[雑伊♀]モグラたたき経営
問題が起こるたび、その場しのぎの対処をしていく。つぎはぎが増えてゆくばかりで、一向に根本の課題が解決されない。
それはそもそも社にビジョンがないからだ、と雑渡は味方のいない経営層に囲まれる中、気だるげに、しかし明確な意思をもって意見した。
それは、人間レベルにおとしたとき。雑渡とて、いえる口だったか。
あるときはあたかも父親であるかのように彼女をまもり。
あるときは年の離れた友人であるかのように相談にのり。
雑渡は伊作のそばにいるために、自身の姿を場面場面で次々と変えていく。
けれど最終的に、雑渡はいったい、彼女のなにになりたいのだろう。雑渡自身は、ほんとうに、彼女の親のような存在や、室内研究員諸泉さんの上司、にとどまって、いっとき彼女のそばにはいられるかもしれないが、それでいいのだろうか。
彼女がいつの日か雑渡の知らぬ男の手をとり、しあわせだと笑む姿を遠くから、雑渡はひとり、眺めるつもりなのだろうか。
*****
弱ったな、と雑渡は百貨店の婦人雑貨売り場で頭を抱えていた。へたするとかれこれもう1時間弱、大きな背を丸めて、はなやかなハンカチが並ぶ陳列棚の間をうろうろしている。
最初、数分経ったところで、「贈り物をお探しですか」と販売員ににこやかに声をかけられ、気恥ずかしくなった雑渡は「ああ、いや、」と紳士靴売り場に一度避難したのだった。
しかし数分後にこそこそともどってきて、また陳列棚を眺めながら思案しているさきほどと同じ長身の男を見つけ、なにやら察した販売員は、隣の靴下売り場からそっと雑渡を見守っていた。
こんなことなら、恥をしのんで年若い高坂や諸泉についてきてもらえばよかったな、とそこまで思い至ったところで否、と首をふる。雑渡の部下たちは、もとは決して悪くないのに、学生時代や社内の男所帯がたたってか、奥手の男たちが多かった。つかえないなあ、と雑渡は自身のことを棚に上げてため息をつく。
ある意味、ほかでもない雑渡にみな、似ているのかもしれなった。
そもそもなぜ、雑渡が婦人用ハンカチーフ売り場にいるのかといえば。
2週間ほど前。尊奈門が大学へ持ち出していた機材回収を手伝うため、という名目で伊作は元気にしているか見にいくため、雑渡は久々に、彼女の通う大学へと赴いた。件のお父さん代理事件――伊作と彼氏のお家デートを阻止するため、もとい彼女の初めてを守るべく、はずみで彼氏の前で伊作の父親代理を語り、見事彼女をひきとめることに成功した事件――からじつに3か月が経とうとしていた。山本とともに四半期報告を作成しながら、もうそんなに経ってしまったかと、雑渡としても驚いていた。あまりにも気恥ずかしく、伊作に合わせる顔がなかったのである。
そんな折である。退屈なデスクワークに飽き飽きし、給湯室の横にたたずんでコーヒーをすすっていたある日。
おう、おつかれ、と、だれかの帰社を知らせる同僚たちの声に振り向けば、背負えるタイプのブリーフケースを背負った諸泉があわただしく事務所に入っていくのが見えた。雑渡も、管理職になったいまなお出張することが多いので、ちょこまかと身軽に会社と大学を行き来する諸泉を目にしては、3ウェイタイプのかばんに興味がわいていたのだが、なんとなく自分には似合わなそうな気がしたので、まだかばん売り場へは赴いていない。
諸泉はかばんを事務室に置いてきたのだろう、またエントランスから飛び出してきて、倉庫へ向かうためこちらに足早にあるいてくる。物置の壁に立てかけてある折り畳み式の台車をひょいと片足をつかってワンタッチで組み立て、全速力で雑渡に向かってきた。あぶないではないか、と雑渡は真横に足を踏み出してよける。無論、諸泉の目当ては雑渡でなく、その背後にある倉庫である。
「おつかれさん。……ちょっと、私をひきころす気」
「お疲れ様です。どいてください」
諸泉は雑渡には目もくれず、そのわきをすり抜けて倉庫の戸を開け、なかに入っていった。
「……なに、あれのこと?」
ええ、と諸泉は庫内の照明をつけて答えた。スチールラックに並べられているそれらの中から目当てのものを2、3、手にとり、台車にのせていく。一度表へ出てから、それらを開梱して状態を確かめていった。まくられたシャツの袖からのびている諸泉の両腕はたくましい。ちょっと前まで父親に手をひかれて泣いていたくせにな、と雑渡は目を細めた。
「じゃあ、またすぐ戻るんだ」
「はい。このあと15時からなんです」
せわしないねえ、と雑渡もしゃがみ込み、ガムテープだらけの古びた細長い段ボール箱をひとつ手にとって、中身をあらためてやることにした。受託研究員とはいえ、会社員であることにかわりはない。研究成果を出さねばならない諸泉が暇なはずはなかった。
「……それで。どうなの」
「え、いつも通り元気ですよ」
いや、おまえが元気いっぱいなのは見てわかるよ、と雑渡は内心でつっこむ。ちがう。雑渡がききたいのは、諸泉がろくに会社にも顔を見せず、研究室に缶詰めになっている元凶の、開発案件の進捗具合であった。
「彼氏とは別れたみたいですよ」
ごと、と雑渡は手にしている鉄の塊を取り落としそうになった。しかし表情は変えぬよう極力気をつけながら、顔を諸泉に向けた。
「……は?」
「やだな、善法寺くんのことでしょう。あれ、ちがいました?」
ばかいえ。だれが研究室内の女学生の近況報告をしろといった。そう目でたしなめれば、諸泉は片眉をあげてみせる。
「またぁ。気にしてるでしょう、部長」
「……」
諸泉は雑渡の手からデモ機を奪い取り、梱包しなおした。荷台に積みなおして、立ち上がる。その様子を、しゃがみこんだまま雑渡は目で追う。
「こないだ、彼女を助けたんですってね」
え、と雑渡は間抜けな声をだした。伊作を助けたおぼえなど、ない。むしろふた月ほど前に彼女の前で大失態をおかし、それ以来、気恥ずかしさのあまり雑渡は諸泉の通う大学からは足が遠のいていたのだから。
