Ⅳ : 嘘

 一歩、また一歩。おれは迫ってくる嫌な気配へ、ゆっくりと足を踏み出して行く。そして、後方の木の陰に隠れたナミさんの様子をギリギリ窺える場所で足を止めた。
 ルフィでもチョッパーでもいい。早くナミさんの元に来てくれれば、もっと距離を置いておれだけに注意を引きつけられるんだが。
 彼女を逃がすとしても、一人きりにすることは危険すぎてどうしても出来なかった。
 そうこうするうちに、十数人の重い足音が目の前に迫ってきていた。
 前髪から滴る雨の雫を左手で拭うと、異様なまでに汗をかいてることに気付く。
 雨でずぶ濡れになってて、良かったこともあるモンだ。ナミさんにも、目の前に迫って来てる奴らにも、これが汗だとは気付かれにくい。もちろんそれは暑いワケじゃなく、体が限界だと悲鳴を上げているのだが。
 自分の荒い呼吸音と、雨音だけが耳に響く。
 そこに、パキッと小枝を踏みつける小さな音が混じった。敵は強気だ。おれが弱ってることに気付いて、堂々としてやがる。
 木々の奥から、隠す気などまったくねェ偉そうな足音とともに、長く白い髭を蓄えた男が現れた。
 その姿を見て、おれは動けなかった。
 驚き黙ったままのおれを嘲笑うかのように、男は鞘から立派な長剣を抜き、堂々と目の前に立ちはだかる。
「ほぉ、貴様はわしの顔を知ってるな? ということは、あの島に行ったのか。どうりで……この森をここまで無事に来れたわけだ」
「……⁉︎」
「いや、無事ではないか。今しがた古い罠に引っかかったのはお前だな」
「……誰だてめェ」
 おれの口からやっと出たのは、その一言だけだった。
 男はおれの言うことにはおかまいなしで、偉そうに上から物を言う。
「あの毒矢をまともにくらったにしては、まだ随分とイキがいいじゃないか」
「……うっせェ。質問に答えろ……てめェは何者なんだ?」
 口調は冷静さを装っているが、おれの頭ん中はひどく混乱していた。あの小さな島で出会ったおっさんと同じ顔、同じ声をした男が今、目の前にいる。
 だが、明らかに別人だ。
 所々に高そうな宝飾がついた身なりをしているせいもあるが、漂う雰囲気はまったく別物だった。
 今のおれにただ一つわかるのは、この男が危険だということ。
 おれは無意識に、咥えていた火のついていない煙草をギリッと音がするぐらいに噛みしめる。
 それを見た目の前の男が、少し驚く表情を見せた。
「なるほどな。お前がまだ動けるのはそれのせいか。あいつは余程お前に肩入れしたと見える。何を考えてるんだか」
「何の……ことだ?」
「知らないのか。だが、あいつが言わなかったことをわしがわざわざ答える義務などない。お前はわしの質問に答えればいいだけだ。わかったな?」
「おれにも……てめェの質問に答える義務はねェと思うが」
「この状況を理解出来てないくせに、口だけは達者なようだ。だが、まあいい」
 そう言うと男は、腰の辺りにつけていた小さな布袋から何かを取り出しておれに見せた。
 親指と人差し指で挟んで見せられたそれは、五センチ程の小さな小瓶だった。
「この中身は解毒薬だ」
「何……⁉︎」
「これが欲しければ、黒髪の女の居場所を教えろ」
 黒髪の女?
 ロビンちゃんのことか⁉︎
 待てよ。
 ということは、まだこいつらにナミさんのことは気付かれちゃいねェのか。なら、ルフィかチョッパーが来るまで、あと少し時間を稼いでみるのもありだな。
「残念ながら……知らねェな」
「誤魔化しても無駄だ」
「嘘はついちゃいねェさ。ただ……」
「ただ?」
 おれは出来る限り息を吸い込み、一気に男に向けて言い放った。
「たった一人のレディすら捕まえらんねェてめェらが、情けねェってことだけはわかるさ」
「何だと⁉︎」
 その声と同時に男の持つ長剣の剣先がおれの喉元めがけて突き出され、スレスレの所で止まる。
 男が怒るようにワザとけしかけたのだから、それくらいのことは予想していた。そして、おれから聞き出してェことがまだ他にもあるから、すぐにはおれを殺さねェということも。
 身動き一つしなかったおれを見て、男はさらに苛立ちを見せる。
「勘違いするな。お前から何も聞き出せないのなら、また他の人間を探せばいいだけの話だ。お前はそのうち勝手に息が止まるが、他に仲間がいることはわかってるのでな」
「そう……簡単に行かせるかよ……っ‼︎」
 おれは素早く一歩後ろへ下がって喉元にある剣先から逃れると、男の手元をめがけて右足で蹴りを放つ。
 しかし、その足は空をきった。
 そのままバランスを崩して倒れたおれの頭上に、男の長剣が振り落とされる。
 それを寸前で横に体を翻して避け、低い体勢から男の腹を思いきり蹴り上げた。
 男が後ろに吹っ飛び、すぐ近くの木の幹に背中からぶつかる。
 間髪入れず次の蹴りを入れようと勢いよく立ち上がろうとしたおれの足が……力なく崩れ落ちた。片膝が地についたまま動かない。
「待てよ……あと一撃でいいんだ。動いてくれ……っ」
 両手を地面につき、何とかして立ち上がろうとしたおれの視界の隅に、キラッと光るモノが入った。地についた両手に精一杯の力をこめ、後ろにのけぞるようにしてその光の筋を避ける。
 いや、避けきれなかった。
 剣先が胸から左肩にかけて斜めに通り過ぎ、ごく浅い傷ながらもおれの血が周囲に飛ぶ。
「……っ‼︎」
 その勢いで今度はおれが、すぐ後ろの木の幹に背中を打ち付ける番になった。
 口に咥えていた煙草が飛ぶ。
 息が止まりそうな背中の痛みに堪えていると、スッと剣先に顎を乗せられ、強引に顔を上げさせられた。
 見上げた視線の先には、男の冷たい眼があった。
 同じ顔だが、明らかにあのおっさんとは別人だ。
「それだけ調子に乗って動けば、体に毒がまわるのも早かろう。お前はよくやったが、哀れなことだ」
「うっせェよ……」
「ただその戦力は、我々にとっては危険だ。やはりここで息の根を確実に止めておくか。勿体ない気もするがな」
「……そりゃあ賢明な判断だ」
 男の言う通り、予想より早く体が動かなくなったおれは、これからどうやって時間を稼ぐかあらためて考え始める。

