[雑伊]わけありのお婿さん
山伏の衣装を身にまとった若い男がいくさ場に現れては、負傷兵を分け隔てなく手当てしている。その噂はタソガレドキの城主、黄昏甚兵衛の耳にも届いた。
「特定の城をひいきしているわけではない模様であります」
「しかし敵陣に住まいを構え、あげく診療所をひらいていると押都がいっておった。身のこなしが農民や町人のそれでない、とも」
「は、」
「一方で、落とし穴によく落ちていると」
「……」
*
「結婚することになったよ」
背後で、何でもない風にぽろりとこぼされたことばに、留三郎は口にくわえていた釘を床に落としてしまった。仕事中に怪我した箇所を破格の治療費で診てもらった礼もかねて、今日は伊作の家の雨漏りや壊れた箇所の修繕にきていた。
突然の告白に驚き、手を止め留三郎は伊作を振り返る。伊作は伊作で、自身の衣服のほころびを繕っていた手を止め、少々怖い顔で――もとより留三郎はそういう顔だ――こちらを振り返った親友に、にこりと少々面映ゆそうに笑んでみせた。家のほころびも衣服のほころびも、どれもこれも不運によるものだった。衣服も本当は、留三郎が直したほうがうまいのだった。
「……おまえ、いいひとがいたのか」
ううん、と伊作はかぶりをふった。いないよ、きみがいちばんよく知っているじゃないか、とまた伊作は困ったように笑う。じゃあどうして突然、と目で尋ねれば、伊作はうなずいた。
「学園長先生にすすめられて。お知り合いらしいんだけど、ぼくにひとめぼれしたんだって」
「なんだそりゃ」
伊作がおおざっぱな性格なのは留三郎もよく知っていたが、まさかここまでとは思わなかった。おまえはそれでいいのか、といいかけてしかし、いや、まいっちゃうなと照れくさそうに頬をかく伊作を見て毒気を抜かれてしまった。とはいえ能天気すぎやしないか、と留三郎はやはり親友に白い目を向ける。
「ふうん。それでおまえがいいならいいけどさ」
見合い写真は見たのか。美人か。と尋ねれば、伊作はまたもかぶりを振った。
「ううん。なんだかわけありだそうでね。結婚後もしばらくは姿をみせられないんだって」
「あやしいじゃないか!」
*
「ごめんね、留三郎」
留三郎が帰ってしまってから、伊作はひとり、渦正のことばを思い返していた。久方ぶりに文を受け学園へ赴けば、予想を裏切らぬ神妙な顔で、ことの次第を言い渡された。
伊作のいくさ場での行動がタソガレドキに気取られ、邪推されているらしい。その情報を渦正に伝えた者自身が以前、伊作に恩を受け、伊作に惚れているのだという。自身も戦に一枚かんでいる身ゆえしばらくは素性を明かせぬが、伊作の護衛を兼ね婚姻を結んでほしいと申し出たのだと、そのような話だった。渦正のよく知る人物で、腕の立つ者であるらしい。
無茶苦茶な話であるにもかかわらず、伊作は、悪い話ではないかもしれないと、のんきなことを思った。自分の活動はもとよりリスクを伴う。戦場で命をおとすこともあるだろうが、こういうことも遅かれ早かれあるだろうとは思っていた。惚れられるのはさすがに想定外だったが。いずれにしろきっと自分は一生伴侶を得ることはできないと思っていた折だったので、いい機会かもしれないとすら思った。
伊作は今後も自分のやりたいようにするつもりでいて、それを守ろうとする相手ならば好都合である。そこにもまた存在する大小さまざまなリスクに関しては、若い伊作はあまり気にならなかった。
事の重大さについては、さすがの伊作も理解した。だからこそ留三郎には心配をかけまいと、本当のことを言うことができなかったのである。
*
結婚の当日、婿入り道具一式――伊作には身寄りがいないので、友人たちからの祝福の品と、生活に必要な最低限の道具のみである――をもって、結婚相手との新しい住まいに向かえば、そこには伊作より幾ばくか年上の、諸泉という使用人らしき男がいて、新居の中を整えてくれていた。きけば伊作の花婿の、直属の部下であるという。
少々頑固で神経質らしい諸泉だったが、根は悪くない男らしく、伊作は彼と一緒に荷解き作業をしているうちに、多少打ち解けた。夜も更け、諸泉が帰るという折に、伊作は不安になってしまった。
「……ありがとうございました、尊奈門さん」
昼間と打って変わって元気のなくなった伊作を目にし、諸泉は気の毒そうな顔をした。無理もない。このあと、諸泉と入れ違いで顔も見たことのない結婚相手が現れ、なおも顔を拝めぬままその男に抱かれるのだから。
「……気の毒なことだが、あまりそう緊張せずともいい。私の上司は、悪いおひとではない」
いやなことをされそうになったら、拒んでかまわない、大丈夫だ、と諸泉は言った。伊作はうなずき、不安をぬぐえぬまま、諸泉を見送った。
*
風呂で念入りに身体を清め、仙蔵に贈られた新しい寝巻を身にまとい、諸泉の言いつけ通り灯りを落とした真っ暗な寝所で、伊作は身をかたくしながら花婿の現れるのを待った。かた、と小さな物音がし、いよいよ伊作は緊張する。
文字通り夜闇に紛れて現れた男は、自らを「ざっと」と名乗った。いまは姿を見せられず素性も明かせぬけれども、必ずタソガレドキから伊作を守る。しかるべきときが来たら、きっと自分が何者か明らかにする。そのときまで信じて待っていてほしいと、男はそう言った。
戸惑う伊作を気遣いながら、しかし今宵は絶対にそうしたいのだという意思が透けて見えるほどに強い力で、男、雑渡は伊作を抱いた。こわばり、緊張のあまり指先まで冷えきっていた伊作とは対照的に、伊作に触れる雑渡の唇も、指先も、なにもかもが最初から熱かった。その余裕のなさを、伊作には――伊作がもしも女であったならば、わからなかったかもしれない――感じ取れてしまうほどに。
伊作がこれまで出会った人のなかで一等大きいであろう、その恵まれた体躯に伊作はまず驚かされたが、その全身は、大部分が包帯に覆われていた。雑渡の性技は巧みで――伊作ははじめてのことだったので、他と比較のしようもない――、伊作も昂ぶりはしたが、それでも。雑渡が伊作の中で果て、つかの間忘我の境にいるそのときも、湿った熱い呼気を首筋の敏感な皮膚で感じながら、どこか伊作は冷静だった。
翌朝、自身が予告した通りに雑渡はいなくなっていて、居間には伊作一人分の朝食の準備だけがしてあった。
ひとり食事を終えたとき、どうしてだか、伊作はちょっとだけ泣いた。今日は念のため休診にしていたのだが、なんだかこの家にいても落ち着かぬので、身支度をして家を出、自らの診療所に向かったのだった。
*
「それで、どんなやつだった」
またあくる日。伊作の診療所に、朝いちの患者に混ざってやってきた留三郎に、きみはひまなのかいと思わないでもなかったが、伊作はため息をつきつつ、薬を処方してやった。彼が、伊作を誰より心配しているのはわかっていた。
「どんなって、」
「美人だったか」
くふ、と伊作は笑みをこぼした。初夜翌日の昨日は一日、ひとり少々センチメンタルに陥っていたのだが、留三郎の顔を見たら、なんだか元気がわいてきた。
「もう、そればかりなんだからきみは。お顔はわからないといったでしょう。それに美人っていうか、どちらかといえば、」
そこで一度ことばをきり、伊作はせきばらいする。照れくさい。がしかし、冗談を言う元気は出てきた。
「……かっこいいひと、だったかもね」
「……」
留三郎はなんだか幼馴染が、どこの馬の骨ともわからぬ男にとられてしまったような、実際のところそうなのだが、さびしさにも似たへんてこな感情をおぼえた。
*
最初こそこわばり、ぎゅっと身をかたくして雑渡に抱かれ、ときの過ぎるのを待っていた伊作だが、雑渡と時間を重ねるうち、だんだんとこの婚姻関係に慣れてきた。灯りのない中、雑渡の包帯を替えるのも、すっかり板についた。雑渡の古傷の具合を夜毎診ては、昼間仕事の合間を縫って、より雑渡に適切な薬の調合を試した。雑渡というひとを知ろうと、伊作のほうが意識的に心を開きはじめたのである。もとより雑渡が伊作に惚れているのは渦正にきいていたことを差し引いたにしても、はなから伊作本人にまるわかりだった。
「ざっとさん、お顔にふれてもかまいませんか」
「もちろん」
私はきみのものだよ。好きにして。と雑渡は伊作の手を取り、自身の右頬に寄せた。伊作はもう片方の手も雑渡の反対側の頬にあて、親指で慈しむようになぞった。そちらは大部分が包帯でおおわれている。雑渡が唇をひき結ぶのが、わかった。
「……私は醜い姿かたちをしているのだよ」
「いいえ」
みたこともないのにどうして断言できるの、と雑渡が吹きだせば、伊作は真剣にこたえた。
「骨格から概ねわかります。彫りが深くて、美しい顔だ」
「美しい顔、じゃなくて美しい骨、のまちがいじゃないの」
