【新訳】星が繋ぐ君と僕/Aporia

 寝付けなかった。
ベッドに潜り込んで、目を閉じて、意識を沈めて、肺の伸縮だけを意識してみても、閉じた瞼の内側で眼球だけが開ききっている気がする。
芋虫のように体勢を変えたところで、ただ服とシーツが擦れる乾いた音が、二人分の寝息が混じる静寂に虚しく響くだけだった。
ベッドの中で擦り合わせた足は、指先まで氷漬けにされているのではないかと疑ってしまうほど冷たくて、寝付けないのはこの寒さのせいかもしれないと思い始めた。
地下にあるこの部屋は屋敷内でも群を抜いて温度がなく、初めてこの部屋で冬を迎えた日のことは未だによく覚えていて、一度眠ってしまったら二度と目を覚ますことがないのではないかとありったけの毛布を抱え込んで眠ったものだ。
図体が大きくなったばかりで寒さに滅法弱いこの体を温めるために、今も他の執事達よりは多く寝具を纏っていたし、着込みすぎるほど服を着込んで、さながら不格好な雪だるまのようでもあったが、そこまでして尚冷えている足先に挫けそうになる。
もう一枚毛布をと思ったけれど、これ以上掛け物を増やせば今度は重みで寝付けなくなるかもしれない。
面倒ではあるが、ミルクでも温めて飲めば寝付けるだろうか。
深夜に、ましてや体が底冷えするこんな夜夜中に、せっかく体温で温もりを持ち始めたベッドを出ることは憚られたが、一度ホットミルクで体を温める事を思いついてしまったら、飲まないままでは眠れない程、意識がホットミルクに向いてしまった。
それでも起き上がることさえ億劫で、暫くの間ベッドの中で眠気の方から歩み寄ってくることを待ち望んだが、掌は寒さで痺れて感覚もなくなってきているので悠長に待ってなどいられなかった。
 ベッドから這い出て足元すらまともに見えない漆黒の中で足を踏み出した。
体重を乗せると床が軋む音が静寂に刺さり、眠っている二人を起こしてはいないだろうかと動きを止めて耳を澄ませたが、それ以上の音は立たなかった。
可能な限り音を出さないように摺り足気味に、躓かないように目を細めて凝らすと、隣のベッドで規則正しい寝息を立てているラトの布団がはだけてしまっていることに気が付く。
起こしてしまわないように爪の一本まで、吐き出す吐息の一つまで意識を研ぎ澄まして、慎重に掛け直していると、あどけない声で頼りなさげに名前を呼ばれた。
起こしたかと身構えたが、乱れることのない呼吸に寒さも忘れて口端が緩んだ。
同時に、三百年以上も昔にも、似たようなことがあったと海馬が引きずり出してきた。
記憶の中の相手はラトではない。
 ベッドを埋め尽くすほどの長い髪。
白いシーツの中で浮かび上がる白皙の頬。
その日は確か彼の休日だった。
休日とは名ばかりで、休みなどあってないようなものだったが、日頃働き詰めの彼を休ませてやりたくて、昼前になっても寝息を立て続けていた彼の様子だけ確認して仕事へ戻るつもりで部屋を訪ねていた。
布団を巻き込んで縮こまる姿は、大型猫科動物のようでもあり、得体の知れない獣のようでもあった。
お世辞にも寝相がいいとは言えない彼は、布団をはだけさせては寝惚けた頭で手繰り寄せ、再び巻き込んでいたわけだが、その度に端へと寄っていくものだからそのうちに重力に従って布団がベッドの下へと落下して、床に触れて柔い重みのある音を鳴らした。
いずれは彼ごとベッド下へと落ちて行ってしまうのではないだろうか。
執事服に身を包んでいる時はあまり見せないしどけない姿に、半笑いを浮かべながら布団を拾い、早く目を覚ませばいいのにと投げるように布団をかけ直した。
かけ直す際に起こった小さな風に身を捩らせて、頬をシーツに擦り付けながら名前を呼ばれて、力の入らないまま伸ばされた無気力な手を思わず握り返した。
あの頃、確かに自分は彼に対して尊敬や憧憬などと言った単純な言葉では言い表せないような感情を抱いていただろう。
今はもうその残滓も見る影すらなく消え失せたが。
過去を否定するつもりはないが、甘やかな想いを一片でも抱いていたことを思うとこめかみが痛む。
痛んだところで彼との思い出は色を失い、流れ去り、今の彼には既に決別を告げているのだから関係の無いことだけれど。
 部屋の扉を開けようとサムラッチハンドルを握ると、冷えた真鍮にサムラッチを押し下げようとしていた親指が震えて滑った。
まるでこの部屋が、遠いセピアの海が、引き止めているように感じられたが気の所為だと思うことにして扉を開けた。
扉を開けた先は開けている分部屋の中より温度が低かったのかもしれない。
