[雑伊]焦がした恋のスパイス

 朝起きて洗顔すると、心地が良い。洗面台の前の窓から見える日は、すでに高く昇ってしまっていた。梅雨入りする前の、からりとした晴れ間である。外干しにより表面は少々ごわごわとけば立っているかわりに、さぞかしよく吸水するであろうタオルで、諸泉は自身の顔を拭い満足げに息を吐く。遅すぎない時間帯に目覚めた、よい週末のスタートだった。



「んふ」
 タオルを首にかけたまま廊下を歩いていると、居間から、にぎやかなテレビの音声に混ざって、聞きなれた含み笑いが聞こえてくる。諸泉はせっかく気分よく山なりになったはずの眉をひそめた。
 居間をのぞけば、予想に違わず、雑渡が食卓の椅子に腰かけ、薄気味悪い笑みをもらしながら、週末の朝に放映されているアニメ番組に気を取られている。
「おはよう尊奈門。陣内に高級なおせんべいもらったよ。いただきなよ」
 諸泉の気配に気づいたようだが、ほとんど上の空で、器にもられたせんべいをすすめるのみだった。今日は土曜日でまかないは休みなので、こうして大家の雑渡ものんびり過ごしているわけである。失恋から立ち直ったかと思えば、これだ。どうしてこんなひとになっちゃったのだろう、と諸泉は思う。否、概して過去というものは美化される。500年前もまあ、こんなもんだったかと、諸泉は内心で首を横に振った。昆奈門だけに。
「……またその番組ですか」
 諸泉も雑渡の向かいに腰かけ、まだ朝飯前ではあったが、せんべいをひとつつかみとり、バリ、と小気味よい音をたてて一口目をかじった。米菓とのりの、香ばしいにおいが広がる。あまり大きくないモニタのなかでは、美少女の戦士たちが、まだいまは学校の制服に身を包んだまま悪者と対峙している。雑渡の最も好きなキャラクターは、豊かな茶髪を高い位置でひとつに束ねた、男勝りな少女だった。彼女のイメージカラーはグリーンだった。
「うん。この子が好きなの」
 かわいいねえ、と雑渡はせんべいもそっちのけで、食卓に肘をついた両手の平に自身のあごをのせ、にこにことテレビに見入っている。
「その風貌がお好きですね」
 ふわふわのくせ毛をポニーテールにした、おっちょこちょいでしたっけ、と諸泉はせんべいをもっていないほうの手の指を順に折り曲げ、雑渡の好みの女性の特徴を挙げる。
「うん、もうね私、間違いないと思うんだけど、前世で結ばれなかったおもいびとが、そういうひとだったんだろうねぇ」
「はあ、」

 そこで諸泉はテーブルの上に放置されたリモコンを奪い取り、さながら忍のようなすばやさで、チャンネルを変えた。
「あっ、あ、なにするの尊奈門」
 今いいところなんだよ、変身するときがちょっとえっちなんだよ! お前もむかし、幼稚園で食い入るように見ていたじゃない、などと恥ずかしい諸泉のエピソードを暴露しながら雑渡はリモコンを取り返そうと立ち上がったが、諸泉はリモコンを後ろにかくし、いいから見よ、とテレビ画面を指し示した。
「……なにこれ」
「これもアニメです」
 打って変わって、こちらの番組は時代もののストーリーらしい。さきほどの美少女戦士と雰囲気の似通った、茶色の豊かな髪をやはり高い位置で髷にしている少年が、後輩と思しき少年とともに、床に広げられた布の上に草のようなものを並べている。
「たとえばこの子だって、あなたの好みに合致するでしょう」
「でもこの子、男でしょう」
 そうです! と尊奈門は声をあげた。
「その通り。あなたの言う前世の恋人が、女性だとは限らないということです」
 すると雑渡は、不満の声をもらしながら椅子にまた腰をおろした。
「いやだよ、男なんて。なんか、むさくるしい気がするもの」
「女性だってかわいくて美しい面ばかりじゃありません。同じ人間なんですから」
 言うようになったじゃないの尊奈門、いつの間におんなを知ったの、と雑渡は含み笑いを浮かべてみせる。
「……」
「まあ、いいよ。それでおまえは、私のさがしているひとが、男かもしれないって言いたいわけね」
「ええ、可能性として」
「でもそれじゃあ、探すのは、途方もないね」
 現代の日本では、ポニーテールではない可能性が高いもんね、と雑渡はつまらなそうに、これまたテーブルに投げ出されている朝刊を手に取った。番組を変えられてしまった今、テレビへの興味はなくなってしまったらしい。否、もともとまともにみていたのかあやしいところである。いってしまえば自身の言う前世云々すらも、じつのところは冗談半分といった体だった。
「そうですね。いまだったら、くせ毛のふわふわは残したまま、こう、ウルフカットとか」
 そのとき、まるではかったようなタイミングで、立て付けの悪い戸が開く音とともに、「ただいまかえりましたぁ」という間延びした声が玄関から聞こえてきた。夜勤明けの伊作が帰ってきたのである。仕事を終えたすがすがしさと疲れも垣間見える伊作が、廊下を横切っていく。
「おかえり伊作くん。おせんべいたくさんいただいたから、ほしかったらあとでとりにおいで」
 雑渡は椅子の背越しに、首をのばしてこえをかける。ありがとうございます、荷物置いてきます、とさわやかな笑みを浮かべて、伊作は階段を上っていった。
「そう、あんな感じの」
 姿は見えなくなってしまったが、伊作が消えていったほうを手のひらで指し示しながら、諸泉は自身の頭をふわふわと整えるようなしぐさをしてみせる。あなたの好きなお医者さんですし、なんか不運そうですし、と口から出まかせで適当に思いついた特徴も付け加えた。
「やだな尊奈門。冗談も休み休みいいなよ、まさか伊作くんが」
「……」
「……やだぁ」
 テレビのなかでは、黒い忍装束を身にまとった隻眼の男が、「縁があったらまた会おう」などと格好をつけた台詞を残して去っていった。