雑渡はなおもおかしげに笑った。美しい、ね、とつぶやく。
「私は、……きみほどうつくしい人に出会ったことはないよ」
雑渡の両頬をなぞる伊作の手首を、雑渡はそっと握った。
*
「なんだよこれ」
明らかに銭の入っているとわかる袋を伊作に手渡され、留三郎は怪訝な顔をした。伊作に金を貸したおぼえはなかった。
「こないだ家の外も中も、いろいろ直してくれたろう」
「いや、お前が治療費まけてくれた分の礼だって言っただろう。いいって」
留三郎が袋を突き返そうとすれば、伊作は首を横にふった。あちこちに傷をこさえてやってくる留三郎に怒った伊作自身が、高くつくよ、と軽口をたたいたのを思い出す。
「まけたなんて、うそうそ。ほかの患者さんもだいたいいつもあのお代で診てるよ。それどころか、釘だってしっくいだって、足りなくてきみ、途中で調達しに戻ったじゃないか。どうしたって割に合わないよ」
きみとはなんというか、こうでいたい。から受け取って。と伊作はかたくなだった。どこかぼんやりしていて、そのくせしっかりどさくさに紛れて留三郎に甘えるかと思いきや、伊作にはときどき、こういう一面を垣間見せるときがある。ずいぶんとむかしに亡くなってしまった伊作の父親や母親が、幼い自分にもよくしてくれていたのを、どうしてかこのとき、留三郎は思い出した。
こまかいやつだな、そんなに言うなら遠慮なくもらっとくぜ、と修繕費を懐にしまった留三郎は、返事もよこさずまた薬の調合をはじめた伊作の横顔を見て、複雑な心持ちになった。その薬はどうせまたあの、如何わしい花婿のためのものなのだろう。薬のことは留三郎にはよくわからぬが、その男のために伊作が暇を見つけてはなにやらめずらしい薬草を集めにいっているのを知っていた。そのたびに頼まれてもいないのに伊作についていき、夢中になるあまりがけから落ちそうになる彼を何度となく引っ張り上げてやったのは他でもない留三郎だったのだから。
「……やっぱりおっかしいぜ、正体を明かさないなんてな」
また雑渡のことか、と伊作は一度すりこぎをまわす手をとめ、しかし再びごりごりと作業を続行した。
「人は美醜じゃないだろう」
「矛盾するな。だったらなおさら、いかに醜男だろうがその姿をお前にみせるべきだろう。やつが隠したいのは、見た目の話じゃなく素性のほうだな」
まあ、学園長先生を信じたいところだけどさ、と留三郎はそこで語気を弱めた。
「うん、すごくやさしい人だよ」
親友とはいえ伊作もさすがに言いにくいので言えなかったが、なにより雑渡がひどく自分を愛してくれているのが、非言語的な方法で自分には伝わってきている。しかし彼ら二人のくわしい事情――もとい床事情――を知らぬ留三郎からすれば、伊作がこの年になってもまだおぼこのようなことを言っているようにしか聞こえず、あきれかえった。
「やさしいって、おまえ、そいつとセックスしかしていないじゃないか」
「留三郎! よしておくれよ、そんな言い方」
「実際そうだろう。まぐわうときだけやさしいなんて、男の欲求の権化みたいだぜ」
こんなことおまえに言いたくはないが、ほかにもそういう関係を持っているやつがいるんじゃないのか、と留三郎はいった。
「そんな。雑渡さんは毎晩ぼくのところへかえってくるんだよ」
あ、毎晩ではないな。と伊作は言いにくそうに口ごもった。留三郎が片眉を上げれば、伊作は両目をふせる。
「あのね、夜の勤務が結構多いみたいなんだよ」
「ただ浮気しているだけかもしれないぜ」
「仕事だってば」
「仕事ってなんだよ」
「え、っと、なんでも、あ、愛を結ぶお仕事だって」
おそらくはどこかのお城の足軽なのだとは言えず、とっさに適当なことを言ってしまった。いくらなんでも適当すぎた。直後、留三郎が烈火のごとく怒ったのは言うまでもない。
*
素性のあやしさはさておき、いつも伊作が仕事から帰宅すると家事も夕食の支度も済んでおり、季節の果物でかごがいっぱいになっていた。
これらはすべてあなたがしてくれているのか、とあるとき諸泉に問えば、たしかに洗濯だけは諸泉が代行したが、そのほかはすべて雑渡が手ずから行ったのだという。どうやら洗濯は、数少ない雑渡の不得手であるらしかった。
生活に必要なものだけではない。あるときは新しい、伊作がこれまで仕立てようと思ったこともないような上質な衣服が。あるときは伊作が幼い時分以来口にしていない都の菓子が。またあるときは入手困難な薬草が。高い頻度で、さまざまな贈り物が伊作におくられた。医師のはしくれゆえ、最低限身だしなみや衛生に気をつかってはいたが、それ以外は基本的に自身の身のまわりにあまり頓着しない伊作にとっては、どれもこれも身に余る贅沢に思えてならなかった。伊作はうれしい反面、かなしい気持ちでそれら贈り物を受け取り、ひとり身につけ、口にし、つかった。できることなら、こうした喜びは、雑渡と分かち合いたかった。伊作がほしいのは、無機質なものではなく、そこにこめられた雑渡のこころ、すなわち雑渡自身であった。
「ざっとさん」
ある夜。いつものように雑渡に愛され、心地よい疲れとまどろみのなかで髪をなでられながら、眠気に負けまいと必死に目を開け、伊作は口を開いた。伊作が眠ってつぎに起きたとき、雑渡はいつも、いないのだから。
「新しい服、ありがとうございました」
「ああ、気に入った?」
「ええ。けれど、これ以上は受け取れません。もう、結構です」
伊作は言ってしまってから、誤解を招きかねない冷酷な言い方になってしまったと後悔したが遅かった。さきほどまで浮き立っていた雑渡が、ひどく落胆したのが、顔は見えずとも伊作には伝わった。
「どうして。……やっぱりほんとは気に入らなかった?」
新しい寝巻もあったでしょう。どうして着ていないの、と雑渡は半ば恨めしそうに言った。伊作は今日も、友人に贈られた寝巻をまとっていた。
「いいえ、とても気に入りました。けれど、あんな高価なもの、わたしには不釣り合いですし、何より。わたしがほしいのは、ものではありません。ざっとさん、あなたです」
空気が一変し、雑渡が頬を赤らめたのが伊作にも分かった。
「や、だな。伊作くんたら情熱的」
もういっかい、する? と雑渡が伊作の耳元に唇を寄せてきたが、伊作はそうじゃない、と、ぺたりと片手で雑渡の顔を押しのけて拒絶した。
「おいしいごはん、いつもありがとうございます。けれど、わたしは。あなたと食事をともにしたい。わたしはあなたと休日を一緒に過ごしたことがありません。べつにお金のかかることじゃなくてもいい、ただ同じ空間で、しあわせを共有したいだけなんです」
できることなら、暗いところではなくて、光の差す場所で、と震えながら、しかし低く力強い声で伊作は付け加えた。その一言が、雑渡にとってはとどめだった。雑渡にはかなえられない望みだったからだ。
「……それはできないと、言ったでしょう」
たっぷりと数秒、否、数分であったかもしれない。しばらく経ってから、雑渡は力なくこたえた。さきほど分かち合った熱は、ふたりともすっかりひいてしまっていた。きょうはもう眠らずに発つ、と雑渡は立ち上がり、衣服を雑に身にまとって、部屋を出ていってしまった。伊作は自分が悪いとは思っておらず、実際おかしなことは何も言っていなかったので、とくにひきとめることもしなかった。もとより自分勝手な婚姻を持ち掛けたのは雑渡で、伊作に正論をつきつけられ勝手に機嫌を損ねたのもまた雑渡なのだった。
どうしろっていうの、と自らの仕える城への道を駆けながら雑渡は思う。自分には、ものを贈ることと、それから彼を抱くことでしか、いまは愛を伝える術がない。それらをみな断られてしまっては、雑渡は伊作を愛することができない。かなしい男だった。
*
「いさくくん、いさくくん、ただいま」
「その、昨日はごめんね」
ふたりがけんかをした、あくる日だった。いつもよりさらに遅い時刻に雑渡はふたりの住処にあらわれ、待ちぼうけて先に眠ってしまっていた伊作を揺り起こした。迷惑な男だった。
昨日はというか、いつも、でしょう。そのごめんは何に対する謝罪なのですか、と伊作は揚げ足をとりたくなったが、また今夜もけんかになるのは伊作としても望むところではなかったのでやめにして、眠い目をこすり、ため息をつくだけにとどめた。
「……昨日のことはもう気にしていません」
「ほんとう?」
「ええ。どうぞ、」
布団の裾を持ち上げ、伊作は雑渡を閨に迎え入れようとしたが、雑渡はなにやら躊躇した。
「あのね、今日忙しくて包帯まだ替えてなくて」
忙しくて替えていないのではなく、伊作に替えてほしくて済ませてこなかったのであろうことは伊作にわかってしまった。雑渡は甘えているのだ。
「こちらへ」
