[雑伊]して結局、返事は

「それじゃ、出ていきます」
先日の口げんかのしめくくりのことばが、伊作によるそれだった。出ていくと言っても、伊作にとっては少し実家に帰るくらいのニュアンスであった。自らの私物を旅行用のキャリーケースに詰めていく。書籍を除けば、それだけでことたりてしまうくらいの荷物しか伊作にはない。必要な本は別途段ボール箱につめて、配送手配をする予定だった。
どうしてこんなことになっちゃったのだっけ、と伊作は思う。




ふた月ほど前、伊作は法的に雑渡と家族になる手続きを提案されたのだが、なんとそれはずいぶんと遅い、雑渡による渾身のプロポーズだった。伊作は涙がこぼれるほどうれしかったし、実際その場で涙を流してよろこんだ。雑渡もこれはもう勝利したものとガッツポーズを決めんばかりにハンカチを差し出したのだが。
鼻をかみながら告げられた応えは、Yes寄りのNoだった。相続を含むその内容のあまりの重さにさすがの伊作もしり込みしてしまい、考える時間をくれというものである。重いというのは、雑渡との関係を結ぶことというよりも、自分が雑渡にとってそれだけに値する相手だろうかと、雑渡のことをおもい過ぎてのことであった。
もちろん伊作はそう正直に伝えたのだが、きちんと雑渡に伝わったかはあやしい。雑渡はあきらかにへこんでいて、へそを曲げているに違いなかった。すっかり覇気をなくしてひとり居間で足をそろえてちょこんと腰かけている後姿をみて、伊作はきゅんと切なくなってしまった。
くわえて、プロポーズを保留にしている手前、互いに触れ合いにくくなってしまった。雑渡による提案の日以来、二人はキスもセックスもしていない。以前から雑渡は照れ屋なので――と伊作は理解しているが、実際はただのむっつり助平である――基本的に寝室以外ではあまり伊作にべたべたとまとわりつかなかった。しかしあるときから、伊作のほうから歩み寄ることで、居間でも仲よく向かい合ったり、ときにはより近くに寄り添ったりしながらそれぞれ互いの仕事や趣味にいそしむことも可能になった。だからかはわからぬが、伊作がたかだか買い出しに出かけるときも、雑渡が伊作のそばにいたいと望むときは、車をだしたり並んで歩いたりして、素直についてまわるようになった。
そうして互いが互いにとって生涯のパートナーであると確信したはずであって、実際相違なかったのだが。
皮肉にも雑渡の申し込みにより、というよりそれを伊作が回答保留にしたことにより、振り出しに戻ってしまったわけである。
そしてふたりの間はぎすぎすし始め、ささいなことで角が立つようになった。セックスレスになったことにも起因しているかもしれない。人間ゆえ、あながちばからしい話でもないだろう。
そうしてそのプロポーズ失敗からひと月ほどたったタイミングで、とうとう大げんかになったわけである。

口論は終了して、伊作がこの家を出ていくまで冷戦状態が続く中、伊作は雑渡の弁当づくりをやめてしまった。一緒に住み始めた当初、互いに勤務時間も休日もほとんどの場合で異なるため、雑渡としても伊作に無理はさせたくなく、弁当をつくりたいという伊作の申し出を断っていた。しかしあるとき雑渡が体調を崩したことをきっかけにして、伊作はせっせと、余裕のあるときは週に3回程度、雑渡に手作りの弁当をもたせた。雑渡は伊作に無理をさせているのではと当初心配であったが、案外大雑把なところのある伊作が雑渡のために栄養のバランスを考え、かなり丁寧にこさえたことのわかる弁当を職場で開けるたび、彼から注がれる愛を感じて、すっかり甘えるようになった。
そして雑渡が休みの日に伊作が出勤するときは、今度は逆に雑渡が伊作にランチボックスをもたせた。家事は苦手なはずの雑渡が本気を出せばざっとこんなもんであるといわんばかりの完成度の高い弁当、たとえば日によってサンドイッチやうどんなどのハイカラなその中身に、伊作はうれしい反面、対抗心を燃やして、また雑渡にもたせる弁当が豪華になっていった。
なかば試合になりかけるほど白熱していた昼飯を通じての二人の対話は、当然すっかりなくなった。軽いブリーフケースをもって出勤する日々にすっかり傷ついた雑渡は、そっちがその気ならと、当然のように自身の休日の、伊作宛の弁当づくりをやめてしまった。

