[雑伊]あまえていいの
たとえば、雑渡が調理した食事を伊作が旺盛な食欲でほおばっているとき。夜遅くまで本を読んでいるとき。そんな日常のなんでもない、ふとしたときに、慈しむようなひどくやさしい顔をして、雑渡が自分を見つめていることがある。そうして、「えらいね」と雑渡は伊作に向かって手を伸ばすが、途中ではっとしたようにその手をひっこめる。どうやら、伊作を子ども扱いする自分を、自分で戒めているようなのだ。
そんなとき、べつにいいのに、と伊作は内心思っていた。雑渡が自分を子ども扱いしたことなど一度もないことは、ほかでもない伊作自身が一番よくわかっている。これほど年が離れていても、雑渡はいつも伊作をひとりの人間として尊重し、耳を傾けた。それがうれしいと同時に、伊作は少しさびしさや物足りなさも感じていた。
年上の雑渡に甘えてみたいと思ったことは、一度や二度ではない。自分にやさしすぎる父に相談できなかったことも、血のつながらない雑渡だったら受け止めてくれるかも、なんていまさら子どもじみたことを考えたことも、実はある。むかし雑渡が伊作の後輩である伏木蔵にしていたように、自分も頭をなでてもらいたい、なんてことさえも。
しかしそれはちょっとちがうだろう、と伊作もまた自分にストップをかけていた。雑渡は父親でも兄でもない。恋人で、パートナーである。雑渡が伊作を子ども扱いせぬよう気遣うなら、同様に伊作も自らの都合で雑渡に甘えるなど、失礼かもしれない。
まして親しき中にも礼儀ありだ。家族として一緒に暮らすようになっても、伊作は雑渡と、ある一定の距離を保って過ごしていた。
*****
「うん、そう、救急の担当のかたもね、留三郎は非番だって言ってたんだけどさ」
伊作が小さなノートとペンを片手に、そして反対側の肩と耳とで携帯端末をはさみながら寝室から出てくる。そのまま雑渡の座るカウチには目もくれず、食卓の背後にかけられたカレンダーまで歩み寄った。ノートを卓上に置いた伊作は、スマホを左手で持ち直しながら、利き手でカレンダーをぺらりと1枚めくった。
「頼むよ、きみみたいな隊員がいると、女性も子どももたのしいでしょう。つぎの集まりもいいんだよ。こういうのは、できるだけ多くのひとに知ってもらうことが重要なの、きみもわかっているだろ」
スマホの向こうで、留三郎がまんざらでもない笑いをもらしているのが雑渡にも聞こえた。否、過ぎた嫉妬がつくり出した幻聴かもしれなかった。
「え文次郎? ついでだ、その文次郎もつれておいでよ。ふふ、……やったぁ、お休みなのに、すまない留三郎~!」
でた、伊作くんの奥義。すまないとめさぶろう。と雑渡はすました顔でコーヒーをすすり、新聞に目を通すふりをしながら、内心おもしろくなかった。
「きみみたいな隊員」とはどういう意味だ。雑渡はいかにも聞いていませんという顔で、一言一句もらさず聞き耳を立てていたのだった。女性も子どもも楽しくなるということは、すなわちいけてるメンズの隊員ということか。伊作は、留三郎のことをそう思っているのか、ふーん、と雑渡はいじける。雑渡は伊作にイケメンと称されたことはない。
通話を終えてにこにことノートに何やらメモしている伊作に、雑渡は話しかける。
「……講習?」
「ええ。今回はより多くのひとにきてもらえるように、地元のイベントと同時に開催するんです」
伊作は勤め先も職種も違えど、地元で住民の生活をまもる仕事に携わる者同士、留三郎とは仕事でも懇意にしているらしい。概ね今回も、企画運営側の頭数をそろえるべく、その道のプロである留三郎にきてもらえるよう頼んでいたのだろう。
「……ふぅん」
雑渡の相槌をきいているのかいないのか、伊作は廊下に置かれているマガジンラックから専門誌を数冊手にとり、また部屋へもどっていった。
「私にもなにか手伝えることはない?」とそのひとことを、雑渡は言うことができなかった。
