[ジョーチェリ]「つくりすぎたんだ」
『南城さん、こんにちは』
『かおるちゃんまま、こんにちは。ラフテーつくりすぎちゃったのよ。ちょっと食べてくれる?』
『あらちょうど、うちも……』
幼い頃、玄関先で、虎次郎の母と自らの母が食器やらタッパーやらをやりとりしているのを、しょっちゅう見ながら、薫は育った。
虎次郎の母の作った煮物やしりしりを食べながら、自分の母の味と、よその母の味は、違うのだな、ということも知った。薫の母はどちらかといえば本土の関西風の薄味で、南城の母の味は、濃い目であった。
つくりすぎちゃって、というが、こんなにたくさんどうするつもりだったのだろうか、と幼いながらにかしこかった薫は不思議だった。気前のいい虎次郎の母のことだ、最初から桜屋敷家に分けるつもりでつくったのだろう。
「ふうむ」
キッチンに積み重なった大量のタッパーや耐熱皿、そしてそれと同じ数のフタを眺め、薫は息をつく。
すべて、虎次郎のもちものであった。繁忙期に入ると、寝食を忘れて制作に没頭する薫を心配し、虎次郎はせっせと日持ちする常備菜をこさえては、タッパーに詰めてもってきてくれるのだった。
容器の返却をしていなければ、礼もしていない。そもそも、受け取ったときにきちんと感謝のことばを言えたかどうかも、定かではなかった。いちばん最近虎次郎に会ったのは、ひとつき前だった。あの日は悪いことが重なり、せっかく差し入れにきてくれた虎次郎を不機嫌丸出しで、玄関先で追い返したのだった。
『やせたんじゃないのか。きちんと食えよ』
『余計なお世話だ!』
それが、虎次郎とかわした最近の会話だったように記憶している。薫は自己嫌悪に陥り、片手を額に押し当ててため息をつく。じつはその晩、虎次郎のラザニアをほおばりながら、ひとり涙したのだった。けれど意地になって、電話もできなかった。
弱った。親しき中にも礼儀あり。否、いつからゴリラと親しくなったんだおれは。ああもう。薫は虎次郎に対しては脳内でも素直になれない。ゆえに虎次郎のこととなると独り言でも話が前にすすまない、面倒くさい男だった。
いずれにしても、詫びもかねて礼を、とは思うが、はてさて何を返せばよいやらわからない。それで思い出したのが、冒頭の、母たちのやり取りだった。
おすそ分けやつくりすぎた料理をもらった器に、別の料理を入れて返す。むかしながらだが、粋だと、薫は思った。しかし。プロの料理人である虎次郎に、手料理を返す? ありえない、と薫は首をふる。とてもではないが、イタリア料理以外でも、料理の腕では虎次郎にはかなわない。薫も自炊しないことはないのだが、自分で食べるためのものだったので、見た目も味もいつも適当であった。完璧主義の薫が、劣るとわかっていて虎次郎に料理をふるまうなど、許せなかった。しょうがない。容器は容器で、そのまま乾燥させて重ねて返し、別のもので何か、とキッチンを離れる。そういえばあいつには借りが多いな……と諸々を思い出しながら書斎へ戻った。
しかしふと、また、虎次郎の母がこさえた、ラフテーやサーターアンダーギー、濃い味付けの煮物の味を思い出す。自らの母がつくる手料理とまったく異なる味付けだったが、美味だったし、新鮮だった。おいしいわね、つくりかた教えてもらおうかしら、という母のことばも思い出した。たしか本当に、いくつか虎次郎の母にレシピを教えてもらい、うちで再現した沖縄の郷土料理もあった。
料理人でも、それは仕事であって、普段は料理ばかりしているわけでもないだろう――いや虎次郎ならあり得るかも……そういえばあいつ普段、スケボー以外だと何してるんだ? 女遊びか、たらしゴリラめ――、逆に、ひとにつくってもらった料理は、新鮮なのでは?
