ウシジマくん呟き

社長の独占欲って おわり

2026/04/10 23:52
夕方。
回収を終えて、車はゆっくり街の明かりの中を抜けていく。
窓の外には、見慣れた店の看板や、信号待ちの車の列。
特別な景色じゃない。
なのに、その日だけは妙に静かで、妙に落ち着いていた。
社長はハンドルを握っている。
柄崎は助手席で、いつもみたいに落ち着きなく喋り続けるでもなく、かといって気まずそうに黙るでもなく、ただどこか満たされた顔で窓の外を見ていた。
その横顔が、社長の視界の端に入る。
少し前までなら、こんな時間は当たり前みたいに流れていた。
呼べば来る。
乗せれば隣にいる。
話しかければ返ってくる。
けれど、それが当たり前じゃないと知ってからは、こうして隣にいるだけで、妙に意識に引っかかる。
取り戻した、というほど大げさでもない。
けれど、他の誰かに流れていくはずだった時間が、今こうして自分の横に落ち着いていることを、身体が勝手に拾ってしまう。
赤信号で止まる。
その短い静けさの中で、柄崎がふっと笑った。
声に出すほど大きくじゃない。
思い出し笑いみたいに、口元だけが緩む。

「……今日、楽しかったっすね」

ぽつりと落ちた声は、あまりにも自然で、飾りがなかった。
社長は少しだけ目を細める。

「……何がだよ」

ぶっきらぼうに返す。
返しながら、柄崎がどう言うかを待っている自分に気づいて、内心で小さく舌打ちした。
柄崎は照れた様子もなく、前を向いたまま答える。

「いや、普通に」

少しだけ肩をすくめる。

「社長といると、楽しいっす」

その言葉は、何かを狙って投げられたものじゃなかった。
甘くもない。
媚びてもいない。
本当にそう思ったから、ただそのまま口にしただけ。
だから余計に、重かった。
社長の指先に、わずかに力が入る。
柄崎は気づかず、言葉を続ける。

「なんか、一番落ち着きます」

「しっくりくるっていうか」

そこで少しだけ考えるように間を置く。
自分の中にある感覚に、ぴったりの言葉を探しているみたいに。
それから、当たり前の結論を出すように。

「……社長といるのが、一番好きなんですよ俺。」

信号が青に変わる。
後ろの車が少しだけ動く気配を見せる。
けれど社長は一瞬、アクセルを踏むのを忘れた。
胸の奥で何かが、ずれる。
その言い方が悪かった。
いや、正確には、良すぎた。
疑いがない。
遠慮もない。
試しもない。
“好きです”という言葉が、ここまでまっすぐで、ここまで曇りなく届いてくることを、社長はたぶん想定していなかった。
もっと誤魔化した言い方をされると思っていた。
軽口に混ぜられると思っていた。
茶化せる余地があると思っていた。
けれど、柄崎はそうしない。
ただ、本当にそうだから言う。
その真っ直ぐさが、一番面倒な火種だった。
車がようやく動き出す。
社長は前を見たまま、呼吸を整えるみたいにひとつ息を吐く。
その間にも、頭の中では別の言葉が勝手に並んでいく。
戻れない。
その言葉が、今までよりもずっと輪郭を持って浮かんだ。
今までは、まだ逃げられると思っていた。
仕事だから。
付き合いが長いから。
手元に置いておくと便利だから。
そういう言い訳で、自分の中の全部を曖昧にできると思っていた。
でも、今の柄崎の一言は、その曖昧さを許さなかった。
こんな顔で、こんな声で、こんなふうに「一番好きです」と言われて。
それを受け取ってしまったら。
もう、前みたいに“ただの社長”でいるには無理が出る。
社長は唇の裏を軽く噛む。
顔には出さない。
けれど、胸の奥でははっきり分かっていた。
このまま進めば、自分は柄崎を今までみたいには扱えなくなる。
雑に突き放して、都合よく呼び戻して、曖昧な距離のまま飼っておくことはできなくなる。
どちらかを選ばないといけない。
踏み込むか。
切るか。
その二つが、急に現実味を持って目の前に立つ。
けれど柄崎は、そんな社長の内心なんて知らない。
助手席で、ただ少し嬉しそうにしている。
自分で時間を空けて、言われた通り社長を優先して、それが本当に嬉しいみたいに。
その無防備さに、また胸がきしむ。

「……軽々しく言うな」

やっと出た言葉は、それだった。
柄崎がきょとんとした顔で振り向く。 

「え?」

社長は前を見たまま続ける。

「あまり簡単に、そういうこと言うな」

声は低い。
突き放すほど冷たくはない。
けれど、受け止め切れないものを無理やり押し返そうとしている響きがある。
柄崎は数秒だけ黙って、それから小さく笑った。

「簡単に言ってるわけじゃないっすよ」

その返しに、社長は少しだけ目を細める。
柄崎は、視線を前に戻したまま続ける。

「ちゃんと考えてます」

「考えて、それでもそう思うから言ってるんす」

その声は静かだった。
けれど、変に揺れない。

「社長といる時間、好きっす」

「優先しろって言われたのも、ちょっと嬉しかったし」

そこで少しだけ照れたみたいに笑う。

「独り占めされてるみたいで」

社長の手が、今度こそはっきり止まりそうになる。
けれど、ぎりぎりでハンドルを握り直す。
柄崎は何も知らない顔で続けた。

「だから、別に無理してるわけじゃないっす」

「俺が勝手に、社長優先したいだけなんで」

勝手に。
その言葉に、社長は内心で苦く笑いそうになる。
勝手なのはどっちだ。
時間を作れと言ったのは自分だ。
自分の方を向けと、言葉にしないまま何度も圧をかけた。
その結果、柄崎は今、こんなに真っ直ぐ自分に向いている。
それが嬉しい。
同時に、怖い。
こんなふうに差し出されたら、きっと自分は受け取ってしまう。
一度受け取ったら、もう手放せなくなる。
そうなった自分はたぶん、柄崎を今以上に強く囲い込む。
今みたいな独占欲で済まなくなる。
社長はそこで初めて、自分の中の欲の重さを、ちゃんと見た気がした。
ただ近くに置いておきたいだけじゃない。
ただ他に取られたくないだけじゃない。
もっとはっきりと、自分の側に固定したい。
他の何より優先させたい。
そういう、かなり危ういところまで来ている。

「……社長?」

柄崎の声で我に返る。
見れば、少しだけ不思議そうな顔でこっちを見ていた。
社長が黙りすぎたからだろう。
社長は短く息を吐く。

「……お前」

言いかけて、止まる。
何を言えばいいのか分からなかった。
好きだと返すには、まだ自分の中が整理できていない。
突き放すには、もう遅い。
受け流すには、さっきの言葉が真っ直ぐすぎた。
結局、出たのはひどく不器用な一言だった。

「……煽るな」

柄崎が目を丸くする。

「煽ってないっすよ」

すぐ返ってくる。
その声に、本気でそう思っているのが分かる。
社長は小さく舌打ちする。
柄崎は少し笑う。
そのやり取りひとつで、また分かる。
もう。
前と同じ距離には戻れない。
戻りたくないと思っている自分も、たぶんもういる。
夜の道を、車はそのまま走っていく。
窓の外には、ただいつもの街。
けれど車内だけが、少し前までとは違う場所になっていた。
社長は前を見たまま、何も言わない。
柄崎もそれ以上は何も言わない。
ただ、隣にいる。
それだけで充分だと言わんばかりに、静かに。
その静けさがいちばん危なかった。
言葉よりもずっと深いところで、もう何かが決まってしまっている気がしたから。

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