*****
直帰でもよかったのだが、雑渡は事務所へと向かう山本のあとをとぼとぼとついてきていた。家庭のある山本としては、はやくもどって〆処理を終え、家に帰りたい。まして今日は金曜日だ。黄昏どきのオフィス街を歩く山本の足は速い。雑渡のほうが、歩幅が大きいくせに少し遅れて山本の後をついてくる。まがりなりにも取引先ではしゃんとしている――社内ではそうでもない――雑渡は、この幼馴染の前では、それこそ山本にしかわからぬほどだが、幼さを見せた。
それで、山本のほうから伊作は元気かと、話題をふってみた。
「元気だよ。……忙しそうだけど」
そうですか、と山本は相槌をうつが、話はそれ以上続かない。だが雑渡の歩く速度が陣内と同じになった。陣内の奥さんは。元気? と尋ねられ、山本はうなずいた。
「まあ、元気ですよ。この頃は学生時代の友人ともまた連絡を取り合っているようで。よく電話で長話しては、ときどき出かけています」
そういうときは、私はほうっておかれています。と山本はぼやく。
「……そうか。そうだよね」
パートナーと友人とでは、頼めることも、共有する趣味も異なるか、と雑渡は自らを納得させようとする。しかし、それを言うならば、留三郎に頼めないが雑渡になら頼めること、甘えられることのひとつやふたつ、あってもいいことになる。
なにか、伊作の役にたてることないかな、と雑渡はまだ薄明るい空を見上げる。初夏を予感させる日没だった。食満くんには甘えるくせに、私にはささいなことでも気を遣うんだものなあ、と雑渡はため息をついた。
ふと、曲がり角のシネコンの前で、雑渡は足をとめる。壁に、上映中作品のポスターが横一列に並ぶ中、伊作の好きなシリーズの新作があった。
前作は数年前の作品で、ミニシアターへ、伊作と一緒に再上映を見にいった。リアルタイムでは見逃したから、これを機にぜひスクリーンで見たいのだという伊作に誘われたのだった。まだ伊作とお付き合いをはじめて間もない頃だった。シュールなコメディ映画である。映画もなかなかに笑えたが、スクリーンの明かりで青白く浮かび上がる伊作の横顔――目じりに涙が浮かぶほど腹を抱えて笑っていた――を眺めながら、伊作の笑いのツボがちょっと変わっているのではないかと、雑渡としてはそちらのほうが気になって、2倍おもしろかった。笑いどころの違いは、年齢の差によるものだろうか?
シアターの売店にはまだパンフレットの在庫があったので、伊作は嬉々として買い求めていた。雑渡も記念にと同じものを購入したとき、意外そうな顔で伊作に見上げられたのをおぼえている。そのあと立ち寄った喫茶店で、「雑渡さん、つまらなかったですか」と気を遣う伊作がいじらしく、雑渡は、映画はとてもおもしろかったし、伊作と一緒に見られたことがよかったと伝えた。それで、いまふたりが住む家には、そのときそれぞれ購入した同じパンフレットが2冊、いっしょに本棚にしまってあるのだった。
また伊作を連れて、みにきたい。連れて、なんてずうずうしいか。もう上映がはじまっているはずだが、伊作から誘われてはいない。同世代の友人と見にいくのだろうか。
ポスターの前で立ち尽くす雑渡の横を、伊作と同じ齢くらいの会社員と思しき青年の二人組が、なにやら楽しげに笑いながら通り過ぎてゆく。
「部長?」
気づけばだいぶ距離の空いてしまった山本に前方から呼びかけられ、雑渡は歩を速めた。
*****
あくる土曜日。天気もよく晴れ、地元大学の敷地を活用したイベントは盛況だった。体育館のなかでは留三郎が、伊作が踏んだ通り子どもたちにかこまれている。様子を少しだけ覗きにきた伊作は、じゃましては悪かろうと、そそくさとその場を立ち去り、体育館玄関のすのこの上で上履きを脱いで、並べられた子どもたちの靴を踏まぬよう、よけながら、とんとんと自分の運動シューズを履いた。
表では、学生たちがテントの下で受付や出し物をしている。伊作も喉が渇いたので給水所に向かおうとしたとき、一組の父子が出口に向かって歩いていくのが視界に入った。午前の部で、留三郎のセッションにきてくれた親子だった。父親は40代くらい、男の子は、小学3、4年生くらいだろうか?