「……」
薫は、スマホを手にとり、自らの母の番号をタップした。
休日。薫は虎次郎の閉店時刻に間に合うよう、夕方から料理の下ごしらえにとりかかった。薫が実家で食べなれた、日本料理の常備菜。なれない調理の段取りは難しく、思いのほか手間取ってしまい、終盤は少し焦った。
しかしどうにか仕上がり、あら熱のとれた料理から順に、容器に詰めていく。虎次郎なら手際よくやっているのだろうが、大変な工程だと思う。途中で一度、洗い物はしたのだが、まだシンクには大きな鍋やフライパンが残っていた。
そして料理をあらかた詰め終えた薫は、しまった、とつぶやく。自分としたことが、計算をあやまったらしい。ひとつ、容器が余ってしまった。
仕方あるまい。ちょうど取引先にもらった茶菓子がたくさんあったので、無造作ではあるが、最後の容器に個装のまま詰められるだけそれらを詰めることにした。
時刻は22時をまわろうとしていた。しょうゆがとんでしまったTシャツを脱ぎ、きちんと着物に着替えた薫は、また台所にたつ。まだいくつかの料理はほんのりあたたかい。冷たいものとあたたかいものをふたつに分けて、ふろしきに包んだ薫は、それらを重ねて抱え、家を出た。虎次郎が店じまいを終えて自宅に帰ってしまうぎりぎりの時刻になってしまった。足早に、しかし転ばぬよう気を付けながら夜道を急ぐ。シアラルーチェはまだ明かりがついていた。窓からそっと覗けば、虎次郎がまだひとり厨房にいるのが見えて、安堵する。薫は「Closed」のプレートがかけられた扉を押し開けた。
「あれ、薫! 久々だな。どうしたその荷物」
虎次郎が手を拭きながら、厨房から出てきた。いつもならずかずかと無遠慮にカウンターに座る薫が、今日ばかりは扉の前で大きな荷物を抱えたままたたずんでいるので、虎次郎は首をかしげていた。
一方、薫はふろしきを抱えたまま、どうしたものかと思案していた。慌てて家を出てきたので、なんと言ってこれを渡そうか、考えていなかったのだった。「こないだは、ありがとう。せっかくきてくれたのに、心無いことを言ってすまなかった」。たったそれだけのことを、ほかでもない虎次郎に言うのが、薫にはとても難しいのだった。
「……これ、おまえのタッパー」
「ああ、もってきてくれたのか。って、重ねられるタイプだったろ、それ。ずいぶんかさばって……」
マトリョーシカをそれぞれ持ってきたわけか、と受け取ろうと手を伸ばす虎次郎に、薫は気恥ずかしくなった。もっていた二つの大きな包みを、これまた大きな虎次郎の両手に押し付ける。その重さに、虎次郎がはっとするのを見て、薫は逃げるように店を出た。「あ、おい、薫!」と戸惑ったような虎次郎の声が聞こえたが、何かわからぬあの荷物を捨ておくわけにいかず、また抱えたまま、追ってはこれまい。薫はそのまま、ほとんど走るようにして、家まで帰ってしまった。
家についた薫は、心臓がばくばくとしていた。もう年かもしれない、と半ば真剣に思う。まっすぐ浴室へ向かって汗を流し――髪を洗おうと髪ひもをほどいたときに、甘辛いしょうゆのかおりが薫の鼻をくすぐった――、湯船に浸かった。さっきはなにやら緊張してしまったが、いまとなっては満ち足りた気分だった。薫は虎次郎が与えてくれるものにあれやこれやと文句をつける(それもほとんど思っていることと逆だ)が、反対に、虎次郎は、薫が寄越すものに文句をつけたことは一度もない。
今回も、虎次郎自身や虎次郎の母のつくるそれに比べられてしまっては、さしてうまい料理でもないだろうが、虎次郎なら。虎次郎なら、食べてくれるだろうと。薫は一人頬を染め、ぶくぶくと顔を半分、湯の中に沈めた。
湯から上がった薫は、冷蔵庫からビールを取りだし、いつも一人で食事をとるテーブルの前に座った。虎次郎のタッパーに入りきらなかった煮物と、魚料理をつつく。食べられない代物ではない。いくつかは、自身の母にレシピを確認した、京風のものだった。
しかし食べているうちに、だんだんと心配になってきた。こんな素朴な料理が、修行を積み舌の肥えた虎次郎の口に、合うだろうか?
