キスからはじめよう。

 おれは医療室のベッドの上に座り、深くため息をつく。
「なぁチョッパー。ちゃんと約束は守るからさ。いいだろ?」
「ダメだ! 夕方だって目を離したらゾロと揉めて大変だったばかりじゃねェか。かなりひどい怪我なんだ。今日はおれもここから離れねェから、勝手に動くことは許さねェぞ!」
 机に向かっていたチョッパーが椅子をクルっとまわしておれを睨む。
「あぁ。じゃあ煙草だけ外で吸ってきていいか?」
「一本だけだったらここで吸っていいから、ここで吸え」
「バーカ。医療室で吸えるわけねェだろ」
 軽く受け流そうとするおれを、チョッパーはクソ真面目な顔でずっと見ている。
 仕方ねェ。今のところは諦めるか。
 おれはベッドにドスッと音をたてて、仰向けに寝転んだ。
 
 チョッパーの監視のもとで、夕食作りと後片付けはきっちりさせてもらえたが、その後再び治療をすると言われて素直に従った結果がこれだった。
 ま、明日の朝食はそんなに仕込みのいらねェ簡単なメニューにするか。
 今ある食材で何を作ろうか?
 目を閉じながら翌朝の献立を考えていると、医療室のドアを優しくコンコンと叩く音がした。
「いいぞ」
 チョッパーがこの部屋の主らしく、ちょっと偉そうに返事をする。それに反応して、ドアがゆっくり静かに開く音がした。
 僅かに流れてきた香りに、目を開けずとも訪問者が誰なのか、おれにはすぐにわかった。
「ナミか。何だ?」
「あ、うん。何か知らないけど、ウソップがチョッパーをすぐ呼んできてくれって言うから」
「えっ、ウソップが⁉︎ 何か怪我でもしたのか?」
「特にそんな感じじゃなかったけど、とにかく焦ってて。すぐに来いって」
「うん。わかった!」
 チョッパーが椅子から慌ててぴょんと飛び降りたものの、おれに視線を向けているのを感じる。
「あ、でもおれ……サンジが勝手に動かねェように見てなきゃいけねェんだった」
「大丈夫なんじゃない?」
「いや、油断するとかなりの痛みでもサンジはすぐ動き出すからよ。おれ、ずっと見ていようと思ってたんだ」
 こりゃ、完全におれは眠ってると思われてるな。ま、チョッパーが出てって少し経ったら抜け出すか。
 そう思った瞬間、思いもよらねェことをナミさんが言い出した。
「それじゃあ、チョッパーが戻ってくるまで私がサンジ君を見ててあげるわ。これで問題ない?」
 ナミさん⁉︎
「そっか。そうだな‼︎ ナミの言うことならサンジは絶対聞くもんな。わかった、お願いするよ!」
「えぇ、安心して」
「うん。何かあったら呼んでくれ!」
「わかったわ」
 ナミさんの穏やかな返事の後、チョッパーがパタパタと小走りする音がして、ドアがバタンとしまった。
 チョッパーと話している間のナミさんの声は、その優しい笑顔が想像できるくらいに穏やかだった。もしおれが今ホントは起きていると知ったら、急に変わっちまうのだろうか。
 それがもったいねェ気がしてたまらなくて。おれはすぐに目を開けられず、寝たフリをきめこんだ。

