喜びの気持ちを伝えた。「じつは簡単な料理よ」と、キッチンカウンター越しに母は笑っていた。
炊飯して正解だった。雑渡の目の前でいま、伊作はパンもごはんも両方、食べている。雑渡は急いで、バゲットをもう一本出してスライスし、食卓の真ん中に置かれたバスケットに盛ってやる。まだ背が伸びそうな若者の、一日の終わりの食事はまた格別うまいに違いない。この勢いで、料理に添えられたローズマリーも食べてしまうのではないかとはらはらした。食べられないものではないのだけれども。
このハーブ、豚肉に合うよね、とぽつりと雑渡がいえば、伊作は知識としてハーブを知っていても、実際に料理につかったことは少ないのだと言った。豚肉から皿の上にこぼれ落ちているトマトソースを余さず食そうと、伊作がナイフとフォークですくって料理にかけなおしている。雑渡はうきうきと胸を躍らせた。雑渡自身、このソースが何より決め手だと思っていたからだ。トマトの缶詰でつくっても濃厚でおいしいが、今日は早くも庭でトマトがなっていたので、それをつぶしてつくったフレッシュなそれだった。余ったソースは明日の朝、ピザトーストにできる。
チキンにも合うんだよ、と雑渡はつぶやきながら、余ったらしく食卓の端に置かれていたローズマリーの束を手に取り、顔を寄せてかおりを吸い込む。合うというのは、ローズマリーとトマトソースの両方を指す。記憶力を高める効果があるんだってね、とそうしてしばらく目を閉じている雑渡を見て、伊作はせっせと動かしていたナイフとフォークをそっと皿に置いた。
「雑渡さん、ローズマリーがお好きですか?」
「うん」
むかし実家の庭にもあってね。なつかしいにおいなの。と雑渡はほほえむ。そうですか、と伊作は、湿気の多い初夏にもかかわらず、――おそらくは水仕事や野菜のあくのせいで――乾燥とささくれの目立つ雑渡の手を眺めていた。
☆
麦わら帽子をかぶった雑渡が、庭でハーブの手入れをしている。剪定ばさみを持ち出して、ローズマリーをちょきちょきと切り始めた。しめた、と伊作は首に洗顔用のタオルをかけたまま、その両端を握りしめ、縁側でサンダルを履いて庭におりた。一瞬こけそうになった。
「雑渡さん」
「伊作くん、おはよう」
伊作の声に振り返った雑渡は、軍手をはめた手の甲で額の汗をぬぐいながら、立ち上がった。慌てて朝の挨拶を返した伊作に、雑渡は早いね、どうしたの、とたずねる。
「暑くて目が覚めまして。……雑渡さん、そのハーブ、ぜんぶ料理におつかいになりますか?」
「それがつかいきれないんだよね。見て、あそこのシソ」
雑渡が指し示すほうを見れば、たしかに、大葉が生い茂っている。放っておいて大きくなりすぎた葉はもはや、歯触りが悪そうだ。いくらなんでもつかいきれまい。
「ローズマリーは干してドライハーブにしているよ。それでも余るから、たまには、リースにでもしようかな」
夏だけどね、と気だるげに息をつく雑渡と対照的に、伊作は息をはずませた。
「あの。そのローズマリー、少し分けていただけませんか」
雑渡は少々驚いたようだが、その場ですぐに気前よくローズマリーを切りとり、数束伊作に渡した。
「これくらい?」
こんなにたくさんは、と伊作は一束雑渡に返した。雑渡はローズマリーだけでいいのかとたずねる。ええ、今日はローズマリーだけで、と伊作は言った。ほしければいつでも言って。私がいないときは勝手にとっていいからね、と雑渡は付け加える。何につかうのか訊かれると予想していた伊作は、すぐまた庭仕事に戻った雑渡の後姿を見て、拍子抜けしてしまった。否、雑渡はたしかに、そういう男だった。
☆
雑渡が居間で読書している。彼の足元には、紐で束ねられた本が積みあがっている。明らかに古紙回収か古本屋にでも出す予定のものに見えるそれらについて伊作は以前、雑渡に尋ねたことがある。諸泉が古本屋に出すと言ってきかぬ本を、もったいないと言って片端から雑渡が読んでいるというわけだった。面白いかときけば、なかには面白いものもあるし、そうでないものもあるという。ちょっとえっちな恋愛ものでもあればいいのに、全然ないんだよ、SFばっかりで。尊奈門てば面白くないやつ、とぼやいていたのを思い出して、伊作は思わずくすりと笑みをこぼしてしまった。その音で伊作の存在に気づいてしまったらしい、雑渡が、開いた本に落としていた視線と顔を上げてこちらをみとめた。