もともと、雑渡は家事が好きではない。やれば決して下手というわけではないのだが、あまりすすんでやるほうではなかった。けれど伊作と一緒にすむようになってからは、伊作に嫌われたくないその一心で、必死になって分担していた。こう見えて、いちど惚れてしまった相手に対しては、涙ぐましいまでの健気さをもつ男だった。
ただどうしても苦手であるらしいのが洗濯であった。伊作が不在の折、教えられたことをうまくできずに失敗し、申し訳なさそうに謝る姿を、伊作はひそかにかわいいと思っていたのだが、これは主に伊作が担当していた。
伊作が家を出ていくまでの間も雑渡の下着類やパジャマが伊作のそれらといっしょに洗われ、きちんとベランダに干されているのを見て、これはもしかしたら伊作は出ていかずにすむかもしれないと雑渡は内心で少しだけ期待していた。そしてキッチンに鍋料理のつくりおきがあれば、ずうずうしいかとも思いながらも中身を空にしてやった。

とはいえ、職場では昼休みになっても生気のない顔で野菜ジュースのストローをくわえている雑渡を見て、山本も、これは雑渡と伊作の間になにかあったのだろうと察してはいた。
いつもの、のろけにしか聞こえぬ痴話げんかレベルならば山本に泣きついてくる雑渡も、今度ばかりは触れてほしくなさそうにしていたので、山本はじっと見守ることに徹していた。