「……なんのこと?」
「私がききたいですよ。なんだか、あんまり詳しくは言いたくなかったみたいで、私もそれ以上追及しなかったんですけど。迷っていたところに、助け船をだしてくれたとか言って、……部長?」
やはりあのことか、と雑渡は片手を額に押し当てて羞恥に悶えた。あまり思い出したくない話だった。
「それで、お礼をいいたいのだけど、最近はあまりいらっしゃらないんですね、なんて、いじらしいこと言ってましたよ」
目がハートになってましたよ、やるじゃないですか何したんです、とさして雑渡の回答を求めているわけでもなさそうに、諸泉は台車のグリップに両手をかける。ぐ、と押し出してエレベータに向かって方向変換したところで、しまった、かばん置いたままだ、と台車をそのままにして事務所へ踵を返した。
「ちょ、っと、待ちなさい尊奈門、」
「なんです、時間ないんですから」
「目がハートになってたってのは、ほんとうか」
「……」
尊奈門の軽口を割り引いたにしても、そうして気をよくした雑渡がいそいそと久方ぶりに大学にやってきたわけである。
「雑渡さん、お久しぶりです!」と屈託のない笑みで伊作に迎えられ、このふた月、いやみ月、面映ゆい思いをしているのはやはり私だけだったのか、と雑渡はいつも通りの飄々とした――クールな男を装った――挨拶を返しながら、内心がっかりとしていた。何がハートだ尊奈門め、上司をからかいおって。いずれにしても、以前と変わらず快活に動き回る伊作を目にし、雑渡はほっとした。
彼女の専攻は、いまだ男性の従事することの多い分野であるらしい。にこにこと男どもに声をかけられている姿は気に食わなかったが、尊の情報が正しければ、いま彼氏はいないはずである。ああ、だからこそ、それをかぎつけた輩が寄ってきているのか。
食満とかいう警備会社大手はどうした。専攻が異なるのだったか、と少々いらだつ。留三郎にとってはお門違いもいいところである。
雑渡にとっては、どこの馬の骨とも知れぬ有象無象より、留三郎のほうがまだ信用できたのだ。
とにかく雑渡は少し気が緩んでいた。否、色惚けにより注意力散漫だったのかもしれない。
鋭利な機材を手にとった際に、うっかり指先を怪我してしまった。傷は浅くたいしたことはないのに、「部長、血が!」という尊奈門の大げさな声で伊作が駆け寄ってきてしまった。
伊作はまずハンカチを雑渡に差し出した。いいよ、汚してしまうよ、と躊躇して、雑渡がもう片方の手で出血している指先を覆い隠し、ポケットから自らの使用済みのハンカチを取りだそうとすれば、怖い顔で伊作にハンカチを押しつけられ、患部を洗ってくるように指示された。言われた通り研究室を出てすぐの男子トイレで手を洗ってきた雑渡は、待ち構えていた伊作に大判のばんそうこうを貼ってもらったという次第である。粘着部分がメッシュ状になっているそれだった。なつかしさをおぼえ、保護された傷がいまさらじんじんと痛む。なんだか雑渡は母親に手当てされた子どものような気分になってしまい、伊作に甘えたくなってきてしまった。こんな若いこになにを、と雑渡は妙な感情をふりはらい、気を取りなおす。
どうしてそんな大きなばんそうこうをもっているの、ときけば、むかしよく転んだので、いつもばんそうこうは持ち歩いているんです、と伊作は眉を下げて笑った。いわく、もうこの頃はすっかり転ばなくなったが、習慣として持ち歩いているのだという。処女はばんそうこうをかばんに忍ばせているというもっぱらの噂である。
ともかく雑渡の血液で伊作のハンカチは汚れてしまった。雑渡が自宅に持ち帰って手洗いしてみたところ、落ちることは落ちたのだが、なんとなく、自身の血液で汚したハンカチを伊作に返すのは気が引けてしまった。
弱った。清潔だが年季の入ったハンカチだった。右下に、黒い忍装束をまとった、隻眼の忍者のキャラクターのワンポイントがついている。どこか雑渡に似ていないこともない。ものもちのいい伊作のことだ、小、中学生くらいのときからつかっているのかもしれなかった。
悩んだ末、これは自分がもらいうけて――断じて下心などではないと雑渡は自身に言いきかせた――、伊作には詫びに礼もかねて新しいハンカチを買って返そうと決めた。
そうして冒頭の、婦人雑貨売り場でうなる雑渡に話は戻るわけである。オンラインショッピングサイトで同じハンカチがないか一応は探してみたが、当然、同一のものはもうなかった。あきらめて別のものを選ぶことにし、こうして最寄りの百貨店に足を運んだ次第だ。
売り場で、あれからさらに数分経っていたが、伊作に贈る新しいハンカチは決まっていないようだった。そもそも雑渡は伊作の好みを知らない。ハンカチはあきらめて、なにか別のもので埋め合わせをしようかと、踵をかえそうとしたときだった。
「……」
陳列棚の端。肝心の、彼女の好みかはわからぬが、雑渡に、伊作を思わせる色合いのものが目に留まった。
*****
伊作が通う大学構内、雑渡は伊作の研究室のある棟へと足を向けていた。ふと、その隣の棟の入り口から中へ入ろうとする、まさに雑渡の探していたかのひとの姿を見つけ、雑渡は呼び止める。
「伊作くん」
「あ、雑渡さん、」
こちらを振り返った伊作が、ポニーテールをゆらし、雑渡に駆け寄ってくる。
今日はいかがなさったんですか、とたずねられ、ああ、うん、ちょっと近くまで立ち寄ったものだから、とくに用があるわけではないんだけど、と雑渡はこたえた。嘘は言っていない。実際、駅の反対側にある代理店の社長を訪問した帰りであった。
「そうだ。雑渡さん、お指のけがは治りましたか」
どきん、と雑渡の胸が飛び出しそうになる。いままさに、その話をふろうと思っていたところだった。
「ああ、うん。おかげさまで。あとものこらないと思うよ」
ほら、と雑渡は右手を伊作に向かってかざしてみせる。伊作は少し首をのばして覗き込んだ。