「教えてくれたお兄さん、かっこよかったね」
「そうだねえ」
きいたか留三郎、きみのことだぞ、と伊作は内心ガッツポーズを決める。仲睦まじく歩いていく親子を見送り、そして彼らが校門をくぐるその瞬間、あ、と伊作は思った。子の手が、ごく自然に、するりと父親の手の中に滑り込んだ。道路に面したところで曲がるときには、二人の間の手がどうなっているのか、もう伊作には見えなくなっていたが、父の手はその小さな手をやさしく握り返したに違いない。
「……善法寺さん?」
伊作と同じポロシャツを身につけたスタッフに声を掛けられ、伊作ははっとする。
「よかった、こんなところにいた。交代の時間ですよ」
「あ、ああ、ごめんなさい」
伊作はばたばたと自らの持ち場に戻っていった。
*****
「ごめんね、伊作くん外で食べてかえってくると思ってたから」
あるもの野菜とルーで、簡単にカレーうどんにしちゃった、と雑渡は照れくさそうにする。その割にはなぜか雑渡はうれしそうだった。お買い物いっとけばよかったね、ごめんね、という雑渡に、とんでもないと伊作は首を振った。
「おいしいです。わたしこそ連絡すればよかったのに、すみません」
伊作はふーふーと、はしで持ち上げたうどんを冷ましながら、旺盛な食欲でつるつるすすった。ひと仕事終えた伊作の空腹に、ありがたい味である。伊作は帰宅時刻を告げていなかったし、雑渡もてっきり、例年通り伊作は夕食を外で済ませるものと思い込んでいたので、腹が減ったら適当にインスタントラーメンでもすするかと考えていた。ゆえに伊作が18時よりも早くに玄関の戸を開けたときには驚いた。
伊作が風呂に入っている間に雑渡が手早く仕上げたうどんだった。戸棚にルーをみつけたときは、しめた、カレーにしようと思ったのだが、さすがに炊飯は今からセットすると伊作の入浴よりも時間がかかってしまうので、機転をきかせてうどんにしてしまったのだった。根菜をつかわないので、できあがりもはやい。冷蔵庫にあったもので、と雑渡は言ったが、キャベツも案外合うのだなと伊作は知った。あわてて作ったつもりだったが、伊作の食べっぷりがよいので、雑渡のほうも安心した。
「……食満くんたちとごはん、いかなかったの」
雑渡に声のかからない企画運営に出かけ、そのメンバたちと楽しくやっているのだろうと若干ふてくされて貴重な土曜日を無為にすごしていた雑渡は、伊作が思いのほか早く自分のもとへ帰ってきたことに心を躍らせながら台所に立ったのだった。
「ええ。もとより留三郎は、今年は休日のところを、無給で協力してもらったというのもありましたし」
なんだかわたしもちょっとつかれてしまいまして、今日はそのまま解散にしました、と伊作は笑った。
「盛況だったからかな?」
「ふふ、そんなところです」
夕食を終えた伊作は後片付けを買って出たが、きみはお仕事してきたのだから休みなさいと雑渡にぐいぐいカウチに座らせられ、手持ち無沙汰になってしまった。リモコンを握り、テレビを見るともなしにザッピングしていく。ふと、いま放送中のドラマの中で、父親がしゃがんで子どもと目線をあわせているシーンに目が留まり、伊作はリモコンをローテーブルに置く。今日、校門のところで目にした親子の光景がよみがえった。
「……雑渡さん」
「んー?」
食器洗いを終えたらしい雑渡が伊作の横に腰かける。
「雑渡さんは、いつまでお父さんと手をつないでいましたか?」
「え、おぼえてないけど。小学校に上がったころにはもうつないでなかったんじゃない? いきなりなあに、その質問」
雑渡さんもそうですか、と伊作はつぶやいた。そして、今日見かけた親子のことを雑渡に伝える。
「ふうん」
「わたしも、小学校低学年のころには、もう周りの目を気にして、父とは手をつながなかったと思います。母とはそれこそもう少し前につながなくなっていたかもしれない」
「そうだよねえ。私もそんな感じだったなあ」
伊作はうなずき、視線をテレビに戻した。画面の中ではちょうど、父親と子どもが、今日見かけた親子と同じように手をつないで歩いている。
「……私の父は忙しかったので、というか、どこのお家のお父さんもそうかもしれないですけど。ときどき、ちょっとでも一緒にお散歩できると、うれしかったんです」
雑渡は先日、伊作に連れられて彼の実家に赴いたときのことを思い出す。伊作は父と良好な関係に見えたが、いわれてみれば、雑渡がいたということを差し引いても、伊作は少し自らの父親に気を遣っているように見えた。ちなみにそのときは雑渡のほうが手に汗を握っていたので、伊作に気を配る余裕はなかった。
