[雑伊]帰るときは私も起こして

雑渡は深い眠りから目を覚ました。あまりにも深い眠りだったので、目覚めたとき一瞬、今日は出勤日かとも思った。否、休日で、昨日は――。
そこで雑渡は一気に覚醒し、とびおきる。そうだ、昨晩。雑渡は伊作を初めて抱いた。慣れない行為と緊張で疲れたのだろう、終えたあと、伊作はすぐにでも眠ってしまいそうだった。ゆっくりとしたまばたきを繰り返しながらも、眠りたくないといった様子で必死に目を開け、雑渡を見つめ返そうとする伊作がいとおしく、雑渡はしあわせをかみしめていた。

『いさくくん、つかれたでしょう。眠ってしまいなさい』
『ざっとさん、』

私はここにいるから、と雑渡が微笑むと、伊作は安心したように両目をとじた。さきほどまでの熱はひき、発汗のせいもあってか、伊作の身体は少しひんやりとし始めていた。雑渡は伊作が風邪をひいてしまわぬよう、タオルケットと毛布をかけなおし、自身も横になった。伊作は身体を少しだけこちらにむけ、くうくうと寝息をたてている。ほつれた前髪が額やこめかみにはりついていた。雑渡は腕をあげてそっと手をのばし、伊作の前髪を指でよけて、そのまま目じりと、こめかみをなぞる。
生まれてきて、あなたと出会えてよかった、と雑渡の腕の中で伊作は熱に浮かされたように言った。伊作の顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃで、じつは雑渡も、伊作の耳元に顔をうずめてごまかしていたが、泣いていた。情けない涙声だったから、伊作にはばれていただろう。
今生で伊作とはれて恋人になり、こうして抱きあえるなんて、夢みたいだ、と雑渡は思う。雑渡も体温が下がり、急激に眠たくなってきた。紆余曲折を経て、かねてからの思いを遂げたのだから無理もない。もう夜着の上衣を羽織るのもおっくうだった。伊作を抱き寄せて暖を取り、自身も適当に脇から布団をたぐりよせる。伊作の額に唇を寄せ、眠りにおちる瞬間、伊作がむにゃむにゃと、自身の胸元に頬をこすりつけるのを感じた。


それなのに。カーテンの隙間からすがすがしい春の朝日がさしこむ、あくる朝。雑渡のとなりに、かの愛しいひとはいなかった。――かえったのか、まさか。案外ドライなところのある伊作だ、ありえないことではない。雑渡は布団をはねのけ、寝台からずりおちるのもかまわず、寝室から飛び出した。


*****


ぬくもりと、あたたかな日差しを感じて、伊作はゆっくりと覚醒する。たゆたうような心地のなか、目の前に雑渡の寝顔が浮かび上がる。左目と、胸囲を覆う包帯。煎じた薬草のにおい。いけない、昨日は包帯を変えずに――。
夢と現実のはざまにいた伊作は、そこで現実へ引き戻された。そうだ、昨日は雑渡の家に泊まり、はじめて雑渡に抱かれたのだった。
へんなゆめだ、と伊作は目をこする。雑渡と共寝をするのは今日がはじめてのことなのに、まるでむかし、雑渡の寝顔をこんなに近くで見つめたことのあるかのような、妙な感覚を伴う夢だった。まして、いま伊作のすぐ目の前で、深い寝息をもらしている雑渡に傷や包帯はみあたらない。決して顔色がよいほうではないが、けがを負っているわけでも、不健康そうでもなかった。
包帯か、と伊作は思う。たんに仕事のしすぎかもしれない。雑渡も年明けから忙しそうにしているようだったが、今日は。昨晩は、伊作のわがままをきいてくれた。我ながら子どもじみたことをしてしまった、と伊作はひとり顔を赤らめる。