       ☆



 台所に立つ雑渡は、鍋にサラダ油を注いで熱し、そこにホールのクミンシードをびん容器から気前よく入れ――ちょっと入れすぎた――、焦がさぬよう木べらで動かしながら、炒めた。炒めているのはまだ一種類のスパイスだけだというのに、たちまちカレーのかおりがたちのぼる。楽しくなってきた雑渡は、ふんふんと鼻歌をうたいながら、このあとの工程で加えていくスパイスを頭の中でリストアップしていく。しかし赤とうがらしまで思い出してそこで、はっと、まったく別のことを思い出した。思い出した内容が内容だっただけに、うっかりクミンを焦がしそうになった。そのあともカレーを作り続けながら少々上の空になってしまい、いくつかのスパイスを通常よりも多く入れすぎてしまった。





「……」
 大きな失敗はせずにどうにかカレーの仕込みを終えた雑渡は、書斎の机の前に両あしをそろえて横座りし、文字通り悩まし気に、机上に並べられた2枚のチケットを眺めていた。近所の博物館で開催されている企画展の、前売り券である。先月別れたばかりの彼女といく約束を、ずいぶん以前にしていたのだ。それで雑渡は前売り券を押さえておいたのだった。しかし別れてしまった今、その約束は無効である。払い戻すのも、もはやおっくうだった。とはいえせっかく購入したチケットを捨ててしまうのも、なんだか忍びない。
「どうしよう」
 子どものいる山本にあげてしまって、しかし2枚では家族といくには足りぬだろうから、あとは当日券を買い足してくれと、そのようにしてもらうしかないだろうか?
「スパイスとハーブ展、ねぇ」
 雑渡は眉根を寄せ、チケットに印刷された、かわいらしい赤とうがらしのイラストをにらみつけた。



       ☆
 
 

「おかわりいただいてもよろしいですか?」
 その晩、遅くに帰宅した伊作は旺盛な食欲で、雑渡が昼間煮込んだカレーを食べていた。もう本日食事をするのは伊作のみなので一向にかまわぬのだが、大鍋のなかのチキンカレーも、炊飯器のなかのターメリックライスも、もう間もなくすべて伊作の腹の中におさまってしまいそうだった。どうぞ、と3杯目のカレーライスを伊作の前においた雑渡は、伊作の分のついでに自らの分の水もコップに注ぎ、いそいそと伊作の向かい側に腰かけた。箸休めにと気分で出していたミックスナッツとドライフルーツも、もう面倒になったのでびんごと伊作に差し出す。
「おいしい?」
「はい!」
 満面の笑みで伊作にうなずかれ、雑渡は気をよくした。昼間は例の件で動揺してちょっと失敗しかけたのだが、伊作は気付いていないらしい。
「今日お昼食べそこねてしまって。すごくお腹空いてるんです」
「……」
 つまり雑渡の料理が美味いのではなく、単に空腹が最高のソースになっているだけではないだろうか。まあよい、と雑渡は気を取りなおした。