「それなのに、たぶん小学校1年生のときだったかな、スーパーの駐車場で父が手を握ってくれたのですけど、途中で、私のほうからさりげなく手を離したんです」
近所だと同級生も似たような時間帯にぶらぶらしていますから、うっかり留三郎とかに見られたらかっこわるいなあなんて思っちゃって。そんなことばかり気にしてたんです、と伊作は恥ずかしそうに頬をかく。
それ以降も父は愛情深く伊作をほめて育てたが、多忙であった。そのぶん、伊作はあまり甘えられなかった。やさしくかしこく、聞き分けのよい伊作でなければならなかった。
「今日の男の子見てたら、手をつなぐこと以外にも、いろいろ思い返してしまって。ああ、わたしも、もしかしたらほんとはもうちょっと甘えたかったのかなって、急にさびしくなって」
いい年して恥ずかしいですね、と伊作は頬を染めた。
「……まあ、それも成長だからね。けど、いいんじゃない」
「?」
「いまからでも、お父さんに甘えてもさ。……私は親になったことがないからわからないけど。たぶん、駐車場で伊作くんが手を離したとき、お父さんがいちばん、さびしかったと思うよ」
きみはもうすっかりひとりだちしたでしょう。そんな伊作くんが甘えてくれたり頼ってくれたりしたら、お父さんもうれしいんじゃないかな。と雑渡は微笑んだ。伊作は大きなつり目をさらに開いて雑渡を見上げる。ちょっと涙目だった。
「……雑渡さんは。雑渡さんはお父さんと仲良くしたいと思いますか」
「えー、父と? それはちょっと、もういいかな」
んべ、と雑渡は舌を出す。ひとしきり二人で笑ったあと、雑渡はもうひとつ、思っていることを伝えるべく、口を開く。
「……もし、もしもね。お父さんにも、友だちにも甘えづらいことがあったら、私に言ってくれたらうれしいな」
ほら私は他人だし、お父さんに言いづらいことも、ちょっと距離のあるひとのほうが相談しやすいこともあるじゃない。年上だし、だから……と雑渡は慌てて取り繕うように付け加える。伊作から目をそらした雑渡の頬は心なしか、赤い。
「……」
カウチに放り出されていた雑渡の手のしたに、伊作が手を滑り込ませた。
「い、いさくくん」
「他人じゃないです」
もちろん別個の人間だけども、他人じゃない、と伊作は続けた。
「家族、でしょう。あなたは特別です」
かぞく、とくべつ、と雑渡は繰り返した。雑渡のいまだ治らない癖として、ときおり臆病になり、伊作の愛の大きさをはかりたいが、知るのがこわいので傷つく前に線をひく、というものがある。そのたび、いつも伊作は雑渡がほんとうは一番欲している言葉以上のものを寄越す。伊作も雑渡も、互いのことになると途端にこれだった。
雑渡は歓喜で真っ赤になった。伊作もつられて頬を染める。
「だから、……ありがとうございます。そんなふうに仰ってくださって。これからは、あなたにだけしか甘えられないことを、その、お願いしても、いいですか」
雑渡は滑り込まされた伊作の指と、自身の指をからめ、にぎにぎする。もちろん、とうなずいて面映ゆそうに微笑んだ。
「さ、さっそく、……いや、これは、しょうもないお願いなんですけど」
伊作は恥ずかしそうに切り出す。うん、なんでもいって、と雑渡はこたえた。
「映画、……雑渡さんと以前、いっしょに見にいったコメディ映画、おぼえてますか」
「ああ、うん。新作、やっているみたいだね」
よくご存じで、と伊作は両目をまたたかせた。雑渡はちょうど昨日、街中でポスターを見かけたばかりであった。
「……もし、おいやでなければ、また雑渡さんと一緒に見にいきたいんです」
雑渡さんとはじめて見にいった、思い出の映画だから、と伊作は恥じらう。雑渡も同じく頬を染めていたが、こちらはよろこびによるものだった。
「……い、いやなわけないでしょ、どうしてそんな言い方するの。うれしいよ。ちょうど昨日ね、仕事帰りにポスターをみかけて、伊作くんと見にいきたいと思ってた」
「ほんとうに? 雑渡さん、あんまり笑っていなかった気がして」
きみが笑いすぎなんだよ、と雑渡はふきだした。
「……もし、そう見えていたのなら、気を遣わせてしまって、ごめんね。ほんとにおもしろかったし、なにより、きみと一緒に見られたから、私にとっても特別な映画なんだよ」
きみと、きみの好きなものを共有できることほど、うれしいことはないんだよ、と雑渡は額を伊作のそれにこん、とぶつけた。いて、と伊作は両目をつむる。