 そのままどれだけの時が経っただろうか。
 すぐに戻ってくると思ったチョッパーは、なかなか戻ってこなかった。
 チョッパーがこの部屋を去ってから、ずっと流れ続ける沈黙の時間。ナミさんがどんな表情をしてるのかすげェ気になるけど、今さら目を開けらんねェおれがいた。
 そんな心の葛藤が限界に達する頃、前触れもなく静かな時は破られる。
「ちょっと……いつまで寝たフリ続けてんのよ。また何か期待してるんじゃないでしょうね?」
 ナミさん、今何て言った?
「そのまま待ってたって、夕べみたいに何もイイことなんてしないわよ」
 ナミさんのその言葉でおれは確信した。
 昨夜、キスされた時におれが起きていたことをナミさんは知ってる。
 てことは、ナミさんはそれをわかった上で、さっきからずっとおれと二人きりのこの空間に無言のままでいたんだ。
 何故?
 考えても答えはすぐに出そうにねェ。
 とにかく今は、このまま寝たフリをするのが無駄なことだけは明らかだった。
 観念してゆっくり目を開けると、ナミさんはチョッパーのように机に向かって、おれに背を向けて本を読んでいた。
 新たにページをめくる音がする。
「……バレてた?」
「今日の態度見てればわかるわよ。ていうか、わかりやす過ぎるわよ。サンジ君だったら、全然あんなこと慣れてそうなのに」
 ナミさんは左手で頬杖をつきながら本に視線を落とし、右手の親指ではじく様にページをいじっていた。
 それを見てふと思う。
 そういや、今おれが目を開けるまでにページをめくる音なんて一度も聞こえなかった。
 ということは、おれが寝たフリしてたのと同じように、ナミさんも本を読んでるフリをずっとしてたのか?
 新たな疑問が浮かんだせいで、すぐに返事が出来ずに妙な間が出来ちまった。
 その間に耐えられなかったのか、ナミさんが少し怒ったように言葉を続けた。
「そのせいで、ゾロにまで恥かくの我慢して確認しちゃったじゃない!」
 それで全てわかった。
 ナミさんの行動の理由が。
 多分昨夜ダイニングから出る時に、ナミさんはゾロと鉢合わせになったんだ。
 あいつのことだ。ナミさんに確認されて、実際に見たことを隠すなんてことはしなかったんだろう。
 そしてナミさんは誰にも……もちろんおれには絶対言わないでと言ったことは安易に予想がつく。
 だが昼のおれの様子があまりにも変だったから、もしかしたらゾロがおれに言ったと思って。それで誰にも聞かれねェようにする為に、わざわざ女部屋にゾロを引っ張っていって問い詰めてたのか。
 どうりであいつがあんなにイラついて、おれにつっかかってくるワケだ。
 当然だよな。おれがちゃんとナミさんに向き合わねェクセに、寝てるナミさんには勝手にキスしてたのを何度も見ちまってるんだ。
 おれが逆の立場だったら耐えらんねェ。
 だが、あいつはきっとナミさんの気持ちを考えて……。
 畜生! あいつに負けた気分だ。
 いや、おれもナミさんを想う気持ちなら負けねェ。

 ナミさんが本をパタンと閉じた。
「ま、サンジ君にとってはなんてことないことなんだから、関係ないか」
 呟くように言って、彼女がすっと立ち上がる。
 おれもそれに合わせて起き上がる。
「紅茶でも淹れてくるわ」
「おれがやるよ」
「いいわよ。それぐらい自分で出来るから」
 おれは、ダイニングへ続くドアへ歩き出したナミさんの左手を掴む。
「だってナミさん、チョッパーとの約束で、おれと一緒にいなきゃいけねェんだろ?」
「……仕方ないわね。勝手にすれば」
「ナミさんの言葉のままに」
 そう言ってベッドから立ち上がろうと床に足を着いた途端に、左太腿から激痛が走る。
「痛……っ‼︎」
 力が入らず予想以上によろけたが、おれは転ばずに済んだ。ナミさんが抱きつくようにしてしっかりおれを支えてくれていた。
「だから、あんたは立派な怪我人なのよ。おとなしくしてなさい」
「ゴメン。少し油断した。もう大丈夫だから」
 ホントに油断した。
 チョッパーの治療はやっぱりすげェ。横になってたら痛みをすっかり忘れていた。
 このまま彼女を抱きしめてェ気持ちが溢れそうになったのをギリギリで堪え、おれは彼女から離れた。
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