「!」
そのときだった。卓上においた薫のスマートフォンが着信を知らせた。果たして、虎次郎だった。
薫は一呼吸おいて自身を落ち着け、通話ボタンをスワイプする。
「……はい」
「薫? ごめん。寝てた?」
「いや。起きてた」
そっか、と虎次郎が安堵の声をもらすのが、電話越しに聞こえる。カチャ、と向こうから食器のぶつかる音が聞こえ、薫は息をのむ。
「……いまうちで、薫のつくったごはん、食べてた」
そこで薫は、自分がつくったとは一言も告げていないことに気がついた。
「……よくわかったな。おれがつくったと」
「うん。薫のお母さんの味に似てたから」
「……」
「なすの揚げびたし。すごいな、京都の料亭みたいだった」
自分もむかしの、母たちのことを思い出していたから、虎次郎も同じだったのかと、薫の口元が弧を描く。
「うまかったよ、ごちそうさま」
「……」
「絵がうまいひとって、料理もうまかったりするだろ。薫はやっぱり、センスがあるんだな」
薫は、照れてしまって、何も言えなくなってしまった。世辞はいい、というつもりが、言葉が出てこない。薫が伝えられない、不発でおわったことばを、虎次郎は拾い集め、すべて直球で返される。反応がない薫に、「薫きいてる?」と虎次郎が心配して声をかけた。
「きいとるわぼけなす」
「うん。こんなにたくさん、つくるの大変だったし、時間もかかったろ。ありがとうな」
「! いや、たいしたことは……」
薫はぜんぶ見透かされているようでまた気恥ずかしくなり、見栄をはる。
「薫がつくってくれたの、もったいないから、大事にちょっとずつ食べる。明日も楽しみだ」
「……ばか。わるくなるからさっさと食え」
なんか高級そうな菓子も、ありがとうな。と言われ、薫は機転をきかせて入れた、もらいものの菓子のことを思い出す。それよりもさっきの虎次郎のことばで、頬が熱い。
「あ、ああ……取引先にもらったんだ」
薫は上の空でこたえた。ぱたん、と電話の向こうで、虎次郎が冷蔵庫を閉じる音が聞こえる。
「あのさ、おれ。母さん以外で、ひとに手料理つくってもらったの初めてかも」
そうなのか、とうれしくなりかけて、あまのじゃくの薫は我に返る。あれだけいつも女にかこまれているのだ、料理上手な女がひとりふたり、否、もっといてもおかしくはない。
「……ばかをいえ、たらしゴリラ。そんなわけないだろう」
「いや、ほんと。女の子にチョコとかクッキーとか、手作りのお菓子をもらったことはあるし、料理人の知り合いに食べさせてもらったこととかはあるけど。けどこうやって、あたたかい手料理を、つくってもらったのは、初めてだ」
それに職業柄、昼も夜もひとにつくるばかりだから、新鮮で。と、薫の思惑通りの感想が帰ってくる。できたてだったことに気がついたのか、と薫は両目を閉じた。
「勘違いするな。おまえのためにつくったわけじゃない。つ、つくりすぎたんだ」
「うん。つくりすぎたんだな」
薫は頭が回らず、虎次郎の母がつかっていた常套句をとっさに口にした。虎次郎がおかしそうに笑い、繰り返す。あんなにたくさん、誰のためにつくったんだよとは、茶化さなかった。
「けどおまえ、帰っちまうんだもん。いっしょに食べたかった」
「……」
自分のつくった料理を、虎次郎といっしょにたべるなんて、正気の沙汰じゃない。何のプレイだ、と薫は思う。拷問だ。羞恥の。
「こんどさ、時間のあるとき、いっしょにつくろうぜ。薫がつくってるとこ、みたい」
「いやだ。なんでおまえなんかと」
調子に乗るな、きってやる、とスマホを耳から離したところで、虎次郎の笑い声が聞こえた。
「おやすみ」
「……ああ、おやすみ」
通話を終え、また薫はまた少し自己嫌悪する。最後にまた余計なことを言ってしまった。しょうがない。あいつが突拍子もないことばかり言うからだ。
