[雑伊]メイク・ユアセルフ・アットホーム

「好きで好きでしようがないから一緒に住んでくれとそれだけの話ではありませんか」
午前の外回りを終え、雑渡と山本は行きつけのラーメン屋で中華そばをすすっていた。山本はさっさと食べて事務所にもどるべく、あつあつの麺もものともせず、気持ちのよい食べっぷりだった。
「ひとごとだと思って。陣内はじゃあ奥さんにそう言ったの」
猫舌の雑渡は、そえられている煮卵をはしではさんだ。絶妙なかたさであろう、透き通る黄身が、はしにはさまれてかたちをゆがませる。先日ここへ連れてきたときに、味のしみた煮卵がおいしいです、と顔をほころばせた伊作を雑渡は思い出していた。雑渡自身は主に平日、さっと昼食をすませたいが少しうまいものを食べたいときに足をはこぶ馴染みの店で、もちろん味も悪くないのを知っていたが、伊作と仲良く並んで食べたとき、こんなにも美味だっただろうか、と驚いたのだった。
「多少は言いかえましたが似たようなものです。結婚するということは、もとはそういうことでしょう」
「けっこん、ね」
飛躍したな、と雑渡は思う。数少ない、互いの休日が重なる日に出かけたり、雑渡の家に呼んだりはしているが、ごく限られた時間なので、毎度伊作と別れるときがとてもさびしい。たしかに、結婚して同居すれば、まさに互いの生活の中で会える時間の上限を最大まで、のばせられるわけである。いいな、と雑渡は山本の左手の薬指にひかる指輪を横目で眺めた。
「なにか躊躇されているのでしたら、……差し出がましいようですが、いい加減になさったほうがよろしいかと。あなたの意気地のなさには当時、驚かされましたからな」
山本は含みを持たせたいいかたをする。雑渡には、彼がなにをさしてそう言っているのかわかっていた。山本のいう当時というのは、数年、数十年単位でのむかしを懐古しているのではない。

当時、の雑渡も伊作のことが好きで好きでしようがなく、本人もその自覚がないままに、礼だの任務のついでだのうまい団子があっただの、何かにつけて学園に通い詰めた。
真夏の合戦上で初めて会ったとき。膿んだ雑渡の古傷に顔色一つ変えず真摯に手当てを施す伊作から、目が離せなかった。伊作は手当てに集中していたし、朦朧としながらも雑渡がなめるように自身を見つめていることなど、気づきもしなかっただろう。
なぜこんなにも心惹かれるのか。知識と技能の高さとその伸びしろについてはさることながら、類まれな、伊作を突き動かす関心と行動は、おそらくはほかの傷病兵たちと同じく、疲弊したことにすら気づいていなかった雑渡の心をいやしてしまった。またその対象は、敵、味方、分け隔てなく。それゆえ雑渡も、彼にとって数多のなかの一人にすぎない――。そのことも強く雑渡の心をひき、同時に落ち着かなくさせた。伊作の顔が見たい。気を引きたい。平たくいってしまえば、求愛だ。その一心で、必死に縁をつないだ。
そして、後々にまで同胞内で語り継がれる、雑渡の一世一代の告白。散々考えたあげく、自ら摘んだ小さな白いお花までもって、学園の卒業を半年後に控えた伊作にもじもじと言ったのは、医療の心得のある忍としてタソガレドキに就職しないかというごくビジネスライクなものだった。これではただ伊作のポテンシャルに焦点をあてただけの、青田買いではないか、と医務室の天井裏で見守っていた高坂と諸泉もずっこけた。雑渡としては大まじめで、公私ともに自分のそばにいてほしいという意味だったのだが。
当然、伊作には雑渡の胸のうちなど伝わらず、大変わかりにくいプロポーズもといリクルートはその場でさわやかに断られた。花は、学園の常備薬の原料にされた――よりにもよって、幸か不幸か希少な有効成分のある花だった――。
傷心の、つかいものにならなくなった忍組頭の代わりに、山本をはじめとする側近はその後しばらく多忙を極め、そのことをいまでも根にもっている。噂は押都のところにまで伝わり、椎良、反屋、五条の三人は狼隊に比べ雑渡に対し辛辣でないので、あの手この手をつかって組頭を元気づけようとしたが逆効果だった。齢三十六にして失った初めての恋の痛みや、いかに。
いまでこそ雑渡の側近たちの間では酒のさかなの定番として多分に脚色され、尾ひれのついた笑い種だが、当時の雑渡にとっては苦肉の策であり、考えうる最善のこたえだったと山本もわかっている。とはいえ、あまりにもことばが足りなさすぎた。忍軍を束ね任務を冷酷に遂行するかと思いきや、部下のために自らのいのちをも顧みない稀有な器をもちながら、その実、自分のことになるとこの男が、ありふれたほかの男たちと同様、ひどく甲斐性なしであることは、山本も少年時代からうすうす感づいてはいた。
「時代も環境もかわれば、とも思っておりましたが、違いましたな。ひとはいつの世も変わらぬようです」
「あんまり意地悪しないでったら」


