微笑う繁縷

 もしも、二千年以上もの刻を閲した三十四の器を持つ男が、こんな想いを抱いていると知ったら、人は何を思うのだろう。思春期の少年少女が抱く憧憬のように、一見すると清純無垢。そのあどけない皮を一枚剥いでしまえば、中に眠るのは自分本位極まりない独占の欲望。
 彼の存在の全てを、取り巻く全てを、一滴も取り零したくない。腕の中に抱え込んで、永遠にしてしまいたい。
 その想いに囚われて、ミヤジは夜もまともに眠れていない。一時間半おきに目が覚める。彼を思い浮かべて、何をやっているのだろうかと、目を覚ました事実を無かったことにした。しかし、何度眠りに落ちたとて、彼はミヤジの夢の中にまで現れる。夢の中の彼は、よく笑い、都合良くミヤジを見つめては恍惚とし、作られた言葉を吐きながらミヤジを求めた。そうして、ミヤジはまた目が覚めるのだ。
 こんな生活を送っている事を、夢にまで見ている彼が知ったとしたら──。その時彼はどんな顔をするだろう。一体どんな言葉を紡ぐのだろう。馬鹿げていると笑うだろうか。もしくは信じられないと、これまで一度も見た事のない、蔑むような眼差しで睨むだろうか。

「……ミヤジさん?」

 ミヤジは完全に自分の世界に閉じこもっていた。空想の域を出ないような思考を、ミヤジは現実を忘れて、必死に捏ねくり回す。目の前に座る人の存在も忘れて。
 柔らかな陽だまりの温かさを持つ声。現実に呼び戻されたミヤジは、呻くような声で、短い謝罪の言葉を口にした。あてどない息を強く吐いて。ミヤジはかすかに顔を見せた罪悪感を、喉奥へと押し流す為に、ベリアンの淹れた紅茶に口を付けた。ダージリンの爽やかな渋みが、凝り固まった脳を弛緩させていく。この場所に二人が座った時には湯気の立っていた紅茶は、既に温くなっていた。

「……すまないね。折角時間を作ってもらったのに」
「いえいえ。今日は時間もあるので、ゆっくりで大丈夫ですよ」

 慈しむように下げられた眉尻。ミヤジがしようとしている相談を受けても尚、変わることはないだろうか。友人として、その微笑みを向けてくれるのだろうか。ミヤジは手を広げて、庇うように両のこめかみに指を添えた。コンサバトリーの硝子に、冬の日差しが鋭く反射する。幸いにもミヤジの浅黒い肌は、目の下を濃く彩っている階調を目立たせなかった。ベリアンの慧眼を以てしても、この睡眠不足までは露見していないだろう。
 ミヤジは自分が話すより先に、ベリアンに気付かれてほしいような、反対に、何も気付かれないままで、この時間が過ぎてほしいような、相反する気持ちに指先の力が強まった。窺うような視線。指の隙間からベリアンをさしのぞく。ベリアンの長い睫毛は、ゆったりと伏せられた。深追いはしない。持ち上げられた口角が、静かに告げている。

「……それにしても、珍しいですね。ミヤジさんがこんなにも改まって、話したいことがあるだなんて」
「……ああ、うん。そうかもしれないね」

 ミヤジは、早いところ本題に入ってしまいたい焦燥に駆られた。テーブルの下で、小刻みに揺らしてしまいそうになる足を、ミヤジは拳を作って押さえ付ける。何から話せばいいのか。どう話せばいいのか。何も組み立てることができずに、切り出す言葉を次から次へと捻り出す。そのどれも、言葉として口から出ることはなかったが。

「何か悩み事ですか?」

 ベリアンに問われ、即答することもできずに、ミヤジは透き通る紅茶を覗き込んだ。テーブルに腕を乗せたことで、水面に映った光がかすかに揺れる。

「……その、できれば笑わずに聞いてほしいのだけれど……」
「ええ。笑いませんよ。ここで話したことも、誰かに言うつもりはありませんから」

 安心して、と言うようにベリアンは頷いた。ミヤジはベリアンが笑うのでは、誰かに話すのでは、と不安に思っているわけではなかった。ただ、あまりにも馬鹿げている。その事が分かっていたから、言い淀んでいたのだ。

