[雑伊]こなもん荘の大家さん
炎天下だった。額から垂れてくる自身の汗を肩口で雑に拭い、次々と負傷兵の手当てを施していく。必要な道具を差し出してくれる仲間の医師や看護師がいるわけでもない。同じ行動をしている者は、その場に伊作ひとりだった。今の世では見慣れている、清潔な包帯はない。伊作は、軍旗を引き裂いて包帯代わりにしているようだった。またこめかみから落ちてくる汗をぬぐって、そして。
『その包帯、少し分けてもらえないだろうか』
またか、と伊作は思う。そこまできたとき、伊作は浅い眠りの淵にいて、これが夢であることをすでに認識していた。背後から声をかけられ、ふりかえり、足軽の男を見上げる。
「どうぞこちらへ。傷の具合をみましょう」
夢うつつでも、そうして実際に自身のその台詞を言ってしまえるくらいには、何度となく同じ夢をみていた。にもかかわらず、その続きはいつもどうしても、みることができないのだった。
――ただ今朝は、どうやら勝手が少々、違ったらしい。
「んふ」
そこでいつも消えてしまうはずの足軽が、にんまりと目じりをさげ、口元に手を当てて、鼻からぬけるような笑みをもらしたのである!
すっかり覚醒してしまった伊作は慌てて目を開けた。
「ヒッ……!」
足軽ではなく、見慣れた大男の顔がすぐ目の前にあり、伊作は飛び起きて背後の壁まで後ずさった。理由は自分でもよくわからぬが、手繰り寄せたタオルケットで伊作は自身の胸元をかくす。心配しなくとも、伊作はTシャツとハーフパンツを着用していた。
「ざっとさん、どうしてここに」
伊作自身が掛けものごと後ずさったせいで、もぬけの殻となった敷布団の横、畳の上で、この下宿の大家である雑渡が横になり、さきほど夢の中でみた足軽と同じ表情を浮かべて伊作を見上げていた。
「伊作くん、ノックしても呼んでも出ないからさ」
なにかあったと思うじゃない? と雑渡は口元に笑みをたたえたまま、気だるげにその大きな体躯を起こした。そんなにいっぱいかぶって寝てたら暑いでしょう、もうすぐ夏だよ、などとのたまう。
「今日、ぼく仕事休みなんです。休みの日くらいゆっくり寝かせてください」
「ごめんごめん」
伊作は大きなため息をつくとともに、ひどい寝ぐせでぼさぼさになっている頭をかいた。
「……もとのご用はなんですか」
あ、そうそう。と雑渡は自らの左の人差し指に視線を落とした。
「わるいんだけど。ばんそうこう、1枚かしてくれないかな」
「おけがされたのですか」
うん、庭仕事してたらちょっととげ刺さっちゃったみたいで、と雑渡は傷のある人差し指の腹と、同じ手の親指をこすりあわせた。そんなことしちゃだめです、と伊作が注意する間もなかった。救急箱ちゃんと見てなくて、ばんそうこう切らしていたみたいで。あとで買ってくるから、いまは伊作くんのをくれないかな、と雑渡は尋ねた。そんなことで添い寝しないでくれと思わないでもなかったが、伊作は快く目当てのものを雑渡に渡してやった。
朝から夢の中でも現実世界でも衛生用品を配り、なんだかそれだけでつかれてしまったが、とりあえず着替えるべく伊作はパジャマ代わりのTシャツの裾をたくしあげる。しかしそこで、まだ雑渡が布団の横にあしをそろえて座り、こちらをじっと見ているのが視界の端に映った。
「どうぞ続けて。私は気にしないから」
「……」
☆
この下宿の大家であり、まかない人も兼ねている雑渡は少々風変りである。非常識ともとれる近すぎる距離感覚の持ち主なのかと思わせておきながら、その実、絶妙なところでわきまえているようで、それ以上、下宿人のパーソナルスペースにずかずか入り込むような真似はしない。親しげに見えて、雑渡は伊作のことをなにも知らないだろうし、伊作もまた雑渡のことをなんにも知らないのだった。
ただ勘弁してほしいのは、「包帯の歌」である。家事の傍ら、雑渡はその歌をよく口ずさんでいる。しかし、「ゆるまぬように」の次のフレーズから、なぜかいつもメロディだけの、鼻歌に変わるのだった。伊作としては、歌詞の続きが気になって、読んでいる本に集中できないばかりか、夜も眠れなくなってしまった。あるときたまりかねた伊作は、医学書を読むのを中断して階段をかけおりていき、居間で鼻歌をうたいながら真面目に三角巾などつけて拭き掃除をしている雑渡を、どうせ歌うなら後生だからフルで歌ってくれとしめあげたことがある。雑渡はそのとき、顔を赤らめて、すまないのだが雑渡自身も続きの歌詞は知らぬのだと言った。その様子があまりにも恥ずかしげだったので、伊作としても決まりが悪かった。歌詞のわからぬ箇所を、雑渡は鼻歌でごまかしていたわけである。以来、雑渡が「ゆるまぬように」まで歌って、しばし間を置いたあとに、少々遠慮がちにハミングしはじめるのを耳にするたび、伊作は机や開いた書籍に顔を沈ませ笑いをこらえながら、悪いことをしてしまったかもしれないと、心を痛めていた。