「伊作くん」
おじゃましました、またあとで来ます、と伊作はその場を立ち去ろうとした。が、いいよ、ちょうどきりのいいところだし、と雑渡が文庫本をぱたんと閉じたので、伊作はテーブルに歩み寄り、雑渡の向かいに腰かけた。そして両手に持っていた小瓶を、卓上に置く。
「なに、それ」
クリーム? と雑渡は首をかしげる。
「はい。こないだ分けていただいたローズマリーで、軟膏をつくってみたんです」
雑渡は両眉を上げた。
「もしかして、私に?」
「ええ」
雑渡さん、このにおいがお好きだと言っていたから。ふと思いついて、と伊作は瓶のふたを開けた。
「保湿効果があるんです。ハンドクリームみたいにつかえますので、もしよかったら。……試しに塗ってみても、かまいませんか?」
雑渡がどこか上の空のままうなずけば、伊作は小瓶の中のクリームを自身の右手の中指にとり、まず自分の両手のひらでのばした。整髪料を髪になじませる前にやるあの動作よりも丁寧で、やさしい。たちまち雑渡の慣れ親しんだかおりがひろがる。伊作は左手で、雑渡の右手をとった。かさつく雑渡の手を両手で包む込み、おもに親指をつかって軟膏を塗り広げていく。雑渡の人差し指の関節部分は、いまにもひび割れてしまいそうだった。伊作はそこに、重点的にクリームを塗った。伊作の体温で、クリームはのびがよくなっている。それぞれの指の股までくるくるとよくマッサージされ、雑渡はそわそわとしはじめた。気持ちいい。なんだか顔が、あつい。
「妊娠中の使用は、お避けくださいね」
「え」
雑渡の手に視線を落としている伊作のまつ毛をぼんやりと眺めていた雑渡は、ふいに声をかけられ我に返った。妊娠だって?
「雑渡さんご自身には直接関係ないお話かもしれませんけど」
念のため、と伊作はほほえんだ。いわく、ローズマリーには子宮収縮作用があるらしい。
「雑渡さん、手が大きいですね」
この大きな手で、あのおいしい料理をたくさんつくられるのですね、と伊作はもう一方の手をとり、またさっきと同じように全体に塗りひろげてから、乾燥の目立つ箇所を撫で始めた。雑渡の爪の先までクリームを塗り、ひとつひとつ、大事なものでも磨くかのようにした。
そのとき、廊下のほうから、どさりと派手な音がした。雑渡も伊作もはっとして音のする方を見れば、荷造り紐で束ねられた書籍を二階から運んできたらしい諸泉が、もともと大きな目をさらに大きく丸くしてこちらを呆然と見ている。二人分の視線が向けられた諸泉は決まり悪そうに取り落とした書籍を抱えなおし、踵をかえしてどこかへ行ってしまった。視線を手元に戻した伊作は、自らの両手でしっかりと雑渡の両手をそろえて握っているこの状況をようやく客観的に理解した。雑渡を見上げれば、まさに庭でなっているトマトのように、顔を赤くしている。さすがローズマリー、早速そこまで血行を促進したらしい。伊作は照れくさそうに、あっさり雑渡の両手を離した。
「あ」
「こ、こんな感じで、つかってみてください」
お肌に合わない場合は、ただちに使用を中止してください、と薬の説明書を読み上げるかのように早口で述べた伊作は、立ち上がって足早に去ってしまった。雑渡は中途半端で放置されてしまった両手をテーブルの上に投げ出したまま、いつまでも伊作の消えていったほうを眺めていた。そんなわけで、礼を言いそびれてしまった。
★
「わあっ、なにそれ、おいしいもの?」
気が利くじゃない、と嬉々として両手を差し出す雑渡に、こなもん荘の玄関にたたずむ父は抱えていた風呂敷包みを自らの脇へひっこめた。
「おまえにじゃあない。下宿の皆さんにだ」
空中で行き場を失った両手を、雑渡はつまらなそうにおろす。
「どうせ、皆さんに、じゃなくて、本当は伊作くんに、でしょ」
「よくわかったな」