「うれしい。今作は伊作くんからお誘いがないから、友だちといくのかなっていじけてた」
「……私は年上だし。そうでなくても伊作くんが私を尊重してくれているのはうれしいよ、ほんとに。けど、そんなに気を遣わないで」
見たいものは見たい、いやなものはいやって、もっと甘えてよ。と雑渡は笑んだ。そうされると、なんだか私も気を許されているみたいでうれしいから。と雑渡は付け加える。
じゃあ、とばかりに伊作にキスをねだられ、雑渡は内心悶えながら、手をにぎったまま、伊作の唇に自身のそれを重ねた。
次の休日に、ふたりは仲良く件の映画を見にいった。前回同様に伊作は腹を抱えて笑い、雑渡は映画と伊作の笑いのツボの両方を楽しんだ。
此度はふたりで1冊のパンフレットを購入し、うちに帰ってから前作の2冊のパンフレットの隣に並べて、しまった。
*****
「よかったではありませんか。べつの意味のパパにならなくて」
「……ああ、陣内ひどいや、モラハラで訴えるよ」
「では私は日頃受けているパワハラで人事に訴えますので、おあいこですな」
そんなとき、べつにいいのに、と伊作は内心思っていた。雑渡が自分を子ども扱いしたことなど一度もないことは、ほかでもない伊作自身が一番よくわかっている。これほど年が離れていても、雑渡はいつも伊作をひとりの人間として尊重し、耳を傾けた。それがうれしいと同時に、伊作は少しさびしさや物足りなさも感じていた。
年上の雑渡に甘えてみたいと思ったことは、一度や二度ではない。自分にやさしすぎる父に相談できなかったことも、血のつながらない雑渡だったら受け止めてくれるかも、なんていまさら子どもじみたことを考えたことも、実はある。むかし雑渡が伊作の後輩である伏木蔵にしていたように、自分も頭をなでてもらいたい、なんてことさえも。
しかしそれはちょっとちがうだろう、と伊作もまた自分にストップをかけていた。雑渡は父親でも兄でもない。恋人で、パートナーである。雑渡が伊作を子ども扱いせぬよう気遣うなら、同様に伊作も自らの都合で雑渡に甘えるなど、失礼かもしれない。
まして親しき中にも礼儀ありだ。家族として一緒に暮らすようになっても、伊作は雑渡と、ある一定の距離を保って過ごしていた。
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「うん、そう、救急の担当のかたもね、留三郎は非番だって言ってたんだけどさ」
伊作が小さなノートとペンを片手に、そして反対側の肩と耳とで携帯端末をはさみながら寝室から出てくる。そのまま雑渡の座るカウチには目もくれず、食卓の背後にかけられたカレンダーまで歩み寄った。ノートを卓上に置いた伊作は、スマホを左手で持ち直しながら、利き手でカレンダーをぺらりと1枚めくった。
「頼むよ、きみみたいな隊員がいると、女性も子どももたのしいでしょう。つぎの集まりもいいんだよ。こういうのは、できるだけ多くのひとに知ってもらうことが重要なの、きみもわかっているだろ」
スマホの向こうで、留三郎がまんざらでもない笑いをもらしているのが雑渡にも聞こえた。否、過ぎた嫉妬がつくり出した幻聴かもしれなかった。
「え文次郎? ついでだ、その文次郎もつれておいでよ。ふふ、……やったぁ、お休みなのに、すまない留三郎~!」
でた、伊作くんの奥義。すまないとめさぶろう。と雑渡はすました顔でコーヒーをすすり、新聞に目を通すふりをしながら、内心おもしろくなかった。
「きみみたいな隊員」とはどういう意味だ。雑渡はいかにも聞いていませんという顔で、一言一句もらさず聞き耳を立てていたのだった。女性も子どもも楽しくなるということは、すなわちいけてるメンズの隊員ということか。伊作は、留三郎のことをそう思っているのか、ふーん、と雑渡はいじける。雑渡は伊作にイケメンと称されたことはない。
通話を終えてにこにことノートに何やらメモしている伊作に、雑渡は話しかける。
「……講習?」
「ええ。今回はより多くのひとにきてもらえるように、地元のイベントと同時に開催するんです」
伊作は勤め先も職種も違えど、地元で住民の生活をまもる仕事に携わる者同士、留三郎とは仕事でも懇意にしているらしい。概ね今回も、企画運営側の頭数をそろえるべく、その道のプロである留三郎にきてもらえるよう頼んでいたのだろう。
「……ふぅん」
雑渡の相槌をきいているのかいないのか、伊作は廊下に置かれているマガジンラックから専門誌を数冊手にとり、また部屋へもどっていった。