手はのばされず、触れもしない。性別ゆえか、否、ともかく伊作との間にこんなにも距離があるのか。雑渡は胸がきゅうと痛んだ。
「ほんとだ、よかったです」
伊作は安心したように笑む。このあと私は講義を入れているので、こっちなんです、といつもと異なる棟を伊作は指し示した。
ではまた、とそのまま立ち去ってしまいそうな伊作を、待って、と雑渡は呼び止める。まだ時間はあるかとたずねれば、講義が始まるまでまだ15分ほどありますと、細い腕を傾けて時計をちらと見ながら伊作はこたえた。
「……このあいだは、ほんとにありがとう。ハンカチ、だめにしちゃってごめんね」
いいえ、お気になさらずに。と伊作は笑んだ。ショートメッセージで、汚れてしまったハンカチを返すのが気が引けるのだということを、雑渡は伊作に伝えていた。ちなみにいまだ、雑渡は伊作のメッセージアプリの連絡先を知らない。
「それでね。……これ」
雑渡はブリーフケースから、白い真四角の包装を取りだした。先日悩みに悩んで選んだハンカチがなかに入っている。同じものでなくてごめん。もしよかったらつかって、と雑渡が差し出せば、伊作は驚いたように、両の大きなつり目を見開いた。今日もあまり化粧はしていないのだな、と雑渡はどこかぼんやりとしながら思った。これほど大きな目であれば、不要なのだろうか。いやわからない、いまどきの、ナチュラルメイクというものかもしれなかった。
「そん、な。お気になさらないでって、」
「……うん。でも、気になって」
きみにはいつも世話になっているからね、と雑渡は付け加えた。世話しているというより、ちょっかいをかけてくる四十路の男を袖にせず丁寧に相手してくれているというのが正しい。
よろしいんですか、という伊作に雑渡はうなずいて、包装を手渡した。さらに開けてもいいかと問う伊作に、雑渡はどぎまぎしつつうなずいた。雑渡のフィーリングで選んだので、伊作の気に入るかはわからない。
「……わ、」
伊作の手に取りだされたのは、白地に薄緑色の刺繡がほどこされ、やさしい桃色の花のワンポイントのついたハンカチだった。かわいい、と伊作はハンカチに視線を落としたまま笑みをうかべてつぶやいた。雑渡は頬が熱くなる。顔が赤くなっていないか、心配だ。そのハンカチは、雑渡が伊作をそういうイメージで見ているのだと、告白しているようなものである。
伊作は顔をあげて雑渡を見つめる。
「ありがとうございます。こんなすてきなハンカチを」
ハンカチって意外に長持ちするので、結構子どもの頃に買ってもらったものが多くて、と伊作ははにかんだ。ああ、うん、こないだのもそうだったね、大事にしているものを悪かったね、と雑渡は頭を下げた。いいえ、と伊作は首をふる。
では遠慮なく、つかわせていただきます、と伊作はハンカチをまた包装紙にしまい、肩にかけていたかばんに入れた。
「……それから」
「はい」
「伊作くん、冷え性?」
「えっ」
いえ、意識したことはないんですけど。なぜですか、と問われ、雑渡は急に気恥ずかしくなった。
「いや……、こないだ、手当てしてもらったときさ。きみの手。冷たく感じたから」
そうだ。先日、ぺたりとばんそうこうを貼ってもらったとき。季節はもう春も終わりに近づき、初夏を予感させる陽気であったのに、伊作も冷水で手を洗ってきたのだろうことを差し引いても、雑渡の手に一瞬だけ触れた指先は、細く、そして冷たかった。いろいろな意味で、雑渡が手を思わずひっこめたくなるくらいに。
雑渡は以前、の伊作を思い出す。彼の手は、細くはあれど節くれだっていて、そして何より、雑渡の患部に触れるその手指はあたたかかった。あの当時は、雑渡の手のほうがずぶぬれで、冷え切ってしまっていることもあった。大きさでいえば伊作の手のほうが小さかったのに、雑渡の手をそっと包み込んで、あたためてくれた。
そうか、と伊作に手当てをしてもらった雑渡は諸泉とともに機材を搬送しながら、帰りがけ、貼ってもらったばんそうこうを眺めて思った。いまの伊作は、彼ではないのだ。どうしてか、今生での伊作との距離を感じてしまい、その週末、彼女のハンカチにアイロンをかけて自宅の箪笥にしまいながら、雑渡は切なくなってしまった。
きみのことが好きで、好きで。またきみに会うために、きっと私は現代に生まれてきちゃったんだよ。それなのに。
雑渡は戦場を駆け抜ける忍組頭では、もうない。現在の医療では治療が困難な大けがも、ありがたいことに、していない。そして伊作はいま、忍者のたまごではない。近所の女子大生である。そこにいよいよ接点はほとんどない。またぞろ前世以上に必死で、雑渡が縁をつないでいるにすぎなかった。
「え、それは、すみませんでした」
ひやっとしましたかね、と伊作は謝る。べつに非難したわけではないので、雑渡はあせった。
「ちがうよ。けどもしかしたら、研究室の冷房で冷えちゃってるのかなって思ったからさ。……あたたたかくしてね」
じつは先日、デパートでいよいよハンカチが決まらないと思ったとき、雑渡は隣の靴下売り場に目をやった。この際、あたたかな靴下でも贈ったらどうだ、季節外れだけども、とよぎったのである。しかし四十路の男に靴下やらタイツやらを贈られたら気持ち悪かろうと、その案は数秒後に頓挫した。すでにこうして女学生のまわりをうろついていること自体が気持ち悪いのだという事実には、やはり雑渡は気づいていないのだった。
伊作は両眉を山なりにあげた。表情がゆたかなこだ。雑渡はまた、彼と彼女に思いをはせる。そうしてしばしの間雑渡を見上げたのち、伊作は少し恥ずかしそうに視線を斜め下におろした。おや、と雑渡は期待した。
「どうしてこんなに親切にしてくださるんですか。まるで……」
どきん。とまた、年甲斐もなく雑渡の胸が高鳴る。
まるで、なに? 「彼氏みたい」? じゃあ本当にわたしとつきあってみる?