その後、二人は互いにまた忙しくなり、先のやりとりなどなかったかのように過ごした。
薫が虎次郎の自宅の台所にたち、手料理をふるまうようになるまでは、まだ少し時間がかかる。
『かおるちゃんまま、こんにちは。ラフテーつくりすぎちゃったのよ。ちょっと食べてくれる?』
『あらちょうど、うちも……』
幼い頃、玄関先で、虎次郎の母と自らの母が食器やらタッパーやらをやりとりしているのを、しょっちゅう見ながら、薫は育った。
虎次郎の母の作った煮物やしりしりを食べながら、自分の母の味と、よその母の味は、違うのだな、ということも知った。薫の母はどちらかといえば本土の関西風の薄味で、南城の母の味は、濃い目であった。
つくりすぎちゃって、というが、こんなにたくさんどうするつもりだったのだろうか、と幼いながらにかしこかった薫は不思議だった。気前のいい虎次郎の母のことだ、最初から桜屋敷家に分けるつもりでつくったのだろう。
「ふうむ」
キッチンに積み重なった大量のタッパーや耐熱皿、そしてそれと同じ数のフタを眺め、薫は息をつく。
すべて、虎次郎のもちものであった。繁忙期に入ると、寝食を忘れて制作に没頭する薫を心配し、虎次郎はせっせと日持ちする常備菜をこさえては、タッパーに詰めてもってきてくれるのだった。
容器の返却をしていなければ、礼もしていない。そもそも、受け取ったときにきちんと感謝のことばを言えたかどうかも、定かではなかった。いちばん最近虎次郎に会ったのは、ひとつき前だった。あの日は悪いことが重なり、せっかく差し入れにきてくれた虎次郎を不機嫌丸出しで、玄関先で追い返したのだった。
『やせたんじゃないのか。きちんと食えよ』
『余計なお世話だ!』
それが、虎次郎とかわした最近の会話だったように記憶している。薫は自己嫌悪に陥り、片手を額に押し当ててため息をつく。じつはその晩、虎次郎のラザニアをほおばりながら、ひとり涙したのだった。けれど意地になって、電話もできなかった。
弱った。親しき中にも礼儀あり。否、いつからゴリラと親しくなったんだおれは。ああもう。薫は虎次郎に対しては脳内でも素直になれない。ゆえに虎次郎のこととなると独り言でも話が前にすすまない、面倒くさい男だった。
いずれにしても、詫びもかねて礼を、とは思うが、はてさて何を返せばよいやらわからない。それで思い出したのが、冒頭の、母たちのやり取りだった。
おすそ分けやつくりすぎた料理をもらった器に、別の料理を入れて返す。むかしながらだが、粋だと、薫は思った。しかし。プロの料理人である虎次郎に、手料理を返す? ありえない、と薫は首をふる。とてもではないが、イタリア料理以外でも、料理の腕では虎次郎にはかなわない。薫も自炊しないことはないのだが、自分で食べるためのものだったので、見た目も味もいつも適当であった。完璧主義の薫が、劣るとわかっていて虎次郎に料理をふるまうなど、許せなかった。しょうがない。容器は容器で、そのまま乾燥させて重ねて返し、別のもので何か、とキッチンを離れる。そういえばあいつには借りが多いな……と諸々を思い出しながら書斎へ戻った。
しかしふと、また、虎次郎の母がこさえた、ラフテーやサーターアンダーギー、濃い味付けの煮物の味を思い出す。自らの母がつくる手料理とまったく異なる味付けだったが、美味だったし、新鮮だった。おいしいわね、つくりかた教えてもらおうかしら、という母のことばも思い出した。たしか本当に、いくつか虎次郎の母にレシピを教えてもらい、うちで再現した沖縄の郷土料理もあった。
料理人でも、それは仕事であって、普段は料理ばかりしているわけでもないだろう――いや虎次郎ならあり得るかも……そういえばあいつ普段、スケボー以外だと何してるんだ? 女遊びか、たらしゴリラめ――、逆に、ひとにつくってもらった料理は、新鮮なのでは?