傷の具合をみましょう、と伊作は起き上がった。今日、じつは新しい薬をつくってみたのです、と言えば、雑渡は満足げに伊作を引き寄せてその口を吸った。
*
雑渡と婚姻を結んでから、半年が経とうとしていた。
帰ってくると本人が言った日を過ぎても、雑渡が家に帰ってこない。諸泉も、しばらく姿を見せていなかった。此度の戦況はひどく、複数の陣営がぶつかりあっていた。雑渡が何処に所属しているのかは例のごとくわからぬが、今日もきっと、戦地のどこぞにいるであろうことは、もう明らかだった。
伊作は普段、負傷兵ひとりひとりの傷には注意をはらうが、その人自身に深く入り込むことはない。だが昨日も今日も、次々と手当てをしながら、つい、かんばせや体躯を凝視してしまった。もしかしたらそのなかに、雑渡がいるかもしれなかったからだ。
伊作自身も疲弊していたが、今夜は不安で、眠れない。寝返りをうち、今宵何度目かわからぬため息をついたときだった。がた、と大きな物音がし、伊作は肩を揺らした。雑渡らしからぬ音だが、気配は雑渡のそれだった。布団をはねのけ、伊作は飛び起きる。
「ざっとさん!」
「いさくくん、ただいま」
ごめんね、遅くなっちゃった、とつぶやく雑渡からは、血と硝煙のにおいがした。返り血だけではない、雑渡自身も傷を負っている。
「ざっとさん、けがを」
「ああ、うん、」
私のは、たいしたことはないから平気だよ、と言った雑渡の息は荒く、肩が大きく上下しているのが伊作にも分かった。それより抱きしめさせて、と伊作に覆いかぶさろうとする。
「いけません、手当てを、」
もう、顔だの正体だの言っている場合ではない。明かりをつけさせてくれ、と伊作は頼んだが、それだけはだめだと、雑渡は息も絶え絶えになりながら強く言った。伊作は暗闇のなかで懸命に雑渡の手当てをした。
伊作に手当てされている途中で、雑渡は眠りに落ちてしまったらしい。薬の副作用もあるかもしれなかった。伊作は震える手で、蝋燭を手にとった。雑渡の言いつけを破ることになるが、もう、そんなことを言ってはいられない。雑渡の傷の具合をきちんとみて、最適な手当てを施したかった。伊作は、蝋燭に火をともした。
「……あ、」
漆黒の忍装束。雑渡は、忍だったのか! このあたりでは見かけぬ大きな体躯に、大やけど。頭の中でパズルのピースがはまっていく。タソガレドキ城主に狙われている伊作を守りたいが、正体を明かせない――。彼は。
「っ、」
気が動転した伊作は、持っていた蝋燭のろうを、雑渡の皮膚に一滴、落としてしまった。雑渡ははっと目を覚ました。
もう間違いなかった。若かりし日に部下をかばい大けがをしたと噂にきく。一度は戦線を離脱したがいまなおタソガレドキの忍軍を束ねる、組頭がそこにいた。このあたりではよくある姓なのだろうと思い、雑渡の名だけでは、伊作はその可能性を考えもしなかった。雑渡は伊作が手にもつ蝋燭を見つめ、つぎに伊作自身と目を合わせた。はじめて灯りの中で見る雑渡の顔に、表情はなかった。隻眼のなかで揺れているのは蝋燭の炎か、雑渡の瞳か。
「私を信じていなかったのか」
「いいえ、雑渡さん、」
「これが、私の愛に対するきみのこたえなのだね」
雑渡は起き上がり、伊作に手当てされたばかりの傷をかばいながら、窓から外へ、飛び降りた。
「ここでもどこでも、あの食満だとか潮江だとかいうきみの友人と暮らせばいい。きみは、私でなく彼らを信じたのだ」
夜道を駆けながら、雑渡は泣いていた。ああ、もうおしまいだ。共有できる時間は夜だけの、いびつな関係だが、それでも雑渡は伊作とともに暮らしているつもりだった。限られた条件下で、しかし精一杯に雑渡は伊作を愛し、また伊作に愛されていたと思っていた。あの甘美で幸福な日々は、今日を限りになくなってしまった!
このとき、まだ雑渡は、伊作に対する自身の最大の不誠実に気がついていなかったのだった。
*
「お立場上、正体を明かせなかったのに、ぼくはひどいことを言ってしまった」
暗い場所でまぐわうばかりでなく、日なたで逢引きしたいと。雑渡の正体にかかわらず、雑渡を愛すると言いながら、雑渡の姿を見たいのだと、伊作はそう言ってしまった。
「気にするこたねえよ。所詮、奴に覚悟が決まっていなかったんだ」
本当にお前と正式に関係を結びたいなら、立場をこえてそれでも守り抜くと正々堂々宣言するはずだ。と文次郎は鼻を鳴らした。なんでここにお前がいるんだと最初は文句を垂れていた留三郎だったが、こればかりは文次郎に同意したようだった。途端に外では土砂降りになった。
「いまひどい通り雨にあったぞ。おまえたちが仲良くしていたからか」
戸口に、ずぶ濡れの美丈夫が現れた。
「仙蔵!」
「久しぶりだな伊作。おまえが肩を落としていると留三郎から聞いてな。まさか文次郎もきていたとは」
なに、気にすることはない、文次郎の言うとおり器の小さい男だったんだ、と仙蔵は濡れて重くなった上衣を脱ぐ。なんだったら私がなぐさめてやろうかと伊作に顔を寄せ妖しげな笑みを浮かべる仙蔵の首根っこを文次郎はつかみ、おまえが言うと冗談にきこえないんだよと、伊作から引き離した。
*
「伊作くんがとられてしまうよ!」
留三郎や文次郎と仲良く過ごしているらしい伊作を見て、またしても自分がそう言ったにもかかわらず、雑渡は地団太を踏んだ。この頃は都からはるばるやってくる眉目秀麗な立花や、中在家とかいう寡黙な生き字引、そして七松とかいういけいけどんどんな男まで登場してきて、雑渡は気が気でなかった。なぜか伊作の友人には、伊作自身と同じく容姿にも才にも恵まれた男が多いらしい。それだけなら雑渡とて負けぬと思いたいが、残念ながら雑渡にはいまいち、よりにもよって伊作に関することにおいて情けないところがあった。このままでは伊作が雑渡のことなど。そうだ、保身のため素性も姿も明かさず結婚のまねごとをしていただけの、不誠実な男のことなどすっかり忘れ、新たないいひとを見つけてしまうのも時間の問題だった。
「私のお婿さんなのに!」
「とられるも何も、あなたが勝手にはじめて、勝手に終わりにしたんでしょう」
山本は上の空で雑渡の相手をしていた。そもそもまだ戦は終わっていない。
「はずみで言っちゃっただけだよ! あんなの本気にすると思っていなかったもの」
このままでは伊作くんの心が離れてしまう――まがりなりにも愛されていたと思っているあたり雑渡も能天気だった――、一刻も早くなんとかせねば、と雑渡はいてもたってもいられなかった。
なにより、自分はこんなにも心乱れているのに、伊作はあっさりと自らの診療所で寝泊まりをはじめ――雑渡と婚姻を結ぶ前は、そこが伊作の家を兼ねていたのだから至極当然のことだ――、まるで雑渡との間に何事もなかったかのように、もとの生活に戻っていったことがおもしろくなかった。
むかし、まだ幼かったころの雑渡にも、人並みにかわいいところがあって、田んぼで見つけたあまがえるがあまりにもかわいく、つかまえて家にもちかえり、山本のおさがりでもらった虫かごにいれたことがある。それを見つけた山本には、かわいそうでしょう、もとの場所にかえしていらっしゃいと言われ、泣く泣くあまがえるを両手に包み、またもとの田んぼまでいって放してやった。すると、あまがえるはあっさり、元気よくとびはね、あっというまに草むらの中に見えなくなってしまった。雑渡はさびしい心持ちだったのに、あまがえるのなんと薄情なことか。
「かえるさん……」
「は、?」
「あ、いや」
*
伊作が最後に雑渡の正体を知ってしまった日から、ひと月が経過していた。あのときよりさらに戦況が悪化している。タソガレドキが優勢とのことだが、それでも犠牲がないはずはない。伊作は、雑渡のことをいつも案じていた。
とくに何があったわけでもないのだが、その日はとくに胸騒ぎがした。とうとう我慢ならず、雑渡に会えなくとも、もしかしたら諸泉からなんらかの情報を得られるかもしれないと、伊作はその日の夜分遅く、雑渡とともに暮らした家に赴いた。考えたくはないが、もしものときのために、伊作は薬や医療道具をもって出発した。
嫌な予感が的中した。一瞬、向こうも警戒して気配を消したようだったが、伊作はすぐにそれが雑渡であるとわかった。
「雑渡さん、」
「っ……」
伊作はもう躊躇なく灯りをつけた。雑渡と伊作の寝所で、雑渡が力なく自身の腹を押さえ、壁にもたれかかっているのを見つけた。
「すぐに手当てします。湯を沸かしますから、待っていてください」
「いさく、くん」
「もう大丈夫です」
雑渡は、朦朧としながらも伊作をみとめ、安心したように目を閉じ、伊作に身をまかせた。