先日、雑渡の誕生日を祝うため、伊作は雑渡を自宅に招き、ささやかではあるが手料理でもてなした。雑渡の実際の誕生日は、ちょうど双方にとっての繁忙期であったため、当日に会うことはかなわず約束の日がだいぶ後ろ倒しになってしまい、あたりはすっかり春めいてしまっていた。デザートのケーキを食べているときに、再来週はもう伊作の誕生日だが、なにかほしいものはあるかと尋ねられ、伊作は雑渡がほしいと告げたのだった。べつにねらったわけではないが、雑渡がカップに口をつけたタイミングだったので、雑渡は激しくむせかえった。身のまわりのことに比較的無頓着だった伊作が、雑渡がきたときのために新たに購入した、マシンで入れたコーヒーだった。

なに言ってるの、私のもっているものはすべて伊作くんのものだよ、とふきんでテーブルをふきながら雑渡は茶化したが、伊作はゆるさなかった。どうして抱いてくれないのだ、ともうこの際やけになって伊作は問うた。
雑渡の家には何度か遊びにきたことがあり、そのたびに今日はそういうことになるかもしれないと、伊作は念入りに身づくろいしてからきたり、緊張したりしながら雑渡の様子をうかがっていたのだが。まったくそういう雰囲気にならないのだった。伊作のほうが、なんだか父親と団らんしているような、見当違いな心地よさをおぼえてしまい、すっかり毒気を抜かれ、首を傾げながら帰宅する日々だった。
じつは以前、酔った勢いで雑渡に抱いてもらうべくひそかに画策し、伊作は雑渡を飲みに誘ったことがある。ところがその日に限って伊作のほうが自身の酒の適量を誤ってしまい、翌朝気がついたときには、雑渡の家のベッドで大の字になっていたという失態をおかした。肝心の家主は、居間のカウチで大きなからだを小さく丸めて眠っていた。
おそるべし雑渡の鋼の理性。一方で、伊作はだんだん、雑渡は自分とそういう関係を結びたくないのかもしれないと、心配になってきた。セックスをしないけれど、仲良し。そういう恋愛もあるのだろう。ただそれは、伊作にとっては大問題だった。なぜならば、伊作は雑渡に性愛を抱いているからである。雑渡の大きなてのひらや、節くれだった長い指を思い出しては、眠れない夜に自らを慰めた。自己嫌悪に陥るとわかっていながら、やめられなかった。
いい年してこんなこと、親友の留三郎にも恥ずかしくて相談できない。それで、いちかばちかの賭けに出たのだった。

勇気を出して、言ってよかった、と伊作は思う。伊作のことが好きすぎて、拒絶されるのがこわくて言い出せなかったのだと雑渡は正直に教えてくれた。そうしてようやく、今日の日を迎えることができたわけである。
啖呵を切ったのは、若く、こわいものを知らない伊作だったが、実際ことにおよぶときには、雑渡がはるかに自分よりも大人の、それも男であることを伊作は痛感した。土壇場で恥じらい、未知の経験に逃げをうつ伊作をやさしく、しかしもう離すまいと絶妙な具合で雑渡は伊作を包み込んだ。
文字通り身も心も結ばれ、しあわせすぎて、箍がはずれた伊作は泣きだしてしまったが、雑渡も泣いていたようだった。ずっとこうしたかった、と秘密を打ち明けるように、伊作の耳元でささやかれた声は震えていた。
そして、つかれて自分だけさきに眠りに落ちてしまったところまで、伊作は思い出した。寝台をゆらして雑渡を起こさぬよう、そっと手をのばしてその鼻梁とほおを指でなぞる。このひとの切羽詰まった顔や、弱っている顔を初めて見た。

『ざっとさ、ざっとさん、わたしも、さわってもいいですか』
昨晩、いっぱいいっぱいになりながらも伊作は必死で両手を雑渡にのばした。
『どうぞ。私は伊作くんのものだと、いったでしょう』