*****


そんな経緯はつゆしらぬ、現代の伊作との恋は、遅咲きではあるが順調だった。
今日、伊作は夜から勤務だったが、お昼を外で一緒に食べようと雑渡を誘った。自身は丸一日休みだった雑渡はいそいそと出てきた。
しかし、楽しい時間はいつもあっという間だ。時刻はまだ日が傾き始めたばかりだが、夜から明日にかけて仕事を控えている伊作を、家に帰さねばならない。今日は電車で出てきたので、伊作が住む方面へ向かう地下鉄の改札前で、二人は立ち止まった。
「……それじゃ。伊作くん、お仕事がんばってね」
「はい、ありがとうございます。……あ、あの、雑渡さん!」
気をつけて、と手を振りかけた雑渡を、伊作は呼び止める。なにやら少し緊張した面持ちで、頬を紅潮させていた。そういえば、食べている間は旺盛な食欲を見せにこにこと笑んでいたが、食事を終えてからここまで、伊作の口数は少なく、元気がないなと思っていた。
改札前は、人通りが多いので、このままでは通行の邪魔になる。雑渡は伊作を手招きし、案内板の脇まで移動した。
「雑渡さん、このあと、もう少しだけお時間ありますか」
「え、うん。私はとくに予定を入れていないから大丈夫だけど」
伊作はこのあと支度をして、出勤だろう、と雑渡が目で尋ねれば、伊作はうなずいた。
「はい、けれどまだ少し余裕があります。……雑渡さん、ちょっとうちに寄っていかれませんか」
思いもよらぬ提案に、雑渡は両目をしばたたかせた。うちって、伊作くんのおうち? とつぶやけば、伊作は照れくさそうに目を斜め下にそらし、指で頬をかいた。
「ええ、……といっても、お茶くらいしかお出しできないのですけど」
雑渡さんがよろしければ、と伊作はつけくわえた。雑渡は伊作の家にあがったことはない。屋内でデートをするときは、いつも雑渡の家だった。伊作の家か、と雑渡はしばし考え込む。自分があがりこむことは想像したことがなかったので、うれしい反面、雑渡は気後れする。だが伊作の様子を見る限り、雑渡があがって迷惑ならわざわざ別れ際にこのような提案はしないだろう。
「……いいの」
「! はい、もちろん!」
「じゃあ、お言葉にあまえておじゃましようかな」
言えば、伊作はうれしそうに笑んだ。先ほどまでより心もち弾んだ様子で改札を通る伊作の後を、雑渡は追った。




「思いつきでお誘いしたので……、もう少し片付けておけばよかったな。散らかっているのですけど、どうぞ」
何度か車で伊作を自宅まで送ったことはあったので、場所と、マンションの外観は雑渡も知っていた。しかし1階のエントランスすらくぐったことはない。
伊作とともに年季の入ったエレベータに乗り、彼の住む階に到着する。開錠した伊作は、雑渡をなかへ招き入れた。玄関の照明をつけ、足元におかれた、束ねられている牛乳パックや段ボールなどの資源をすこしどかした。
「おじゃまします」
昼下がりの、だれもいない薄暗い部屋。天気はよかったので、奥に見える寝室のカーテンの隙間から、午後の光が差している。先に靴を脱いで廊下を進む伊作が、順に照明をつけていった。
「洗面所はこっちです」
あまり長くない廊下の途中で、半開きのドアがある。バスルームなのだろう、そこに一度姿を消した伊作が顔を出した。雑渡も靴を脱いでそろえ、伊作の住む家にあがった。