かと思いきや、ときおり、スーツを着て革靴を履き、どこぞへ出かけていくのを伊作は見かけたことがある。そういうときの雑渡は、居間で背を丸めてやる気があるのだかないのだかふらふらと家事をこなしている彼とは別人のようだった。まさかなにか社会に反するようなことにでも加担しているのかと伊作は心配になったが、同じ下宿人である諸泉が笑ってそれはないというので、まあ、いまどき流行りの副業の、ひとつやふたつあってもおかしくなかろうと納得することにした。とくに関心があるわけでもないので深くは聞かなかったのだが、諸泉と雑渡は旧知の間柄であるようだった。
この下宿では、平日の朝と夕は雑渡によるまかないが提供される。カレーやそうめんといった、ごくごく普通の料理だが、いつも季節の野菜で彩られ、どれも毎度、なかなかの味だった。下宿の名前から連想される、粉ものばかりが出されるのかと当初は危惧していたが、そういうわけでもなく、伊作は安心した。
入居して間もない伊作だったが、この下宿がわりと、気に入っていた。
☆
勤務時間を終え、どこかすがすがしい心持ちで伊作は伸びをする。更衣室で着替えていたところで、ちょうどかばんの中にしまったばかりの携帯電話が着信を告げた。着信元は、諸泉だった。
「はい」
「善法寺か。いま仕事中か?」
「いえ、いま終えて、これから帰るところです」
そうか、いずれにしろすまないな、と諸泉はまず謝った。
「今日、夕食はお休みだと連絡があった。体調を崩してしまったらしい」
「雑渡さんが?」
ああ、と電話の向こうで諸泉がうなずく。あの雑渡が休むなど、相当悪いにちがいない。自分はよりによって仕事で抜けられそうにないのだが、もし可能なら早めに帰って雑渡の様子を見てやってくれないか、とそのような電話だった。
伊作は慌ててスーパーに走り、かごを手にした。なにか食べたいもの、ほしいものはあるかと雑渡にたずねるべく、携帯電話の通話アプリを開いたのだが、病人に返事をさせるのはかえってわるいと思い、また懐に端末をしまった。ほしいものがあれば、また明日伊作が買いにくればいい。ひとまずは自分が風邪のときに食べたくなるものを、と伊作は桃を手に取った。入り口から近いところにもう小玉スイカが並べられていて、もうすぐ夏なのだと知れた。ついこの間まで、その場所には焼き芋機が置いてあったのに。
☆
伊作は小さくノックをして、失礼します、と雑渡の部屋に入った。
薄暗闇のなか、薄い掛け布団が丸くなっていて、わずかに上下している。伊作がそっと足音をしのばせて枕もとに近寄り、ひざをつけば、雑渡は気だるげに目を開けて、伊作を見上げた。
「いさくくん、」
「起こしてしまいすみません、ご加減はいかがですか」
手のひらで額の温度をはかろうとして、その額に氷嚢がのせられていることに気づいた。いまどき氷嚢か、古風だな、と思いながらその袋をどけ、伊作は雑渡の額に手をのせる。氷嚢のせいで表面はたしかに冷えており、実際の温度がわかりにくかった。
首に触れれば一発だが、専門医でもないのに、そこまでこのひとにするのは、少々はばかられてしまった。
「大丈夫だよ。もう37度台まで下がったから」
ご飯、おやすみしちゃってごめんね、と雑渡はかすれた声で謝った。伊作くんご飯食べた? とたずねられ、適当に買ってきたので大丈夫ですから、気にしないでほしいと伊作はこたえた。
「雑渡さん、いろいろ買ってきたのですが、なにか食べられそうですか」
アイスもプリンもありますよ、と伊作はいくつか、雑渡の好きそうな冷たい甘味を挙げてみた。おかゆや雑炊も、あなたほどうまくはありませんが、つくれます、とも続けた。
「ありがとう、でも」
今日は無理そうかもしれない、と雑渡はめずらしく弱った様子で、力なく笑んだ。無理に食べるのはよくないと判断した伊作は無言でうなずく。うつしてしまうといけないから、きみは自分の部屋に戻って、と雑渡は申し訳なさそうだった。