傷むから冷蔵庫へ、と父は目を丸くしながら自らの息子に包みを今度こそ手渡した。
「今日、彼は」
「仕事に決まってるでしょ」
あなたとちがって現役は忙しいの、と雑渡はしぶしぶ受け取った包みを持って父に背を向け、廊下を進む。あがっていいと言われたわけでもないが、父も勝手にスリッパを出し、雑渡の後をついていった。
またしても茶の一杯も出されぬまま、雑渡の父は下宿の――かつては自らの持ち物だった下宿屋の――居間で息子と向かい合って椅子に座っていた。膝下の脚が長すぎて、椅子から両膝が浮き上がってしまっている姿がふたりお揃いで、なんだか少々、間が抜けて見える。息子のほうは、なぜかその両膝をちょんと合わせていた。
「善法寺さんは、おまえの友だちじゃないのか」
「友だちの定義にもよるけど。ちがうんじゃない?」
なにその質問、とぼやきながら、私は大家で、彼は下宿人。それだけ。と雑渡は言った。そうか、と父は、らしくもなく、大人しく返事を寄越す。
「ただの下宿人なら、いずれは彼も、ここを出ていってしまうんじゃないのか」
「……そりゃ、ね」
ごく当然のことである。卒業に就職、配属、転勤、転職。これまでもそうして、毎年のように下宿人を送り出してきた。住まいのことと関係なく、付き合いの長い諸泉ただ一人をのぞいては。伊作は前者の、不特定多数の下宿人の一人に過ぎない。そのことを父に指摘され、たしかに思うところがなくはなかった。いつかは伊作も、ここを出ていく。まして彼には目指すものがある。急に、雑渡の胸に暗いものがのしかかる。
「おまえは、さびしがり屋だから。伴侶にするなら、若くて元気のいい、しっかりしたひとがいいんじゃないかと、ふと彼を見ていて思ったんだ」
「それ、ただ若い子好きな、えろ親父だからね」
そうしたら、ずっとそばにいてくれる可能性が高いだろう、と父は雑渡の合いの手を無視して続けた。もっとも、いくら若くて健康でも、否だからこそ、おまえがどうしようもなければさっさとおまえを置いて出ていってしまうだろうけどな、とも続けた。
「まあいい、諸泉のところのせがれがいてくれるから、当面は安心だ。ところで昆奈門、おまえ、なんだかいいにおいがするな」
なつかしいようなにおいだな、という父に毒気を抜かれてしまい、めんどうくさくなった雑渡はばか正直にこたえた。
「ハンドクリーム」
私の手が乾燥してるからって、伊作くんがローズマリーでつくってくれたの、と雑渡は戸棚にしまってあった小瓶をとりだしてみせた。これをもらった日に、伊作にぬりぬりしてもらった感触を思い出し――今日に限ったことではなく、自分でこれを塗布するたびのことではあったが――、雑渡は頬を赤らめる。気のせいか、たしかに肌の調子がいい。へえ、たいしたものだなと、しげしげとびんを眺める父は、雑渡の様子がおかしいことには気づいていないようだった。
「……あなたも塗ってみる?」
「表情と言っている内容があべこべだが」
そんなに大事なら、いいよ、と父は言う。もともと量が少なそうだし、と続けた。
「伊作くんに感想伝えるから、ちょっとだけ塗っていけば」
雑渡は中指にごくごくちょっとだけ軟膏を取り、父の手の甲にのせた。
「……ほんとにけちくさい量だな」
ぶつぶつ文句を言いながら、少量のクリームを自分で塗り広げている父のこめかみに、白髪が混ざっているのをどこかぼんやりと雑渡は眺める。あたりにローズマリーのかおりがたちのぼった。さびしがり屋はあなたでしょう、と雑渡は思った。
★
金曜日だった。とくに予定もない諸泉がまっすぐ会社から帰宅すれば、居間で大家が食卓に突っ伏している。否、突っ伏しているというより、椅子に座ったまま身体を折り曲げ、側頭部を食卓に押しつけている。後頭部がこちらに向けられているので、雑渡の表情は諸泉に見えない。諸泉はネクタイをゆるめながら、ため息をついた。昨日までは機嫌よくてきぱきと家事をこなしていたのに、今日はこれである。もともとつかみどころがなく浮き沈みの少ない雑渡が、伊作と出会ってからというもの、よほど親しい間柄でなければわからない程度ではあるが、一喜一憂しているのが諸泉には明らかであった。