「インスタントですみません」
雑渡は借りてきた猫のように椅子に座って、キッチンに立つ伊作の後姿をながめていた。あまりきょろきょろと見ては失礼だろうと思い、雑渡は遠慮していたが、伊作が湯を沸かしている間は、腰かけたままテレビ台や、本棚を眺めていた。DKと寝室は洋室の続き間になっており、部屋はそれだけだ。あわせて10畳ないだろう。雑渡もひとのことはいえないが、必要最低限のもの以外は見当たらない。そんな印象だった。物欲がないというか、最近の若い子も、そういうものだろうか。ただ特徴としては、とにかく書籍が多い。本棚からは、伊作の仕事に関わる専門書や一般書がはみ出ている。棚におさまりきらなかった分は本棚のまわりの床に積み上げられており、雑渡の目の前、卓上にも何冊か置きっぱなしになっていた。伊作の職業柄、否、ほかの職業にも言えることかもしれないが、生涯勉強し続けるものだと聞く。
伊作はここと、職場の往復をしている。ひとり、がんばっているのだな、と雑渡は伊作の過ごす毎日に思いをはせた。
コーヒーの香りが漂ってくる。伊作はマグカップをふたつ、両手にもってもどってきた。片方のカップを雑渡に差し出し、テーブルの上の本を今一度引き寄せて、脇に積みながら、伊作は向かいに座った。ありがとう、と雑渡はコーヒーに口をつける。
「おいしいよ。ちゃんとはかって入れてるんだね」
「いえ、今日は雑渡さんがこられたからティースプーンではかったんですけど」
いつもは瓶から直接適当に入れてます。と伊作は笑った。私もそんなもんだ、と雑渡もかえす。
「……このおうちに、あんまり人を呼んだりはしないの」
「あー……そうですね、以前は飲んだ帰りに留三郎、ぼくの友人の、留三郎が寄ることもあったんですけど、最近は互いに忙しくて。ここ一年は、そういうこともなかったです」
だからこの家に越してきてからは、彼をのぞけば雑渡さんがはじめてです、と伊作ははにかむ。そう、と雑渡は視線をおとし、マグカップから立ちのぼる湯気を眺めた。
「私もね、今住んでいる家には、伊作くんしかきたことないや」
「そうなんですか」
「うん。以前、関西の別拠点に勤めていたときは、陣内が寄りこむことも、また私が逆におじゃますることもあったんだけど。転勤になったり、むこうも家庭をもったりで、だんだん疎遠になるよね」
「そうだったんですか……」
伊作の家のなかは静かで、会話が続かない。遠くで、子どもが遊んでいるらしい声が聞こえる。
不思議と気まずさはなく、雑渡は伊作の家のなかで、伊作とふたりきりの時間を無言で楽しんでいた。伊作もそうなのだろう。
次に口を開いたのは伊作だった。
「さっき、」
「うん」
「……さっきというか、雑渡さんとお会いするときはいつもなのですけど。さよならするときが、さびしくて」
雑渡ははっとして顔をあげた。伊作は両手でマグカップをもち、恥ずかしそうにうつむいている。
「それで、今日は。がまんできなくて、おひきとめしてしまいました」
突然ですみませんでした、貴重なお休みなのに、と伊作はさびしげに笑う。
「……あやまらないで。私も同じだから」
え、と伊作はまばたきする。
「きみと会う約束をすると、それまで仕事をがんばれる。会っている間も、もちろん楽しい。けど、きみを家に送ったり、降りる駅や改札で別れたりするときがすごくさびしいんだよ」
「きみとはお休みが連日で合うことはめったにないから、うちにきてくれても、夜帰ってしまうことも多いでしょう。そういう土曜や日曜は、とくにそう感じて」
ちょっと待ってて、と雑渡は立ち上がり、部屋の脇に置いていたかばんのなかから、あるものを探し出し、伊作に差し出した。
「……これ、」
雑渡の右手の親指と人差し指に挟まれていたのは、一本の真新しいかぎだった。
「うちの合いかぎ。実は少し前につくったんだけど、伊作くんが重く感じるかと思って、渡せずにいたんだ」
じつは少し前どころか半年前につくったきり、渡すタイミングをはかりかねていたのだが、雑渡は少し見栄を張った。共用エントランスもそれで開くから、と続ける雑渡に、伊作は首をふった。
「い、いけません、そんな、」
大切なもの、と伊作は両手を胸の前で小さく振った。
「どうして。伊作くんなら悪用なんてしないでしょう」
「たしかにきみは忙しいから、そうはいっても難しいかもしれないけど。もし少しでも私に会いたいと思ってくれたときは、勝手にはいってくれていいから」
きみが私の家のかぎをもっていてくれることは、どちらかといえば私がうれしいんだよ、と雑渡は面映ゆそうにする。首をかしげる伊作に、雑渡は続けた。
「だって、もしかしたら、今日うちにかえったら伊作くんがいるかもなって、思えるからさ」
「……!」
「平日の夜も、週末も、私は待っているから」
約束してなくても、もっと気楽にあそびにおいで、と雑渡にほほえまれ、伊作は心なしか両目に涙をためながら、ありがとうございます、と両手をそろえて差し出し、雑渡からかぎを受け取った。




