[コン+アン]酔っていても

「我シーザーにかく言わん……」
「またそのうたか。好きだなきみも……。ほらきちんと自分の足で歩きたまえよ」
めずらしいな、きみがこれほどに酔うなんて、と呟きながらアンジョーラは自らの首に回されたコンブフェールの腕を引っ張り、そのからだを支えなおした。その顔は地面に向けられているために表情こそ見えないが、ほつれたやさしい栗色の毛の向こうで、これまたやさしげな口元がわずかに弧を描くのが見えた。
「ほら、着いたぞ。鍵は?」
「ん……」
もたもたと自らの懐を探る、常日頃の彼とは似ても似つかぬ参謀を見ながら、アンジョーラは短く息をついた。めずらしいこともあるものだ、と道中ずっと思っていたことをまた思う。そうこうしている間に扉は開いたらしい。ふらふらと若干心もとない足どりで中へ入ろうとする彼を慌てて支えた。

「よっ……と」
アンジョーラは自分よりいくらか背の高い男のからだを寝台の上におろした。コンブフェールは起き上がって靴を脱ごうとする。どうやら服を脱ぐという理性は残っていたらしい。ふくらはぎのリボンを解くのに手間取っているらしかったので、手伝ってやる。
「すまないね、アンジョーラ」
かすれた声でコンブフェールは謝罪する。アルコールの匂いに混ざって、いつもの彼のかおりがかすかに香った。別に迷惑だとは思っていなかったので、アンジョーラは首を振った。
「……気にするな、コンブフェール。待て待て、しわになるぞ。掛けてやるから上着も脱げ」
上衣のボタンを外すのも手伝ってやり、シャツの首元もくつろげてやる。いつも酔ったバオレルやレーグルを支えて帰る彼の姿を見ていたので、おかしな気分であった。彼はいつも、こんなことをしてやっているのか。服を脱いでいくぶん楽になったらしい、彼はどさりとその身を寝台に横たえた。コンブフェールの上着を腕にかけたアンジョーラはくるりと部屋を見回した。
「いま水を汲んできてやるから待っていろ。そうしたら僕は帰る」
「んん……アンジョーラ、」
コンブフェールは枕をわしづかみ、自らの顔をぐりぐりと押しつけていた。なんだ、と返せば、彼は目を閉じたまま呂律の回らぬ舌でこたえる。
「泊まっていきたまえよ、こんな時間に一人で帰ったらあぶないから……ぼくのベッドをつかっていいからさ」
アンジョーラはその大きな瞳を二度三度瞬かせた。いや、ベッドはきみが大の字になっているせいで、ぼくが寝るスペースはないのだけど、とどうでもいいことのほうへ、心中つっこみを入れる。おいまだ寝るな、水を、と言いかけたところで、男は寝息を立てはじめてしまった。アンジョーラは本日何度目かわからぬ――そしてそれが毎日のようにグランテールへ向けられることはあっても、この参謀へ向けられることは極めて珍しい――ため息をついた。