「……今日はどうしたんですか」
ぴくりと雑渡の頭が動き、顔をこちらに向ける。しかしまた、ぺたりと反対側の頬を食卓にのせたままだ。
「なんでもないよ」
おかえり、と雑渡は面白くなさそうに、口をへの字に曲げている。そしてはあ、とため息をこぼし、ようやく上体を起こした。
「ご飯食べる? 尊奈門」
「ええ」
着替えてきますね、と諸泉が階段に向かってまた歩きだせば、うん、と雑渡も立ち上がってのろのろと食事の支度にとりかかった。
「今日、伊作くん、お夕飯いらないんだって」
同僚とご飯にいくから遅くなるって、と雑渡はあまり食が進まないらしく、なるとを箸ではさみながらぼやく。そんな速度で食べていては、麺がのびてしまう。対照的に、諸泉は小気味よい音をたてながらラーメンをすすった。一口が大きい。添えられていた半熟煮たまごは、いちばん最初に食べてしまったらしかった。ほうですか(そうですか)、と興味なさげに諸泉は麺を咀嚼する。
「ちょっとからかうつもりでさ、ガールフレンド? ってきいたんだけど」
そこで諸泉は麺を吹き出しそうになる。あの他人に無関心な雑渡が、めずらしくも踏み込んだ質問をしたものだ。
「べつに彼女ではないんだって。でも女の子だって言ってた」
女の子のほうはちょっと伊作くんに気があるかもしれないよねぇ、と雑渡はうらめしげに自分の分の煮たまごを口に放り込む。咀嚼して飲みこんだ雑渡は、いいな、とつぶやいた。とても小さな声だ。どっちがだ、と諸泉は言いたくなったが、わかりきったことを尋ねることはしなかった。
「そう思うなら、あなたも負けずに誘えばいいのではありませんか」
「……しないよ」
私、ただの大家だもん、と雑渡は静かにラーメンをすすりながら、食事中もそばに置かれた小瓶――なかには美しい緑色の軟膏が入っている――を横目で見やった。
「おまえが本なんか落とすからさ、マッサージが短くなったし」
「は?」
「ああ、だから今日、インスタントラーメンなんですか」
「……別に手抜きじゃないよ。野菜たっぷりだし、ちゃんと味玉もつけたでしょう」
【テーマソング】
・セシル・コルベル「The Neglected Garden」(映画『借りぐらしのアリエッティ』挿入歌)
庭のハーブの手入れをする雑渡さん
・スリー・ドッグ・ナイト「Joy to the World」(ドラマ『ランチの女王』エンディングテーマ)
ふてくされた雑渡さんが尊奈門とインスタントラーメンをすするシーン
『雑渡さん、お団子、一緒に食べましょう』
縁側で、いつものように待ち人の現れるのを待っていた雑渡は、聞きなれた声を間近に感じ、目を開けた。あまりにも長く待っていたものだから、雑渡はいつの間にやら眠ってしまっていたらしい。地面には人ひとり分の影が落ちている。顔をあげればそこには、雑渡の待ち人ではなく――否そもそも待ち人が誰だったのか、雑渡はわからないのであるが――、白い半袖のTシャツに身を包み、リュックサックを背負った伊作が立っていた。彼は、雑渡が営むこなもん荘の、下宿人である。
「伊作くん、どうしてきみが、ここに」
『遅くなってしまって、ごめんなさい』
会話がかみ合わない。いずれにしても、どうせ夢の話である。雑渡は適当に話を合わせることにした。
「ああ、ごめん。約束していたお団子は、陣左と尊奈門にあげてしまったよ」
「大丈夫です。ぼく、さっき買ってきました」
まだあったかいです。早く食べましょう、と伊作は、菓子屋の名の印字された包装紙で包まれた、プラスチックのパックを両手で、雑渡に手渡した。先日まさに伊作が買ってきて、ふたり仲良く下宿の居間で食べた、こなもん荘の近くにある和菓子屋のそれだった。ずっしりと重く、あたたかい。菓子を受け取った雑渡の手首には、否、きっと着物の袖に隠れた奥、二の腕のほうまで、きっちりと包帯が巻かれている。そしてこの夢のなかではいつも、雑渡は、左目が見えないのだった。
『事情があって、ここへくるのがずいぶんと遅くなってしまいました』
