[雑伊♀]500年後に出直してこい

「わたし、……じつはまだそういう経験がなくて」
伏し目がちの伊作に、処女であることを告白され、雑渡はコーヒーをふきこぼしそうになったのを、すんでのところでたえた。漫画みたいにならなくてよかった。
伊作のまぶたは、少し恥ずかしそうに震えている。
否、うすうす知っていた。この年になると、目を見ればだいたいわかる。そもそもなんでそういう話になったのだっけ。




雑渡の勤める会社は、伊作が通う大学と協定を結んでいた。雑渡の部下である諸泉が受託研究員として受け入れられ、通っているのである。上司の雑渡もちょくちょく出入りしていたわけなのだが、もっぱらの目的は、そこの院生のひとりである伊作に、就職活動の相談に乗るという名目でちょっかいをかけることだった。
伊作の専攻は専門性の高い分野だが、技術職や研究職として企業に就職するケースもある。それで、雑渡の会社に就職しないかとたびたび口説いていたが、そのたびに丁重に断られていた。いわく、ありがたい申し出だが、組織として大きすぎるので、おそらく伊作自身が社風に合わないだろうというものだった。飽きずに毎度、そんな応酬をしている。
今日も学校近くの喫茶店で、伊作に貸していた本をうけとり、別の本をまた貸し、ほとんど挨拶になっているいつものリクルートを断られ、そして――ここからが雑渡にとっての本題なのだが――伊作と彼氏の近況について、尋ねた。

伊作にはいま、人生ではじめてできた交際相手がいる。専攻は異なるが、同じ大学の博士課程で学ぶ、二つほど年上の男だった。伊作がまだ高校生だった頃、道端でけがをしていた彼を助けたことがあり、この学校で運命的な再会を果たしたのだという。
雑渡もじつはむかし伊作に助けられたことがあるので、相手を間違えているのではないかな? ガラスの靴が合うのは私ではないかな? とさりげなく伊作にアピールしていたのだが、あなたを助けたおぼえはありませんと一蹴されて終わった。当然だ。伊作が雑渡を助けたのは、500年もむかしの話なのだから。
シンデレラの件は四十路のおとこが言うにはさむすぎてスルーされた。ずいぶんでかいガラスの靴だ。それを言うなら人魚姫だし、だとしても立場が逆である。
食満とかいう警備員のような男が伊作の周りをうろついており、雑渡にとっては目障りだったが、今度ばかりはぬかりなく警護しろよと思わないでもなかった。

さておき、伊作に彼氏ができてからというもの、雑渡は外面上平静をたもちながらも、部下の尊奈門を――という名目で伊作を――訪ねる回数が以前よりも増えた。会うたびに、素知らぬ顔で、いかにも興味などないとでもいうふうに、彼氏は元気かとたずねた。
いまのところはまだ手をつないでまちなかを歩いただけのようだ。私はおまえよりも大昔に、伊作に手を握ってもらっちゃったもんね、と雑渡は顔も見たことのない伊作の彼氏に対して内心マウントを取る。500年前のそれきりであることはこの際わきにおいておく。
真面目な話、雑渡としても、今生で伊作とどうこうなれるなどとは毛頭なかったので、涙をのんで、最終的には大人らしく、伊作の恋を応援するつもりでいた。のであるが。

来週の土曜日、伊作の履修する三限目の講義が終わったら、そのあとで彼氏の家で映画でも見ようと言われたのだという。お家デートだ。
「へー、伊作くん、襲われちゃうんじゃない」と気のない相槌をうちながら、雑渡は動揺して、コーヒーカップをもつ手が震えた。
それで、やはりそういうものですか、と不安げに尋ねた伊作が続けたことばが、冒頭のそれである。一拍置いて、雑渡はあー、ああ、うん、と妙な声をもらした。
「だ、大事にしたほうがいいんじゃない」
「え?」
「だから、その、」
ば、バージン。と雑渡は恥ずかしそうに言った。
「……」
「おとこってね。もしかしたら、すると、あきちゃうかもしれないよ」
伊作が両目をまたたかせる。そうすると、まだ15かそこらの少女にもみえた。そうか、このこにはまだ誰も手をつけていないのか、と雑渡はあらためて、そのまっすぐな目を見つめ返した。最近の若い子の性事情はよく知らないのだが、遅いほうなのだろうか?
「それは……経験談ですか」
「……まあ」
雑渡さん、最低です、と目をすがめられ、雑渡はふてくされる。
「わたしじゃなくて、……私ふくめて。男はそういう生きものなの」
きいたことくらいあるでしょ、と雑渡がいえば、ええまあ、と伊作はうなずく。けど、わたしは男性ではないので、ぴんとこなくて、とつぶやいた。ぴんとこないなら私がおしえてあげる、などと心底気色の悪いことを言い出さない自分に、雑渡はほっと胸をなでおろした。
「……でもね、」
「はい」
「まことの愛も、あると思う。セックスって、愛し合う行為だから。伊作くんを本当に愛してくれるひとと、したらいいと思うよ」
「それも、経験談ですか」
「ううん、これは想像」
ほんとに最低です、と伊作はもう一度ため息をついた。最低談義を雑渡は続ける。
「はじめてってね。……男はうれしいとおもうよ」
「雑渡さんもそうなのですか」
たぶんね、と雑渡はずいぶんとむかしを懐かしむように、目を細めた。なにより伊作自身が、忘れられない経験になると思う。
「傷つくのも経験だけどさ」
大事なひとにあげなよ、と雑渡はつけくわえた。