灯りがある分、前回に比べ伊作ははるかに段取りよく手当てをすすめた。解毒され、薬を塗布され、包帯を巻かれる間、雑渡は目を開けたり閉じたりしていた。意識は夢とうつつを行きつ戻りつしているようだったが、その目は開くたびに、しっかりと伊作を見つめていた。
手当てを終え、たらいのなかの水で手を清める伊作に、雑渡は手を伸ばした。伊作の手首をつかみ、自身も起き上がろうとしている。つぎに雑渡は伊作の着物の襟をつかんだ。
「あ、だめです」
「どうして」
そのためにここへきたんじゃないの、と揶揄するでもなく雑渡はつかれたように言った。ちがう、あなたに何かあったのではと胸騒ぎがしたので、いてもたってもいられなかったのだ、と伊作がこたえれば、雑渡は薬の副作用も相まって興奮しているのか、朦朧とする意識の中、ますます伊作を引き寄せようとした。
「……、たし、……、ってた」
「え?」
伊作の聞き違いでなければ、雑渡は、ずっと伊作が帰ってくるのを自分は毎夜ここで待っていたのだ、と途切れ途切れにつぶやいた。伊作の胸元から懐に手を差し入れ、やみくもに首をのばして伊作の唇に自身のそれを重ねようとしている。うまくいかず伊作の顎にぶつかった雑渡の唇は、表面は乾燥していながら汗で濡れており、何よりひどく熱かった。
「いけません。せっかく手当てした傷がひらいてしまいます」
おとなしく寝てください、と伊作が雑渡を布団に押し戻せば、だって、と雑渡は言った。
「だって、私にはこれしか」
これしか。なんだというのだ。まぐわうことでしか。夜の限られた時間の逢引きでしか、伊作に愛を伝える術が。伊作をひきとめる術がないと、そう言いたいのか。
なおも起き上がろうとする雑渡に布団をかけて、おとなしくするように言えば、雑渡は子どもが母親に甘えるような目つきで伊作を追った。
「かえるの」
まだいかないで。私が眠るまででいい。ここにいて。お願い。
「伊作くんてばほんとに帰っちゃったのかな」
翌朝。とびおき、雑渡は一瞬全身の痛みに顔をゆがめたが、昨晩よりいくぶんましになっていた。片足を引きずり、腹を押さえながらも、雑渡は広い家のなかを一周し、伊作の姿を探したが、かの人はいなかった。枕もとに、明らかに目覚めたら服用するようにとわかりやすく置かれたのであろう薬が鎮座するのみである。つれない男だ。眠るまででいいと言ったのは自分だが、本当にその通りいなくなってしまった伊作に、雑渡は腹を立てた。お門違いもいいところだが、それ以上に、雑渡はひどくさびしくなった。昨日のどさくさで、もしかしたらなあなあで仲直りできるかもしれないと、雑渡はひそかに期待していたのだった。伊作との関係を終わりにしたあの日から、雑渡はひとり深いかなしみに暮れていたが、仕事に没頭することでどうにか耐えていた。それが、昨夜再び相まみえて、まして、もしかしたらまだ望みがあるかもしれない気配を伊作から目ざとく感じとってしまい――雑渡の身を案じていたのだと伊作が言ったのを、雑渡は朦朧としながらもたしかに聞き逃さず、静かに心を躍らせていた――、雑渡は感情を抑えることができなくなってしまった。
*
診療時間を終えた伊作が、一応形上の「休診」の札を表に下げ――それでも急患が戸を叩けば、伊作は夜中であろうが患者を診ていたが――、表に出していた、順番を待つ患者用の椅子を家の中にしまっていたときだった。背の高い、笠をかぶった男が入り口の前に立っていた。どきん、と伊作は緊張する。男はおもむろに笠をとり、伊作に会釈をした。ほかでもない。町人に変装こそしているが、タソガレドキ城忍組頭の、雑渡昆奈門そのひとがそこに立っていた。
「きみとどうしても話したくて」
突然、こんな時間にごめん、と雑渡はあまり伊作と目を合わせずそう言った。雑渡は伊作の家へあがりこみ、湯気の立ち上る茶を出されていた。しかし伊作は無言のままだった。
「私の都合できみを騙して、本当にすまなかった」
雑渡は頭を垂れてそういった。
「……ひとめぼれ、だったんだ。きみはきっとおぼえていないだろうけど。真夏の合戦上で、私は負傷兵に混ざってきみに近寄り、きみをとらえる任務を負っていたのだけど。しくじって、本当に負傷してしまってね。それでもきみに近づいたとき、ひとめで心を奪われてしまった」
『どうぞこちらへ。傷の具合をみましょう』――。伊作は、自分が診てきた数多の負傷兵を思い出す。そのなかに、たしかに背が高く、古傷のやけど痕が化膿していた雑兵がいたのを思い出した。
「……あなたは、あのときの」
雑渡はうなずいた。
「とらえるなんてできなかった。帰城してから、任務の失敗と、それどころか恩を受けてしまったことを報告してからも、きみのことが忘れられなくてね。殿にはきみを調査するという名目で、婚姻を結んだんだ」
一方で、渦正には手をまわした。悪いようにはしない。いつか城主を必ず説得して、学園にも恩をかえすと、自ら頼みにいったのだと告白した。きみと、タソガレドキを守る覚悟もないままにね、と雑渡はうなだれた。
「私と結婚した翌朝、伊作くん、元気なかったでしょう」
伊作がなぜそれを、と目を瞬かせれば、雑渡は決まり悪そうにして、伊作が家から出てくる様子を、木の上から見ていたことを明かした。
「……気の毒だと思ったよ。でも私はばかになっていたから、きみとの住まいに舞い上がっていてね。やらなければならないことを後回しにして、きみをこの腕に抱いて夜毎、夢のようだったよ」
きみに姿を見られてしまった日の翌日からも、終わりにしたのは自分なのに、毎夜あの家に帰って、もしかしたらきみが戻ってきてくれるんじゃないかと期待して待っていたのだ、と雑渡は言った。虫のいい話だけれど、と恥ずかしそうに付け加えた。家へ帰るたびに伊作はおらず、雑渡の贈った衣服や調度品がすべて置き去りにされ、雑渡は自身の愛を突き返されたように感じ傷ついていた。先日、戦の最中負傷した雑渡が、朦朧とする意識の中伊作に手当てされながら、きみが帰ってくるのを待っていたとささやいたことを伊作は思い出していた。恥ずかしい、すまなかった、と雑渡はいま一度謝った。
「……今度こそ、きみのことを殿に伝える。一回で許可が降りなくても、あきらめないよ。きみと一緒になる術を絶対にさがす」
毎日、伊作くんのそばにいたい。私と結婚してくれませんか、と雑渡は伊作に言った。
「いいですよ。そのかわり、約束してください」
どんな難題を課されようが、今度ばかりはと、雑渡は覚悟を決めていたのだが。
「結婚して最初の休日には、私とうどんを食べにいくことを」
「! ……伊作くん」
うん、私を初めてのデートに連れていって、と雑渡は言った。ありがとう、と続けた雑渡の声は、ほとんど涙声だった。
*
負傷しているものを助けるのは医師として、人として当然の性。そのようなものに脅かされる実力など、本物ではない。戦に強いだけでない、民を守れる圧倒的な実力をタソガレドキが身につければよいだけのこと。伊作とその活動を見逃し、また雑渡の伴侶として認めてもらえるよう、雑渡は甚兵衛に上申した。最後の項目だけが、だれがどう聞いても論理的につながらず、雑渡自身笑い出したくなるのを必死でこらえた。
「そんなことだろうと、思っておったわい」
甚兵衛はため息をつき、扇子をぱちんと閉じた。
「もとよりおぬしが義理堅い性なのは知っておる。おぬしと、おぬしの部下が恩を受けたという報告の後、調査といいながらそやつをかこった時点で、わしからそやつを守ろうとしておることは感づいておったわ」
まさか本当に惚れておったとは思わなんだがな、と甚兵衛はいたずらっぽく笑った。
「……は、」
おぬしほどの忍も、色に負けることがあるのじゃのう、とことさら甚兵衛は心底愉快そうに笑う。
「恐るべし、善法寺伊作め。敵にまわしとうない」
まったくその通りだと、雑渡は頭が上がらなかった。
*
「おいしいねぇ」
「でしょう」
伊作が今日身にまとっているのは、かつて雑渡が贈った若竹色の真新しい服だった。それを身につけた伊作を、このように目にするのは初めてだった。かっこいいねぇ、と思わずこぼせば、うどんデートがですか、と伊作は的外れなことを言った。うん、そう、うどんデートが、と雑渡は笑った。きみとデートに来れて、いっしょにおいしいおうどんが食べられてうれしい、しあわせ。とうどんを食べ終えた雑渡は言って、椅子のうえに投げ出された伊作の手を握った。
「光の差す場所はいいでしょう。あたたかくて、明るくて」
なにより陽のもとで見るあなたがとてもすてきだ、と伊作は言った。雑渡も伊作のこれにはすっかり参ってしまった。一方で、暗いところで二人きりで行われる逢引きも、否、雑渡はそれがやっぱりいちばん好きで、このうえなくしあわせなひとときかもしれないという心のうちは、雰囲気ぶちこわしになるのでいまは言わないことにしたのだった。