ずっと待っていてくださったんですか、と伊作は、団子をもつ雑渡の両手にそっと自身のそれを重ねた。乾燥の目立つ部分をやさしく撫でられる。雑渡は涙があふれそうになった。なんとかこらえ、そうだよ、とうなずく。私はずっと、伊作くんが現れるのを、待っていたんだよ。
――どっ、と居間から聞こえてくる諸泉と伊作のにぎやかな笑い声で、雑渡は目を覚ました。最近の20代30代の若者は達観しているかと思いきや、ときに朝から元気でよろしい。
「……変なの」
近頃は、昔から変わらずよく見るこの夢に、最近雑渡が経験した実際の出来事が加わって、変化が起こり始めた。具体的には、伊作の存在である。夢の中ではどこか切なくさびしかった雑渡の心が、現実世界で偶然居合わせた伊作によって満たされ、そしてその静かな日々のよろこびが、夢にも反映されているのである。夢のなかの生活空間はいつも、雑渡に、いつか教科書や時代劇で見た戦国の世を彷彿とさせたが、最近そこへ登場するようになった伊作は、現代の彼のまま現れるので、それがちぐはぐで、おもしろかった。まるで、未来からやってきた少年のようである。否、まだ頬のあたりに幼さの残る顔をしてはいても、彼はもう立派な青年だったか。
「時をかける伊作くん、だね」
んふ、と雑渡は昨晩、学生時代以来久々に読んだタイムトラベルもののSF小説を思い出して笑った。
☆
ソテーした豚肉に、トマトソースがたっぷりとかけられている。ガーリックと黒こしょうのかおりが食欲をそそった。フライパンのなかで豚肉とともに炒められていたのだろう、つやつやと光る大きなローズマリーが房ごと、肉に添えられている。雑渡はこの日、主食として行きつけのベーカリーで購入したバゲットを添えていたが、食欲旺盛な下宿人のために、ごはんも炊いておいた。この料理には白米も合うのを、雑渡自身が知っていた。いまは亡くなってしまった雑渡の母が、好んでこのハーブを実家の庭のプランターで栽培し、食べ盛りの雑渡によく出してくれた料理のひとつだったからだ。幼き日、はじめてこの料理を食べた雑渡は、おしゃれなごはん、とひかえめな声で、台所に立つ彼女に喜びの気持ちを伝えた。「じつは簡単な料理よ」と、キッチンカウンター越しに母は笑っていた。
炊飯して正解だった。雑渡の目の前でいま、伊作はパンもごはんも両方、食べている。雑渡は急いで、バゲットをもう一本出してスライスし、食卓の真ん中に置かれたバスケットに盛ってやる。まだ背が伸びそうな若者の、一日の終わりの食事はまた格別うまいに違いない。この勢いで、料理に添えられたローズマリーも食べてしまうのではないかとはらはらした。食べられないものではないのだけれども。
このハーブ、豚肉に合うよね、とぽつりと雑渡がいえば、伊作は知識としてハーブを知っていても、実際に料理につかったことは少ないのだと言った。豚肉から皿の上にこぼれ落ちているトマトソースを余さず食そうと、伊作がナイフとフォークですくって料理にかけなおしている。雑渡はうきうきと胸を躍らせた。雑渡自身、このソースが何より決め手だと思っていたからだ。トマトの缶詰でつくっても濃厚でおいしいが、今日は早くも庭でトマトがなっていたので、それをつぶしてつくったフレッシュなそれだった。余ったソースは明日の朝、ピザトーストにできる。
チキンにも合うんだよ、と雑渡はつぶやきながら、余ったらしく食卓の端に置かれていたローズマリーの束を手に取り、顔を寄せてかおりを吸い込む。合うというのは、ローズマリーとトマトソースの両方を指す。記憶力を高める効果があるんだってね、とそうしてしばらく目を閉じている雑渡を見て、伊作はせっせと動かしていたナイフとフォークをそっと皿に置いた。
「雑渡さん、ローズマリーがお好きですか?」
「うん」
むかし実家の庭にもあってね。なつかしいにおいなの。と雑渡はほほえむ。そうですか、と伊作は、湿気の多い初夏にもかかわらず、――おそらくは水仕事や野菜のあくのせいで――乾燥とささくれの目立つ雑渡の手を眺めていた。
☆