*****


きたる伊作のデートの日の前夜。雑渡はなかなか寝付けず、ようやく眠った朝方に、ひどい悪夢に襲われた。
破瓜の痛みに顔をゆがめる伊作と、彼女に覆いかぶさり、思うままに腰を振る見ず知らずの男――。
飛び起きた雑渡は、全身に汗をかいていた。吐き気もする。
起きて、シャワーを浴びてからも、何もする気になれない。だが、自分がこうしてじたばたしても、もうどうにもならないじゃないか、と雑渡は自らに言い聞かせようとした。けれども。

『けがをした彼の手当てをしたのです』
『まだ、経験がなくて』

恥ずかしげに微笑む伊作の声が蘇り、雑渡は舌打ちした。やっぱり、いやだ。
鍵をつかみとり、そのまま家を飛び出して最寄り駅のロータリーまで走っていった。タクシーに乗りこみ、運転手に伊作の通う大学名を告げ、手にしたスマホを起動する。
ショートメッセージで、伊作にメッセージを送信した。
『伊作くん、いまどこにいる?』
雑渡は伊作の、メッセージアプリの連絡先を知らない。女子大生の伊作に、「ねえID教えてよ」などとは軽々しく尋ねられない性格だった。一歩間違えばストーカーのような行為を今生でもしていながら、妙なところで奥ゆかしさのある男だった。伊作から「雑渡さん、連絡先教えてください」と言われるのをいまかいまかと待っていたのだが、いつまでたっても、きかれることはなかった。
だから雑渡のアプリの「友だち」には、冗談抜きで、山本と高坂と、諸泉くらいしかいない。どうやってつかうの、という雑渡に、高坂と諸泉が手取り足取り教えて、自分たちを登録してやったのだ。
伊作としては、連絡がとれればなんでもいいのだろう。まして雑渡は友人でも彼氏でもなんでもなく、ただ産学連携で知り合っただけのサラリーマンである。雑渡から連絡を寄越さなければ、伊作から連絡がくることはない。それで、雑渡は伊作の電話番号しか知らないのだった。
すぐに返事はきた。
『いま授業がおわったので、これからデートです。正門で待ち合わせです』
しめた。そこから動かないでと、雑渡はメッセージを送信し、急くように運転手と、大学への道のりを眺めた。