「私にもなにか手伝えることはない?」とそのひとことを、雑渡は言うことができなかった。
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直帰でもよかったのだが、雑渡は事務所へと向かう山本のあとをとぼとぼとついてきていた。家庭のある山本としては、はやくもどって〆処理を終え、家に帰りたい。まして今日は金曜日だ。黄昏どきのオフィス街を歩く山本の足は速い。雑渡のほうが、歩幅が大きいくせに少し遅れて山本の後をついてくる。まがりなりにも取引先ではしゃんとしている――社内ではそうでもない――雑渡は、この幼馴染の前では、それこそ山本にしかわからぬほどだが、幼さを見せた。
それで、山本のほうから伊作は元気かと、話題をふってみた。
「元気だよ。……忙しそうだけど」
そうですか、と山本は相槌をうつが、話はそれ以上続かない。だが雑渡の歩く速度が陣内と同じになった。陣内の奥さんは。元気? と尋ねられ、山本はうなずいた。
「まあ、元気ですよ。この頃は学生時代の友人ともまた連絡を取り合っているようで。よく電話で長話しては、ときどき出かけています」
そういうときは、私はほうっておかれています。と山本はぼやく。
「……そうか。そうだよね」
パートナーと友人とでは、頼めることも、共有する趣味も異なるか、と雑渡は自らを納得させようとする。しかし、それを言うならば、留三郎に頼めないが雑渡になら頼めること、甘えられることのひとつやふたつ、あってもいいことになる。
なにか、伊作の役にたてることないかな、と雑渡はまだ薄明るい空を見上げる。初夏を予感させる日没だった。食満くんには甘えるくせに、私にはささいなことでも気を遣うんだものなあ、と雑渡はため息をついた。
ふと、曲がり角のシネコンの前で、雑渡は足をとめる。壁に、上映中作品のポスターが横一列に並ぶ中、伊作の好きなシリーズの新作があった。
前作は数年前の作品で、ミニシアターへ、伊作と一緒に再上映を見にいった。リアルタイムでは見逃したから、これを機にぜひスクリーンで見たいのだという伊作に誘われたのだった。まだ伊作とお付き合いをはじめて間もない頃だった。シュールなコメディ映画である。映画もなかなかに笑えたが、スクリーンの明かりで青白く浮かび上がる伊作の横顔――目じりに涙が浮かぶほど腹を抱えて笑っていた――を眺めながら、伊作の笑いのツボがちょっと変わっているのではないかと、雑渡としてはそちらのほうが気になって、2倍おもしろかった。笑いどころの違いは、年齢の差によるものだろうか?
シアターの売店にはまだパンフレットの在庫があったので、伊作は嬉々として買い求めていた。雑渡も記念にと同じものを購入したとき、意外そうな顔で伊作に見上げられたのをおぼえている。そのあと立ち寄った喫茶店で、「雑渡さん、つまらなかったですか」と気を遣う伊作がいじらしく、雑渡は、映画はとてもおもしろかったし、伊作と一緒に見られたことがよかったと伝えた。それで、いまふたりが住む家には、そのときそれぞれ購入した同じパンフレットが2冊、いっしょに本棚にしまってあるのだった。
また伊作を連れて、みにきたい。連れて、なんてずうずうしいか。もう上映がはじまっているはずだが、伊作から誘われてはいない。同世代の友人と見にいくのだろうか。
ポスターの前で立ち尽くす雑渡の横を、伊作と同じ齢くらいの会社員と思しき青年の二人組が、なにやら楽しげに笑いながら通り過ぎてゆく。
「部長?」
気づけばだいぶ距離の空いてしまった山本に前方から呼びかけられ、雑渡は歩を速めた。
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あくる土曜日。天気もよく晴れ、地元大学の敷地を活用したイベントは盛況だった。体育館のなかでは留三郎が、伊作が踏んだ通り子どもたちにかこまれている。様子を少しだけ覗きにきた伊作は、じゃましては悪かろうと、そそくさとその場を立ち去り、体育館玄関のすのこの上で上履きを脱いで、並べられた子どもたちの靴を踏まぬよう、よけながら、とんとんと自分の運動シューズを履いた。
表では、学生たちがテントの下で受付や出し物をしている。伊作も喉が渇いたので給水所に向かおうとしたとき、一組の父子が出口に向かって歩いていくのが視界に入った。午前の部で、留三郎のセッションにきてくれた親子だった。父親は40代くらい、男の子は、小学3、4年生くらいだろうか?
