ウシジマくん呟き
タヒネタ
2026/01/16 23:15社長が死んでから、もう随分経つ。
季節は一つ変わって、街の空気も、人の顔も、少しずつ違っていた。
それでも柄崎だけは、あの日から動けずにいた。
事務所は回っている。
金も、人も、仕事も、何事もなかったみたいに続いている。
「もう大丈夫だろ」
そんな視線や言葉が、時々突き刺さる。
――何が大丈夫なんだ。
柄崎は今日も、社長の残したパーカーを引き出しから取り出した。
畳まれているのに、着ない。
洗わない。
匂いが消えるのが、怖かった。
「……まだ、いるだろ」
独り言は、もう癖になっている。
最初は否定だった。
次は願いで、今はただの惰性だ。
死んだことは、理解している。
葬式も、火葬も、墓も見た。
現実は、嫌というほど突きつけられた。
それでも、受け入れるという行為だけができなかった。
受け入れた瞬間、
この世界に社長が“存在しなかったこと”になる気がして。
パーカーを抱く。
もう体温なんて残っていない。
匂いも、かなり薄れた。
それなのに、腕の中は空っぽのまま埋まらない。
「……遅ぇんだよ……」
何に対しての言葉か、自分でも分からない。
戻ってこない社長か、
いつまでも縋っている自分か。
夜になると、今でも思う。
ドアが開いて、
無言で入ってきて、
いつもの顔で「仕事だ」って言うんじゃないかって。
そのたびに、心臓が跳ねて、
次の瞬間に、叩き落とされる。
――いない。
何度繰り返しても、慣れない。
慣れる気も、なかった。
「……もう、半年だぞ……」
誰に向けるでもなく呟く。
時間だけが、残酷に進んでいる。
世界は、社長がいなくても成立している。
それが一番、耐えられなかった。
柄崎は今日も、
受け入れられないまま、
置いていかれたまま、
死んだ男の残骸にしがみついている。
悲しみが薄れる気配はない。
ただ形を変えて、
鈍く、重く、日常に沈殿していくだけだった。
②
社長が死んでから、もう何ヶ月も経っている。
なのに柄崎の時間は、あの日から一歩も進んでいなかった。
周囲は言う。
「最近、様子おかしくないか」
「まだ引きずってんのか」
――引きずってる?
違う。
まだ終わってないだけだ。
柄崎は最近、事務所で独り言が増えた。
誰もいないのに、返事を待つ癖が抜けない。
「……それは、違いますよ。社長」
無意識にそう呟いてから、はっとする。
当然、返ってくる声はない。
それでも、
“今、確かにそこに立っていた”気がして、
振り返ってしまう。
夜、帰宅しようとしても、足が止まる。
社長が座っていた椅子を見ると、
「まだ仕事残ってるだろ」と言われる気がして。
パーカーは、もう肌身離さず持ち歩いていた。
鞄に入れて、時々取り出しては触る。
確かめるみたいに。
「……まだある」
ある。
社長の痕跡が。
だから大丈夫だと、自分に言い聞かせる。
最近は、夢と現実の区別が曖昧だった。
寝ているのか、起きているのか分からない。
ふとした瞬間に、
低い声で名前を呼ばれる。
――柄崎。
胸が跳ねる。
条件反射で背筋が伸びる。
「はい」
答えてから、
誰もいないことに気づいて、笑ってしまった。
「……あー……」
喉から、乾いた音が漏れる。
可笑しい。
何が可笑しいのか分からないのに。
鏡を見るのが怖くなったのは、いつからだろう。
目の奥が、どこか他人みたいだった。
「……社長なら、どう言うかな」
判断に迷うたび、そう考える。
答えは、ちゃんと浮かぶ。
それが一番、危険だった。
もういない人間の声が、
こんなにもはっきり聞こえる。
「……ほらな。まだ必要だろ」
誰に言うでもなく、そう呟いて、
パーカーを強く抱きしめる。
現実が歪む。
社長が死んだ世界の方が、
間違っているような気さえしてくる。
「……俺がおかしいんじゃない」
息が荒くなる。
視界の端で、影が動く。
「社長がいない方が……おかしいんだ……」
床に膝をつき、
笑いとも泣き声ともつかない音を漏らす。
受け入れなかった代償が、
少しずつ、確実に、心を蝕んでいく。
それでも柄崎は、
壊れかけた理性より、
社長のいない現実を拒んだ。
正気を失ってもいい。
自分が壊れてもいい。
――その方が、
社長が“いない”世界より、まだ耐えられたから。
③
事務所の空気が、少し違っていた。