「……」
薫は、スマホを手にとり、自らの母の番号をタップした。
休日。薫は虎次郎の閉店時刻に間に合うよう、夕方から料理の下ごしらえにとりかかった。薫が実家で食べなれた、日本料理の常備菜。なれない調理の段取りは難しく、思いのほか手間取ってしまい、終盤は少し焦った。
しかしどうにか仕上がり、あら熱のとれた料理から順に、容器に詰めていく。虎次郎なら手際よくやっているのだろうが、大変な工程だと思う。途中で一度、洗い物はしたのだが、まだシンクには大きな鍋やフライパンが残っていた。
そして料理をあらかた詰め終えた薫は、しまった、とつぶやく。自分としたことが、計算をあやまったらしい。ひとつ、容器が余ってしまった。
仕方あるまい。ちょうど取引先にもらった茶菓子がたくさんあったので、無造作ではあるが、最後の容器に個装のまま詰められるだけそれらを詰めることにした。
時刻は22時をまわろうとしていた。しょうゆがとんでしまったTシャツを脱ぎ、きちんと着物に着替えた薫は、また台所にたつ。まだいくつかの料理はほんのりあたたかい。冷たいものとあたたかいものをふたつに分けて、ふろしきに包んだ薫は、それらを重ねて抱え、家を出た。虎次郎が店じまいを終えて自宅に帰ってしまうぎりぎりの時刻になってしまった。足早に、しかし転ばぬよう気を付けながら夜道を急ぐ。シアラルーチェはまだ明かりがついていた。窓からそっと覗けば、虎次郎がまだひとり厨房にいるのが見えて、安堵する。薫は「Closed」のプレートがかけられた扉を押し開けた。
「あれ、薫! 久々だな。どうしたその荷物」
虎次郎が手を拭きながら、厨房から出てきた。いつもならずかずかと無遠慮にカウンターに座る薫が、今日ばかりは扉の前で大きな荷物を抱えたままたたずんでいるので、虎次郎は首をかしげていた。
一方、薫はふろしきを抱えたまま、どうしたものかと思案していた。慌てて家を出てきたので、なんと言ってこれを渡そうか、考えていなかったのだった。「こないだは、ありがとう。せっかくきてくれたのに、心無いことを言ってすまなかった」。たったそれだけのことを、ほかでもない虎次郎に言うのが、薫にはとても難しいのだった。
「……これ、おまえのタッパー」
「ああ、もってきてくれたのか。って、重ねられるタイプだったろ、それ。ずいぶんかさばって……」
マトリョーシカをそれぞれ持ってきたわけか、と受け取ろうと手を伸ばす虎次郎に、薫は気恥ずかしくなった。もっていた二つの大きな包みを、これまた大きな虎次郎の両手に押し付ける。その重さに、虎次郎がはっとするのを見て、薫は逃げるように店を出た。「あ、おい、薫!」と戸惑ったような虎次郎の声が聞こえたが、何かわからぬあの荷物を捨ておくわけにいかず、また抱えたまま、追ってはこれまい。薫はそのまま、ほとんど走るようにして、家まで帰ってしまった。
家についた薫は、心臓がばくばくとしていた。もう年かもしれない、と半ば真剣に思う。まっすぐ浴室へ向かって汗を流し――髪を洗おうと髪ひもをほどいたときに、甘辛いしょうゆのかおりが薫の鼻をくすぐった――、湯船に浸かった。さっきはなにやら緊張してしまったが、いまとなっては満ち足りた気分だった。薫は虎次郎が与えてくれるものにあれやこれやと文句をつける(それもほとんど思っていることと逆だ)が、反対に、虎次郎は、薫が寄越すものに文句をつけたことは一度もない。
今回も、虎次郎自身や虎次郎の母のつくるそれに比べられてしまっては、さしてうまい料理でもないだろうが、虎次郎なら。虎次郎なら、食べてくれるだろうと。薫は一人頬を染め、ぶくぶくと顔を半分、湯の中に沈めた。
湯から上がった薫は、冷蔵庫からビールを取りだし、いつも一人で食事をとるテーブルの前に座った。虎次郎のタッパーに入りきらなかった煮物と、魚料理をつつく。食べられない代物ではない。いくつかは、自身の母にレシピを確認した、京風のものだった。
しかし食べているうちに、だんだんと心配になってきた。こんな素朴な料理が、修行を積み舌の肥えた虎次郎の口に、合うだろうか?