「教えてくれたお兄さん、かっこよかったね」
「そうだねえ」
きいたか留三郎、きみのことだぞ、と伊作は内心ガッツポーズを決める。仲睦まじく歩いていく親子を見送り、そして彼らが校門をくぐるその瞬間、あ、と伊作は思った。子の手が、ごく自然に、するりと父親の手の中に滑り込んだ。道路に面したところで曲がるときには、二人の間の手がどうなっているのか、もう伊作には見えなくなっていたが、父の手はその小さな手をやさしく握り返したに違いない。
「……善法寺さん?」
伊作と同じポロシャツを身につけたスタッフに声を掛けられ、伊作ははっとする。
「よかった、こんなところにいた。交代の時間ですよ」
「あ、ああ、ごめんなさい」
伊作はばたばたと自らの持ち場に戻っていった。
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「ごめんね、伊作くん外で食べてかえってくると思ってたから」
あるもの野菜とルーで、簡単にカレーうどんにしちゃった、と雑渡は照れくさそうにする。その割にはなぜか雑渡はうれしそうだった。お買い物いっとけばよかったね、ごめんね、という雑渡に、とんでもないと伊作は首を振った。
「おいしいです。わたしこそ連絡すればよかったのに、すみません」
伊作はふーふーと、はしで持ち上げたうどんを冷ましながら、旺盛な食欲でつるつるすすった。ひと仕事終えた伊作の空腹に、ありがたい味である。伊作は帰宅時刻を告げていなかったし、雑渡もてっきり、例年通り伊作は夕食を外で済ませるものと思い込んでいたので、腹が減ったら適当にインスタントラーメンでもすするかと考えていた。ゆえに伊作が18時よりも早くに玄関の戸を開けたときには驚いた。
伊作が風呂に入っている間に雑渡が手早く仕上げたうどんだった。戸棚にルーをみつけたときは、しめた、カレーにしようと思ったのだが、さすがに炊飯は今からセットすると伊作の入浴よりも時間がかかってしまうので、機転をきかせてうどんにしてしまったのだった。根菜をつかわないので、できあがりもはやい。冷蔵庫にあったもので、と雑渡は言ったが、キャベツも案外合うのだなと伊作は知った。あわてて作ったつもりだったが、伊作の食べっぷりがよいので、雑渡のほうも安心した。
「……食満くんたちとごはん、いかなかったの」
雑渡に声のかからない企画運営に出かけ、そのメンバたちと楽しくやっているのだろうと若干ふてくされて貴重な土曜日を無為にすごしていた雑渡は、伊作が思いのほか早く自分のもとへ帰ってきたことに心を躍らせながら台所に立ったのだった。
「ええ。もとより留三郎は、今年は休日のところを、無給で協力してもらったというのもありましたし」
なんだかわたしもちょっとつかれてしまいまして、今日はそのまま解散にしました、と伊作は笑った。
「盛況だったからかな?」
「ふふ、そんなところです」
夕食を終えた伊作は後片付けを買って出たが、きみはお仕事してきたのだから休みなさいと雑渡にぐいぐいカウチに座らせられ、手持ち無沙汰になってしまった。リモコンを握り、テレビを見るともなしにザッピングしていく。ふと、いま放送中のドラマの中で、父親がしゃがんで子どもと目線をあわせているシーンに目が留まり、伊作はリモコンをローテーブルに置く。今日、校門のところで目にした親子の光景がよみがえった。
「……雑渡さん」
「んー?」
食器洗いを終えたらしい雑渡が伊作の横に腰かける。
「雑渡さんは、いつまでお父さんと手をつないでいましたか?」
「え、おぼえてないけど。小学校に上がったころにはもうつないでなかったんじゃない? いきなりなあに、その質問」
雑渡さんもそうですか、と伊作はつぶやいた。そして、今日見かけた親子のことを雑渡に伝える。
「ふうん」
「わたしも、小学校低学年のころには、もう周りの目を気にして、父とは手をつながなかったと思います。母とはそれこそもう少し前につながなくなっていたかもしれない」
「そうだよねえ。私もそんな感じだったなあ」
伊作はうなずき、視線をテレビに戻した。画面の中ではちょうど、父親と子どもが、今日見かけた親子と同じように手をつないで歩いている。
「……私の父は忙しかったので、というか、どこのお家のお父さんもそうかもしれないですけど。ときどき、ちょっとでも一緒にお散歩できると、うれしかったんです」
雑渡は先日、伊作に連れられて彼の実家に赴いたときのことを思い出す。伊作は父と良好な関係に見えたが、いわれてみれば、雑渡がいたということを差し引いても、伊作は少し自らの父親に気を遣っているように見えた。ちなみにそのときは雑渡のほうが手に汗を握っていたので、伊作に気を配る余裕はなかった。
「それなのに、たぶん小学校1年生のときだったかな、スーパーの駐車場で父が手を握ってくれたのですけど、途中で、私のほうからさりげなく手を離したんです」
近所だと同級生も似たような時間帯にぶらぶらしていますから、うっかり留三郎とかに見られたらかっこわるいなあなんて思っちゃって。そんなことばかり気にしてたんです、と伊作は恥ずかしそうに頬をかく。
それ以降も父は愛情深く伊作をほめて育てたが、多忙であった。そのぶん、伊作はあまり甘えられなかった。やさしくかしこく、聞き分けのよい伊作でなければならなかった。