「雑渡さんはわたしのことが好きみたい」? うん、そう、きみのことが大好きだよ。好きで好きであきらめきれなくて、きみに会うために、また生まれてきたんだよ。
「……ほんとうに。お父さん、みたいです」
ずで、と雑渡はその場でこけそうになった。まさかこないだのことをディスリスペクトしているのかと慌てて伊作を見れば、その表情からはそのような様子はうかがえなかった。皮肉でなく、真面目に感謝しているようだった。目元にやわらかな笑みをうかべている。
「親元を離れてもう4年たちますが、やっぱり少し心細かったんだと思います。雑渡さんみたいなひとがここにいてくださって、よかった」
「……そう……」
それはよかった、と雑渡は微笑んだ。顔で笑って心で泣いていた。そんな雑渡の心の内をつゆ知らず、伊作は、父も心配していたのです、とはにかむ。内心、こんな男がきみのまわりをうろついていると知れたら、お父さんもっと心配すると思うよ、と今度ばかりはさすがの雑渡も自覚はあった。
*****
「ビジョンがありませんな」
どこかできいた台詞だなと思えば、今朝の会議で雑渡が経営層たちに突きつけたことばだった。老いぼれ役員たちの苦虫をかみつぶしたような表情がよみがえる。甚兵衛のみが、おもしろくてたまらないといった様子で雑渡による提案、もとより経営批判をきいていた。それをいま、言った本人がそのまま、山本に返されている。陣内、今朝は私の横に座って、神妙な顔で支持してくれたじゃない、と雑渡は叱られた子どものように山本を見つめ返した。おまえだけが味方だと思っていたのに。
「あなた、善法寺くんとどうなりたいのです」
「どうって……。べつに」
どうこうなろうなんて思っちゃいないよ、とこたえれば、うそおっしゃい、と山本はため息をついた。
「どうこうなろうと思っていない四十路の男が、彼氏とのデートを妨害しますか」
「!」
なぜそれを、と雑渡は見る間にりんごのようになった。これがよく、味方のいない経営陣のなかであれだけの啖呵をきれるものだと山本は感心する。
尊奈門が講師を務める座談会をききにいった折にききました、と山本は告げる。いわく、伊作はことばを濁したが、おおむねそんなところだろうと見当がついたというわけだった。尊奈門がいっていたあれは、その場に山本も居合わせたのか、と雑渡はまた頭を抱える。雑渡の恋にさして関心がなく、なおかつ鈍いところのある尊奈門にはわからなかったのだろうが、年の功より亀の甲、というより雑渡とだれよりも付き合いの長い山本には大体の筋がわかってしまったらしい。雑渡は開き直る。
「……あれはね、伊作くんを思ってやったことなんだよ」
「はぁ、」
「おとめが自分を安売りしてはいけません、ってね。親心だよ」
「学生たるもの、勉強もすれば恋もする。あなた自身、清廉潔白な学生生活を送っていましたか。何事も経験でしょう」
「よっく言うよ、陣内おまえね、よそさまの娘さんだからそんなこと言えるんだよ。自分の娘だったら言わないね、ぜったいに」
「あなたにとってもよその娘さんでしょうが」
いつお父さんになったんですかと山本にあきれられ、雑渡は先日の自身の言動を思い出す。デート妨害事件で、はずみで父代理を語ったことまでは、どうやら伊作から山本には伝わっていないようで、ほっと胸をなでおろした。旧知の間柄である山本とはいえ、あれはさすがにかっこ悪すぎる。あ、けどこないだ、伊作くんにもお父さんみたいって言われちゃった。
山本はといえば、脈絡なくひとり勝手に顔を赤らめもじもじとしだした長身の幼馴染を前に、いまの話のどこにそんな要素があっただろうかと、気味悪さの沸き起こるのを禁じえなかった。
「ところでハンカチって、卒業とか退職とか、別れのときの贈り物ではありませんでしたっけ」
「ちょっと縁起でもないこと言わないで陣内」
*****
ビジョンねぇ、と雑渡は、降格を覚悟で今朝、自身が社に呈した苦言および事業戦略を他人事のように思い出す。
雑渡にだって、ほんとうのところはある。
けれど、伊作くんの生涯で唯一の、特別な男になりたいだなんて。きみのいちばん近くできみを守りたいだなんて。実現のための戦略が、皆目わからないんだもの!
