Ⅲ:予感

「その娘を本気で守りたいなら、わしの話を真剣に聞くことだ」
 目の前で胡座をかいて座る初老の男が、おれだけに聞こえる小声で突然言った。
 何なんだ?
 いつものおれなら他人の言うことに惑わされることなどねェが、この男の言葉はそんなおれの心にスルッと入ってきやがった。
 ただ者じゃねェことは感覚でわかる。
 だが会ったばかりでおれの心ン中を何でもわかってるような顔をされると、妙に腹立たしい。
 それにナミさんのことを言っている。
 おれは一度軽く息を吐いて男を正面から見据え、努めて穏やかに、ルフィとナミさんにも聞こえるように告げた。
「もちろん、おっさんの話を聞いた上で言う通りにするつもりだ。だが……」
「だが何だ?」
「おれ一人で聞く。その間に他の二人には船を選んですぐ出られるように準備してもらう。それくらいいいだろ?」
 おれの言葉にすぐさま反応したのはナミさんだった。
「サンジ君、私もその話を聞いておいた方が……」
「いや、サニー号にはロビンちゃんがいるんだ。見たところ、ここには電伝虫がなさそうだから少しでも急いだ方がいい。そう思わねェ? ナミさん」
「それはそうだけど……」
「ナミ、ここはサンジに任せておれたちは出航準備しようぜ! なっ、おっさん。船はどっちでもいいんだろ⁉︎」
 こんな時のルフィは、いつも潔い。おれを信頼してるのがストレートに伝わってくる。
 それを考えることなく自然に出来てしまうのがルフィであり、おれはその信頼に応えたくなる。
「あぁ、構わない。勝手に選べ。ただし、船に傷をつけるなよ、小僧!」
「おう、わかってる‼︎ ありがとな、おっさん!」
 ルフィは笑顔で男に礼を言うと、再び両手を伸ばして手前の船の手摺を掴み、勢い良く飛んでいった。
「ちょっとルフィ!」
「頼んだよ、ナミさん」
 慌てるナミさんに、おれは笑顔で声をかける。
「もう! 仕方ないわね。じゃ、後は頼んだわよ、サンジ君」
 ナミさんはそう言い残して、ルフィを怒鳴りながら船へ走って行った。
 ナミさんが慌てるのも無理はねェ。今のルフィなら喜びすぎて、何か壊しちまってもおかしくなかった。