おしまい
「特定の城をひいきしているわけではない模様であります」
「しかし敵陣に住まいを構え、あげく診療所をひらいていると押都がいっておった。身のこなしが農民や町人のそれでない、とも」
「は、」
「一方で、落とし穴によく落ちていると」
「……」
*
「結婚することになったよ」
背後で、何でもない風にぽろりとこぼされたことばに、留三郎は口にくわえていた釘を床に落としてしまった。仕事中に怪我した箇所を破格の治療費で診てもらった礼もかねて、今日は伊作の家の雨漏りや壊れた箇所の修繕にきていた。
突然の告白に驚き、手を止め留三郎は伊作を振り返る。伊作は伊作で、自身の衣服のほころびを繕っていた手を止め、少々怖い顔で――もとより留三郎はそういう顔だ――こちらを振り返った親友に、にこりと少々面映ゆそうに笑んでみせた。家のほころびも衣服のほころびも、どれもこれも不運によるものだった。衣服も本当は、留三郎が直したほうがうまいのだった。
「……おまえ、いいひとがいたのか」
ううん、と伊作はかぶりをふった。いないよ、きみがいちばんよく知っているじゃないか、とまた伊作は困ったように笑う。じゃあどうして突然、と目で尋ねれば、伊作はうなずいた。
「学園長先生にすすめられて。お知り合いらしいんだけど、ぼくにひとめぼれしたんだって」
「なんだそりゃ」
伊作がおおざっぱな性格なのは留三郎もよく知っていたが、まさかここまでとは思わなかった。おまえはそれでいいのか、といいかけてしかし、いや、まいっちゃうなと照れくさそうに頬をかく伊作を見て毒気を抜かれてしまった。とはいえ能天気すぎやしないか、と留三郎はやはり親友に白い目を向ける。
「ふうん。それでおまえがいいならいいけどさ」
見合い写真は見たのか。美人か。と尋ねれば、伊作はまたもかぶりを振った。
「ううん。なんだかわけありだそうでね。結婚後もしばらくは姿をみせられないんだって」
「あやしいじゃないか!」
*
「ごめんね、留三郎」
留三郎が帰ってしまってから、伊作はひとり、渦正のことばを思い返していた。久方ぶりに文を受け学園へ赴けば、予想を裏切らぬ神妙な顔で、ことの次第を言い渡された。
伊作のいくさ場での行動がタソガレドキに気取られ、邪推されているらしい。その情報を渦正に伝えた者自身が以前、伊作に恩を受け、伊作に惚れているのだという。自身も戦に一枚かんでいる身ゆえしばらくは素性を明かせぬが、伊作の護衛を兼ね婚姻を結んでほしいと申し出たのだと、そのような話だった。渦正のよく知る人物で、腕の立つ者であるらしい。
無茶苦茶な話であるにもかかわらず、伊作は、悪い話ではないかもしれないと、のんきなことを思った。自分の活動はもとよりリスクを伴う。戦場で命をおとすこともあるだろうが、こういうことも遅かれ早かれあるだろうとは思っていた。惚れられるのはさすがに想定外だったが。いずれにしろきっと自分は一生伴侶を得ることはできないと思っていた折だったので、いい機会かもしれないとすら思った。
伊作は今後も自分のやりたいようにするつもりでいて、それを守ろうとする相手ならば好都合である。そこにもまた存在する大小さまざまなリスクに関しては、若い伊作はあまり気にならなかった。
事の重大さについては、さすがの伊作も理解した。だからこそ留三郎には心配をかけまいと、本当のことを言うことができなかったのである。
*
結婚の当日、婿入り道具一式――伊作には身寄りがいないので、友人たちからの祝福の品と、生活に必要な最低限の道具のみである――をもって、結婚相手との新しい住まいに向かえば、そこには伊作より幾ばくか年上の、諸泉という使用人らしき男がいて、新居の中を整えてくれていた。きけば伊作の花婿の、直属の部下であるという。
少々頑固で神経質らしい諸泉だったが、根は悪くない男らしく、伊作は彼と一緒に荷解き作業をしているうちに、多少打ち解けた。夜も更け、諸泉が帰るという折に、伊作は不安になってしまった。
「……ありがとうございました、尊奈門さん」
昼間と打って変わって元気のなくなった伊作を目にし、諸泉は気の毒そうな顔をした。無理もない。このあと、諸泉と入れ違いで顔も見たことのない結婚相手が現れ、なおも顔を拝めぬままその男に抱かれるのだから。
「……気の毒なことだが、あまりそう緊張せずともいい。私の上司は、悪いおひとではない」
いやなことをされそうになったら、拒んでかまわない、大丈夫だ、と諸泉は言った。伊作はうなずき、不安をぬぐえぬまま、諸泉を見送った。
*
風呂で念入りに身体を清め、仙蔵に贈られた新しい寝巻を身にまとい、諸泉の言いつけ通り灯りを落とした真っ暗な寝所で、伊作は身をかたくしながら花婿の現れるのを待った。かた、と小さな物音がし、いよいよ伊作は緊張する。
文字通り夜闇に紛れて現れた男は、自らを「ざっと」と名乗った。いまは姿を見せられず素性も明かせぬけれども、必ずタソガレドキから伊作を守る。しかるべきときが来たら、きっと自分が何者か明らかにする。そのときまで信じて待っていてほしいと、男はそう言った。
戸惑う伊作を気遣いながら、しかし今宵は絶対にそうしたいのだという意思が透けて見えるほどに強い力で、男、雑渡は伊作を抱いた。こわばり、緊張のあまり指先まで冷えきっていた伊作とは対照的に、伊作に触れる雑渡の唇も、指先も、なにもかもが最初から熱かった。その余裕のなさを、伊作には――伊作がもしも女であったならば、わからなかったかもしれない――感じ取れてしまうほどに。
伊作がこれまで出会った人のなかで一等大きいであろう、その恵まれた体躯に伊作はまず驚かされたが、その全身は、大部分が包帯に覆われていた。雑渡の性技は巧みで――伊作ははじめてのことだったので、他と比較のしようもない――、伊作も昂ぶりはしたが、それでも。雑渡が伊作の中で果て、つかの間忘我の境にいるそのときも、湿った熱い呼気を首筋の敏感な皮膚で感じながら、どこか伊作は冷静だった。
翌朝、自身が予告した通りに雑渡はいなくなっていて、居間には伊作一人分の朝食の準備だけがしてあった。
ひとり食事を終えたとき、どうしてだか、伊作はちょっとだけ泣いた。今日は念のため休診にしていたのだが、なんだかこの家にいても落ち着かぬので、身支度をして家を出、自らの診療所に向かったのだった。
*
「それで、どんなやつだった」
またあくる日。伊作の診療所に、朝いちの患者に混ざってやってきた留三郎に、きみはひまなのかいと思わないでもなかったが、伊作はため息をつきつつ、薬を処方してやった。彼が、伊作を誰より心配しているのはわかっていた。
「どんなって、」
「美人だったか」
くふ、と伊作は笑みをこぼした。初夜翌日の昨日は一日、ひとり少々センチメンタルに陥っていたのだが、留三郎の顔を見たら、なんだか元気がわいてきた。
「もう、そればかりなんだからきみは。お顔はわからないといったでしょう。それに美人っていうか、どちらかといえば、」
そこで一度ことばをきり、伊作はせきばらいする。照れくさい。がしかし、冗談を言う元気は出てきた。
「……かっこいいひと、だったかもね」
「……」
留三郎はなんだか幼馴染が、どこの馬の骨ともわからぬ男にとられてしまったような、実際のところそうなのだが、さびしさにも似たへんてこな感情をおぼえた。
*
最初こそこわばり、ぎゅっと身をかたくして雑渡に抱かれ、ときの過ぎるのを待っていた伊作だが、雑渡と時間を重ねるうち、だんだんとこの婚姻関係に慣れてきた。灯りのない中、雑渡の包帯を替えるのも、すっかり板についた。雑渡の古傷の具合を夜毎診ては、昼間仕事の合間を縫って、より雑渡に適切な薬の調合を試した。雑渡というひとを知ろうと、伊作のほうが意識的に心を開きはじめたのである。もとより雑渡が伊作に惚れているのは渦正にきいていたことを差し引いたにしても、はなから伊作本人にまるわかりだった。
「ざっとさん、お顔にふれてもかまいませんか」
「もちろん」
私はきみのものだよ。好きにして。と雑渡は伊作の手を取り、自身の右頬に寄せた。伊作はもう片方の手も雑渡の反対側の頬にあて、親指で慈しむようになぞった。そちらは大部分が包帯でおおわれている。雑渡が唇をひき結ぶのが、わかった。
「……私は醜い姿かたちをしているのだよ」
「いいえ」
みたこともないのにどうして断言できるの、と雑渡が吹きだせば、伊作は真剣にこたえた。
「骨格から概ねわかります。彫りが深くて、美しい顔だ」
「美しい顔、じゃなくて美しい骨、のまちがいじゃないの」
雑渡はなおもおかしげに笑った。美しい、ね、とつぶやく。
「私は、……きみほどうつくしい人に出会ったことはないよ」