「待っててください。飲み物、もってきますね」
「おいしいね、これ。伊作くんの手作り?」
照明をつけた部屋の中、雑渡は布団のうえに起き上がり、伊作のこさえた飲料の注がれたグラスを両手でもっていた。伊作が台所の引き出しを適当に物色していたら出てきたストローもご丁寧にさされている。結露がグラスの下部から布団の上に一滴おちて、染みをつくった。
「はい」
「中身は、なあに」
「水と砂糖と、塩です。あと、なんだか黄色いグレープフルーツみたいなみかんがおいしそうだったので、買ってきて少し絞りました」
「ああ、この時期だと河内晩柑かな」
「あ、そうです、それそれ」
鼻がばかになっていなかったら、もっとおいしいだろうねぇ、と雑渡はグラスの中の残りを飲み干した。おかわりは、と尋ねれば、うん、あとでお願い、と雑渡はグラスを伊作に手渡し、ごちそうさまと言った。ふうと息をつき、そしてまた、横になって布団をあごまで引っ張ってしまう。やはりあまり、体調がすぐれないようだった。
「……痛いのは、頭だけですか」
お腹がいたいとか、気持ち悪いとかはありませんか、という伊作の問いに、雑渡は首をふった。盆のうえにグラスを置き、戻って二杯目をいれてこようと立ち上がりかけた伊作のパーカーの裾を、雑渡はそっとつかんだ。
「……」
伊作は黙ってまたその場に腰を落ち着ける。なにか雑渡が言い出すのを待った。
「……情けないよねえ。いい年して、失恋で寝込むなんて」
えっ、と思わず伊作は声をもらしてしまった。
「雑渡さん、ふられたんですか?」
「ちょっと伊作くん、傷をえぐらないでくれるかな」
わあすみませんとことばでは謝罪しつつ、伊作の声にとくに反省の色はうかがえなかった。
「……いつもそうなの。私ってちょっと重いのかな」
離さないぞっていうのが伝わっちゃったのかもね、と雑渡はまた得意の含み笑いをしようとして、しかし喉をやられているのでうまくいかずにせき込んだ。
「そんなに好きだったんですか、そのひとのこと」
「……うん」
好きだった、と雑渡は両目を閉じる。愛していたよ、と続けた。このひとにも意外なところがあるのだなと伊作は少々驚きつつも、そうですか、と相槌をうった。
「地毛らしいんだけど、栗色のくせ毛でね。ながくて、いつもポニーテールにしているの」
くりくりしたつり目で、ちょっと小うるさくて、そうだ、なんだかどこかの誰かさんに似ているよねえ、と雑渡は目を閉じたまま笑った。似ているよねえ、と同意を求められても、自分はそのひとと会ったことがないので何とも言えない、と伊作は思う。どこかの誰かさんが誰を指すかなど、さすがの伊作もわかった。ただ、最後の小うるさいは余計だ。
「はあ、」
そう、薬剤師さんなんだよ、と雑渡は半分もう、眠っているようだった。
「……このひとだと思ったんだけどな」
ちがったんだね、と雑渡はつかれたようにつぶやいた。
「結ばれたかったな、」
そう言ってそのまま深く呼吸をして眠りに落ちた雑渡の左目の目じりから一滴、涙が伝いおりて枕に吸い込まれていくのを、伊作はぼんやりとしたまま、眺めていた。
雑渡の涙に呼応するかのように、溶けかけの氷だけが残るグラスもまた、盆のうえに結露の水たまりをつくっていた。
【登場人物】
●雑渡昆奈門
年齢不詳
こなもん荘の大家兼まかない人
前世の記憶はない
●善法寺伊作
27歳
臨床研修を終え、この地に赴任したばかりの若い医師。こなもん荘に下宿している
前世の記憶はない
●諸泉尊奈門
31歳
会社員。こなもん荘の住人
おそらく前世の記憶がある
【テーマソング】
・大塚愛「桃ノ花ビラ」(ドラマ『すいか』エンディングテーマ)
・倉橋ヨエコ「卵とじ」
『その包帯、少し分けてもらえないだろうか』
またか、と伊作は思う。そこまできたとき、伊作は浅い眠りの淵にいて、これが夢であることをすでに認識していた。背後から声をかけられ、ふりかえり、足軽の男を見上げる。
「どうぞこちらへ。傷の具合をみましょう」
夢うつつでも、そうして実際に自身のその台詞を言ってしまえるくらいには、何度となく同じ夢をみていた。にもかかわらず、その続きはいつもどうしても、みることができないのだった。
――ただ今朝は、どうやら勝手が少々、違ったらしい。
「んふ」
そこでいつも消えてしまうはずの足軽が、にんまりと目じりをさげ、口元に手を当てて、鼻からぬけるような笑みをもらしたのである!