それはそもそも社にビジョンがないからだ、と雑渡は味方のいない経営層に囲まれる中、気だるげに、しかし明確な意思をもって意見した。
それは、人間レベルにおとしたとき。雑渡とて、いえる口だったか。
あるときはあたかも父親であるかのように彼女をまもり。
あるときは年の離れた友人であるかのように相談にのり。
雑渡は伊作のそばにいるために、自身の姿を場面場面で次々と変えていく。
けれど最終的に、雑渡はいったい、彼女のなにになりたいのだろう。雑渡自身は、ほんとうに、彼女の親のような存在や、室内研究員諸泉さんの上司、にとどまって、いっとき彼女のそばにはいられるかもしれないが、それでいいのだろうか。
彼女がいつの日か雑渡の知らぬ男の手をとり、しあわせだと笑む姿を遠くから、雑渡はひとり、眺めるつもりなのだろうか。
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弱ったな、と雑渡は百貨店の婦人雑貨売り場で頭を抱えていた。へたするとかれこれもう1時間弱、大きな背を丸めて、はなやかなハンカチが並ぶ陳列棚の間をうろうろしている。
最初、数分経ったところで、「贈り物をお探しですか」と販売員ににこやかに声をかけられ、気恥ずかしくなった雑渡は「ああ、いや、」と紳士靴売り場に一度避難したのだった。
しかし数分後にこそこそともどってきて、また陳列棚を眺めながら思案しているさきほどと同じ長身の男を見つけ、なにやら察した販売員は、隣の靴下売り場からそっと雑渡を見守っていた。
こんなことなら、恥をしのんで年若い高坂や諸泉についてきてもらえばよかったな、とそこまで思い至ったところで否、と首をふる。雑渡の部下たちは、もとは決して悪くないのに、学生時代や社内の男所帯がたたってか、奥手の男たちが多かった。つかえないなあ、と雑渡は自身のことを棚に上げてため息をつく。
ある意味、ほかでもない雑渡にみな、似ているのかもしれなった。
そもそもなぜ、雑渡が婦人用ハンカチーフ売り場にいるのかといえば。
2週間ほど前。尊奈門が大学へ持ち出していた機材回収を手伝うため、という名目で伊作は元気にしているか見にいくため、雑渡は久々に、彼女の通う大学へと赴いた。件のお父さん代理事件――伊作と彼氏のお家デートを阻止するため、もとい彼女の初めてを守るべく、はずみで彼氏の前で伊作の父親代理を語り、見事彼女をひきとめることに成功した事件――からじつに3か月が経とうとしていた。山本とともに四半期報告を作成しながら、もうそんなに経ってしまったかと、雑渡としても驚いていた。あまりにも気恥ずかしく、伊作に合わせる顔がなかったのである。
そんな折である。退屈なデスクワークに飽き飽きし、給湯室の横にたたずんでコーヒーをすすっていたある日。
おう、おつかれ、と、だれかの帰社を知らせる同僚たちの声に振り向けば、背負えるタイプのブリーフケースを背負った諸泉があわただしく事務所に入っていくのが見えた。雑渡も、管理職になったいまなお出張することが多いので、ちょこまかと身軽に会社と大学を行き来する諸泉を目にしては、3ウェイタイプのかばんに興味がわいていたのだが、なんとなく自分には似合わなそうな気がしたので、まだかばん売り場へは赴いていない。
諸泉はかばんを事務室に置いてきたのだろう、またエントランスから飛び出してきて、倉庫へ向かうためこちらに足早にあるいてくる。物置の壁に立てかけてある折り畳み式の台車をひょいと片足をつかってワンタッチで組み立て、全速力で雑渡に向かってきた。あぶないではないか、と雑渡は真横に足を踏み出してよける。無論、諸泉の目当ては雑渡でなく、その背後にある倉庫である。
「おつかれさん。……ちょっと、私をひきころす気」
「お疲れ様です。どいてください」
諸泉は雑渡には目もくれず、そのわきをすり抜けて倉庫の戸を開け、なかに入っていった。
「……なに、あれのこと?」
ええ、と諸泉は庫内の照明をつけて答えた。スチールラックに並べられているそれらの中から目当てのものを2、3、手にとり、台車にのせていく。一度表へ出てから、それらを開梱して状態を確かめていった。まくられたシャツの袖からのびている諸泉の両腕はたくましい。ちょっと前まで父親に手をひかれて泣いていたくせにな、と雑渡は目を細めた。
「じゃあ、またすぐ戻るんだ」
「はい。このあと15時からなんです」
せわしないねえ、と雑渡もしゃがみ込み、ガムテープだらけの古びた細長い段ボール箱をひとつ手にとって、中身をあらためてやることにした。受託研究員とはいえ、会社員であることにかわりはない。研究成果を出さねばならない諸泉が暇なはずはなかった。
「……それで。どうなの」
「え、いつも通り元気ですよ」
いや、おまえが元気いっぱいなのは見てわかるよ、と雑渡は内心でつっこむ。ちがう。雑渡がききたいのは、諸泉がろくに会社にも顔を見せず、研究室に缶詰めになっている元凶の、開発案件の進捗具合であった。
「彼氏とは別れたみたいですよ」
ごと、と雑渡は手にしている鉄の塊を取り落としそうになった。しかし表情は変えぬよう極力気をつけながら、顔を諸泉に向けた。
「……は?」
「やだな、善法寺くんのことでしょう。あれ、ちがいました?」
ばかいえ。だれが研究室内の女学生の近況報告をしろといった。そう目でたしなめれば、諸泉は片眉をあげてみせる。
「またぁ。気にしてるでしょう、部長」
「……」
諸泉は雑渡の手からデモ機を奪い取り、梱包しなおした。荷台に積みなおして、立ち上がる。その様子を、しゃがみこんだまま雑渡は目で追う。
「こないだ、彼女を助けたんですってね」
え、と雑渡は間抜けな声をだした。伊作を助けたおぼえなど、ない。むしろふた月ほど前に彼女の前で大失態をおかし、それ以来、気恥ずかしさのあまり雑渡は諸泉の通う大学からは足が遠のいていたのだから。