雑渡の両頬をなぞる伊作の手首を、雑渡はそっと握った。
*
「なんだよこれ」
明らかに銭の入っているとわかる袋を伊作に手渡され、留三郎は怪訝な顔をした。伊作に金を貸したおぼえはなかった。
「こないだ家の外も中も、いろいろ直してくれたろう」
「いや、お前が治療費まけてくれた分の礼だって言っただろう。いいって」
留三郎が袋を突き返そうとすれば、伊作は首を横にふった。あちこちに傷をこさえてやってくる留三郎に怒った伊作自身が、高くつくよ、と軽口をたたいたのを思い出す。
「まけたなんて、うそうそ。ほかの患者さんもだいたいいつもあのお代で診てるよ。それどころか、釘だってしっくいだって、足りなくてきみ、途中で調達しに戻ったじゃないか。どうしたって割に合わないよ」
きみとはなんというか、こうでいたい。から受け取って。と伊作はかたくなだった。どこかぼんやりしていて、そのくせしっかりどさくさに紛れて留三郎に甘えるかと思いきや、伊作にはときどき、こういう一面を垣間見せるときがある。ずいぶんとむかしに亡くなってしまった伊作の父親や母親が、幼い自分にもよくしてくれていたのを、どうしてかこのとき、留三郎は思い出した。
こまかいやつだな、そんなに言うなら遠慮なくもらっとくぜ、と修繕費を懐にしまった留三郎は、返事もよこさずまた薬の調合をはじめた伊作の横顔を見て、複雑な心持ちになった。その薬はどうせまたあの、如何わしい花婿のためのものなのだろう。薬のことは留三郎にはよくわからぬが、その男のために伊作が暇を見つけてはなにやらめずらしい薬草を集めにいっているのを知っていた。そのたびに頼まれてもいないのに伊作についていき、夢中になるあまりがけから落ちそうになる彼を何度となく引っ張り上げてやったのは他でもない留三郎だったのだから。
「……やっぱりおっかしいぜ、正体を明かさないなんてな」
また雑渡のことか、と伊作は一度すりこぎをまわす手をとめ、しかし再びごりごりと作業を続行した。
「人は美醜じゃないだろう」
「矛盾するな。だったらなおさら、いかに醜男だろうがその姿をお前にみせるべきだろう。やつが隠したいのは、見た目の話じゃなく素性のほうだな」
まあ、学園長先生を信じたいところだけどさ、と留三郎はそこで語気を弱めた。
「うん、すごくやさしい人だよ」
親友とはいえ伊作もさすがに言いにくいので言えなかったが、なにより雑渡がひどく自分を愛してくれているのが、非言語的な方法で自分には伝わってきている。しかし彼ら二人のくわしい事情――もとい床事情――を知らぬ留三郎からすれば、伊作がこの年になってもまだおぼこのようなことを言っているようにしか聞こえず、あきれかえった。
「やさしいって、おまえ、そいつとセックスしかしていないじゃないか」
「留三郎! よしておくれよ、そんな言い方」
「実際そうだろう。まぐわうときだけやさしいなんて、男の欲求の権化みたいだぜ」
こんなことおまえに言いたくはないが、ほかにもそういう関係を持っているやつがいるんじゃないのか、と留三郎はいった。
「そんな。雑渡さんは毎晩ぼくのところへかえってくるんだよ」
あ、毎晩ではないな。と伊作は言いにくそうに口ごもった。留三郎が片眉を上げれば、伊作は両目をふせる。
「あのね、夜の勤務が結構多いみたいなんだよ」
「ただ浮気しているだけかもしれないぜ」
「仕事だってば」
「仕事ってなんだよ」
「え、っと、なんでも、あ、愛を結ぶお仕事だって」
おそらくはどこかのお城の足軽なのだとは言えず、とっさに適当なことを言ってしまった。いくらなんでも適当すぎた。直後、留三郎が烈火のごとく怒ったのは言うまでもない。
*
素性のあやしさはさておき、いつも伊作が仕事から帰宅すると家事も夕食の支度も済んでおり、季節の果物でかごがいっぱいになっていた。
これらはすべてあなたがしてくれているのか、とあるとき諸泉に問えば、たしかに洗濯だけは諸泉が代行したが、そのほかはすべて雑渡が手ずから行ったのだという。どうやら洗濯は、数少ない雑渡の不得手であるらしかった。
生活に必要なものだけではない。あるときは新しい、伊作がこれまで仕立てようと思ったこともないような上質な衣服が。あるときは伊作が幼い時分以来口にしていない都の菓子が。またあるときは入手困難な薬草が。高い頻度で、さまざまな贈り物が伊作におくられた。医師のはしくれゆえ、最低限身だしなみや衛生に気をつかってはいたが、それ以外は基本的に自身の身のまわりにあまり頓着しない伊作にとっては、どれもこれも身に余る贅沢に思えてならなかった。伊作はうれしい反面、かなしい気持ちでそれら贈り物を受け取り、ひとり身につけ、口にし、つかった。できることなら、こうした喜びは、雑渡と分かち合いたかった。伊作がほしいのは、無機質なものではなく、そこにこめられた雑渡のこころ、すなわち雑渡自身であった。
「ざっとさん」
ある夜。いつものように雑渡に愛され、心地よい疲れとまどろみのなかで髪をなでられながら、眠気に負けまいと必死に目を開け、伊作は口を開いた。伊作が眠ってつぎに起きたとき、雑渡はいつも、いないのだから。
「新しい服、ありがとうございました」
「ああ、気に入った?」
「ええ。けれど、これ以上は受け取れません。もう、結構です」
伊作は言ってしまってから、誤解を招きかねない冷酷な言い方になってしまったと後悔したが遅かった。さきほどまで浮き立っていた雑渡が、ひどく落胆したのが、顔は見えずとも伊作には伝わった。
「どうして。……やっぱりほんとは気に入らなかった?」
新しい寝巻もあったでしょう。どうして着ていないの、と雑渡は半ば恨めしそうに言った。伊作は今日も、友人に贈られた寝巻をまとっていた。
「いいえ、とても気に入りました。けれど、あんな高価なもの、わたしには不釣り合いですし、何より。わたしがほしいのは、ものではありません。ざっとさん、あなたです」
空気が一変し、雑渡が頬を赤らめたのが伊作にも分かった。
「や、だな。伊作くんたら情熱的」
もういっかい、する? と雑渡が伊作の耳元に唇を寄せてきたが、伊作はそうじゃない、と、ぺたりと片手で雑渡の顔を押しのけて拒絶した。
「おいしいごはん、いつもありがとうございます。けれど、わたしは。あなたと食事をともにしたい。わたしはあなたと休日を一緒に過ごしたことがありません。べつにお金のかかることじゃなくてもいい、ただ同じ空間で、しあわせを共有したいだけなんです」
できることなら、暗いところではなくて、光の差す場所で、と震えながら、しかし低く力強い声で伊作は付け加えた。その一言が、雑渡にとってはとどめだった。雑渡にはかなえられない望みだったからだ。
「……それはできないと、言ったでしょう」
たっぷりと数秒、否、数分であったかもしれない。しばらく経ってから、雑渡は力なくこたえた。さきほど分かち合った熱は、ふたりともすっかりひいてしまっていた。きょうはもう眠らずに発つ、と雑渡は立ち上がり、衣服を雑に身にまとって、部屋を出ていってしまった。伊作は自分が悪いとは思っておらず、実際おかしなことは何も言っていなかったので、とくにひきとめることもしなかった。もとより自分勝手な婚姻を持ち掛けたのは雑渡で、伊作に正論をつきつけられ勝手に機嫌を損ねたのもまた雑渡なのだった。
どうしろっていうの、と自らの仕える城への道を駆けながら雑渡は思う。自分には、ものを贈ることと、それから彼を抱くことでしか、いまは愛を伝える術がない。それらをみな断られてしまっては、雑渡は伊作を愛することができない。かなしい男だった。
*
「いさくくん、いさくくん、ただいま」
「その、昨日はごめんね」
ふたりがけんかをした、あくる日だった。いつもよりさらに遅い時刻に雑渡はふたりの住処にあらわれ、待ちぼうけて先に眠ってしまっていた伊作を揺り起こした。迷惑な男だった。
昨日はというか、いつも、でしょう。そのごめんは何に対する謝罪なのですか、と伊作は揚げ足をとりたくなったが、また今夜もけんかになるのは伊作としても望むところではなかったのでやめにして、眠い目をこすり、ため息をつくだけにとどめた。
「……昨日のことはもう気にしていません」
「ほんとう?」
「ええ。どうぞ、」
布団の裾を持ち上げ、伊作は雑渡を閨に迎え入れようとしたが、雑渡はなにやら躊躇した。
「あのね、今日忙しくて包帯まだ替えてなくて」
忙しくて替えていないのではなく、伊作に替えてほしくて済ませてこなかったのであろうことは伊作にわかってしまった。雑渡は甘えているのだ。
「こちらへ」
傷の具合をみましょう、と伊作は起き上がった。今日、じつは新しい薬をつくってみたのです、と言えば、雑渡は満足げに伊作を引き寄せてその口を吸った。
*