そうだ、自身の誕生日にかこつけて、こうしてもらうことを、ほかでもない伊作が望んだのだった。ぼくの、雑渡さん。穏やかな寝息を聴き、すこし幼く見える寝顔をもう少し見ていたかったが、伊作は一度トイレにいってからにしようと、出がたい布団と、重みのある腕のしたからそっと抜け出したのだった。


*****


「いさくくん!」
すっきりした顔でバスルームから出てきた伊作は、血相を変えた雑渡と居間で鉢合わせた。
「雑渡さん、おはようございます」
こわいかおをしている雑渡は、さきほど眠っていたときのまま、上半身にはなにも身につけていなかった。肩で息をしている。その喉ぼとけが大きく上下するのを見て、伊作はただ事でないことを感じた。
「雑渡さん……? すみません、勝手にお手洗いお借りして」
「……ぁ、あ、いや」
どこかピントのずれた気の遣い方をする伊作に、雑渡はだんだん正気にもどってきた様子だった。着の身着のままといった様子の雑渡とは対照的に、伊作のほうは、昨晩雑渡の貸したパジャマを――脱がせたのもほかでもない雑渡だが――いまはきちんと身につけている。当然ながらサイズはあっていないようで、余った両袖はまくられていた。
「……その、伊作くん、おなかは大丈夫?」
雑渡はもうひとつの心配事を口にする。昨晩、雑渡はスキンを使用したが、初めて男をその場所に受け入れた伊作が、体調をくずしてしまう可能性もなくはないだろう。
「ああ、大丈夫です。お気遣いありがとうございます」
さっきはふつうにおしっこです、と小児科でこどもを採尿室に案内する看護師のようににこにこと笑う伊作に、雑渡は両足から力が抜けてしまい、大きく息をつきながらその場に座り込んだ。
「え、雑渡さん?」
大丈夫ですか、と伊作も慌ててその場で膝を折り、雑渡の肩に両手を添えた。雑渡は自身の両手に顔をうずめていたが、そっと上目遣いで伊作をうかがう。大きな双眸と目が合った。思えば、愛し合ったあとで、こうして顔を合わせるのは、いまがはじめてである。急に気恥ずかしさが二人をおそい、雑渡も伊作も同時に頬を染めた。自らにのばされた伊作の両腕をそっとつかみ、座ったまま雑渡は伊作を抱きしめた。自身も膝をのばしながら、伊作を立ち上がらせる。雑渡の肩に顔を押しつける伊作の耳は真っ赤だった。
「……起きたとき、きみがいないから。帰っちゃったかと思った」
胸がつぶれるかと思った、と雑渡は息をつく。
「そんな、わけ」
「ふふ、きみならあり得る話だなと思ってね」
ちゅ、と音をたてて、雑渡は伊作のこめかみにキスをおとした。伊作の両肩をつかんで少し距離をとれば、やはり不本意そうな顔をしていたので、雑渡はまた吹き出してしまった。悪気がなかったとはいえ、雑渡に心配をかけた伊作は、だんだんとその両眉をさげていく。自身のふだんの行い――ちょっとにぶいところがあると、最近になってようやく自覚しはじめた――に原因があるのかもしれない。すみません、と謝れば、冗談だよ、と雑渡は笑う。
「伊作くん、もう起きる? お休みの日に起きるにはまだはやいよ」
「いえ、お布団に戻るつもりでいました」
「うん、そうしようよ。私もトイレにいってくるから」
ベッドに戻ってて、と雑渡はすれちがいざまに伊作の片手を軽く握った。
「それから、朝ごはんくらい、食べてかえってね。昨日だけど、パン屋さんでおいしそうな食パンを買ってみたから」
こういう日は、もう少し私のそばにいて、と雑渡は照れくさそうにそっぽを向いた。伊作はもちろんです、ご相伴にあずかります、と雑渡の手を握りかえす。
「あ、そうだ」
「?」
「今日だね。伊作くん、お誕生日おめでとう」
ありがとうございます、と伊作は花が咲いたように笑う。もはやどちらも主役のようだったが、伊作にとって、最高の誕生日プレゼントだった。
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