*****


「いさくくん!」
大学の正門前に、見慣れたくせ毛の、ポニーテール姿を見つけ、雑渡は自分でも驚くほどの大きな声が出た。伊作が、こちらを振りかえる。
「雑渡さん!」
雑渡は伊作にかけよる。この程度で息切れするなんて、もう年かもしれない。息を整えながら、雑渡は伊作の全身を見つめた。
いっぱいに見開かれた大きな双眸が、戸惑ったように雑渡を見上げている。どうして、といいたげに薄茶色の瞳が揺れていた。ふだんそんなに厚化粧をしない伊作だが、今日は両耳に小さなイヤリングをつけている。白いブラウスがまぶしい。今日、彼氏のために、うちできれいにしてきたのか。シャワーも、浴びてきたのかな。
雑渡は嫉妬でどうにかなりそうだった。絶対できないけれど、そのブラウスを引きちぎってしまいたいような気分だった。
「か、かえろう。いさくくん」
「え」
「送っていくから」
私と一緒に、かえろう、と雑渡は繰り返した。親の買い物に連れまわされ、つかれた子どもが親の袖をひくときのような、ずいぶんと甘えた声になってしまった。
そのときである。
「待たせてごめん。いさ、……?」
知らぬ男の声に振り返れば、ひとりの青年がたっていた。チェックのシャツに、ジーンズ、ハイカットのシューズ。肩からはたくさんの書籍が入っているのであろう、キャンバス地のトートバッグをかけている。地味だが、真面目そうな学生だった。
しかしそんなことは雑渡にとってはいま、どうでもよかった。
不安げに両目を揺らしている伊作と、着の身着のままといった様子で息を切らしている怪しげな大男。その両手は、かろうじて伊作に触れてはいないが、いまにも伊作の腕をつよくつかんで連れ去らんばかりに、不自然に浮き上がっている。
ただごとではない空気を感じ取ったのだろう、温和そうな青年だったが、さすがに緊張した声をもらした。
「伊作さん、このひとは」
かろうじて伊作を呼び捨てにしなかったところは合格だ。しかしおまえこそ伊作のなんなのだ。彼氏か、このやろう、学生の分際で。
たしかに、伊作に懸想している歴の長さでいえば、おそらく雑渡の右に出るものはいないだろう。だが、いってしまえば、それだけが取り柄だった。けれど、もうやけになっていた。
私は500年前からこの子に恩があるんだ。伊作に手を出そうなんて、500年早い!
「わっ……私は、伊作くんの、お、おとうさん」
えっ、と言う顔で伊作がこちらを見上げているのがわかった。さすがに思い切り過ぎたか。
「……の、代理です」
「「代理、」」
学生ふたりの声はきれいに調和し、伊作に至ってはほとんどずっこけていた。雑渡は大真面目であったが、自身も内心、大声で笑いだしたい気分であった。
お父さん代理とはなんなんだ。必死すぎる。勝手に代理を語った、顔も知らぬ伊作の父親に――雑渡には顔をしらぬ敵が多い――謝らねばならない。だが伊作につく、わるい虫を追い払うのだから、ちょっとは感謝してもらってもいいくらいだ、と思う。ちなみに雑渡もそのわるい虫の中の、いっとう大きい虫であることに、雑渡自身は気づいていない。
「とっ、とにかく、伊作くんはね、今日ちょっと体調がわるいので、私が送ってかえります」
ほんとうは伊作の腕なり手なりをつかんでそのまま立ち去りたい気分であったが、さすがにそれはよくないだろうと思い、伊作には指一本触れずに、祈るような心地で、彼女の顔を見つめた。
選ぶのは伊作だ。彼氏を選ぶなら、ここで雑渡をストーカー扱いすればいいだけの話だ。雨降って地固まる。雑渡は立場的に、青鬼になる。
伊作の交際相手もまた、なんとも言えない、困ったような表情で伊作を見ている。雑渡が妄想していたほどには、悪い男ではなさそうだった。いまさらだがすまない、と雑渡は思う。だが譲れなかった。
伊作は雑渡とたっぷり数秒間見つめあったあとに、覚悟をきめたように、交際相手に向き直った。
「……あ、あの、ごめん。ほんとうなんだ。今日わたし、あんまり気分がよくなくて」
それからこのひとは、本当にあやしいひとじゃないよ。と伊作は続けた。むかしからのお知り合いなのだ、と機転をきかせた伊作に説明され、その頭のよさとやさしい気遣いに、雑渡はちょっと泣きそうだった。
「だから、ごめんね、埋め合わせは必ずするから、今日は、かえってもいいかな」
伊作は申し訳なさそうに頭を下げた。申し訳ないのは雑渡だった。安心すると同時に、だんだん我に返ってきた雑渡は、自身の衝動的かつ大胆な行動に驚きはじめていた。
「……うん、いいよ、ぼくこそ、気がつかなくてごめんね」
気をつけてね、と手をふった伊作の彼氏である青年は、あまり雑渡と目を合わせぬまま、会釈だけして、その場を立ち去った。空気のよめる男であったらしい。
「……」
残された二人の間に、妙な空気が流れ、雑渡は自身の耳が熱くなるのを感じていた。


*****


「……ごめんね」
デート、だいなしにしちゃった。と雑渡はぼやく。自身で宣言した通りに違わず、伊作を駅まで送ってかえることにした雑渡は、伊作の横でとぼとぼと歩いていた。
「……いいんです。じつをいうと、きょう、雑渡さんがきてくれたとき、お顔を見て、ちょっと安心したのです」
やっぱりちょっとこわくて。雑渡さんが仰ってくれたように、ほんとうに気分がすぐれなかったんです、と伊作は両目を伏せて言った。
「ちょっとでも迷いがあるときに行動してもいいことはないので」
背中を押してくださってありがとうございました。と伊作は眉を下げて微笑んだ。伊作の恋を応援して背中を押すどころか、自らの都合のみでタンマをかけたわけなのだが、細かいことは気にしないでおく。
さきほどの青年は、同じ伊作を愛する者であるがゆえ、雑渡が伊作に向ける感情がなんなのか、手にとるようにわかってしまったに違いない。知らぬは伊作ばかりだ。
「……ほんとうに、ごめんね」
伊作は、雑渡のものでもなんでもないのに。勘違いにもほどがある行動をしてしまった。

本当に伊作を愛している男なら、これしきのことで愛想をつかしたりはしないよ、といういつもの最低談義をする元気もなかった。




『伊作くんを本当に愛してくれるひとと、したらいいと思うよ』
『大事なひとに、あげなよ』
数日前の、自らのことばが雑渡の頭のなかでこだまする。だれのことを言っているのだ、と我ながら思う。
伊作がこわがっていたら、待てる男。伊作を大事にしてくれる男。伊作のキャリアを応援できる男。愛されるのを要求ばかりしないで、愛せる男……?

どれかひとつでもまともに自分にあてはまるものがあるだろうか。どれも真反対じゃないか。
伊作の両耳でひかる、ささやかな白い耳飾りが、雑渡の胸を一層、切なくさせた。
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