*****


雑渡はいら立ちを隠しもせず、カウチに腰かけて新聞のかげに顔を隠しながら横目で伊作が荷造りする様子をうかがっていた。手伝いはしない。だって、伊作が勝手にこの家を出ていくのだから。やはりまだ出ていく気なのか、と内心落胆していた。
「あ、伊作くん」
雑渡はわざとらしく、否、あたかもいま思いついたかのように伊作を呼んだ。伊作はぴくりと身じろぎし、こちらも不機嫌を丸出しにしながらゆっくりと雑渡を振り返った。
これは、伊作にしてはかなり態度が悪いほうだ。仲睦まじかったころは、雑渡が呼べば、「はい!」と毎度変わらぬ声色で返事をしていた。重ねる時間が長くなっても、伊作は雑渡への礼儀を忘れなかった。
しかしこのけんかが始まってから、伊作は雑渡に呼ばれればかろうじて振り向くが、以前のように笑顔を向けることをしなくなった。
くそ、徹底しているなと青筋を立てながら。否、雑渡の内心の、ほんとうの感情は怒りではなく、ふかいかなしみであったが、雑渡は片眉をあげる。気合をいれるために小さくせきばらいをした。
「家具とかはもうそろえたの」
意地の悪い質問だった。じつのところ踏ん切りがついておらず、ここ数日はもはや意地になって引き返せなくなっているだけの伊作にとっては、意地悪くきこえたというほうが正しい。本気で出ていく気など毛頭なく、当然のことながら新居や家具などは何ひとつ見繕っていなかった。伊作の実家から職場へは、少し時間がかかってしまうが通えない距離ではない。心配をさせてはしまうだろうが、冒頭でも述べた通り、いったんは父親に説明して、転がりこもうと思っていた。その先のことは考えていない。心のどこかでは、またすぐに雑渡と仲直りをして、この家にもどってくるつもりでいた。
だが当の雑渡にとっては伊作がどういうつもりなのかを知るための、真面目な質問だった。
「……いいえ。まだです」
そう、と雑渡はまた新聞で盾をつくった。そうしてもうひとつ、雑渡にとって重要なことがあった。
「……家具。それから家電も。つかえそうなのがあればもっていきなよ。全部すてるから」
えっ、と伊作は思わず声をもらしてしまった。これには伊作もたまげたようだ。てっきり自分がこの家を出ていったあとも、雑渡はこのままこの家に住み続けるものと思っていたからだ。というか、そんな別れ話であると、伊作はとらえていなかったのだから。
「……なんで。どうしてですか。もったいないではありませんか」
驚きすぎてか、伊作は少々的外れなことを言う。雑渡がいままさに腰かけるカウチにはじまり、テレビやローテーブル、キッチンを見回した。ブックエンドもいらぬほど所狭しとぎゅう詰めになっていた本棚は、伊作の持ち物であった書籍をすべて片付けたいまは、半分くらい空いてしまっている。寄りかかる隣の本をなくした雑渡の本が、不自然にたおれ、いまにも落ちそうになっていた。
この家に越してきたとき、浮かれた雑渡が伊作にキスをしながら、ふたり仲よく組み立てた本棚だった。
あまりにずれた伊作の回答に雑渡はたまらず、うるさい音を立てながら新聞をとじてぐしゃりと片手でつかみ、その場に立ち上がった。
「……なんで、だって? きみってさ、ちょっとそういうところあるよね」
無神経にもほどがあるよ、と雑渡の声は怒りでか、かなしみでか、ひどく震えていた。
「きみと。きみと一緒に暮らすためだけに買った家だよ。きみとの思い出が詰まっている家にひとりですんで。その家具をつかうなんて、できるわけないだろ。きみがこの家を出ていったら、ぜんぶすてて、私も出ていくよ。ベッドなんか、さいあくだ」
雑渡は両の目元を真っ赤にして、小さな声でひかえめに、どなった。涙こそ浮かんでいなかったが、雑渡は泣いているのだと、伊作にはわかってしまった。
「ざっとさ、」
「ふ、もったいない、ね」
伊作のことばを繰り返し、きみらしいね、と雑渡は鼻で笑った。およそ雑渡らしくないそれだった。乱雑にたたんだ新聞をテーブルに置く。
「どうぞ。もっていきなよ。もともと一緒にお金をだしあって買ったものでしょう。それで、あたらしいおうちで、今度は女の子でも、連れ込んだらいいじゃない」
きみもてるからね、と雑渡は世辞にも品がいいとはいえぬことを言い始めた。ほかでもない雑渡自身がそのえじきになっているわけなので、正直格好がついていない。
じつのところ、付き合いたての当時は完全に、伊作に、べつに伊作がどうこうしたわけではないのだが、勝手に骨抜きにされていた雑渡の負けで、どうにかして伊作と距離を縮め、このマンションではなく当時まだ雑渡が一人で住んでいた隣町の家に、伊作を連れ込むことにまんまと成功したのだった。連絡先を交換し、うるさがられないよう慎重にメールを送り、デートを重ね。そこには相当な苦労があった。
だからいましがたの雑渡の発言はお門違いもいいところである。ひとのいい伊作はべつにそこは気にならないようだったが。
とにかく雑渡は、プロポーズを保留にされたことが思いのほかこたえたようで、伊作にもてあそばれたといわんばかりに、伊作と重ねた時間の記憶が歪曲されていた。
伊作もそうまでいわれて黙ってはいない。
「……そんな言い方はないでしょう」
そういえばむかし、私と一緒にすんでいるのに、女の子と食事にいったことあったよね、と雑渡はじつはずっと根にもっていたことを蒸し返して、言い募る。これには伊作も、返す言葉がなかった。仕事を代わった礼にと誘われて、伊作もまだいまよりもずいぶん若かったので、その言葉をそのままうけとり、何も考えずついていった件だ。そのときも少し雑渡とけんかをしたのだった。誤解は解け、雑渡ももちろん伊作を許したが、それでもそのときついた雑渡の心の傷は、まだじくじくと、うずいていたらしい。本件をきっかけに、古傷がいたみはじめたのだろう。
「なんなら私が出ていくよ。きみがひとりでここにすんだほうがいいんじゃない」
意地になって口から出まかせをいう雑渡は、自分でもいいながら内心冷や汗をかいていた。雑渡が伊作よりも先にこの家を出ていくという選択肢は、ない。ぎりぎりまで、伊作の気が変わって仲直りできる可能性にかけていた。本当に伊作が出ていってしまってもどってこなかったら、雑渡としても、この家を出ていく心づもりだった。そうでなければ、そこかしこに伊作の気配の残るこの家にいては気がくるってしまいそうだった。