麦わら帽子をかぶった雑渡が、庭でハーブの手入れをしている。剪定ばさみを持ち出して、ローズマリーをちょきちょきと切り始めた。しめた、と伊作は首に洗顔用のタオルをかけたまま、その両端を握りしめ、縁側でサンダルを履いて庭におりた。一瞬こけそうになった。
「雑渡さん」
「伊作くん、おはよう」
伊作の声に振り返った雑渡は、軍手をはめた手の甲で額の汗をぬぐいながら、立ち上がった。慌てて朝の挨拶を返した伊作に、雑渡は早いね、どうしたの、とたずねる。
「暑くて目が覚めまして。……雑渡さん、そのハーブ、ぜんぶ料理におつかいになりますか?」
「それがつかいきれないんだよね。見て、あそこのシソ」
雑渡が指し示すほうを見れば、たしかに、大葉が生い茂っている。放っておいて大きくなりすぎた葉はもはや、歯触りが悪そうだ。いくらなんでもつかいきれまい。
「ローズマリーは干してドライハーブにしているよ。それでも余るから、たまには、リースにでもしようかな」
夏だけどね、と気だるげに息をつく雑渡と対照的に、伊作は息をはずませた。
「あの。そのローズマリー、少し分けていただけませんか」
雑渡は少々驚いたようだが、その場ですぐに気前よくローズマリーを切りとり、数束伊作に渡した。
「これくらい?」
こんなにたくさんは、と伊作は一束雑渡に返した。雑渡はローズマリーだけでいいのかとたずねる。ええ、今日はローズマリーだけで、と伊作は言った。ほしければいつでも言って。私がいないときは勝手にとっていいからね、と雑渡は付け加える。何につかうのか訊かれると予想していた伊作は、すぐまた庭仕事に戻った雑渡の後姿を見て、拍子抜けしてしまった。否、雑渡はたしかに、そういう男だった。
☆
雑渡が居間で読書している。彼の足元には、紐で束ねられた本が積みあがっている。明らかに古紙回収か古本屋にでも出す予定のものに見えるそれらについて伊作は以前、雑渡に尋ねたことがある。諸泉が古本屋に出すと言ってきかぬ本を、もったいないと言って片端から雑渡が読んでいるというわけだった。面白いかときけば、なかには面白いものもあるし、そうでないものもあるという。ちょっとえっちな恋愛ものでもあればいいのに、全然ないんだよ、SFばっかりで。尊奈門てば面白くないやつ、とぼやいていたのを思い出して、伊作は思わずくすりと笑みをこぼしてしまった。その音で伊作の存在に気づいてしまったらしい、雑渡が、開いた本に落としていた視線と顔を上げてこちらをみとめた。
「伊作くん」
おじゃましました、またあとで来ます、と伊作はその場を立ち去ろうとした。が、いいよ、ちょうどきりのいいところだし、と雑渡が文庫本をぱたんと閉じたので、伊作はテーブルに歩み寄り、雑渡の向かいに腰かけた。そして両手に持っていた小瓶を、卓上に置く。
「なに、それ」
クリーム? と雑渡は首をかしげる。
「はい。こないだ分けていただいたローズマリーで、軟膏をつくってみたんです」
雑渡は両眉を上げた。
「もしかして、私に?」
「ええ」
雑渡さん、このにおいがお好きだと言っていたから。ふと思いついて、と伊作は瓶のふたを開けた。
「保湿効果があるんです。ハンドクリームみたいにつかえますので、もしよかったら。……試しに塗ってみても、かまいませんか?」
雑渡がどこか上の空のままうなずけば、伊作は小瓶の中のクリームを自身の右手の中指にとり、まず自分の両手のひらでのばした。整髪料を髪になじませる前にやるあの動作よりも丁寧で、やさしい。たちまち雑渡の慣れ親しんだかおりがひろがる。伊作は左手で、雑渡の右手をとった。かさつく雑渡の手を両手で包む込み、おもに親指をつかって軟膏を塗り広げていく。雑渡の人差し指の関節部分は、いまにもひび割れてしまいそうだった。伊作はそこに、重点的にクリームを塗った。伊作の体温で、クリームはのびがよくなっている。それぞれの指の股までくるくるとよくマッサージされ、雑渡はそわそわとしはじめた。気持ちいい。なんだか顔が、あつい。
「妊娠中の使用は、お避けくださいね」
「え」
雑渡の手に視線を落としている伊作のまつ毛をぼんやりと眺めていた雑渡は、ふいに声をかけられ我に返った。妊娠だって?