すっかり覚醒してしまった伊作は慌てて目を開けた。
「ヒッ……!」
足軽ではなく、見慣れた大男の顔がすぐ目の前にあり、伊作は飛び起きて背後の壁まで後ずさった。理由は自分でもよくわからぬが、手繰り寄せたタオルケットで伊作は自身の胸元をかくす。心配しなくとも、伊作はTシャツとハーフパンツを着用していた。
「ざっとさん、どうしてここに」
伊作自身が掛けものごと後ずさったせいで、もぬけの殻となった敷布団の横、畳の上で、この下宿の大家である雑渡が横になり、さきほど夢の中でみた足軽と同じ表情を浮かべて伊作を見上げていた。
「伊作くん、ノックしても呼んでも出ないからさ」
なにかあったと思うじゃない? と雑渡は口元に笑みをたたえたまま、気だるげにその大きな体躯を起こした。そんなにいっぱいかぶって寝てたら暑いでしょう、もうすぐ夏だよ、などとのたまう。
「今日、ぼく仕事休みなんです。休みの日くらいゆっくり寝かせてください」
「ごめんごめん」
伊作は大きなため息をつくとともに、ひどい寝ぐせでぼさぼさになっている頭をかいた。
「……もとのご用はなんですか」
あ、そうそう。と雑渡は自らの左の人差し指に視線を落とした。
「わるいんだけど。ばんそうこう、1枚かしてくれないかな」
「おけがされたのですか」
うん、庭仕事してたらちょっととげ刺さっちゃったみたいで、と雑渡は傷のある人差し指の腹と、同じ手の親指をこすりあわせた。そんなことしちゃだめです、と伊作が注意する間もなかった。救急箱ちゃんと見てなくて、ばんそうこう切らしていたみたいで。あとで買ってくるから、いまは伊作くんのをくれないかな、と雑渡は尋ねた。そんなことで添い寝しないでくれと思わないでもなかったが、伊作は快く目当てのものを雑渡に渡してやった。
朝から夢の中でも現実世界でも衛生用品を配り、なんだかそれだけでつかれてしまったが、とりあえず着替えるべく伊作はパジャマ代わりのTシャツの裾をたくしあげる。しかしそこで、まだ雑渡が布団の横にあしをそろえて座り、こちらをじっと見ているのが視界の端に映った。
「どうぞ続けて。私は気にしないから」
「……」
☆
この下宿の大家であり、まかない人も兼ねている雑渡は少々風変りである。非常識ともとれる近すぎる距離感覚の持ち主なのかと思わせておきながら、その実、絶妙なところでわきまえているようで、それ以上、下宿人のパーソナルスペースにずかずか入り込むような真似はしない。親しげに見えて、雑渡は伊作のことをなにも知らないだろうし、伊作もまた雑渡のことをなんにも知らないのだった。
ただ勘弁してほしいのは、「包帯の歌」である。家事の傍ら、雑渡はその歌をよく口ずさんでいる。しかし、「ゆるまぬように」の次のフレーズから、なぜかいつもメロディだけの、鼻歌に変わるのだった。伊作としては、歌詞の続きが気になって、読んでいる本に集中できないばかりか、夜も眠れなくなってしまった。あるときたまりかねた伊作は、医学書を読むのを中断して階段をかけおりていき、居間で鼻歌をうたいながら真面目に三角巾などつけて拭き掃除をしている雑渡を、どうせ歌うなら後生だからフルで歌ってくれとしめあげたことがある。雑渡はそのとき、顔を赤らめて、すまないのだが雑渡自身も続きの歌詞は知らぬのだと言った。その様子があまりにも恥ずかしげだったので、伊作としても決まりが悪かった。歌詞のわからぬ箇所を、雑渡は鼻歌でごまかしていたわけである。以来、雑渡が「ゆるまぬように」まで歌って、しばし間を置いたあとに、少々遠慮がちにハミングしはじめるのを耳にするたび、伊作は机や開いた書籍に顔を沈ませ笑いをこらえながら、悪いことをしてしまったかもしれないと、心を痛めていた。