床が妙にきれいで、
紙の山が減っていて、
あの埃っぽい匂いが、薄れている。
「……掃除?」
誰に言うでもなく呟いて、
柄崎はいつものように、引き出しに手を伸ばした。
指が、止まる。
引き出しは軽かった。
嫌な軽さだった。
「……?」
開ける。
――何もない。
一瞬、思考が追いつかない。
視界だけが、空の引き出しを映している。
「……ちょっと……」
もう一度、確認するみたいに奥まで覗く。
指でなぞる。
木の感触だけが返ってくる。
ない。
パーカーが、ない。
「……は……?」
喉から変な音が出た。
笑いにもならない。
引き出しを閉めて、
開けて、
また閉めて、
また開ける。
何度やっても、結果は同じだった。
「……どこだよ……」
声が、震える。
知らないうちに、息が浅くなっている。
周囲を見回す。
ソファの上。
椅子の背。
ロッカー。
ない。
ない。
どこにも、ない。
掃除された床が、やけに眩しい。
「あ……」
そこでようやく、理解してしまった。
――掃除。
――不要な物。
――使われていない私物。
「……そうか……」
誰かが、
善意で、
何も知らずに、
処分した。
その可能性が、
疑問じゃなく、確信として落ちてきた瞬間。
膝が、抜けた。
床に手をついても、
冷たい感触しかない。
「……待てよ……」
今まで、
あれがあったから、
ここに立てていた。
抱けた。
触れた。
匂いを確かめられた。
それが、
誰にも告げられず、
誰にも気にされず、
“片付け”の一環で消えた。
「……そんな……」
声が、掠れる。
涙は出ない。
頭の中で、
ずっと避けてきた言葉だけが、
剥き出しで浮かび上がる。
――社長は、もういない。
――本当に、どこにもいない。
遮るものがなくなった現実が、
一気に押し寄せる。
胸が、痛い。
息が、できない。
「……っ……」
何かを探すみたいに、
両腕が宙を掻く。
でも、
抱くものは、もうない。
床に崩れ落ちたまま、
柄崎はしばらく、動けなかった。
誰も責められない。
怒る相手もいない。
ただ、
世界が静かに社長を消し切ったことだけが、
はっきりと分かってしまった。
その瞬間、
柄崎の中で、
何かが音もなく、完全に壊れた。
季節は一つ変わって、街の空気も、人の顔も、少しずつ違っていた。
それでも柄崎だけは、あの日から動けずにいた。
事務所は回っている。
金も、人も、仕事も、何事もなかったみたいに続いている。
「もう大丈夫だろ」
そんな視線や言葉が、時々突き刺さる。
――何が大丈夫なんだ。
柄崎は今日も、社長の残したパーカーを引き出しから取り出した。
畳まれているのに、着ない。
洗わない。
匂いが消えるのが、怖かった。
「……まだ、いるだろ」
独り言は、もう癖になっている。
最初は否定だった。
次は願いで、今はただの惰性だ。
死んだことは、理解している。
葬式も、火葬も、墓も見た。
現実は、嫌というほど突きつけられた。
それでも、受け入れるという行為だけができなかった。
受け入れた瞬間、
この世界に社長が“存在しなかったこと”になる気がして。
パーカーを抱く。
もう体温なんて残っていない。
匂いも、かなり薄れた。
それなのに、腕の中は空っぽのまま埋まらない。
「……遅ぇんだよ……」
何に対しての言葉か、自分でも分からない。
戻ってこない社長か、
いつまでも縋っている自分か。
夜になると、今でも思う。
ドアが開いて、
無言で入ってきて、
いつもの顔で「仕事だ」って言うんじゃないかって。
そのたびに、心臓が跳ねて、
次の瞬間に、叩き落とされる。
――いない。
何度繰り返しても、慣れない。
慣れる気も、なかった。
「……もう、半年だぞ……」
誰に向けるでもなく呟く。
時間だけが、残酷に進んでいる。
世界は、社長がいなくても成立している。
それが一番、耐えられなかった。
柄崎は今日も、
受け入れられないまま、
置いていかれたまま、
死んだ男の残骸にしがみついている。
悲しみが薄れる気配はない。
ただ形を変えて、
鈍く、重く、日常に沈殿していくだけだった。
②
社長が死んでから、もう何ヶ月も経っている。
なのに柄崎の時間は、あの日から一歩も進んでいなかった。
周囲は言う。
「最近、様子おかしくないか」
「まだ引きずってんのか」
――引きずってる?