雑渡と婚姻を結んでから、半年が経とうとしていた。
帰ってくると本人が言った日を過ぎても、雑渡が家に帰ってこない。諸泉も、しばらく姿を見せていなかった。此度の戦況はひどく、複数の陣営がぶつかりあっていた。雑渡が何処に所属しているのかは例のごとくわからぬが、今日もきっと、戦地のどこぞにいるであろうことは、もう明らかだった。
伊作は普段、負傷兵ひとりひとりの傷には注意をはらうが、その人自身に深く入り込むことはない。だが昨日も今日も、次々と手当てをしながら、つい、かんばせや体躯を凝視してしまった。もしかしたらそのなかに、雑渡がいるかもしれなかったからだ。
伊作自身も疲弊していたが、今夜は不安で、眠れない。寝返りをうち、今宵何度目かわからぬため息をついたときだった。がた、と大きな物音がし、伊作は肩を揺らした。雑渡らしからぬ音だが、気配は雑渡のそれだった。布団をはねのけ、伊作は飛び起きる。
「ざっとさん!」
「いさくくん、ただいま」
ごめんね、遅くなっちゃった、とつぶやく雑渡からは、血と硝煙のにおいがした。返り血だけではない、雑渡自身も傷を負っている。
「ざっとさん、けがを」
「ああ、うん、」
私のは、たいしたことはないから平気だよ、と言った雑渡の息は荒く、肩が大きく上下しているのが伊作にも分かった。それより抱きしめさせて、と伊作に覆いかぶさろうとする。
「いけません、手当てを、」
もう、顔だの正体だの言っている場合ではない。明かりをつけさせてくれ、と伊作は頼んだが、それだけはだめだと、雑渡は息も絶え絶えになりながら強く言った。伊作は暗闇のなかで懸命に雑渡の手当てをした。
伊作に手当てされている途中で、雑渡は眠りに落ちてしまったらしい。薬の副作用もあるかもしれなかった。伊作は震える手で、蝋燭を手にとった。雑渡の言いつけを破ることになるが、もう、そんなことを言ってはいられない。雑渡の傷の具合をきちんとみて、最適な手当てを施したかった。伊作は、蝋燭に火をともした。
「……あ、」
漆黒の忍装束。雑渡は、忍だったのか! このあたりでは見かけぬ大きな体躯に、大やけど。頭の中でパズルのピースがはまっていく。タソガレドキ城主に狙われている伊作を守りたいが、正体を明かせない――。彼は。
「っ、」
気が動転した伊作は、持っていた蝋燭のろうを、雑渡の皮膚に一滴、落としてしまった。雑渡ははっと目を覚ました。
もう間違いなかった。若かりし日に部下をかばい大けがをしたと噂にきく。一度は戦線を離脱したがいまなおタソガレドキの忍軍を束ねる、組頭がそこにいた。このあたりではよくある姓なのだろうと思い、雑渡の名だけでは、伊作はその可能性を考えもしなかった。雑渡は伊作が手にもつ蝋燭を見つめ、つぎに伊作自身と目を合わせた。はじめて灯りの中で見る雑渡の顔に、表情はなかった。隻眼のなかで揺れているのは蝋燭の炎か、雑渡の瞳か。
「私を信じていなかったのか」
「いいえ、雑渡さん、」
「これが、私の愛に対するきみのこたえなのだね」
雑渡は起き上がり、伊作に手当てされたばかりの傷をかばいながら、窓から外へ、飛び降りた。
「ここでもどこでも、あの食満だとか潮江だとかいうきみの友人と暮らせばいい。きみは、私でなく彼らを信じたのだ」
夜道を駆けながら、雑渡は泣いていた。ああ、もうおしまいだ。共有できる時間は夜だけの、いびつな関係だが、それでも雑渡は伊作とともに暮らしているつもりだった。限られた条件下で、しかし精一杯に雑渡は伊作を愛し、また伊作に愛されていたと思っていた。あの甘美で幸福な日々は、今日を限りになくなってしまった!
このとき、まだ雑渡は、伊作に対する自身の最大の不誠実に気がついていなかったのだった。
*
「お立場上、正体を明かせなかったのに、ぼくはひどいことを言ってしまった」
暗い場所でまぐわうばかりでなく、日なたで逢引きしたいと。雑渡の正体にかかわらず、雑渡を愛すると言いながら、雑渡の姿を見たいのだと、伊作はそう言ってしまった。
「気にするこたねえよ。所詮、奴に覚悟が決まっていなかったんだ」
本当にお前と正式に関係を結びたいなら、立場をこえてそれでも守り抜くと正々堂々宣言するはずだ。と文次郎は鼻を鳴らした。なんでここにお前がいるんだと最初は文句を垂れていた留三郎だったが、こればかりは文次郎に同意したようだった。途端に外では土砂降りになった。
「いまひどい通り雨にあったぞ。おまえたちが仲良くしていたからか」
戸口に、ずぶ濡れの美丈夫が現れた。
「仙蔵!」
「久しぶりだな伊作。おまえが肩を落としていると留三郎から聞いてな。まさか文次郎もきていたとは」
なに、気にすることはない、文次郎の言うとおり器の小さい男だったんだ、と仙蔵は濡れて重くなった上衣を脱ぐ。なんだったら私がなぐさめてやろうかと伊作に顔を寄せ妖しげな笑みを浮かべる仙蔵の首根っこを文次郎はつかみ、おまえが言うと冗談にきこえないんだよと、伊作から引き離した。
*
「伊作くんがとられてしまうよ!」
留三郎や文次郎と仲良く過ごしているらしい伊作を見て、またしても自分がそう言ったにもかかわらず、雑渡は地団太を踏んだ。この頃は都からはるばるやってくる眉目秀麗な立花や、中在家とかいう寡黙な生き字引、そして七松とかいういけいけどんどんな男まで登場してきて、雑渡は気が気でなかった。なぜか伊作の友人には、伊作自身と同じく容姿にも才にも恵まれた男が多いらしい。それだけなら雑渡とて負けぬと思いたいが、残念ながら雑渡にはいまいち、よりにもよって伊作に関することにおいて情けないところがあった。このままでは伊作が雑渡のことなど。そうだ、保身のため素性も姿も明かさず結婚のまねごとをしていただけの、不誠実な男のことなどすっかり忘れ、新たないいひとを見つけてしまうのも時間の問題だった。
「私のお婿さんなのに!」
「とられるも何も、あなたが勝手にはじめて、勝手に終わりにしたんでしょう」
山本は上の空で雑渡の相手をしていた。そもそもまだ戦は終わっていない。
「はずみで言っちゃっただけだよ! あんなの本気にすると思っていなかったもの」
このままでは伊作くんの心が離れてしまう――まがりなりにも愛されていたと思っているあたり雑渡も能天気だった――、一刻も早くなんとかせねば、と雑渡はいてもたってもいられなかった。
なにより、自分はこんなにも心乱れているのに、伊作はあっさりと自らの診療所で寝泊まりをはじめ――雑渡と婚姻を結ぶ前は、そこが伊作の家を兼ねていたのだから至極当然のことだ――、まるで雑渡との間に何事もなかったかのように、もとの生活に戻っていったことがおもしろくなかった。
むかし、まだ幼かったころの雑渡にも、人並みにかわいいところがあって、田んぼで見つけたあまがえるがあまりにもかわいく、つかまえて家にもちかえり、山本のおさがりでもらった虫かごにいれたことがある。それを見つけた山本には、かわいそうでしょう、もとの場所にかえしていらっしゃいと言われ、泣く泣くあまがえるを両手に包み、またもとの田んぼまでいって放してやった。すると、あまがえるはあっさり、元気よくとびはね、あっというまに草むらの中に見えなくなってしまった。雑渡はさびしい心持ちだったのに、あまがえるのなんと薄情なことか。
「かえるさん……」
「は、?」
「あ、いや」
*
伊作が最後に雑渡の正体を知ってしまった日から、ひと月が経過していた。あのときよりさらに戦況が悪化している。タソガレドキが優勢とのことだが、それでも犠牲がないはずはない。伊作は、雑渡のことをいつも案じていた。
とくに何があったわけでもないのだが、その日はとくに胸騒ぎがした。とうとう我慢ならず、雑渡に会えなくとも、もしかしたら諸泉からなんらかの情報を得られるかもしれないと、伊作はその日の夜分遅く、雑渡とともに暮らした家に赴いた。考えたくはないが、もしものときのために、伊作は薬や医療道具をもって出発した。
嫌な予感が的中した。一瞬、向こうも警戒して気配を消したようだったが、伊作はすぐにそれが雑渡であるとわかった。
「雑渡さん、」
「っ……」
伊作はもう躊躇なく灯りをつけた。雑渡と伊作の寝所で、雑渡が力なく自身の腹を押さえ、壁にもたれかかっているのを見つけた。
「すぐに手当てします。湯を沸かしますから、待っていてください」
「いさく、くん」
「もう大丈夫です」
雑渡は、朦朧としながらも伊作をみとめ、安心したように目を閉じ、伊作に身をまかせた。
灯りがある分、前回に比べ伊作ははるかに段取りよく手当てをすすめた。解毒され、薬を塗布され、包帯を巻かれる間、雑渡は目を開けたり閉じたりしていた。意識は夢とうつつを行きつ戻りつしているようだったが、その目は開くたびに、しっかりと伊作を見つめていた。