かと思いきや、ときおり、スーツを着て革靴を履き、どこぞへ出かけていくのを伊作は見かけたことがある。そういうときの雑渡は、居間で背を丸めてやる気があるのだかないのだかふらふらと家事をこなしている彼とは別人のようだった。まさかなにか社会に反するようなことにでも加担しているのかと伊作は心配になったが、同じ下宿人である諸泉が笑ってそれはないというので、まあ、いまどき流行りの副業の、ひとつやふたつあってもおかしくなかろうと納得することにした。とくに関心があるわけでもないので深くは聞かなかったのだが、諸泉と雑渡は旧知の間柄であるようだった。
この下宿では、平日の朝と夕は雑渡によるまかないが提供される。カレーやそうめんといった、ごくごく普通の料理だが、いつも季節の野菜で彩られ、どれも毎度、なかなかの味だった。下宿の名前から連想される、粉ものばかりが出されるのかと当初は危惧していたが、そういうわけでもなく、伊作は安心した。
入居して間もない伊作だったが、この下宿がわりと、気に入っていた。
☆
勤務時間を終え、どこかすがすがしい心持ちで伊作は伸びをする。更衣室で着替えていたところで、ちょうどかばんの中にしまったばかりの携帯電話が着信を告げた。着信元は、諸泉だった。
「はい」
「善法寺か。いま仕事中か?」
「いえ、いま終えて、これから帰るところです」
そうか、いずれにしろすまないな、と諸泉はまず謝った。
「今日、夕食はお休みだと連絡があった。体調を崩してしまったらしい」
「雑渡さんが?」
ああ、と電話の向こうで諸泉がうなずく。あの雑渡が休むなど、相当悪いにちがいない。自分はよりによって仕事で抜けられそうにないのだが、もし可能なら早めに帰って雑渡の様子を見てやってくれないか、とそのような電話だった。
伊作は慌ててスーパーに走り、かごを手にした。なにか食べたいもの、ほしいものはあるかと雑渡にたずねるべく、携帯電話の通話アプリを開いたのだが、病人に返事をさせるのはかえってわるいと思い、また懐に端末をしまった。ほしいものがあれば、また明日伊作が買いにくればいい。ひとまずは自分が風邪のときに食べたくなるものを、と伊作は桃を手に取った。入り口から近いところにもう小玉スイカが並べられていて、もうすぐ夏なのだと知れた。ついこの間まで、その場所には焼き芋機が置いてあったのに。
☆
伊作は小さくノックをして、失礼します、と雑渡の部屋に入った。
薄暗闇のなか、薄い掛け布団が丸くなっていて、わずかに上下している。伊作がそっと足音をしのばせて枕もとに近寄り、ひざをつけば、雑渡は気だるげに目を開けて、伊作を見上げた。
「いさくくん、」
「起こしてしまいすみません、ご加減はいかがですか」
手のひらで額の温度をはかろうとして、その額に氷嚢がのせられていることに気づいた。いまどき氷嚢か、古風だな、と思いながらその袋をどけ、伊作は雑渡の額に手をのせる。氷嚢のせいで表面はたしかに冷えており、実際の温度がわかりにくかった。
首に触れれば一発だが、専門医でもないのに、そこまでこのひとにするのは、少々はばかられてしまった。
「大丈夫だよ。もう37度台まで下がったから」
ご飯、おやすみしちゃってごめんね、と雑渡はかすれた声で謝った。伊作くんご飯食べた? とたずねられ、適当に買ってきたので大丈夫ですから、気にしないでほしいと伊作はこたえた。
「雑渡さん、いろいろ買ってきたのですが、なにか食べられそうですか」
アイスもプリンもありますよ、と伊作はいくつか、雑渡の好きそうな冷たい甘味を挙げてみた。おかゆや雑炊も、あなたほどうまくはありませんが、つくれます、とも続けた。
「ありがとう、でも」
今日は無理そうかもしれない、と雑渡はめずらしく弱った様子で、力なく笑んだ。無理に食べるのはよくないと判断した伊作は無言でうなずく。うつしてしまうといけないから、きみは自分の部屋に戻って、と雑渡は申し訳なさそうだった。
