Ⅳ : 嘘

 ナミさんの声に、危険な状況だということをすぐに理解したルフィは、ゴムゴムの能力で飛んで来た勢いそのままに、男の顔へ右の拳を振り上げた。
 だがその拳が男の顔面に当たる寸前で、ルフィの動きが止まる。
 男はその瞬間を見逃さず、おれの喉元にあった剣をすぐさまルフィへと突き出した。
「うわっ‼︎」
 驚きながらもルフィは空中でクルッと後ろに一回転してそれをかわし、右手をついて着地する。
「おっさん……⁉︎」
 ルフィが不思議そうに男の顔を見上げた。
 やっぱりか。
 おれは出なくなりつつある声を、精一杯絞り出す。
「ルフィ……、この男は……あのおっさんとは別人だ」
「え⁉︎ あっ、サンジ! お前どうしたんだよ⁉︎ やられたのか!」
「いや……ちょっと、ヘマしちまっただけだ……気にすんな」
「何言ってんのよ‼︎ ちょっとどころじゃないわ。サンジ君、もうちょっと真剣に考えて!」
「……ナミさん、そんなにおれのこと……思ってくれてんの……?」
「……‼︎」
 言葉に詰まった彼女を横目に、おれはかろうじて動く左手でポケットから煙草を取り出し、口に咥えた。
 残念ながら指先に上手く力が入らなくて火は点けられそうにねェが、いつもの自分らしさを取り戻した気がして、体が少し楽になったように感じる。
「ルフィ……お前は……ナミさんを連れて先に逃げてくれ……! 後は、おれが……どうにかする」
「サンジ君⁉︎」
 さっきまで動かなかった両足に不思議と力が入り始めたことを認識し、おれは木の幹に体重を預けながらゆっくりと立ち上がる。
「ナミさん……、雨が降ってる間だけしか……この森ん中でおれ達に自由はねェんだ。だから……一刻も早く……ここから抜け出さなきゃなんねェ」
 おれの推測に返事をしたのは、おれ達のやりとりを黙って見ていた目の前の男だった。
「ほぉ、毒にやられてるとはいえ、この島に初めて来た人間にしてはかなり上出来な分析力だ」
「褒めてくれるってことは……正解ってワケか」
「そうだな。ここでお前を始末するのはもったいない気もするが、仕方がない。そろそろ楽にしてやろうじゃないか」
 男がそう言っておれに向かって一歩踏み出した時、おれの目の前に突然ルフィが立ちはだかった。おれより少し小せェハズの背中が、普段よりも大きく見える。
「ナミ、サンジを連れて先に行け‼︎ ここはおれが引き受ける!」
「でも、この人が持ってる解毒薬がないと、サンジ君が……‼︎」
 そうだ。
 落ち着いて考えれば、ルフィがこの男に簡単にやられるワケはねェ。この場からナミさんを逃がすことが最優先だとしたら、今はルフィの指示に従うべきかもしれなかった。
「ルフィ……、わかった……‼︎ ここは、お前に頼む」
「おうっ‼︎ 任せろっ!」
「サンジ君⁉︎」
「ルフィ、一つ確認するが……あいつらは?」
「あ? あぁ、もう一緒にいると思うぞ」
 ルフィのここぞという時の理解力は、ホントにすげェ。おれが細かく言わなくともすぐに伝わる。
 ひとまずチョッパーと一緒ならば、さすがのあいつも迷子マリモにはならねェだろう。
 今は背中しか見えねェのに、船長としてのルフィの自信満々な顔がハッキリと見える気がして、おれの心は一気に落ち着いた。
「行くよ……ナミさん」
「でも……‼︎」
「サンジ!」
「わかってる……‼︎ 後でな」
 ルフィは、おれがナミさんを守りきることを信じてくれている。
 そのルフィの信頼に全力で応えるんだ。
 そう心に誓い、いまだ躊躇うナミさんの腕を引っ張って、おれはその場を後にした。