手当てを終え、たらいのなかの水で手を清める伊作に、雑渡は手を伸ばした。伊作の手首をつかみ、自身も起き上がろうとしている。つぎに雑渡は伊作の着物の襟をつかんだ。
「あ、だめです」
「どうして」
そのためにここへきたんじゃないの、と揶揄するでもなく雑渡はつかれたように言った。ちがう、あなたに何かあったのではと胸騒ぎがしたので、いてもたってもいられなかったのだ、と伊作がこたえれば、雑渡は薬の副作用も相まって興奮しているのか、朦朧とする意識の中、ますます伊作を引き寄せようとした。
「……、たし、……、ってた」
「え?」
伊作の聞き違いでなければ、雑渡は、ずっと伊作が帰ってくるのを自分は毎夜ここで待っていたのだ、と途切れ途切れにつぶやいた。伊作の胸元から懐に手を差し入れ、やみくもに首をのばして伊作の唇に自身のそれを重ねようとしている。うまくいかず伊作の顎にぶつかった雑渡の唇は、表面は乾燥していながら汗で濡れており、何よりひどく熱かった。
「いけません。せっかく手当てした傷がひらいてしまいます」
おとなしく寝てください、と伊作が雑渡を布団に押し戻せば、だって、と雑渡は言った。
「だって、私にはこれしか」
これしか。なんだというのだ。まぐわうことでしか。夜の限られた時間の逢引きでしか、伊作に愛を伝える術が。伊作をひきとめる術がないと、そう言いたいのか。
なおも起き上がろうとする雑渡に布団をかけて、おとなしくするように言えば、雑渡は子どもが母親に甘えるような目つきで伊作を追った。
「かえるの」
まだいかないで。私が眠るまででいい。ここにいて。お願い。
「伊作くんてばほんとに帰っちゃったのかな」
翌朝。とびおき、雑渡は一瞬全身の痛みに顔をゆがめたが、昨晩よりいくぶんましになっていた。片足を引きずり、腹を押さえながらも、雑渡は広い家のなかを一周し、伊作の姿を探したが、かの人はいなかった。枕もとに、明らかに目覚めたら服用するようにとわかりやすく置かれたのであろう薬が鎮座するのみである。つれない男だ。眠るまででいいと言ったのは自分だが、本当にその通りいなくなってしまった伊作に、雑渡は腹を立てた。お門違いもいいところだが、それ以上に、雑渡はひどくさびしくなった。昨日のどさくさで、もしかしたらなあなあで仲直りできるかもしれないと、雑渡はひそかに期待していたのだった。伊作との関係を終わりにしたあの日から、雑渡はひとり深いかなしみに暮れていたが、仕事に没頭することでどうにか耐えていた。それが、昨夜再び相まみえて、まして、もしかしたらまだ望みがあるかもしれない気配を伊作から目ざとく感じとってしまい――雑渡の身を案じていたのだと伊作が言ったのを、雑渡は朦朧としながらもたしかに聞き逃さず、静かに心を躍らせていた――、雑渡は感情を抑えることができなくなってしまった。
*
診療時間を終えた伊作が、一応形上の「休診」の札を表に下げ――それでも急患が戸を叩けば、伊作は夜中であろうが患者を診ていたが――、表に出していた、順番を待つ患者用の椅子を家の中にしまっていたときだった。背の高い、笠をかぶった男が入り口の前に立っていた。どきん、と伊作は緊張する。男はおもむろに笠をとり、伊作に会釈をした。ほかでもない。町人に変装こそしているが、タソガレドキ城忍組頭の、雑渡昆奈門そのひとがそこに立っていた。
「きみとどうしても話したくて」
突然、こんな時間にごめん、と雑渡はあまり伊作と目を合わせずそう言った。雑渡は伊作の家へあがりこみ、湯気の立ち上る茶を出されていた。しかし伊作は無言のままだった。
「私の都合できみを騙して、本当にすまなかった」
雑渡は頭を垂れてそういった。
「……ひとめぼれ、だったんだ。きみはきっとおぼえていないだろうけど。真夏の合戦上で、私は負傷兵に混ざってきみに近寄り、きみをとらえる任務を負っていたのだけど。しくじって、本当に負傷してしまってね。それでもきみに近づいたとき、ひとめで心を奪われてしまった」
『どうぞこちらへ。傷の具合をみましょう』――。伊作は、自分が診てきた数多の負傷兵を思い出す。そのなかに、たしかに背が高く、古傷のやけど痕が化膿していた雑兵がいたのを思い出した。
「……あなたは、あのときの」
雑渡はうなずいた。
「とらえるなんてできなかった。帰城してから、任務の失敗と、それどころか恩を受けてしまったことを報告してからも、きみのことが忘れられなくてね。殿にはきみを調査するという名目で、婚姻を結んだんだ」
一方で、渦正には手をまわした。悪いようにはしない。いつか城主を必ず説得して、学園にも恩をかえすと、自ら頼みにいったのだと告白した。きみと、タソガレドキを守る覚悟もないままにね、と雑渡はうなだれた。
「私と結婚した翌朝、伊作くん、元気なかったでしょう」
伊作がなぜそれを、と目を瞬かせれば、雑渡は決まり悪そうにして、伊作が家から出てくる様子を、木の上から見ていたことを明かした。
「……気の毒だと思ったよ。でも私はばかになっていたから、きみとの住まいに舞い上がっていてね。やらなければならないことを後回しにして、きみをこの腕に抱いて夜毎、夢のようだったよ」
きみに姿を見られてしまった日の翌日からも、終わりにしたのは自分なのに、毎夜あの家に帰って、もしかしたらきみが戻ってきてくれるんじゃないかと期待して待っていたのだ、と雑渡は言った。虫のいい話だけれど、と恥ずかしそうに付け加えた。家へ帰るたびに伊作はおらず、雑渡の贈った衣服や調度品がすべて置き去りにされ、雑渡は自身の愛を突き返されたように感じ傷ついていた。先日、戦の最中負傷した雑渡が、朦朧とする意識の中伊作に手当てされながら、きみが帰ってくるのを待っていたとささやいたことを伊作は思い出していた。恥ずかしい、すまなかった、と雑渡はいま一度謝った。
「……今度こそ、きみのことを殿に伝える。一回で許可が降りなくても、あきらめないよ。きみと一緒になる術を絶対にさがす」
毎日、伊作くんのそばにいたい。私と結婚してくれませんか、と雑渡は伊作に言った。
「いいですよ。そのかわり、約束してください」
どんな難題を課されようが、今度ばかりはと、雑渡は覚悟を決めていたのだが。
「結婚して最初の休日には、私とうどんを食べにいくことを」
「! ……伊作くん」
うん、私を初めてのデートに連れていって、と雑渡は言った。ありがとう、と続けた雑渡の声は、ほとんど涙声だった。
*
負傷しているものを助けるのは医師として、人として当然の性。そのようなものに脅かされる実力など、本物ではない。戦に強いだけでない、民を守れる圧倒的な実力をタソガレドキが身につければよいだけのこと。伊作とその活動を見逃し、また雑渡の伴侶として認めてもらえるよう、雑渡は甚兵衛に上申した。最後の項目だけが、だれがどう聞いても論理的につながらず、雑渡自身笑い出したくなるのを必死でこらえた。
「そんなことだろうと、思っておったわい」
甚兵衛はため息をつき、扇子をぱちんと閉じた。
「もとよりおぬしが義理堅い性なのは知っておる。おぬしと、おぬしの部下が恩を受けたという報告の後、調査といいながらそやつをかこった時点で、わしからそやつを守ろうとしておることは感づいておったわ」
まさか本当に惚れておったとは思わなんだがな、と甚兵衛はいたずらっぽく笑った。
「……は、」
おぬしほどの忍も、色に負けることがあるのじゃのう、とことさら甚兵衛は心底愉快そうに笑う。
「恐るべし、善法寺伊作め。敵にまわしとうない」
まったくその通りだと、雑渡は頭が上がらなかった。
*
「おいしいねぇ」
「でしょう」
伊作が今日身にまとっているのは、かつて雑渡が贈った若竹色の真新しい服だった。それを身につけた伊作を、このように目にするのは初めてだった。かっこいいねぇ、と思わずこぼせば、うどんデートがですか、と伊作は的外れなことを言った。うん、そう、うどんデートが、と雑渡は笑った。きみとデートに来れて、いっしょにおいしいおうどんが食べられてうれしい、しあわせ。とうどんを食べ終えた雑渡は言って、椅子のうえに投げ出された伊作の手を握った。
「光の差す場所はいいでしょう。あたたかくて、明るくて」
なにより陽のもとで見るあなたがとてもすてきだ、と伊作は言った。雑渡も伊作のこれにはすっかり参ってしまった。一方で、暗いところで二人きりで行われる逢引きも、否、雑渡はそれがやっぱりいちばん好きで、このうえなくしあわせなひとときかもしれないという心のうちは、雰囲気ぶちこわしになるのでいまは言わないことにしたのだった。
おしまい
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