 その時、激しい雨音に混じり、この場で一番望まない声が背後から耳に飛び込んできた。
「待って!」
 おれの思考回路は止まった。
 それはもう、彼女のことを気付かれねェようにする必要がなくなっちまったから。
 男の視線がおれから外れ、見たことのある表情へと変わってゆく。あの島にいた男が初めてナミさんを見た時と同じだ。
 男の後ろにいた十数人の部下らしき野郎たちも驚き、顔を見合わせている。
 この島にいないレディを、新たに見つけたってだけの反応じゃねェ。あのおっさんが言っていた、ナミさんに似ていたという娘。そこに何かしらの意味があるのかもしれねェ。
 こいつらがナミさんに危害を加えねェだろうことは、なんとなくわかる。だが、だからこそナミさんを手に入れたがっているのも感じる。
 ナミさんを連れて行かれるなんてことは、おれが絶対許さねェ。
 なのに今のおれは、自分のミスでくだんねェ毒にやられて、動けなくなってるのが現実だ。
「ナミさん来んな……! おれは大丈夫だから……、逃げろ……っ」
 情けねェ。声もろくに出なくなってやがる。
「そんなの、出来るワケないじゃない!」
 振り返れねェがさっきよりも耳にハッキリと響く声に、彼女がかなり近くまで来ていることを実感する。
 どうする?
 答えが出る前に、男がナミさんに静かに提案した。
「娘、この小僧を助けたくば我らと来い」
 予想通りだった。
「ナミさん、聞いちゃダメだ……‼︎」
「まだ強がってそんなことが言えるのか。呆れたもんだ」
「先に、あんたが持ってる解毒薬をちょうだい」
 伸ばしたナミさんの手が、視界の右隅に見える。
「わかってるのか? お前たちがわしに命令する立場ではないことを」
「だから何?」
「ずいぶんと気が強いな」
 そう言って男は笑った。
 男の脅しにナミさんは全く動じなかった。それは、男が提案した交換条件に乗る覚悟の表れだ。

 おれが何も出来ねェまま右に立つ彼女を見た時、その奥の木の茂みから黒い物体がこちらに向かってふっ飛んで来た。
「ナミさん、危ねェ‼︎ 伏せて……!」
「えっ⁉︎」
 ナミさんは何が何だかわからねェまま、両手で頭を押さえてしゃがみ込む。
 そのナミさんの頭上スレスレを通り、おれと男の間を一瞬にして通過した物体が、すぐ左横の木の幹にドスッと重い音をたてて力なく地面に落ちた。
 まったく同じ事をついさっき経験していたおれとナミさんは、何が起きたかすぐにわかった。
 そこに落ちた黒い物体はこの島の人間、つまりおれたちを追ってきた奴だ。
「ルフィーー!」
 気を失った男が飛んできた方へ向かって、ナミさんが声の限りに叫ぶ。
 少し間をおいて、この場には不似合いの陽気な声が響いてきた。
「ナミか⁉︎ 良かったぁ‼︎ 今行くぞー!」
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