 自分の荒い呼吸の音が、後ろについて来るナミさんにどれだけ聞こえてるのだろうか。きっとすげェ心配させちまってる。
 気持ちばかりが焦り、踏み出す足は一歩ずつ確実に進めるだけで精一杯だった。
 走りたいのに走れねェ。
 いつも通りに余裕をかましたおれを見せれば安心させられるだろうに、振り返るだけでも転びそうでそれすら出来ねェ。
 自分自身が情けなくてどうしようもなくなるが、そんなことを気にしてる場合じゃねェ、と心に言い聞かせる。
 一刻も早く、ナミさんを安全なサニー号まで連れて行く。おれのやるべきことは、それだけだ。
 ナミさんの手を握る左手に感覚を集中させ、必死に気持ちを奮い立たせる。
 森の出口には確実に近付いてるハズなのだが、いつの間にか大きな岩壁に辺りを囲まれ、それに合わせたように木々の茂みも深くなり、道は一段と狭くなってきていた。
 激しく体を叩きつけていた雨も木々に阻まれ、弱まったように感じる。いや、実際に雨そのものが小降りになってきているのか。
 この雨が止むまでに、ルフィ達は森から抜け出せるだろうか。
 でもおれは、ルフィと約束したんだ。
 ナミさんを守ると。
 その時、不意に風が流れた。
 全身に緊張が走ったと同時に、左の太腿が激痛に襲われる。
「……ぐっ‼︎」
 おれは繋いでいた手を離し、そのまま一人で見事に転んだ。咥えていた煙草が、ポロッと地面の水たまりに落ちる。
「サンジ君‼︎」
「ナミさん、危ねェ!」
 左手を必死に伸ばして彼女を抱き寄せ、すぐ傍の太い木の幹に身を隠した。一息つく間もなく、盾代わりにした幹に数本の矢が次々に刺さる振動を背中で感じる。
 それがおさまると、足早に近付いて来るいくつもの足音が聞こえ始めた。
 このままじゃ逃げ切れねェことを悟り、改めて周囲を見渡すと、五メートルくらい先の岩壁の間に、小さな洞窟の入り口らしいモノがあった。
「大丈夫。ナミさん……こっちだ」
「えっ⁉︎」
 彼女の手を引っ張ってそこに身を隠し、左太腿に刺さった矢を引き抜く。
 その間に、水溜まりを弾きながら近付く足音が響いてきた。自分の荒い呼吸音に混じって聞こえるそれは、十人くらいか。
 しまったな。
 あの男は自分だけ残ってルフィと戦い、一緒にいた奴らにおれ達を追わせたのか。
 ルフィが追いついてこねェことを考えると、まだあの男と戦っているのだろう。どうやらあの男は、想像以上に強かったらしい。
 さらに新たな毒矢で左の太腿に傷を負っちまったおれには、この人数を相手にするのは明らかに無理だ。もう足が言うことを聞かねェ。
 どうする? 
 ナミさんだけでもこの場から逃がせるか?
 そう考えながら、ふと隣に座っている彼女の顔を見た。
 雨に濡れ、雫がポツリポツリと滴り落ちる前髪の奥に見える瞳は、まっすぐに洞窟の外を見つめ、強い意志の光が宿っている。
 その美しい瞳を見たおれは、一瞬で不安に埋め尽くされ、地面に着いている彼女の左腕を力の限りギュッと握りしめた。
「ナミさん、妙なこと……考えんなよ……っ!」
「……‼︎」
 驚いておれを見る彼女の表情で確信した。
 ナミさんは、おれを救う為に動こうとしている。
 その時、洞窟の外から聞き覚えのある声が響いてきた。
「あんなにお膳立てしてやったのに、なんてザマだ。小僧、今は諦めて娘を渡すべきだ」
「……‼︎」