「待っててください。飲み物、もってきますね」
「おいしいね、これ。伊作くんの手作り?」
照明をつけた部屋の中、雑渡は布団のうえに起き上がり、伊作のこさえた飲料の注がれたグラスを両手でもっていた。伊作が台所の引き出しを適当に物色していたら出てきたストローもご丁寧にさされている。結露がグラスの下部から布団の上に一滴おちて、染みをつくった。
「はい」
「中身は、なあに」
「水と砂糖と、塩です。あと、なんだか黄色いグレープフルーツみたいなみかんがおいしそうだったので、買ってきて少し絞りました」
「ああ、この時期だと河内晩柑かな」
「あ、そうです、それそれ」
鼻がばかになっていなかったら、もっとおいしいだろうねぇ、と雑渡はグラスの中の残りを飲み干した。おかわりは、と尋ねれば、うん、あとでお願い、と雑渡はグラスを伊作に手渡し、ごちそうさまと言った。ふうと息をつき、そしてまた、横になって布団をあごまで引っ張ってしまう。やはりあまり、体調がすぐれないようだった。
「……痛いのは、頭だけですか」
お腹がいたいとか、気持ち悪いとかはありませんか、という伊作の問いに、雑渡は首をふった。盆のうえにグラスを置き、戻って二杯目をいれてこようと立ち上がりかけた伊作のパーカーの裾を、雑渡はそっとつかんだ。
「……」
伊作は黙ってまたその場に腰を落ち着ける。なにか雑渡が言い出すのを待った。
「……情けないよねえ。いい年して、失恋で寝込むなんて」
えっ、と思わず伊作は声をもらしてしまった。
「雑渡さん、ふられたんですか?」
「ちょっと伊作くん、傷をえぐらないでくれるかな」
わあすみませんとことばでは謝罪しつつ、伊作の声にとくに反省の色はうかがえなかった。
「……いつもそうなの。私ってちょっと重いのかな」
離さないぞっていうのが伝わっちゃったのかもね、と雑渡はまた得意の含み笑いをしようとして、しかし喉をやられているのでうまくいかずにせき込んだ。
「そんなに好きだったんですか、そのひとのこと」
「……うん」
好きだった、と雑渡は両目を閉じる。愛していたよ、と続けた。このひとにも意外なところがあるのだなと伊作は少々驚きつつも、そうですか、と相槌をうった。
「地毛らしいんだけど、栗色のくせ毛でね。ながくて、いつもポニーテールにしているの」
くりくりしたつり目で、ちょっと小うるさくて、そうだ、なんだかどこかの誰かさんに似ているよねえ、と雑渡は目を閉じたまま笑った。似ているよねえ、と同意を求められても、自分はそのひとと会ったことがないので何とも言えない、と伊作は思う。どこかの誰かさんが誰を指すかなど、さすがの伊作もわかった。ただ、最後の小うるさいは余計だ。
「はあ、」
そう、薬剤師さんなんだよ、と雑渡は半分もう、眠っているようだった。
「……このひとだと思ったんだけどな」
ちがったんだね、と雑渡はつかれたようにつぶやいた。
「結ばれたかったな、」
そう言ってそのまま深く呼吸をして眠りに落ちた雑渡の左目の目じりから一滴、涙が伝いおりて枕に吸い込まれていくのを、伊作はぼんやりとしたまま、眺めていた。
雑渡の涙に呼応するかのように、溶けかけの氷だけが残るグラスもまた、盆のうえに結露の水たまりをつくっていた。
【登場人物】
●雑渡昆奈門
年齢不詳
こなもん荘の大家兼まかない人
前世の記憶はない
●善法寺伊作
27歳
臨床研修を終え、この地に赴任したばかりの若い医師。こなもん荘に下宿している
前世の記憶はない
●諸泉尊奈門
31歳
会社員。こなもん荘の住人
おそらく前世の記憶がある
【テーマソング】
・大塚愛「桃ノ花ビラ」(ドラマ『すいか』エンディングテーマ)
・倉橋ヨエコ「卵とじ」
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