*****
いつだったか、アンジョーラは演説の帰りに暴漢に絡まれたことがある。街頭演説はコンブフェールと一緒だったのだが、彼はここまできたついでに用事を済ませるといって別れたので、一人でミューザンへ戻ることにしたのだった。ところが慣れていない土地だったこともあり、少々治安の悪そうな路地裏へ迷い込んでしまった。大通りへ引き返すか、と踵を返したところで肩をつかまれた。
「よう、ブロンドの兄ちゃん。危ないぜ、こんなところにいたら」
「……ああ、忠告感謝する。今より戻るところだ」
静かに見返せば、相手は口笛を吹いた。
「こいつは驚いた、おい、きてみろよ。ギリシア彫刻みてぇな顔した兄ちゃんだぜ」
「本当だ、それとも何か、男の恰好したお嬢ちゃんかい」
「俺たちとあそぼうぜ」
「……結構だ」
先を急ぐので、と再び背を向ければ、もう一度強い力で腕をつかまれる。
「待てよ、ちょっとくらいいいじゃねぇか」
「つれねぇなあ、女を教えてやろうってのに」
「あるいは男を教えてやってもいいんだぜ」
下卑た笑いを浮かべる連中を、きっとにらみつければ、おお怖ぇ、となおも揶揄された。3人か、分が悪いな、と内心ごちる。大通りまでそう遠くないので逃げたほうが賢明だろうとそこまで考えたところで、自身の名を呼ぶ声が聞こえた。通りから、コンブフェールが血相を変えて駆け寄ってくるのが見えた。
「……すまない、彼はぼくの連れなんだ。急いでいるので失礼するよ」
コンブフェールは厳しい表情でそう言い、アンジョーラの手をひいた。男たちが笑い出す。
「なんだあ、王子様の登場かあ」
「横取りたぁいい度胸じゃねぇか」
男の一人がコンブフェールの胸倉をわしづかんだ。
「コンブフェール!」
そのとき。あまりにも一瞬のことだったので、アンジョーラも男たちも何が起こったのか理解することができなかった。次の瞬間、地面に転がされていた男の一人は、目を白黒させている。
「こいつ……!」
「いこう、アンジョーラ!」
コンブフェールに強く手を引かれ、二人は大通りまで走って逃げおおせたのだった。


ここまでくれば男たちも追ってはこないだろう。人通りの多い市場まできたとき、コンブフェールは立ち止まって勢いよく振り返った。
「アンジョーラ! けがは!? 何もされなかったかい?」
コンブフェールに両の二の腕を強くつかまれ、その剣幕に気圧される。二人とも肩で息をしていた。
「あっ……ああ、何も。すまない、きみがきてくれて助かった。でもどうしてあそこがわかったんだい」
いまだこわい顔をしているコンブフェールに対し、何もなかったことを伝えようと少し微笑んでみせれば、彼は思いのほかアンジョーラの腕を強くつかんでいたことに気がつき、すまない、とその手をゆっくりおろした。
「……なんだか、胸騒ぎがしたんだ。それで、急いでミューザンの方向へ引き返したんだけど、通りにきみがいなくて。嫌な予感がして、路地を覗いてまわったんだ。そうしたら、きみが、」
とコンブフェールはそこでことばを切り、安心したように大きく息をついて片手で自らの顔を覆った。ああよかった、君が無事で。そう呟くコンブフェールを、アンジョーラはまじまじと見つめた。彼との付き合いは決して短くはないはずだが、いつも穏やかな表情を浮かべていることの多いこの男の、こんなにも取り乱す姿を見たのは今日がはじめてであった。
「……すまない、コンブフェール。心配をかけしまって」
不慣れな場所だったから、と言い訳を述べそうになったが、慌てて口を噤む。パリーには危険なところもある。それをわかっていたはずなのに、用心を怠った自分の落ち度だった。次からは気をつけるよ、と心から詫びてコンブフェールの手を握れば、彼は眉を下げて、うん、わかればいいんだ、と力なく笑った。
二人はまた並んで歩きだす。互いになんとなく決まりが悪くて、道中ずっと無言だった。ミューザンが見えてきたころ、切り出したのはアンジョーラだった。
「それにしても」
「うん?」
「驚いたよ、君は強いのだな、コンブフェール」
きみを怒らせてはいけないな、と微笑んでみせれば、コンブフェールはなぜか顔を真っ赤に染めたのだった。
「……そう思うなら、もう心配させないでくれたまえよ」
照れたようにそっぽを向く彼に、ああ気をつけるよ、と再び笑った。
アンジョーラは金持ちの一人息子だった。だから兄も弟もなかったわけだが、コンブフェールには下に妹があったように思う。兄がいたらこんな感じだろうか、とアンジョーラはらしくもないことを思った。
*****