「ときに伊作くん。きみは、スパイスに興味はあるかね」
「スパイスって、今日雑渡さんが焦がしたクミンとか入れすぎたカルダモンとかの、あのスパイスですか」
 雑渡は飲みかけていた水を吹き出しそうになった。ばれていた、しかも微妙な配合まで。
「……よくわかったね」
 詳しいじゃないの、と口元を拭いながら伊作を見つめれば、ええ、と伊作は最後の一口をスプーンで自らの口に運び、咀嚼して飲みこんだ。
「幼い頃から、薬草の類に興味があったんです。古代ではスパイスは生薬のほか、ミイラの防腐剤にもつかわれていて。小学生のとき、自由研究で提出しました」
 これは、とうれしくなった雑渡は、じゃあハーブも好き? とたずねてみた。ああ、バジルとかオレガノとかの、と伊作がこたえたので、思わぬところで適切な人物が見つかったと安堵した。雑渡は椅子から腰を浮かし、マガジンラックの横にたてかけてある、2枚のチケットが入ったクリアファイルを手に取りテーブルの上に置いて伊作に差し出した。
「いまそこの自然史博物館でスパイスとハーブの企画展をやっているの。もし興味あるなら、伊作くんに2枚ともあげる」
「いいんですか」
 これ、前売り券ではありませんか、と伊作はクリアファイルを両手で持った。
「うん。彼女と行く予定だったの」
 でも別れちゃったからね。もういいの。と雑渡は眉を下げて微笑んだ。だれか友だちでも誘っていっておいで、と雑渡が提案すれば、困ったな、と伊作は言った。
「こういうの好きな友だちがいま近くにいなくて。展覧会みたいなものは、ぼくひとりで行くことが多いんです」
 伊作はクリアファイルから、2枚の券を取り出した。
「いいんじゃない? それでも」
 2枚だめにするよりは1枚でもつかってもらったら、チケットもうれしいと思うよ。無理せず伊作くんの好きにして、と雑渡は立ち上がった。

「そうだ雑渡さん、一緒にいきませんか」
 空になった自らのコップをシンクに置いたところで伊作にそう言われ、雑渡は驚き、振り返った。もともと雑渡さんのお金で買ったものでしょう。いきましょう一緒に、と伊作も立ち上がり、食べ終えて空になった食器をもってこちらへやってくる。
「……いやだよ、思い出すもの」
 目的語はなかったが、雑渡が何を思い出すのかは言うまでもなかった。
「なにおっしゃるんですか、結局行けなかったのに思い出すなんて妄想も甚だしいです」
「……」

 かくして、雑渡はその週末、伊作と博物館へ出かけることとなった。



       ☆



「……お」
 週末。めずらしく雑渡が洗面台の前で自らの髪の毛を整えている。いつもはだいたい黒いトップスを適当に着てぶらぶらしている雑渡が、今日は淡い色のカッターシャツを着ていた。諸泉はにやりと笑みをうかべて横に並ぶ。
「デートですか」
「ちがうよ」
 伊作くんと博物館に行くだけ、と雑渡が振り返ることもせず、うざったそうにこたえれば、諸泉はうれしくなり、やっぱりデートじゃありませんか、と返した。雑渡は横目で諸泉に視線をやる。
「……勘違いするなよ、べつにおまえに変なこと言われたからじゃないからな。伊作くんのほうから誘われたんだよ」
「でもチケットはあなたのでしょう」
 それは私でもわかる、デートに誘う常套手段ですよ、と諸泉は笑った。雑渡は否定するのももはや面倒だった。

 肝心の伊作が家の中に見当たらないので諸泉は見回していたが、伊作は別の用事で先に家を出ており、雑渡は博物館の前で待ち合わせの約束をしていたのだった。



       ☆



「中世ヨーロッパでは、クミンは恋人の心変わりを防ぐものと信じられていたんです」
「ヨーロッパでは、バジルは求婚の意思表示として一枝を髪に差す習慣がありました」
「古代ギリシャ・ローマでは、マジョラムは幸福のシンボルとして、新婚夫婦にかぶせる冠に用いられたそうです」
 エキゾチックなかおり漂うなか、学芸員も顔負けの、伊作の解説付きで、雑渡は展示を大いに楽しんだ。なぜか自分の好きなスパイスやハーブに限って恋の話題が多いなと、雑渡は顔を赤らめたものだった。しまいには解説員や子どもたちまでも伊作の周りに集まってきて、彼の知識に耳を傾けていた。
 たちまち人気者になってしまった伊作から離れざるを得なかった雑渡は雑渡で、順路の所々に貼られているスパイスやハーブをつかったレシピに目をとめては、頭に入れたり、複雑なものはメモをとったりしていた。
 伊作の言ったとおり、なんとミイラの展示もあって、雑渡はしげしげと眺めてしまった。

