[バオコン]乱暴者と医学生

【痛いの痛いのとんでいけ】

「あれやってくれよ」
「あれってなんだ」
「痛くなくなるまじない。前、がきにやってたろう」
コンブフェールはバオレルが言っていることを理解するのに1秒ほど要した後、頬をさっと赤らめた。
「……いつの話だ。というか見ていたのか」

いつぞやに、コンブフェールは、通りで転んでひざをすりむいたらしい子どもが泣いているのに出くわしたことがある。コンブフェールとてミューザンへ向かう途中だったので、包帯などは持ち合わせていなかったのだが、近くで汲んできた水と持っていたハンカチーフで応急手当をしてやったのだった。親とはぐれたことも相まって、泣き止まないその子どもに、「痛いの痛いのとんでいけ」と、患部に手を当てながらまじないを唱えた。昔、それこそコンブフェールもその子と同じくらいの子どもだった頃、母が同じようにしてくれたのだった。非科学的に思えるが、これをしてもらうと、不思議と痛みが和らぐのである。先ほどまで泣きわめいていた子どもはじっとコンブフェールを見上げ、小さくしゃくりあげた。よしよしと、コンブフェールも内心胸をなでおろし、「お母さん探そうか」と子どもの手をとったのだった。その後、母親はすぐに見つかり、コンブフェールが手を振って親子を見送るまでの間、バオレルはそれを手助けするでもなく、ひそかに遠くから眺めていたのだった。

「見ず知らずの子どもにはやってやるのに、おれにはやってくれないのかよ」
あのあと、すぐにお母さんが見つかってよかったなと回想したところで、いま目の前にいる図体のでかい子どもの野太い声により、コンブフェールははっと我に返る。
「ばかを言え。きみいくつだ」
「あれ、ほんとに痛くなくなるんだよな。むかしおれもママンにやってもらったぜ」
コンブフェールは驚き、まじまじと粗野な友人の顔を見つめた。相手も、存外からかう風でもなく、真剣な目でこちらを見ていた。どうやら本気で甘えているらしかった。コンブフェールは小さくため息をつき、あの子供に対してよりもはるかにぶっきらぼうな様子で――若干の気恥ずかしさもあった――まじないを唱えてやる。
「……どうだ、痛くなくなったか」
「ああ」
「ほんとうかい」
バオレルが真顔でこたえれば、コンブフェールはおかしそうに笑った。
「ママンみたくキスはしてくれないのか」
「調子に乗るな」



【猥談】

外で騒ぎを起こしては傷をこさえ、手当てをせがむ乱暴者が、どかりとおのれの横に腰かけるのがコンブフェールの視界の端に見える。今日は別に、新たに生傷をつくってきたわけではなさそうだった。
「お前ってさあ」
「ああ」
今年も大学を卒業する気はないらしく、暇らしい。コンブフェールは試験を間近に控えて忙しいのであるが。いずれにしても、この男がとくに用もなく寄ってくるときは、大概ろくでもない話を振ってくるので要注意である。書き物をする手を止めずに、適当に相槌を打っていた。
「性欲とか、あるの」
コンブフェールは口元にもっていったコーヒーを危うく吹きこぼすところであった。そらきた。ろくでもないだろうと思ってはいたが、いつも以上に予想の斜め上をいく質問であった。胡乱な目つきで相手を見やれば、予想に反して、バオレルは真面目な顔をしている。
「……なんなんだ、藪から棒に」
「いや、アンジョーラにも同じことを思うんだけどよ」
コンブフェールは片手を自らの額にこすりつけてため息をついた。
「……頼むから、彼にはこの類の話をしてくれるなよ。人にはそれぞれ事情というものがある。皆がきみと同じとは限らない」
「ああ、アンジョーラに関してはお前さんの言わんとしてることもなんとなくわかる。だが、おれが気になるのはお前だ。お前はアンジョーラとは違う。人並みの生活を楽しむ男だ。多少語弊はあるかもしれないが、おれの言いたいことはわかるだろう」
「……そうだな」
「お前でも、自慰とかするのか」
「ああ」
「……へえ! 想像できないな」
「想像しなくて結構。これで満足したか」
「最後にしたのは? 先週? 先々週? もしかして昨日、」
「おいきみ、いい加減にしろ」
セクハラだぞ!



【手当て】

「お前の手には不思議な力があるんだな」
「……いきなり何の話だい」
「いやさ、お前に手を当ててもらうと、気のせいか、ほんとに痛くなくなったり、楽になったりするんだよな」
コンブフェールはバオレルを一瞥してから、また手元の本に視線を戻した。
「……まあ、『手当て』というくらいだからね。手のひらを当てるという行為に鎮痛作用があるという学説もある。……しかしきみの場合、さてはそうやっておだてて、またぼくに手当てを乞うつもりだな」
「ばれたか」
「ばれるさ」
コンブフェールがときおり見せる、年相応のいたずらっぽい笑顔を見ながらバオレルは、お前に手当てされると楽になるのは本当のことなんだがな、とは言えないでいた。



【ハンカチーフ】

「なんだい、これ」
コンブフェールは目の前にずいと差し出されたハンカチーフを受け取った。きちんと折りたたまれた白無地のそれは、新品であるらしかった。
「ハンカチ。こないだおれのけがの止血のために貸してくれたろう。すまなかったな」
「いや、それはいいんだけど……。これ、新品じゃないか?」
ああ、とバオレルは何でもない風に言う。
「あのあと家で洗ったんだが、血が落ちなくてな。悪いが捨てさせてもらった」
「そんな、じゃあわざわざ買ってくれたのか。別に気にしなくてもよかったのに……」
「いつも悪いだろう」
「いいのかい。ありがとう、遠慮なくつかわせてもらうよ」
「おう、そいつでまた手当てしてくれ」
それじゃ元の木阿弥じゃないか、とコンブフェールは眉を下げて笑った。