「今日の男の子見てたら、手をつなぐこと以外にも、いろいろ思い返してしまって。ああ、わたしも、もしかしたらほんとはもうちょっと甘えたかったのかなって、急にさびしくなって」
いい年して恥ずかしいですね、と伊作は頬を染めた。
「……まあ、それも成長だからね。けど、いいんじゃない」
「?」
「いまからでも、お父さんに甘えてもさ。……私は親になったことがないからわからないけど。たぶん、駐車場で伊作くんが手を離したとき、お父さんがいちばん、さびしかったと思うよ」
きみはもうすっかりひとりだちしたでしょう。そんな伊作くんが甘えてくれたり頼ってくれたりしたら、お父さんもうれしいんじゃないかな。と雑渡は微笑んだ。伊作は大きなつり目をさらに開いて雑渡を見上げる。ちょっと涙目だった。
「……雑渡さんは。雑渡さんはお父さんと仲良くしたいと思いますか」
「えー、父と? それはちょっと、もういいかな」
んべ、と雑渡は舌を出す。ひとしきり二人で笑ったあと、雑渡はもうひとつ、思っていることを伝えるべく、口を開く。
「……もし、もしもね。お父さんにも、友だちにも甘えづらいことがあったら、私に言ってくれたらうれしいな」
ほら私は他人だし、お父さんに言いづらいことも、ちょっと距離のあるひとのほうが相談しやすいこともあるじゃない。年上だし、だから……と雑渡は慌てて取り繕うように付け加える。伊作から目をそらした雑渡の頬は心なしか、赤い。
「……」
カウチに放り出されていた雑渡の手のしたに、伊作が手を滑り込ませた。
「い、いさくくん」
「他人じゃないです」
もちろん別個の人間だけども、他人じゃない、と伊作は続けた。
「家族、でしょう。あなたは特別です」
かぞく、とくべつ、と雑渡は繰り返した。雑渡のいまだ治らない癖として、ときおり臆病になり、伊作の愛の大きさをはかりたいが、知るのがこわいので傷つく前に線をひく、というものがある。そのたび、いつも伊作は雑渡がほんとうは一番欲している言葉以上のものを寄越す。伊作も雑渡も、互いのことになると途端にこれだった。
雑渡は歓喜で真っ赤になった。伊作もつられて頬を染める。
「だから、……ありがとうございます。そんなふうに仰ってくださって。これからは、あなたにだけしか甘えられないことを、その、お願いしても、いいですか」
雑渡は滑り込まされた伊作の指と、自身の指をからめ、にぎにぎする。もちろん、とうなずいて面映ゆそうに微笑んだ。
「さ、さっそく、……いや、これは、しょうもないお願いなんですけど」
伊作は恥ずかしそうに切り出す。うん、なんでもいって、と雑渡はこたえた。
「映画、……雑渡さんと以前、いっしょに見にいったコメディ映画、おぼえてますか」
「ああ、うん。新作、やっているみたいだね」
よくご存じで、と伊作は両目をまたたかせた。雑渡はちょうど昨日、街中でポスターを見かけたばかりであった。
「……もし、おいやでなければ、また雑渡さんと一緒に見にいきたいんです」
雑渡さんとはじめて見にいった、思い出の映画だから、と伊作は恥じらう。雑渡も同じく頬を染めていたが、こちらはよろこびによるものだった。
「……い、いやなわけないでしょ、どうしてそんな言い方するの。うれしいよ。ちょうど昨日ね、仕事帰りにポスターをみかけて、伊作くんと見にいきたいと思ってた」
「ほんとうに? 雑渡さん、あんまり笑っていなかった気がして」
きみが笑いすぎなんだよ、と雑渡はふきだした。
「……もし、そう見えていたのなら、気を遣わせてしまって、ごめんね。ほんとにおもしろかったし、なにより、きみと一緒に見られたから、私にとっても特別な映画なんだよ」
きみと、きみの好きなものを共有できることほど、うれしいことはないんだよ、と雑渡は額を伊作のそれにこん、とぶつけた。いて、と伊作は両目をつむる。
「うれしい。今作は伊作くんからお誘いがないから、友だちといくのかなっていじけてた」
「……私は年上だし。そうでなくても伊作くんが私を尊重してくれているのはうれしいよ、ほんとに。けど、そんなに気を遣わないで」
見たいものは見たい、いやなものはいやって、もっと甘えてよ。と雑渡は笑んだ。そうされると、なんだか私も気を許されているみたいでうれしいから。と雑渡は付け加える。
じゃあ、とばかりに伊作にキスをねだられ、雑渡は内心悶えながら、手をにぎったまま、伊作の唇に自身のそれを重ねた。
次の休日に、ふたりは仲良く件の映画を見にいった。前回同様に伊作は腹を抱えて笑い、雑渡は映画と伊作の笑いのツボの両方を楽しんだ。
此度はふたりで1冊のパンフレットを購入し、うちに帰ってから前作の2冊のパンフレットの隣に並べて、しまった。
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「よかったではありませんか。べつの意味のパパにならなくて」
「……ああ、陣内ひどいや、モラハラで訴えるよ」
「では私は日頃受けているパワハラで人事に訴えますので、おあいこですな」
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