 展示室の外、研究室ではスパイスからつくるカレーパウダーづくりの体験教室が開かれていて、伊作は、年齢制限があるかなと、入り口でうらやましげに中の親子連れをのぞいていたのだが、ちょうどそこへ今回の企画展主催の学芸員が通りかかり、大人でも参加可能だと伊作に声をかけた。雑渡もどうかと誘われたのだが、私はいいよと断り、子どもたちに混ざって薬研を扱う伊作をそばで眺めていた。まるでお父さんのようだった。





「映画のあとの喫茶店とか、展覧会のあとのごはんとかって、楽しくて好きです」
 ミュージアムに併設のカフェで、BLTサンドイッチをほおばりながら伊作はつぶやいた。全粒粉の薄い食パンに、美しい焼き目がついている。雑渡から返事がないので、そちらを見やれば、雑渡は自身が注文したスコーンに手を付けることもせず、伊作が体験教室のお土産でもらった彼特製のカレースパイスのはいった小さなびん容器を手に取り、それをぼんやりと眺めていた。
「雑渡さん?」
 雑渡ははっと我に返ってびんをテーブルに置き、伊作に視線を移した。
「ごめん、喫茶店がなんだって」
「映画の後に喫茶店に寄ったりするのが楽しいっていう話です」
 雑渡さんは。どんなデートが好きですか、と問われ、私? ディナーの後にホテル、と即答した。伊作ははあ、ととくに雑渡の回答がおもしろいわけでもなさそうだった。
「あとは、私は、待ち合わせの場所で、待っているのが好きなんだけどね、相手が遅れてて、連絡つかないときは不安だよね」
 雑渡は割ったスコーンにクロテッドクリームをのせる。仕事とかってわかるなら心配ないけどさ、と続けた。
「このまま何日も、連絡つかなくて、ずうっと来なかったらどうしようって」
「……」
 伊作は食べかけのサンドイッチを皿に置き、黙ってしまった。
「伊作くん?」
「雑渡さん、待っている人が、来なかったことがあるんですか?」
 まさかこの話題に食いつかれるとは思っていなかったので、雑渡は面食らった。
「ないない。ないよ、そんな顔しないで」
 でもね、ときどき夢に見るの、と雑渡はバターナイフを置き、視線を皿に落とした。約束した場所で私は待っているんだけど、その日その人はこなくて、翌日もそのまた翌日も時間が許す限りその場所に行って待ってみるんだけど、来ないの。と雑渡が言えば、伊作はまた静かになってしまった。
 いつまでも返事がないので雑渡が顔をあげれば、伊作はぼろぼろと、大きな双眸から涙をこぼしていた。
「ちょっ、と、何泣いているの」
 サンドイッチが濡れてしまうよと雑渡は、慌ててポケットからハンカチを取り出し、伊作に差し出した。
「とうがらしが、しみて」
「とうがらしはもう、びんのなかだよ」
 伊作は手渡された雑渡のハンカチで遠慮なく自身の顔をごしごしと拭く。
「ちょっと私心配だよ。きみ、ひとに騙されやすいんじゃないの」
「う、うそだったんですか」
「いや、うそじゃないけどさ」
 たかが夢の話で、そんなに泣かないで、と雑渡はすっかり参ってしまった。





「雑渡さん」
「ん?」
 泣きながらもしっかりサンドイッチをすべて腹におさめた伊作は、博物館から駅までの道のりを、雑渡と並んで歩いていた。
「ぼくが雑渡さんと待ち合わせるときは、できるだけ遅れないようにしますね」
 遅れるときは、ちゃんと連絡します、と伊作は言った。伊作はよほど今日の展示が気に入ったのか、はたまた別の理由か、ミュージアムショップで購入した図録を胸の前でしっかりと抱えていた。伊作がそれを購入すると言ったとき、こないだの河内晩柑ジュースの礼にと、雑渡が買ってやったものだった。
「ありがとう、伊作くん」





 もう少し暑くなるとね、庭にフレッシュバジルがしげるの、と雑渡は言った。
「そうしたら、ピザを焼くね」
「雑渡さん、ピザも作れるんですか」
 もちろん、と雑渡は得意げに胸を張った。生地も、トマトソースも手作りなんだよ、と雑渡は言った。いわく、諸泉が懸賞で当てたパン焼き機で、ピザ生地もこねられるらしい。それで手軽にピザもつくれるのだという。
「ピザ屋さんのピザの耳よりももっと、ふかふかだよ」
 1枚はマルゲリータにして、ほかは、いっぱい好きな具をのせようね、と雑渡は言った。楽しみにしていますね、と伊作は言った。
「ぼくのオリジナルミックススパイスで、カレーもつくってくださいね」
「はいはい」






【テーマソング】
・The Archies「Sugar, Sugar」
 雑渡さんがカレーをつくるシーン
・Daniel Boone「Beautiful Sunday」
 エンディング
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