バオレルはうそをついた。実は、なんとなく捨てるのが惜しいように思われて、柄にもなくきちんとアイロンをかけ、箪笥にしまってあるのだった。



【けんか】

手当ての最中、コンブフェールは一言も発さなかった。いつもいつも口うるさく説教をしながら、それでも甲斐甲斐しく止血や消毒をし、最後に包帯を巻きながら、心配をさせてくれるなと笑うのが常だった。しかし此度ばかりはひどく怒っているらしかった。手当てを終えたコンブフェールは、道具をかばんにしまい、神経質そうに折り返した袖をもとに戻して、釦を留めた。その間も、無言を貫いていた。立ち上がり、バオレルに背を向ける。
「おい待てよ、コンブフェール」
声をかけたが、医学生は立ち止まることなく足早にバオレルの部屋を出ていってしまった。


「今日はバオレルこなかったね。どうしたんだろう」
ジョリーに対して向けられたプルーヴェールの声に、コンブフェールはひそかに聞き耳を立てる。
「そういえばそうだね。コンブフェール、何か聞いているかい」
突如自らに話題が振られ、若干動揺した。無理もなかった。いつも彼の手当てをしているのはコンブフェールだったのだから。
「……何も。またどこぞでけんかでも売っているのだろう」
「おや、冷たいじゃないか。何かあったのかい」
「何も。彼に限らず、誰だって用事があってこられないことはあるだろう?」
コンブフェールは微笑んでみせたが、同じ医学生であるジョリーにはなにもかもお見通しであるようだった。


会合終了後、早々にミューザンを後にしたコンブフェールの足は、無意識にバオレルの家へと向けられていた。扉の前で一瞬、躊躇したが、意を決して扉を数回、静かにノックする。返事はなかった。ため息をつき、そっとドアを押せば、かぎはかかっておらず、すんなり開いてしまった。不用心なことこの上ない。何度目かわからぬため息を吐きながら、コンブフェールは部屋の中に足を進めた。

明かりはついていなかったが、たしかに人の気配がする。昨日手当てを施した際にバオレルが腰かけていた寝台へ歩み寄れば、果たして、男が布団をかぶってあおむけに横たわり眠っていた。窓からの月明りに照らされた男の眉間にはしわが寄り、苦しそうに荒い息を吐いている。汗ばむ額にそっと手のひらをのせれば、ひどく熱かった。コンブフェールはさして驚かなかった。昨晩の傷が膿んで、発熱しているのだろう。言わんこっちゃない。んん、とバオレルはうめき、ゆっくりと目を開ける。熱のために潤んだ瞳が、暗闇のなかで医学生の姿をとらえた。
「……コンブフェール……?」
「すまない。鍵が開いていたから、勝手に入ってしまった。……流しを借りるぞ。包帯を替える」

蝋燭で照らされた寝台の上で、コンブフェールはまたも無言でバオレルの胸の傷の消毒をしていた。持参した清潔な包帯に取り替えてやり、汗びっしょりになった服を替えるのも手伝ってやった。ふうふうと熱い息を吐きながら、バオレルは、洗面器で布を絞るコンブフェールの姿をじっと眺めていた。その視線に気づき、コンブフェールは気まずそうに目をそらした。
「……昨日はぼくも大人げなかったよ、気分を害したならすまなかった。無性に腹が立ったんだ」
「ずうずうしく手当てを乞うおれにか」
するとコンブフェールはバオレルをにらんだ。
「ちがう。やはりきみは何もわかっていないんだな。手当てなんて、ぼくがそばにいる限りいくらでもやってやるよ。けど、ぼくでも、医師でも手に負えないような傷を負ったら、どうするんだ。きみには、もっと自分を大切にしてほしいんだ」
意外だとでもいうように、バオレルは大きな双眸を見開いたのち、気だるげに二、三度瞬かせ、にやりと笑ってみせた。
「……そんなにおれが好きか」
「おい、ひとの話を聞いていたか」
「要約すればそういうことだろう。違うのか」
コンブフェールは一瞬の逡巡ののち、違わない、ときまり悪そうに呟いた。バオレルはよいしょ、と起き上がり、その額にのせた布がずり落ちるのを、コンブフェールが慌てて拾う。その手を熱い手のひらがつかみ、頬にも男のもう片方の手が添えられた。何を、と問う暇もなく、手を添えられていないほうの頬にけが人の唇が寄せられ、こめかみにかけて滑らされた。バオレルはすぐに離れたが、二人は至近距離で互いに見つめあった。
「……なんのつもりだい」
「キスさ」
愛の国フランスにおいても、よほど親しくなければ男同士の挨拶でキスはしない。したかったからしたんだ、とバオレルは笑って、どさりと再度その身を寝台に横たえた。コンブフェールはいまだ動揺しているようであったが、手に持ったままだった布を、洗面器の水に再度浸した。
「善処するよ」
バオレルのことばの意味が一瞬わからなかったが、先ほどの自らの発言に対する回答であると理解し、そうしてくれ、と力なく笑った。


翌日、いつものように湿布やら包帯やらをそこかしこに覗かせながらもミューザンに現れ、クールフェーラックと馬鹿笑いしている男の背中を見つめながら、ジョリーはかたわらの医学生に声をかける。
「……仲直りできたのかい」
「何の話だ?」
コンブフェールは書き物をする手を休めぬまま、平静を装って返答する。
「ぼくも医学生のはしくれだからね。包帯の巻き方を見れば、誰が手当てしたのかくらいはわかるさ」
コンブフェールは昨晩の出来事を思い出し、ひそかに頬を赤らめた。
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