違う。
まだ終わってないだけだ。
柄崎は最近、事務所で独り言が増えた。
誰もいないのに、返事を待つ癖が抜けない。
「……それは、違いますよ。社長」
無意識にそう呟いてから、はっとする。
当然、返ってくる声はない。
それでも、
“今、確かにそこに立っていた”気がして、
振り返ってしまう。
夜、帰宅しようとしても、足が止まる。
社長が座っていた椅子を見ると、
「まだ仕事残ってるだろ」と言われる気がして。
パーカーは、もう肌身離さず持ち歩いていた。
鞄に入れて、時々取り出しては触る。
確かめるみたいに。
「……まだある」
ある。
社長の痕跡が。
だから大丈夫だと、自分に言い聞かせる。
最近は、夢と現実の区別が曖昧だった。
寝ているのか、起きているのか分からない。
ふとした瞬間に、
低い声で名前を呼ばれる。
――柄崎。
胸が跳ねる。
条件反射で背筋が伸びる。
「はい」
答えてから、
誰もいないことに気づいて、笑ってしまった。
「……あー……」
喉から、乾いた音が漏れる。
可笑しい。
何が可笑しいのか分からないのに。
鏡を見るのが怖くなったのは、いつからだろう。
目の奥が、どこか他人みたいだった。
「……社長なら、どう言うかな」
判断に迷うたび、そう考える。
答えは、ちゃんと浮かぶ。
それが一番、危険だった。
もういない人間の声が、
こんなにもはっきり聞こえる。
「……ほらな。まだ必要だろ」
誰に言うでもなく、そう呟いて、
パーカーを強く抱きしめる。
現実が歪む。
社長が死んだ世界の方が、
間違っているような気さえしてくる。
「……俺がおかしいんじゃない」
息が荒くなる。
視界の端で、影が動く。
「社長がいない方が……おかしいんだ……」
床に膝をつき、
笑いとも泣き声ともつかない音を漏らす。
受け入れなかった代償が、
少しずつ、確実に、心を蝕んでいく。
それでも柄崎は、
壊れかけた理性より、
社長のいない現実を拒んだ。
正気を失ってもいい。
自分が壊れてもいい。
――その方が、
社長が“いない”世界より、まだ耐えられたから。
③
事務所の空気が、少し違っていた。
床が妙にきれいで、
紙の山が減っていて、
あの埃っぽい匂いが、薄れている。
「……掃除?」
誰に言うでもなく呟いて、
柄崎はいつものように、引き出しに手を伸ばした。
指が、止まる。
引き出しは軽かった。
嫌な軽さだった。
「……?」
開ける。
――何もない。
一瞬、思考が追いつかない。
視界だけが、空の引き出しを映している。
「……ちょっと……」
もう一度、確認するみたいに奥まで覗く。
指でなぞる。
木の感触だけが返ってくる。
ない。
パーカーが、ない。
「……は……?」
喉から変な音が出た。
笑いにもならない。
引き出しを閉めて、
開けて、
また閉めて、
また開ける。
何度やっても、結果は同じだった。
「……どこだよ……」
声が、震える。
知らないうちに、息が浅くなっている。
周囲を見回す。
ソファの上。
椅子の背。
ロッカー。
ない。
ない。
どこにも、ない。
掃除された床が、やけに眩しい。
「あ……」
そこでようやく、理解してしまった。
――掃除。
――不要な物。
――使われていない私物。
「……そうか……」
誰かが、
善意で、
何も知らずに、
処分した。
その可能性が、
疑問じゃなく、確信として落ちてきた瞬間。
膝が、抜けた。
床に手をついても、
冷たい感触しかない。
「……待てよ……」
今まで、
あれがあったから、
ここに立てていた。
抱けた。
触れた。
匂いを確かめられた。
それが、
誰にも告げられず、
誰にも気にされず、
“片付け”の一環で消えた。
「……そんな……」
声が、掠れる。
涙は出ない。
頭の中で、
ずっと避けてきた言葉だけが、
剥き出しで浮かび上がる。
――社長は、もういない。
――本当に、どこにもいない。
遮るものがなくなった現実が、
一気に押し寄せる。
胸が、痛い。
息が、できない。
「……っ……」
何かを探すみたいに、
両腕が宙を掻く。
でも、
抱くものは、もうない。
床に崩れ落ちたまま、
柄崎はしばらく、動けなかった。
誰も責められない。
怒る相手もいない。
ただ、
世界が静かに社長を消し切ったことだけが、
はっきりと分かってしまった。
その瞬間、
柄崎の中で、
何かが音もなく、完全に壊れた。