「雑渡さんご自身には直接関係ないお話かもしれませんけど」
念のため、と伊作はほほえんだ。いわく、ローズマリーには子宮収縮作用があるらしい。
「雑渡さん、手が大きいですね」
この大きな手で、あのおいしい料理をたくさんつくられるのですね、と伊作はもう一方の手をとり、またさっきと同じように全体に塗りひろげてから、乾燥の目立つ箇所を撫で始めた。雑渡の爪の先までクリームを塗り、ひとつひとつ、大事なものでも磨くかのようにした。
そのとき、廊下のほうから、どさりと派手な音がした。雑渡も伊作もはっとして音のする方を見れば、荷造り紐で束ねられた書籍を二階から運んできたらしい諸泉が、もともと大きな目をさらに大きく丸くしてこちらを呆然と見ている。二人分の視線が向けられた諸泉は決まり悪そうに取り落とした書籍を抱えなおし、踵をかえしてどこかへ行ってしまった。視線を手元に戻した伊作は、自らの両手でしっかりと雑渡の両手をそろえて握っているこの状況をようやく客観的に理解した。雑渡を見上げれば、まさに庭でなっているトマトのように、顔を赤くしている。さすがローズマリー、早速そこまで血行を促進したらしい。伊作は照れくさそうに、あっさり雑渡の両手を離した。
「あ」
「こ、こんな感じで、つかってみてください」
お肌に合わない場合は、ただちに使用を中止してください、と薬の説明書を読み上げるかのように早口で述べた伊作は、立ち上がって足早に去ってしまった。雑渡は中途半端で放置されてしまった両手をテーブルの上に投げ出したまま、いつまでも伊作の消えていったほうを眺めていた。そんなわけで、礼を言いそびれてしまった。
★
「わあっ、なにそれ、おいしいもの?」
気が利くじゃない、と嬉々として両手を差し出す雑渡に、こなもん荘の玄関にたたずむ父は抱えていた風呂敷包みを自らの脇へひっこめた。
「おまえにじゃあない。下宿の皆さんにだ」
空中で行き場を失った両手を、雑渡はつまらなそうにおろす。
「どうせ、皆さんに、じゃなくて、本当は伊作くんに、でしょ」
「よくわかったな」
傷むから冷蔵庫へ、と父は目を丸くしながら自らの息子に包みを今度こそ手渡した。
「今日、彼は」
「仕事に決まってるでしょ」
あなたとちがって現役は忙しいの、と雑渡はしぶしぶ受け取った包みを持って父に背を向け、廊下を進む。あがっていいと言われたわけでもないが、父も勝手にスリッパを出し、雑渡の後をついていった。
またしても茶の一杯も出されぬまま、雑渡の父は下宿の――かつては自らの持ち物だった下宿屋の――居間で息子と向かい合って椅子に座っていた。膝下の脚が長すぎて、椅子から両膝が浮き上がってしまっている姿がふたりお揃いで、なんだか少々、間が抜けて見える。息子のほうは、なぜかその両膝をちょんと合わせていた。
「善法寺さんは、おまえの友だちじゃないのか」
「友だちの定義にもよるけど。ちがうんじゃない?」
なにその質問、とぼやきながら、私は大家で、彼は下宿人。それだけ。と雑渡は言った。そうか、と父は、らしくもなく、大人しく返事を寄越す。
「ただの下宿人なら、いずれは彼も、ここを出ていってしまうんじゃないのか」
「……そりゃ、ね」
ごく当然のことである。卒業に就職、配属、転勤、転職。これまでもそうして、毎年のように下宿人を送り出してきた。住まいのことと関係なく、付き合いの長い諸泉ただ一人をのぞいては。伊作は前者の、不特定多数の下宿人の一人に過ぎない。そのことを父に指摘され、たしかに思うところがなくはなかった。いつかは伊作も、ここを出ていく。まして彼には目指すものがある。急に、雑渡の胸に暗いものがのしかかる。
「おまえは、さびしがり屋だから。伴侶にするなら、若くて元気のいい、しっかりしたひとがいいんじゃないかと、ふと彼を見ていて思ったんだ」
「それ、ただ若い子好きな、えろ親父だからね」
そうしたら、ずっとそばにいてくれる可能性が高いだろう、と父は雑渡の合いの手を無視して続けた。もっとも、いくら若くて健康でも、否だからこそ、おまえがどうしようもなければさっさとおまえを置いて出ていってしまうだろうけどな、とも続けた。
「まあいい、諸泉のところのせがれがいてくれるから、当面は安心だ。ところで昆奈門、おまえ、なんだかいいにおいがするな」
なつかしいようなにおいだな、という父に毒気を抜かれてしまい、めんどうくさくなった雑渡はばか正直にこたえた。