「!」
そのときだった。卓上においた薫のスマートフォンが着信を知らせた。果たして、虎次郎だった。
薫は一呼吸おいて自身を落ち着け、通話ボタンをスワイプする。
「……はい」
「薫? ごめん。寝てた?」
「いや。起きてた」
そっか、と虎次郎が安堵の声をもらすのが、電話越しに聞こえる。カチャ、と向こうから食器のぶつかる音が聞こえ、薫は息をのむ。
「……いまうちで、薫のつくったごはん、食べてた」
そこで薫は、自分がつくったとは一言も告げていないことに気がついた。
「……よくわかったな。おれがつくったと」
「うん。薫のお母さんの味に似てたから」
「……」
「なすの揚げびたし。すごいな、京都の料亭みたいだった」
自分もむかしの、母たちのことを思い出していたから、虎次郎も同じだったのかと、薫の口元が弧を描く。
「うまかったよ、ごちそうさま」
「……」
「絵がうまいひとって、料理もうまかったりするだろ。薫はやっぱり、センスがあるんだな」
薫は、照れてしまって、何も言えなくなってしまった。世辞はいい、というつもりが、言葉が出てこない。薫が伝えられない、不発でおわったことばを、虎次郎は拾い集め、すべて直球で返される。反応がない薫に、「薫きいてる?」と虎次郎が心配して声をかけた。
「きいとるわぼけなす」
「うん。こんなにたくさん、つくるの大変だったし、時間もかかったろ。ありがとうな」
「! いや、たいしたことは……」
薫はぜんぶ見透かされているようでまた気恥ずかしくなり、見栄をはる。
「薫がつくってくれたの、もったいないから、大事にちょっとずつ食べる。明日も楽しみだ」
「……ばか。わるくなるからさっさと食え」
なんか高級そうな菓子も、ありがとうな。と言われ、薫は機転をきかせて入れた、もらいものの菓子のことを思い出す。それよりもさっきの虎次郎のことばで、頬が熱い。
「あ、ああ……取引先にもらったんだ」
薫は上の空でこたえた。ぱたん、と電話の向こうで、虎次郎が冷蔵庫を閉じる音が聞こえる。
「あのさ、おれ。母さん以外で、ひとに手料理つくってもらったの初めてかも」
そうなのか、とうれしくなりかけて、あまのじゃくの薫は我に返る。あれだけいつも女にかこまれているのだ、料理上手な女がひとりふたり、否、もっといてもおかしくはない。
「……ばかをいえ、たらしゴリラ。そんなわけないだろう」
「いや、ほんと。女の子にチョコとかクッキーとか、手作りのお菓子をもらったことはあるし、料理人の知り合いに食べさせてもらったこととかはあるけど。けどこうやって、あたたかい手料理を、つくってもらったのは、初めてだ」
それに職業柄、昼も夜もひとにつくるばかりだから、新鮮で。と、薫の思惑通りの感想が帰ってくる。できたてだったことに気がついたのか、と薫は両目を閉じた。
「勘違いするな。おまえのためにつくったわけじゃない。つ、つくりすぎたんだ」
「うん。つくりすぎたんだな」
薫は頭が回らず、虎次郎の母がつかっていた常套句をとっさに口にした。虎次郎がおかしそうに笑い、繰り返す。あんなにたくさん、誰のためにつくったんだよとは、茶化さなかった。
「けどおまえ、帰っちまうんだもん。いっしょに食べたかった」
「……」
自分のつくった料理を、虎次郎といっしょにたべるなんて、正気の沙汰じゃない。何のプレイだ、と薫は思う。拷問だ。羞恥の。
「こんどさ、時間のあるとき、いっしょにつくろうぜ。薫がつくってるとこ、みたい」
「いやだ。なんでおまえなんかと」
調子に乗るな、きってやる、とスマホを耳から離したところで、虎次郎の笑い声が聞こえた。
「おやすみ」
「……ああ、おやすみ」
通話を終え、また薫はまた少し自己嫌悪する。最後にまた余計なことを言ってしまった。しょうがない。あいつが突拍子もないことばかり言うからだ。
その後、二人は互いにまた忙しくなり、先のやりとりなどなかったかのように過ごした。
薫が虎次郎の自宅の台所にたち、手料理をふるまうようになるまでは、まだ少し時間がかかる。
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