 さてと……。
 おれはその場にしゃがみ、改めて目の前の男に向き合った。
「おっさん、煙草くんねェかな?」
「えらく調子が良すぎるんじゃないのか?」
「そんなことはわかってるさ。けど煙草を吸って落ち着かねェと、せっかくのおっさんの話も頭に入らなそうなもんで」
「お前は頭がいいのか悪いのか……どこまでが本音なのかわからんな」
「よく言われるよ」
「救いようがないな」
「あぁ、おれもそう思う」
 フッ、と男が一瞬笑った気がしたのは気のせいか? ま、そんなことは全然構わねェんだけど。
 男は腰の辺りにぶらさげている小さな袋から木箱を取り出し、蓋を開けておれに差し出した。
「好きなだけ取れ」
「いや、とりあえず一本だけでいい」
 おれは適当にその中から一本を摘んで取り、口に咥えた。
「悪ィな。ついでに火もくれるかい? ライターもマッチも使えなくなっちまってて」
「世話が焼けるな」
 面倒臭そうに言いながらも男はマッチを擦り、火が消えないよう手で覆う。おれはそれに煙草の先端を付け、深く息を吸い込んだ。
 体内に煙が満ちていく感覚。それは数え切れないほど繰り返してきた動作だが、数時間あいただけで新鮮に感じられた。
 頭ん中が普段の感覚に戻ってきた気がする。
 初めて吸うその煙草の味がいつもと違うのは当たり前だったが、見た目とは裏腹に味は高級な印象を受けた。
 煙草を指に挟んで、思わず眺める。
「こりゃすげェや。おっさん、いつもこんなすげェの吸ってんのかよ?」
「どういう意味だ?」
「だから、いつもこんないいモン吸ってんのかってことだ。この煙草に会ったのは初めてだが、それくらいのことはおれにもわかる」
「ほう……」
「今まで色んな煙草を試したが、こんだけのモンならあちこちで流通しててもおかしくねェのに」
「お前は勘がいいのか悪いのか本当にわからんな」
「あ? 何だよ」
「お前の言う通り、この煙草はかなり質がいい。だが、何故これだけいいモノが他所に流通していないか。その答えはお前達が既に経験したハズだ」
「おれ達が?」
「そうだ。ここに着くまでのことを思い出してみるんだな」
 ここに着くまでのことって……何だ?
 立ち上る煙を見ながら記憶を遡ると、たいして時間はかからずに答えが見つかった。
「なるほどな。ここに着く前のあの嵐と何もない数日間か。確かに並の船とクルーじゃ行き来は難しいかもしれねェな」
 男が口の端を上げ、無言で頷く。それは、おれの出した答えが間違ってねェということで。
 あの数日間を乗り切るにはおれくらいに食糧管理が出来る人間が必要だし、あの嵐に対処するにはナミさんレベルの気候を瞬時に読める航海士がいねェと不可能だ。そしてその二つの条件が揃った上で、サニー号並みに頑丈な船でなければ、あの嵐を越えられねェだろう。まぁ、クルーの精神力の強さも必要だが。
「そしてこの島から出る時には、来た時よりも更に酷い嵐が襲う。お前ならこの意味が分かるだろ?」
「あぁ。それ程のリスクを背負ってまで、おっさん達と交易する馬鹿はいねェってことだな」
「そうだ。たやすくここらの島から海には出られない」
「待てよ。じゃあひょっとして……」
「やっと気付いたか。ここにない船は戻ってくることはない。いや、もう戻って来てるのかもしれんがな」
 そう言いながら、男が船の方を向いた。悲しみを帯び、遠くに想いを馳せるような男の眼差しが妙に気になる。その視線の先の船の陰に、瓦礫の山が見えた。
「ひょっとして、あれが以前は船だったってことか?」
「……」
 おれの質問に男は答えなかった。
 正解、か。きっと心に深く刻まれたことが多々あるんだろう。だが今、おれがそれをどうこう言っても仕方ねェ。
「おっさん、心配してくれんのはありがてェが、おれ達は自分達の船にさえ戻れりゃ大丈夫だ。そこまでにあんな嵐はねェんだろ?」
「心配などしていない。だが、何故そんなに自信を持って言い切れる?」
「おれ達の船はそんじょそこらの船とは作りが違うからよ。すげェ船大工が仲間にいるし、おれもコックとして食糧管理には失敗しねェ」
「お前がコックだと?」
「悪ィかよ」
「煙草を吸う奴がか?」
「あぁ、残念ながら腕は超一流だ」
「世の中も堕ちたもんだな」
「酷ェ言われようだが、おれは構わねェ」
 おれはゆっくりと立ち上がる。
「なんと言っても、麗しの航海士のナミさんがいるから、おれ達の針路は間違わねェよ」
「何⁉︎ あの娘は航海士なのか?」
 男が驚いた顔をしておれを見上げた。
「あぁそうだ。このグランドラインのめちゃくちゃな気候ですら瞬時に予測出来る上に、指示も的確。彼女がいなかったら、おれたちはとっくに海の藻屑になってただろうな」
 ただ、いつも頑張りすぎるのが心配でたまらねェが。
 おれの頭ん中でそんな一言が付け加えられる。
「そうか」
「なんだよ?おっさん」
 驚き方が只事じゃなかったのが妙にひっかかる。
「あの娘を、これから行く島に絶対に降ろしちゃいかん。どうやっても守れなくなるぞ」
「急に何言ってんだよ」
 男はおれを真剣な目で見上げている。
 その様子になんとなく胸騒ぎがして、同時に浮かんだ疑問をおれはぶつけた。
「つーか、なんでおれ達にそこまで親切にするんだ? さっきはおれ達を本気で襲ってきたクセによ」
 男はおれから視線をそらし、一度大きな溜め息をついた。
「わしらの中でズバ抜けた技術を持つ航海士が乗って出航した船があのザマだ。繰り返して言うが、その島には女が一人もいない。これが何を意味するのか考えろ」
「なるほどな。その島の奴らは、喉から手が出るほどナミさんを欲しくなるってことか」
「そういうことだ」
「よくわかったよ」
 おれは再びしゃがんで、短くなった煙草を地面に押し付けて火を消した。
「だったら何故、そんな奴らと関わりのある立場のおっさんがおれ達に有利になるようなアドバイスをするんだ? それを聞かなきゃおっさんの言う通りには出来ねェよ」
 普段のおれなら、他人が口にしたがらねェ事には深く突っ込まねェ。けど、今は聞いておくべき時な気がする。
「確かにそうだな。お前の言う通りだ。じゃあ一つだけ伝えておこう。これを信じるも信じないもお前の自由だ」
「あぁ」
 男は一瞬笑みを浮かべ、その後ゆっくり立ち上がった。見下ろす視線がおれの目に真っ直ぐに突き刺さる。
「その島の最後の生き残りの女は、わしの実の娘だった。と同時に、航海士として今はもう形のない船に乗せられていった。そして、お前が守りたいあの娘と同じ色の瞳をしてた。それだけのことだ」

 その直後、ルフィのご機嫌な声が響き渡る。
「おーい‼︎ 船決めたぞォ!」
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