17時をしらせる防災行政無線のメロディで、ふたりは伊作の出勤時刻が近づいていることを思い出した。今日のところは、雑渡がいとまを告げなければならない。ふたりは椅子から立ち上がった。伊作は玄関まで出てきて、雑渡を見送る。
「ほんとに何もお出しできなくてすみません」
「いや、コーヒーおいしかったよ。ごちそうさま」
それに、伊作くんのおうちに招かれて、うれしかった。と雑渡は笑う。ずっとこそこそあたためていたかぎも勢いで渡せたし、というもうひとつの情けない理由は言わない。
「……雑渡さん、こんど、またお休みがあうときは、おなかをすかせてうちにいらしてください。よろしければ、ごはんをつくります」
え、伊作くんの手料理! と雑渡は思わず声をあげた。
「ええ、雑渡さんには外でもお宅でもごちそうになってばかりでしたから、気になっていたのです。ひとにふるまえるほどのものではありませんが」
気にしなくていいのに、けどお呼ばれ、楽しみに待ってるね。それからうちにも遊びにきてね。と雑渡は念を押した。
それじゃあ気をつけて、お仕事がんばってね、と伊作の家を出た雑渡には、いつものデート後のようなさびしさはなく、年甲斐もなく電車に乗りこみながらも少しうきうきとした足取りだった。
そのまま自宅に向かう途中で薬局に立ち寄り、いつ伊作がうちにきてもいいように歯ブラシを買い足した。伊作が泊まるときはいつも雑渡の服で間に合わせていたが、こんどの逢瀬のときに、伊作の部屋着をそろえてもいいかもしれない。


*****


「逆に感心しますな。そこまで言って、同居の提案はできなかったとは」
「うるさいな。こんど伊作くん家にまたお呼ばれする約束なんだからほっといて。それに、いまは私の職場と伊作くんの職場の両方からアクセスのいい物件を探している」
「合いかぎと同様、本人と話し合ってもいないのに用意ばかり周到なことで」
「ところで陣内。肝心の伊作くん、ぜんぜんうちにきてくれないんだよ。私毎日帰るたびにがっかりしているんだけど」
「当然でしょう。あなたがいいといっても無断で入ることはしない子かと」
「なら『おじゃましてます』のメッセージだけ送ってあがればいいじゃない。そのパターンもないよ」
「彼とて暇じゃありませんし」
「やっぱり一緒に住むしかないねぇ……」
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