「……なんのこと?」
「私がききたいですよ。なんだか、あんまり詳しくは言いたくなかったみたいで、私もそれ以上追及しなかったんですけど。迷っていたところに、助け船をだしてくれたとか言って、……部長?」
やはりあのことか、と雑渡は片手を額に押し当てて羞恥に悶えた。あまり思い出したくない話だった。
「それで、お礼をいいたいのだけど、最近はあまりいらっしゃらないんですね、なんて、いじらしいこと言ってましたよ」
目がハートになってましたよ、やるじゃないですか何したんです、とさして雑渡の回答を求めているわけでもなさそうに、諸泉は台車のグリップに両手をかける。ぐ、と押し出してエレベータに向かって方向変換したところで、しまった、かばん置いたままだ、と台車をそのままにして事務所へ踵を返した。
「ちょ、っと、待ちなさい尊奈門、」
「なんです、時間ないんですから」
「目がハートになってたってのは、ほんとうか」
「……」
尊奈門の軽口を割り引いたにしても、そうして気をよくした雑渡がいそいそと久方ぶりに大学にやってきたわけである。
「雑渡さん、お久しぶりです!」と屈託のない笑みで伊作に迎えられ、このふた月、いやみ月、面映ゆい思いをしているのはやはり私だけだったのか、と雑渡はいつも通りの飄々とした――クールな男を装った――挨拶を返しながら、内心がっかりとしていた。何がハートだ尊奈門め、上司をからかいおって。いずれにしても、以前と変わらず快活に動き回る伊作を目にし、雑渡はほっとした。
彼女の専攻は、いまだ男性の従事することの多い分野であるらしい。にこにこと男どもに声をかけられている姿は気に食わなかったが、尊の情報が正しければ、いま彼氏はいないはずである。ああ、だからこそ、それをかぎつけた輩が寄ってきているのか。
食満とかいう警備会社大手はどうした。専攻が異なるのだったか、と少々いらだつ。留三郎にとってはお門違いもいいところである。
雑渡にとっては、どこの馬の骨とも知れぬ有象無象より、留三郎のほうがまだ信用できたのだ。
とにかく雑渡は少し気が緩んでいた。否、色惚けにより注意力散漫だったのかもしれない。
鋭利な機材を手にとった際に、うっかり指先を怪我してしまった。傷は浅くたいしたことはないのに、「部長、血が!」という尊奈門の大げさな声で伊作が駆け寄ってきてしまった。
伊作はまずハンカチを雑渡に差し出した。いいよ、汚してしまうよ、と躊躇して、雑渡がもう片方の手で出血している指先を覆い隠し、ポケットから自らの使用済みのハンカチを取りだそうとすれば、怖い顔で伊作にハンカチを押しつけられ、患部を洗ってくるように指示された。言われた通り研究室を出てすぐの男子トイレで手を洗ってきた雑渡は、待ち構えていた伊作に大判のばんそうこうを貼ってもらったという次第である。粘着部分がメッシュ状になっているそれだった。なつかしさをおぼえ、保護された傷がいまさらじんじんと痛む。なんだか雑渡は母親に手当てされた子どものような気分になってしまい、伊作に甘えたくなってきてしまった。こんな若いこになにを、と雑渡は妙な感情をふりはらい、気を取りなおす。
どうしてそんな大きなばんそうこうをもっているの、ときけば、むかしよく転んだので、いつもばんそうこうは持ち歩いているんです、と伊作は眉を下げて笑った。いわく、もうこの頃はすっかり転ばなくなったが、習慣として持ち歩いているのだという。処女はばんそうこうをかばんに忍ばせているというもっぱらの噂である。
ともかく雑渡の血液で伊作のハンカチは汚れてしまった。雑渡が自宅に持ち帰って手洗いしてみたところ、落ちることは落ちたのだが、なんとなく、自身の血液で汚したハンカチを伊作に返すのは気が引けてしまった。
弱った。清潔だが年季の入ったハンカチだった。右下に、黒い忍装束をまとった、隻眼の忍者のキャラクターのワンポイントがついている。どこか雑渡に似ていないこともない。ものもちのいい伊作のことだ、小、中学生くらいのときからつかっているのかもしれなかった。
悩んだ末、これは自分がもらいうけて――断じて下心などではないと雑渡は自身に言いきかせた――、伊作には詫びに礼もかねて新しいハンカチを買って返そうと決めた。
そうして冒頭の、婦人雑貨売り場でうなる雑渡に話は戻るわけである。オンラインショッピングサイトで同じハンカチがないか一応は探してみたが、当然、同一のものはもうなかった。あきらめて別のものを選ぶことにし、こうして最寄りの百貨店に足を運んだ次第だ。
売り場で、あれからさらに数分経っていたが、伊作に贈る新しいハンカチは決まっていないようだった。そもそも雑渡は伊作の好みを知らない。ハンカチはあきらめて、なにか別のもので埋め合わせをしようかと、踵をかえそうとしたときだった。
「……」
陳列棚の端。肝心の、彼女の好みかはわからぬが、雑渡に、伊作を思わせる色合いのものが目に留まった。
*****
伊作が通う大学構内、雑渡は伊作の研究室のある棟へと足を向けていた。ふと、その隣の棟の入り口から中へ入ろうとする、まさに雑渡の探していたかのひとの姿を見つけ、雑渡は呼び止める。
「伊作くん」
「あ、雑渡さん、」
こちらを振り返った伊作が、ポニーテールをゆらし、雑渡に駆け寄ってくる。
今日はいかがなさったんですか、とたずねられ、ああ、うん、ちょっと近くまで立ち寄ったものだから、とくに用があるわけではないんだけど、と雑渡はこたえた。嘘は言っていない。実際、駅の反対側にある代理店の社長を訪問した帰りであった。
「そうだ。雑渡さん、お指のけがは治りましたか」
どきん、と雑渡の胸が飛び出しそうになる。いままさに、その話をふろうと思っていたところだった。
「ああ、うん。おかげさまで。あとものこらないと思うよ」
ほら、と雑渡は右手を伊作に向かってかざしてみせる。伊作は少し首をのばして覗き込んだ。