「ハンドクリーム」
私の手が乾燥してるからって、伊作くんがローズマリーでつくってくれたの、と雑渡は戸棚にしまってあった小瓶をとりだしてみせた。これをもらった日に、伊作にぬりぬりしてもらった感触を思い出し――今日に限ったことではなく、自分でこれを塗布するたびのことではあったが――、雑渡は頬を赤らめる。気のせいか、たしかに肌の調子がいい。へえ、たいしたものだなと、しげしげとびんを眺める父は、雑渡の様子がおかしいことには気づいていないようだった。
「……あなたも塗ってみる?」
「表情と言っている内容があべこべだが」
そんなに大事なら、いいよ、と父は言う。もともと量が少なそうだし、と続けた。
「伊作くんに感想伝えるから、ちょっとだけ塗っていけば」
雑渡は中指にごくごくちょっとだけ軟膏を取り、父の手の甲にのせた。
「……ほんとにけちくさい量だな」
ぶつぶつ文句を言いながら、少量のクリームを自分で塗り広げている父のこめかみに、白髪が混ざっているのをどこかぼんやりと雑渡は眺める。あたりにローズマリーのかおりがたちのぼった。さびしがり屋はあなたでしょう、と雑渡は思った。
★
金曜日だった。とくに予定もない諸泉がまっすぐ会社から帰宅すれば、居間で大家が食卓に突っ伏している。否、突っ伏しているというより、椅子に座ったまま身体を折り曲げ、側頭部を食卓に押しつけている。後頭部がこちらに向けられているので、雑渡の表情は諸泉に見えない。諸泉はネクタイをゆるめながら、ため息をついた。昨日までは機嫌よくてきぱきと家事をこなしていたのに、今日はこれである。もともとつかみどころがなく浮き沈みの少ない雑渡が、伊作と出会ってからというもの、よほど親しい間柄でなければわからない程度ではあるが、一喜一憂しているのが諸泉には明らかであった。
「……今日はどうしたんですか」
ぴくりと雑渡の頭が動き、顔をこちらに向ける。しかしまた、ぺたりと反対側の頬を食卓にのせたままだ。
「なんでもないよ」
おかえり、と雑渡は面白くなさそうに、口をへの字に曲げている。そしてはあ、とため息をこぼし、ようやく上体を起こした。
「ご飯食べる? 尊奈門」
「ええ」
着替えてきますね、と諸泉が階段に向かってまた歩きだせば、うん、と雑渡も立ち上がってのろのろと食事の支度にとりかかった。
「今日、伊作くん、お夕飯いらないんだって」
同僚とご飯にいくから遅くなるって、と雑渡はあまり食が進まないらしく、なるとを箸ではさみながらぼやく。そんな速度で食べていては、麺がのびてしまう。対照的に、諸泉は小気味よい音をたてながらラーメンをすすった。一口が大きい。添えられていた半熟煮たまごは、いちばん最初に食べてしまったらしかった。ほうですか(そうですか)、と興味なさげに諸泉は麺を咀嚼する。
「ちょっとからかうつもりでさ、ガールフレンド? ってきいたんだけど」
そこで諸泉は麺を吹き出しそうになる。あの他人に無関心な雑渡が、めずらしくも踏み込んだ質問をしたものだ。
「べつに彼女ではないんだって。でも女の子だって言ってた」
女の子のほうはちょっと伊作くんに気があるかもしれないよねぇ、と雑渡はうらめしげに自分の分の煮たまごを口に放り込む。咀嚼して飲みこんだ雑渡は、いいな、とつぶやいた。とても小さな声だ。どっちがだ、と諸泉は言いたくなったが、わかりきったことを尋ねることはしなかった。
「そう思うなら、あなたも負けずに誘えばいいのではありませんか」
「……しないよ」
私、ただの大家だもん、と雑渡は静かにラーメンをすすりながら、食事中もそばに置かれた小瓶――なかには美しい緑色の軟膏が入っている――を横目で見やった。
「おまえが本なんか落とすからさ、マッサージが短くなったし」
「は?」
「ああ、だから今日、インスタントラーメンなんですか」
「……別に手抜きじゃないよ。野菜たっぷりだし、ちゃんと味玉もつけたでしょう」
【テーマソング】
・セシル・コルベル「The Neglected Garden」(映画『借りぐらしのアリエッティ』挿入歌)
庭のハーブの手入れをする雑渡さん
・スリー・ドッグ・ナイト「Joy to the World」(ドラマ『ランチの女王』エンディングテーマ)
ふてくされた雑渡さんが尊奈門とインスタントラーメンをすするシーン
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