泊まっていきたまえ、と何やらまだむにゃむにゃと枕に向かって言っている男の声で、アンジョーラは我に返った。シャツをはだけてごろんと、しかし普段の慎ましさは残しつつ寝返りをうつコンブフェールにあわててシーツをかけてやる。酔ってはいても、その目元はやさしげだった。そんな彼に、またあのような心配をかけたくはなかった。
「……では、きみの言うとおりにしよう、コンブフェール」
聞こえているのだかいないのだか、コンブフェールが満足そうに微笑みながら相槌を打った。もっとも、アンジョーラが寝られそうな場所は、このこぢんまりした部屋にはないのであるが。さして問題はない。じき夜明けだった。アンジョーラは重厚な医学書をはじめとするさまざまな本がそこかしこに積まれた室内をもう一度ぐるりと見回し、机の前に置かれた椅子に目をとめる。借りるぞコンブフェール、と呟きアンジョーラはそれをベッドサイドまで持ってきた。すうすうと気持ちよさげな寝息を立てる彼を眺めながら腰掛け、腕を組む。男一人を支えて夜道を歩いてきた疲れも相まって、アンジョーラもすぐに睡魔に身を委ねたのであった。


「ぅう……」
窓から差し込む光がまぶしい。だいぶ陽が昇ってしまっているらしかった。今日は日曜だったと安堵したのもつかの間、次の瞬間ひどい頭痛と吐き気に襲われ、コンブフェールは呻いた。そうだ、昨日はフイイーやプルーヴェールたちと飲んでいて。しかしその後の記憶は曖昧だった。どうやって家まで帰ってきたのだろう? どうにか目を開けたコンブフェールは、その視界に映った光景により一気に覚醒した。
「えっ……、アンジョーラ?」
情けないほどにその声はかすれていたが。いつも自らの隣で演説をぶつ美しい男が、腕を組んで自らの椅子に腰掛け、しかしその上半身はコンブフェールのちょうど腰あたりにもたれかけさせていた。こぼれんばかりの、黄金の巻き毛がシーツに散らばっている。光がちょうどその陶器のような肌と金糸にあたり、グランテールが常々称賛するように、さながらその姿は天使のようであった。なぜ、彼がここに。とたんに、断片的ではあるが昨晩の記憶がよみがえる。そうだ、彼がここまで連れてきてくれたのだった。服を脱いだ記憶はないのだが、上衣はきちんと壁に掛けられており、靴もベッドの横にそろえられている。これは相当な醜態をさらしたらしい。コンブフェールが一人あわあわとしていると、天使の寝顔に似つかわしくないしわが眉間に寄せられ、金糸に縁どられた瞼がふるりと震えた。その下から宝石のような碧眼がのぞく様子に、コンブフェールは思わず見とれる。
「ん……もう朝か。すまない、寝過ごしてしまったな」
おはようコンブフェール、とアンジョーラは目をこすりながら起き上がる。
「アンジョーラ、ごめん。ぼくあまりおぼえていなくて……。きみがここまで連れてきてくれたのだろう」
「ああ、いや、気にするな」
アンジョーラは立ち上がって椅子を元あった場所へ戻した。そのまま帰るつもりらしかった。
「その……ぼくはきみに何かしたかい?」
アンジョーラは立ち止まって振り返る。寝起きでも鋭い眼力に、射貫かれるような心持ちだった。
「……ああ、接吻された」
「ええ!?」
「冗談だ、きみはあの酒樽とは違うだろう。……夜道はあぶないから泊っていけとせがまれただけだ。そのことばに甘えさせてもらったというわけだ。……どうした青い顔をして」
吐きそうなのか、と問われ、ああ、いや、おどかさないでくれよ、とコンブフェールは気恥ずかしそうに目をそらした。アンジョーラとしては昨晩のちょっとした意趣返しのつもりであったのだが、冗談が通じなかったのかと内心首をかしげる。
「……水も飲まずにきみは寝てしまったから。きちんと水分を補給したまえよ。ぼくは帰る」
「待てよアンジョーラ、朝食は?」
「いい。きみもその調子じゃ、食べられないだろう。今日はゆっくり休め。……また明日な」
アンジョーラは微笑んで軽く手をあげ、いってしまった。コンブフェールは両手に顔をうずめ、大きく息をつく。当面酒は控えようと心に誓った。


アンジョーラにしては珍しい冗談に、笑えなかったのはコンブフェールだけの秘密であった。
1/1ページ
    スキ