手はのばされず、触れもしない。性別ゆえか、否、ともかく伊作との間にこんなにも距離があるのか。雑渡は胸がきゅうと痛んだ。
「ほんとだ、よかったです」
伊作は安心したように笑む。このあと私は講義を入れているので、こっちなんです、といつもと異なる棟を伊作は指し示した。
ではまた、とそのまま立ち去ってしまいそうな伊作を、待って、と雑渡は呼び止める。まだ時間はあるかとたずねれば、講義が始まるまでまだ15分ほどありますと、細い腕を傾けて時計をちらと見ながら伊作はこたえた。
「……このあいだは、ほんとにありがとう。ハンカチ、だめにしちゃってごめんね」
いいえ、お気になさらずに。と伊作は笑んだ。ショートメッセージで、汚れてしまったハンカチを返すのが気が引けるのだということを、雑渡は伊作に伝えていた。ちなみにいまだ、雑渡は伊作のメッセージアプリの連絡先を知らない。
「それでね。……これ」
雑渡はブリーフケースから、白い真四角の包装を取りだした。先日悩みに悩んで選んだハンカチがなかに入っている。同じものでなくてごめん。もしよかったらつかって、と雑渡が差し出せば、伊作は驚いたように、両の大きなつり目を見開いた。今日もあまり化粧はしていないのだな、と雑渡はどこかぼんやりとしながら思った。これほど大きな目であれば、不要なのだろうか。いやわからない、いまどきの、ナチュラルメイクというものかもしれなかった。
「そん、な。お気になさらないでって、」
「……うん。でも、気になって」
きみにはいつも世話になっているからね、と雑渡は付け加えた。世話しているというより、ちょっかいをかけてくる四十路の男を袖にせず丁寧に相手してくれているというのが正しい。
よろしいんですか、という伊作に雑渡はうなずいて、包装を手渡した。さらに開けてもいいかと問う伊作に、雑渡はどぎまぎしつつうなずいた。雑渡のフィーリングで選んだので、伊作の気に入るかはわからない。
「……わ、」
伊作の手に取りだされたのは、白地に薄緑色の刺繡がほどこされ、やさしい桃色の花のワンポイントのついたハンカチだった。かわいい、と伊作はハンカチに視線を落としたまま笑みをうかべてつぶやいた。雑渡は頬が熱くなる。顔が赤くなっていないか、心配だ。そのハンカチは、雑渡が伊作をそういうイメージで見ているのだと、告白しているようなものである。
伊作は顔をあげて雑渡を見つめる。
「ありがとうございます。こんなすてきなハンカチを」
ハンカチって意外に長持ちするので、結構子どもの頃に買ってもらったものが多くて、と伊作ははにかんだ。ああ、うん、こないだのもそうだったね、大事にしているものを悪かったね、と雑渡は頭を下げた。いいえ、と伊作は首をふる。
では遠慮なく、つかわせていただきます、と伊作はハンカチをまた包装紙にしまい、肩にかけていたかばんに入れた。
「……それから」
「はい」
「伊作くん、冷え性?」
「えっ」
いえ、意識したことはないんですけど。なぜですか、と問われ、雑渡は急に気恥ずかしくなった。
「いや……、こないだ、手当てしてもらったときさ。きみの手。冷たく感じたから」
そうだ。先日、ぺたりとばんそうこうを貼ってもらったとき。季節はもう春も終わりに近づき、初夏を予感させる陽気であったのに、伊作も冷水で手を洗ってきたのだろうことを差し引いても、雑渡の手に一瞬だけ触れた指先は、細く、そして冷たかった。いろいろな意味で、雑渡が手を思わずひっこめたくなるくらいに。
雑渡は以前、の伊作を思い出す。彼の手は、細くはあれど節くれだっていて、そして何より、雑渡の患部に触れるその手指はあたたかかった。あの当時は、雑渡の手のほうがずぶぬれで、冷え切ってしまっていることもあった。大きさでいえば伊作の手のほうが小さかったのに、雑渡の手をそっと包み込んで、あたためてくれた。
そうか、と伊作に手当てをしてもらった雑渡は諸泉とともに機材を搬送しながら、帰りがけ、貼ってもらったばんそうこうを眺めて思った。いまの伊作は、彼ではないのだ。どうしてか、今生での伊作との距離を感じてしまい、その週末、彼女のハンカチにアイロンをかけて自宅の箪笥にしまいながら、雑渡は切なくなってしまった。
きみのことが好きで、好きで。またきみに会うために、きっと私は現代に生まれてきちゃったんだよ。それなのに。
雑渡は戦場を駆け抜ける忍組頭では、もうない。現在の医療では治療が困難な大けがも、ありがたいことに、していない。そして伊作はいま、忍者のたまごではない。近所の女子大生である。そこにいよいよ接点はほとんどない。またぞろ前世以上に必死で、雑渡が縁をつないでいるにすぎなかった。
「え、それは、すみませんでした」
ひやっとしましたかね、と伊作は謝る。べつに非難したわけではないので、雑渡はあせった。
「ちがうよ。けどもしかしたら、研究室の冷房で冷えちゃってるのかなって思ったからさ。……あたたたかくしてね」
じつは先日、デパートでいよいよハンカチが決まらないと思ったとき、雑渡は隣の靴下売り場に目をやった。この際、あたたかな靴下でも贈ったらどうだ、季節外れだけども、とよぎったのである。しかし四十路の男に靴下やらタイツやらを贈られたら気持ち悪かろうと、その案は数秒後に頓挫した。すでにこうして女学生のまわりをうろついていること自体が気持ち悪いのだという事実には、やはり雑渡は気づいていないのだった。
伊作は両眉を山なりにあげた。表情がゆたかなこだ。雑渡はまた、彼と彼女に思いをはせる。そうしてしばしの間雑渡を見上げたのち、伊作は少し恥ずかしそうに視線を斜め下におろした。おや、と雑渡は期待した。
「どうしてこんなに親切にしてくださるんですか。まるで……」
どきん。とまた、年甲斐もなく雑渡の胸が高鳴る。
まるで、なに? 「彼氏みたい」? じゃあ本当にわたしとつきあってみる?