「雑渡さん」
なに、と雑渡は興奮した様子のままこたえる。先ほどと同様に、不機嫌の色を隠しもしない。
「なにか勘違いをされていませんか。このまま別れようなんて、言っていません。いまのわたしたちは少し距離をおいたほうがいいと思って、それで、少しの間だけ、別々に暮らすだけです」
「うそ」
雑渡は伊作をうらめしげに見つめた。もう伊作の言葉など信じていない風だった。
「うそつき。そうやってここを出ていって、もう私のところへはかえってこないつもりなんでしょう」
雑渡はそう言って、力尽きたようにその場にまた座り込んだ。広げた両手に顔をうずめ、ごしごしと両目をこすっている。
「……どうして、だめなの」
両手の間からこぼされたつぶやきを、伊作は聞き漏らさなかった。伊作もそこでようやく確信めいたものを得た。雑渡がこうして取り乱しているのは先日のけんかのことではなく、その前の。養子縁組を断ったことに原因があるのである。
「雑渡さ、」
「……でていくなんて言わないでよ、伊作くん。わたしを、ひとりにしないで」
そういわれて、伊作はたまらずかけより、カウチに座り込んでうなだれる雑渡を上から強く抱きしめた。


*****


「……こんなおじさんと家族になるなんて、いや?」
「そ、んなわけ、」
いま伊作はカウチの上に斜めにこしかけ、自身の胸に押し当てられている雑渡の頭を抱きしめていた。伊作は雑渡の両肩に手を置いて少し押し、その顔を見ようとした。が、雑渡に強い力で顔を胸、ほとんど腹に近かったが、そこに押し付けられてそれはかなわなかった。雑渡の両腕は伊作の背面に下からまわされ、強くしがみついている。雑渡は、相手に抱きつきながら拒むという至難の業をしてみせたわけである。おそらく、伊作の顔を見るのが怖いのだろう。伊作はおとなしくまたその頭や背をなぜた。
「……それとも、なに、じつはだれかほかに、添い遂げたい人でも、いた?」
雑渡の声は震えている。ほとんど涙声だった。伊作は両目をとじて、雑渡には聞こえぬよう小さく息をつく。これは通じていない。雑渡は伊作を「そういうところあるよね」となじったが、いまはそっくりそのまま返してやりたい気分だった。
「……ざっとさん、」
「……うん」
「わたしにとって、雑渡さん、あなたは、生涯で唯一のパートナーです」
うん、知っている。だってきみ、そうことばでも、態度でも示してくれたもの。私のことを、愛してくれたもの。じゃあどうして、とかぶせたくなる気持ちをぐっとこらえ、雑渡はおとなしく続きを待った。
「けど、」
けど! けどなぁに、と声には出さず歯噛みしながら、雑渡は伊作の服をつかむ指に力をこめた。そのけど、が最もこわいのである。
「……すみません。いまはまだうまくお伝えできなくて」
私はここを出ていきません。けれど、すこし時間をいただけませんか、と伊作は請うた。今すぐにでも返事が欲しい気持ちを、雑渡は涙をのんでこらえた。ささやかな抵抗として声には出さず、しずかにうなずく。伊作が逃げないようにしっかりとつかまえておきたい気持ちと、もしものときに伊作をまもれるようにしておきたい気持ち。ああ、自分はすべて伊作のものであるのだと。雑渡のほうも、すべて伊作に伝えられているわけではなかった。
約2ヶ月ぶりに互いを強く抱きしめあった二人は、そのまま、長いことその場でそうしていた。




ようやく離れたとき、雑渡は伊作の目をあまり見られないまま、もじもじと切り出した。
「ひとつ確認したいんだけど」
「はい」
「きみにOKもらえるまで、えっちは、なし?」
こちらがプロポーズするまで身体を許さない乙女にデリカシーのないことを大真面目にきくかのような態度の雑渡に――雑渡の場合はすでに申し込み済みで返事待ちである点が大いに変わっているが――、これには伊作も、カウチからずりおちて、声に出して笑った。
案外重要な話だった。


*****


その晩、もう夜も遅いのに、雑渡はせっせと伊作の荷物をほどいて元の場所に戻していった。
「もうやすみましょうよ、雑渡さん。明日わたしが自分でやりますから」
もうお風呂はいってください、とあきれている伊作を尻目に、雑渡はさくさくと作業をすすめていく。伊作の衣服はクローゼットや箪笥におおむねしまい終わり、残すところは大量の書籍だった。伊作の荷物といえば、正直それくらいしかない。
「うん。まって、もう終わるからさきにベッドはいってて」
もしかしたら朝になったら伊作も冷静になって、結論をだすためにもちょっと頭をひやすためにやはり出ていくなどと言い出しかねない。伊作の気が変わらぬうちに、少しでも逃げ道を塞いでおきたかったのである。
なだれをおこしかけていた自らの本を立て直し、空いた隙間に伊作の書籍をしまっていく雑渡の横顔は、必死そのものであった。
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