 洞窟の入り口に一人の男が佇んでいる。その風貌はさっきの身なりのいいあの男とは別人だが、顔は同じ。
 つまり今度こそ、あの島で会ったおっさんだった。
 驚きのあまり、おれの口から出た言葉はあまりにも陳腐だった。
「お膳立てだと……? ふざけんな……てめェはおれ達を騙して、ここまで連れてきて……。最初からナミさんを手に入れるのが目的だったんだろ……?」
「お前のくだらない主張を聞いてるヒマはない。娘、この状況を理解しているのならこっちに来ることだ」
「……」
 おれを見ずに無言で立ち上がろうとするナミさんの手を、おれは離すまいと必死に掴む。
「小僧、その様子だとお前の命はもってあと数分だ。迷ってるヒマはない。わしは最初にお前がドジを踏んだ古い罠に対する解毒薬は持っているが、残念ながら、今新しく受けた毒に対する薬は持っていない。それはごく最近この島で開発されたモノだから、ワシには手に入らないのだ」
「……よく言うぜ……この島にたびたび来てるクセによ……」
 それは、この島に来てからすぐにわかったことだった。
 話すだけで精一杯のおれにおっさんの表情は窺い知ることは出来なかったが、妙に間が空いたから動揺したのは間違いねェだろう。
 さらにおっさんに追及しようとするが、ナミさんが先に疑問を口にした。
「おじさん、あなたの持ってる解毒薬は、ホントにサンジ君に効くの?」
「あぁ、間違いない。さっき言った通り、新たなモノに関しては微妙だがな」
「じゃ、あなたの言うことを聞くから、その薬を先にちょうだい」
 ナミさんはそう言いながら、おっさんに右の手のひらを差し出す。
「ナミさん……⁉︎」
 彼女の言葉に、一切の迷いはなかった。
 おっさんは、腰のあたりにぶら下げている古びた布袋から小瓶を取り出した。それはあの男に見せられた瓶とほぼ同じだった。
 手のひらに乗せられたその小瓶を少し見つめた後、ナミさんが訊ねる。
「これはもし私が飲んだとしても、害はないの?」
「あぁ、大丈夫だ。何も起こらない。しかし既に毒に侵された者には、全身に苦痛が襲うだろう。だが解毒が済めば、嘘のように楽になる」
「わかったわ」
「ではわしは、向こうで待たせている者のところにいるからな」
 そう言って、おっさんは姿を消した。

 洞窟の入り口が明るい。
 おっさんがいなくなったのもあるが、雨がもう止みそうだ。
「ナミさん……何考えてる……?」
「気にしないで。いつものあんたと同じよ」
 ナミさんはそう言うと、右手に持った小瓶を口元に持っていき、歯で噛んで蓋を開けて、中身の液体をそのまま自身の口へ流し込んだ。そしてそのまま小瓶を投げ捨てて、おれの顎をガシッと掴む。
「ナミさん……⁉︎ 何のつもり……だ……」
 強制的に上を向かされたおれは何が起きてるのかすぐに理解出来ず。おれの口がそのまま彼女のそれで塞がれていることに気付くまで、数秒を要した。
 苦くて生暖かい液体が口内にゆっくりと流れこんできて、喉を通っていく。
 喉が熱い。
 いや、それよりも唇が触れ合っているという事実が頭ん中を埋め尽くし、彼女を離すまいとずっと掴んでいたおれの手の力が一瞬緩む。
 しまった!
 そう思った時にはもう遅かった。
 唇の温もりは消え、おれの手から逃れたナミさんが立ち上がる。そして何も言わず、振り返ることもなく、洞窟の外へ出て行った。
「ナミさ……ん‼︎」
 すぐさま立ち上がって追いかけようとするも、体に全く力が入らず、おれは前屈みのまま水たまりだらけの地面に倒れる。喉の奥が焼けるように熱く、さらに息苦しい。全身が千切れるように痛くて堪らねェ。
 だが、痛みなんてどうでもいい。
 おれの心には、後悔の嵐が吹き荒れている。

 ナミさん、おれは君に嘘をついた。
『大丈夫だよ。ナミさんはおれが必ず守る。だから、おれから絶対離れないように』
 あの時、何を偉そうにナイト気取りで言ってたんだ⁉︎
 おれは君を全然守れてねェじゃねェか!
 逃げる道を間違えた挙句、毒矢までくらって心配までさせて。
 終いにはおれの方が君に守られちまってる。
 情けねェ。
 おれは嘘つきだ。
 君を守る資格なんて、おれにはねェ。

 体が一段と焼けるように熱くなり、生きているのが不思議なほどに息苦しい。
 徐々に瞼が重くなり、視界が暗くなっていく。
 雨音がいつの間にかなくなり、誰かの足音が近付いて来るのがわかった。
 だが再び瞼を上げることは出来ず。
 誰かが自分を見下ろす気配を感じたが、そこでおれは意識を手離した。
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