「雑渡さんはわたしのことが好きみたい」? うん、そう、きみのことが大好きだよ。好きで好きであきらめきれなくて、きみに会うために、また生まれてきたんだよ。
「……ほんとうに。お父さん、みたいです」
ずで、と雑渡はその場でこけそうになった。まさかこないだのことをディスリスペクトしているのかと慌てて伊作を見れば、その表情からはそのような様子はうかがえなかった。皮肉でなく、真面目に感謝しているようだった。目元にやわらかな笑みをうかべている。
「親元を離れてもう4年たちますが、やっぱり少し心細かったんだと思います。雑渡さんみたいなひとがここにいてくださって、よかった」
「……そう……」
それはよかった、と雑渡は微笑んだ。顔で笑って心で泣いていた。そんな雑渡の心の内をつゆ知らず、伊作は、父も心配していたのです、とはにかむ。内心、こんな男がきみのまわりをうろついていると知れたら、お父さんもっと心配すると思うよ、と今度ばかりはさすがの雑渡も自覚はあった。
*****
「ビジョンがありませんな」
どこかできいた台詞だなと思えば、今朝の会議で雑渡が経営層たちに突きつけたことばだった。老いぼれ役員たちの苦虫をかみつぶしたような表情がよみがえる。甚兵衛のみが、おもしろくてたまらないといった様子で雑渡による提案、もとより経営批判をきいていた。それをいま、言った本人がそのまま、山本に返されている。陣内、今朝は私の横に座って、神妙な顔で支持してくれたじゃない、と雑渡は叱られた子どものように山本を見つめ返した。おまえだけが味方だと思っていたのに。
「あなた、善法寺くんとどうなりたいのです」
「どうって……。べつに」
どうこうなろうなんて思っちゃいないよ、とこたえれば、うそおっしゃい、と山本はため息をついた。
「どうこうなろうと思っていない四十路の男が、彼氏とのデートを妨害しますか」
「!」
なぜそれを、と雑渡は見る間にりんごのようになった。これがよく、味方のいない経営陣のなかであれだけの啖呵をきれるものだと山本は感心する。
尊奈門が講師を務める座談会をききにいった折にききました、と山本は告げる。いわく、伊作はことばを濁したが、おおむねそんなところだろうと見当がついたというわけだった。尊奈門がいっていたあれは、その場に山本も居合わせたのか、と雑渡はまた頭を抱える。雑渡の恋にさして関心がなく、なおかつ鈍いところのある尊奈門にはわからなかったのだろうが、年の功より亀の甲、というより雑渡とだれよりも付き合いの長い山本には大体の筋がわかってしまったらしい。雑渡は開き直る。
「……あれはね、伊作くんを思ってやったことなんだよ」
「はぁ、」
「おとめが自分を安売りしてはいけません、ってね。親心だよ」
「学生たるもの、勉強もすれば恋もする。あなた自身、清廉潔白な学生生活を送っていましたか。何事も経験でしょう」
「よっく言うよ、陣内おまえね、よそさまの娘さんだからそんなこと言えるんだよ。自分の娘だったら言わないね、ぜったいに」
「あなたにとってもよその娘さんでしょうが」
いつお父さんになったんですかと山本にあきれられ、雑渡は先日の自身の言動を思い出す。デート妨害事件で、はずみで父代理を語ったことまでは、どうやら伊作から山本には伝わっていないようで、ほっと胸をなでおろした。旧知の間柄である山本とはいえ、あれはさすがにかっこ悪すぎる。あ、けどこないだ、伊作くんにもお父さんみたいって言われちゃった。
山本はといえば、脈絡なくひとり勝手に顔を赤らめもじもじとしだした長身の幼馴染を前に、いまの話のどこにそんな要素があっただろうかと、気味悪さの沸き起こるのを禁じえなかった。
「ところでハンカチって、卒業とか退職とか、別れのときの贈り物ではありませんでしたっけ」
「ちょっと縁起でもないこと言わないで陣内」
*****
ビジョンねぇ、と雑渡は、降格を覚悟で今朝、自身が社に呈した苦言および事業戦略を他人事のように思い出す。
雑渡にだって、ほんとうのところはある。
けれど、伊作くんの生涯で唯一の、特別な男になりたいだなんて。きみのいちばん近くできみを守りたいだなんて。実現のための戦略が、皆目わからないんだもの!
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