「……ルカスのこと、なんだが」
「ルカスさんですか?」

 彼、ルカスの名前を口にする時、情けのないことに声が裏返った。けれどベリアンは指摘することもなければ、宣言通り笑うこともなく、持っていたティーカップをソーサーの上へと戻す。陶器の触れ合う音が、耳管を震わせるほど大袈裟に鳴る拍動を射止めた。
 ミヤジは眉と眉の間を小さく盛り上げて、二、三度横隔膜を膨らませながら深く息を吸って、肺の中を空にするまで吐き出した。そして辺りに誰もいないことを確認してから、震える声でおかしいんだと切り出した。

「……その、近頃、ルカスが、……か、可愛らしく見える、というか」

 言い終えてから、ミヤジは言ってしまったと後悔した。百九十糎の鍛え上げられた体躯からは、想像もつかないほど、ささやかな声だった。尻すぼみになった語尾などは、薄く空気に紛れて溶けた。
 沸き立つ頭が冷えていく。冷静さを取り戻したわけではなく、処罰が下されるのを待つことしかできない時と、似たような気持ち悪さだった。吸い込んだはずの空気が、喉奥に滞留する。
 ミヤジは顔を上げられなかった。
ルカスと同じ年数関わっている友人が、果たしてどんな表情で自分を見ているのか、確認するのが恐ろしかったからだ。けれどベリアンの声色は、ミヤジの肥大した空想を裏切って、穏やかで静かだった。

「そう、ですか」
「……」
「それで、……ミヤジさんはどのようにお考えなのでしょうか」

 どのように、とはなんだろうとミヤジは首を傾げた。ベリアンの言わんとしていることを、ミヤジは察している。詰まるところ、今ベリアンに話した内容を、ルカスにも話すのかと言うことだろう。
 解っている。解っているのだ。頭では。うまく咀嚼できないだけで。乾いた口腔内を潤そうとティーカップに手を伸ばしかけて、ミヤジは自身の骨ばった手が、小刻みに振動していることに気が付いた。ティーカップに触れると、ソーサーとカップに震えが移って、小さく音を鳴らした。零してしまってはいけないと、ミヤジは紅茶を口に含むことを諦めて、乾いた舌先で歯列の内側をなぞった。
 ベリアンの発した、どのようにという言葉を反芻しながら、ミヤジは唸った。二千年の付き合いがある友人が可愛らしく見える。そんな感情、ミヤジ自身もどうしたら良いのか、どこへ着地させれば良いのかがまるで分からず、こうしてベリアンに時間を作ってもらっていた。
 例え、ミヤジが独りよがりに今の気持ちを伝えたところで、ルカスに拒まれてしまえば、屋敷での共同生活がぎこちのないものになるだろう。まともな言葉を交わさない日々を、再び数百年に渡って送ることになる可能性も、捨てきれはしない。そうなれば屋敷の面々にも気を遣わせることになる。ではもし、万が一、ルカスがミヤジを拒まなかったら。そこまで考えて、それはないだろうと、笑い声にも満たない吐息を短く吐いた。一体どこの男が、同じ男から「可愛い」などと言われて喜ぶというのだ。

「……その、少し前にルカスが悪魔化しただろう」
「……はい」
「きっと、あの時に、死にたいと零したアイツを守りたいと、庇護欲のような、……情のようなものを、抱いてしまったんだと思う」
「……そうですか」

 漸くミヤジが顔を上げて、ベリアンへと顔を向けると、普段通りの慈愛に満ちた微笑みで、ミヤジを見つめていた。まるで幼い子供を見守る、眼差しの柔らかさ。
 ミヤジはいかった肩から、重力に引き寄せられるように、指先へと力が抜けていくのを感じた。情けない話だけどね、と付け加えてから、ミヤジはティーカップを手に取って啜った。ダージリンはとうに冷えきっていたが、今のミヤジには、その冷たさが丁度良かった。

「あの、……一つ、質問してもよろしいでしょうか」
「ああ。私に答えられることなら」
「ミヤジさんは、ルカスさんの事が可愛らしく見えるんですよね? その、……可愛らしく見えることは、何か問題があるのでしょうか」

 えっ、と言葉が詰まった。問題しかないだろう、何を言っているんだと思わず目を見開く。ベリアンは茶化す気など一切ない、とでも言いたげな真面目な顔付きで、ミヤジを待っていた。

