ウシジマくん呟き

タヒネタ 終

2026/01/17 10:37
眠っているはずなのに、
目を閉じた感覚がなかった。
気づいたら、事務所にいた。
掃除される前の、あの頃のままの事務所。
埃っぽくて、
書類が散らかっていて、
夜の匂いがする。
「……」
柄崎は、そこに立っている自分を見て、
不思議なくらい何も思わなかった。
感情は、もう死んでいるはずだった。
「何突っ立ってんだ」
低い声。
それだけで、
反射的に背筋が伸びた。
「……社長」
呼び方が、
夢だと気づくより先に、口をついて出た。
社長はいつも通りだった。
変わらない顔。
変わらない立ち方。
死んだ痕跡なんて、どこにもない。
「仕事、溜まってんぞ」
それだけ言って、
机に向かう。
あまりにも“普通”で、
柄崎はそこでようやく、胸の奥が微かに軋んだ。
――ああ。
――これは、夢だ。
分かっている。
分かっているのに。
「……社長、もう……」
言葉が続かない。
何を言えばいいのか、分からない。
死んだこと?
いなくなったこと?
パーカーのこと?
どれも、今さらだ。
社長は振り返らない。
「くだらねぇこと考えてんな」
淡々とした声。
怒っても、優しくもない。
「俺はもう関係ねぇだろ」
その一言で、
胸の奥に沈めていたものが、微かに揺れた。
「……じゃあ、なんで出てくるんですか」
初めて、感情が滲んだ声だった。
社長は少しだけ黙ってから、
ようやく柄崎を見る。
その目は、
夢のくせに、やけに現実的だった。
「お前が呼んでるから」
それだけ。
「……俺、何も感じなくなりました」
告白みたいに言った。
泣きもしない。
縋りもしない。
ただ、事実を並べる。
「それでいい」
即答だった。
「感じてたら、壊れるだろ」
あまりにも、社長らしい答え。
「俺がいなくなったくらいで、
 お前が終わる必要はねぇ」
その言葉で、
初めて“無”にヒビが入った。
「……でも」
声が震えた。
「……それでも、
 いないのは……」
社長は少しだけ、目を細めた。
「夢で会えてる分、マシだろ」
そう言って、
背を向ける。
「起きろ、柄崎」
その瞬間、
世界が歪んだ。
目を覚ます。
天井。
静かな部屋。
現実。
胸の奥が、
じわっと痛んだ。
涙は出ない。
叫びもしない。
ただ、
“何も感じないはずだった場所”に、
確かな違和感だけが残っている。
「……クソ」
小さく呟いて、
柄崎は目を閉じた。
夢に出てくるということは、
完全には消えていないということだ。
それが救いなのか、
それとも、
また壊れる予兆なのか――
まだ、分からない。

それから暫くして夜に夢を見ることはなかった。
正確には、
“あったはずなのに、何も残っていなかった”。
目を覚ました瞬間、
柄崎は無意識に息を止めていた。
――来なかった。
胸の奥が、わずかに沈む。
でも、もう驚きはしない。
最近、そういう夜が増えていた。
目を閉じても、
あの声はしない。
事務所も、机も、
あの背中も、現れない。
ただ、暗いままの意識が、
朝まで途切れず続くだけ。
「……」
何も感じない。
……はずだった。
けれど、
“何もなかった”という事実だけが、
妙にくっきり残る。
夢に出てこないということは、
もう脳が、
「再生する必要がない」と判断したということだ。
記憶は、
薄れるためにある。
忘却は、
正常な回復反応だ。
分かっている。
頭では。
「……そっか」
声に出してみても、
響かない。
社長は、
夢にすら出てこなくなった。
生きていた痕跡は、
物から消え、
日常から消え、
幻からも消えた。
もう、
呼び戻す場所がない。

夜が怖くなくなった。
期待しなくなったから。
目を閉じる前に、
「来るかもしれない」と
思わなくなったから。
それは、
諦めでも、受容でもなかった。
完全な不在への慣れだった。
翌朝、
何事もなかったように支度をする。
顔を洗い、
服を着て、
靴を履く。
全部、問題なくできる。
問題があるとすれば、
「思い出そう」としても、
社長の声が、
もう正確に思い出せないことだけ。
低かったはずだ。
短かったはずだ。
でも、どんな抑揚だったかは――曖昧だ。
「……」
そこで初めて、
ほんの一瞬だけ、
胸の奥がきしんだ。
夢にも出てこないということは、
もう脳内で“更新されない存在”になったということ。
生きていた人間が、
過去に固定される瞬間。
それ以上でも、
それ以下でもない。
柄崎は、
その事実を否定しなかった。
否定する理由も、
力も、
もう残っていなかったから。
布団を整え、
部屋を出る。
ドアを閉めるとき、
何か言い忘れた気がした。
でも、
何を言うつもりだったのかは、
もう分からない。
そのまま、鍵をかけた。

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