「問題、だろう……」

 ミヤジはふしぎとベリアンの目が直視できなかった。やっとの思いで絞り出した言葉は、自信なさげにティーカップの縁に落ちた。ミヤジ自身よりさらに長く生きている男を、ましてや長い年月を共に過ごしてきた友人を、可愛らしく見えるなど──。
 けれど、ベリアンの瞳を見ていると、あまりに真剣そのもので、かすかに本当に問題なのだろうか、と思えてきてしまう。思えたところで問題が消えるわけではなかったが。
 ただでさえ寡黙なミヤジは、接ぎ木の言葉を探すことに時間を要した。ベリアンにミヤジの抱いている感情が、いかに大きな問題で、どれだけ愚かしいことか説明しなければならないと、義務感のようなものまで持ち出して。ミヤジは薄く口を開いては、何も発さずに閉じた。何度か開閉を繰り返し、結局最後に出てきたのは言葉でも音でもなく、ただの強めの呼気だった。
 その様子を黙って見つめていたベリアンは、ティーカップを口元に運びながら、鈴が一つ鳴るような笑い声を零した。

「……ルカスさん、喜ぶんじゃないでしょうか」
「そんなこと……」

 あるはずがない。続けようとして、やめた。その言葉を発することはミヤジにとって、突き刺さる真実を形作ることに他ならなかった。
 ミヤジはティーカップに手を伸ばし、少し傾けてから、既に底が見えていることに気付いた。口を付けることなくソーサーに戻すと、カップの中身を察したベリアンが、「お代り淹れますね」と立ち上がった。ミヤジは断るつもりでいた。にも関わらず、何も言えずにベリアンが良かったらと差し出した、チョコレートで表面がコーティングされたバウムクーヘンを眺めた。……なみなみと紅茶が注がれていく。

「……喜びはしない、と思うよ」

 ベリアンが真剣に受け取りすぎないように、ミヤジは少しだけ冗談めかして、歪に口角を上げた。葉の触れ合う音よりも小さな声は、ベリアンの耳に届かなかったのかもしれない。ベリアンは何も言わなかった。
 自分のカップにも紅茶を注ぎ、再びベリアンが席に着く。差し込む陽光はわずかに傾いて、鋭さが和らいでいた。彼方で鳥の囀る声が聞こえた気がした。

「ねぇ、ミヤジさん」
 呼びかけるベリアンの声は澄んでいて、ミヤジの心臓へと一直線に届いた。
「私達の関係は、かれこれ二千年以上続いていますよね」
「ああ」
「……いまさら一言で壊れる関係だと、本当に思っていらっしゃいますか」

 ベリアンの眼差しも声色も、どこまでも柔らかかった。だからこそミヤジは、その言葉が今までの何よりも、腹の底に落ちたのを感じた。
 本当は最初からどこかで解っていた。
ミヤジが、例えルカス本人に可愛いと伝えても、ルカスはそれを悪戯に蔑んだり、明らさまに拒んだりする人間ではない事を。茶化すことくらいはするかもしれないが。
 ベリアンの言うように、悠久の時間を使って互いを見てきた。長所も短所も、愛の深さも醜さも、全て。しかしそれを理解していたところで、そうかと器用に納得しきることのできるミヤジではなかった。理屈なのか感情なのか、あるいは別の何かなのか、ミヤジ自身も理解できなかった。
けれど、動き出すことを堰き止めている。変わらないことは、安心材料の一つに他ならないからだ。

「し、しかし……。本当に、私はおかしいんだよ、ベリアン。……なんと言えばいいのか。……そう、冬の硝子越しに差す光より眩しく見える。澄んだ空より鮮やかに見える。どんなに美しい楽器の音色より声が響く。ルカスの事が、そんな風に映るんだ。……私はおそらく、長いこと生きたせいで目も耳もおかしくなったんだろうね」

 ミヤジは自身を嘲るように笑いながら、訥々とそんな内容をベリアンに話した。ベリアンは刹那、ただでさえ大きな目を丸く見開いた。すぐに幼い子供を見つめる母のような眼差しになり、今度は目をなくなるほど細くして

「左様ですか」

 とだけ言った。
 ミヤジが臆病に目を背け続けた、未だ名も持たない感情を見透している。ベリアンの携えた微笑みにそれを見て、ミヤジは柔くこめかみを押さえながら、釣られて笑った。
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