しかし血液が凍るほど冷えた体ではその違いを感じることができなかった。
扉を完全に締め切ると、音を立てないようにと張り詰めていた神経が緩んで、強張った頬も幾分か柔く解れた。
一階にある厨房へ向かおうと寒さで震えの止まらない足を前に出すと、住民の寝静まった屋敷内に響く唯一の音として靴音が壁を這い伝う。
室内にいても白く濁る呼吸に、地下の湿った匂い。
二千年以上もこの場所でこうして冬を迎えているにも関わらず、毎年同じように震え、同じようにホットミルクを求めている気がする。
もしかしたら本当に毎年同じことを繰り返しているのかもしれないが。
 年輪を刻みすぎた大木のように同じ場所に在り続け、季節が巡るのを見てきた。
在り続けるというのも決して簡単だったわけではなく、文字通り命懸けだった。
喪ったものもあれば、得たものもあった。
抱え込んだものもあれば、手離したものもあった。
彼との関係も随分変わった。
先にこの場所で暮らしていた同じ年齢で悪魔執事になった彼は自分にとって、恩師であり、友であり、同時に救済だった。
自ら手離す事を選ばざるを得ない関係だと思ったことすらなかった。
明日の命の保証がないこの環境で、不用意に人を嫌ったり、避けたりすることは、例えば今この瞬間に自分か相手が命を手離すその時に後悔しか生まないであろう選択であることを理解していないわけではなかった。
確かに理解はしている。
けれどその理解に感情がついてくるかといえば、人間そう上手くはいかないもので、あの夜十五歳の悪魔執事の少年を見捨てた彼の言い分を、黙ってそういうものだと受け入れることはできなかった。
この命を見捨てても、少年を救ってほしかった。
もし彼が少年の命を選んでくれていたなら、過去の自分も含めて、救われていたのではないだろうか。
忌々しく残る左半顔の瘢痕。
寒い冬の夜は抉るように鈍く痛み、それは少年の悲鳴のようでもあり、この硬質な稜線を刻んだ張本人の静かな主張のようでもあった。
二度と分かち合うことはない。
自分に言い聞かせるように、決別を確かなものにするように、足の指先にまで力を入れて、厨房へと向かった。
 深夜の厨房は暖かみもなく無機質で、整列した調理器具や食器達が、視線を尖らせてこちらの様子を伺っていた。
銅製のミルクパンを手に取ってミルクを注ぎ入れる。
遠い昔には研究熱心で眠ることを後回しにする彼に、小言を添え付けてホットミルクを作って持って行ったこともあったと、まるで今がそうであるとでも言いたげに思い出した海馬を黙らせるように、こめかみから手を差し込んで、後頭部に向けて髪を撫でつけた。
部屋にいる時から過去に意識を向けすぎていたせいだろう。
気が付けば鍋の中には一人分には多すぎる量のミルクが注がれていて、やってしまったと肺の奥に一瞬溜め込んだ呼吸を吐き出した。
 マッチ箱から取り出した一本を側面に擦り付ける。
小気味の良い音と共に爆ぜた小さな火種が、指先を頼りなげに、けれど輪郭を確かめるように照らし出した。
硫黄の香りが鼻腔を抜け、前頭葉にこびりついていた過去の残像を僅かに押し戻す。
その火を火口へ移せば低く唸るような音を鳴らして、青白い炎の輪が浮かび上がった。
鍋を火にかけて眺める。
一人分には多く、二人分には少ない白の液体は、底からの熱を受けてかすかに揺れている。
これがきっと自分と彼との距離なのだ。
彼にホットミルクを差し入れることは二度とないだろうに、癖付いた体は今も起きているかもしれない彼の為の一杯を用意しかけた。
その事がほとほと嫌気が差す。
どれだけ意識的に彼を視界に入れないように、彼の事を考えないようにしたところで、ろくに言葉を交わさなくなってから二百年以上も経過して、直に三百年を迎えようとしているというのに、情けのない体は細胞の一つに至るまで、未だに彼と過ごした泥濘に囚われているのではないだろうか。
消え失せた感情なのだ、忘れ去った刻なのだと自分に言い聞かせているだけで、結局のところ何一つとして手離せてなどいないのだと、鍋の中のミルクが突き付けてくるようで、空っぽの胃袋に胃液が滴る不快感が巡る。
 次第に温まり始めた白い海から、幼子の寝息を彷彿とさせる柔らかで野性味を孕んだ香りが立ち昇る。
鼻腔をくすぐる無垢な熱。
体を温める為に、眠りへの安心感を得る為に、今この場所に立っているというのに、深夜の静寂の中で嗅ぐ甘やかな香りは、どこか救えなかった未練のようにも感じられて、奥歯を噛み締める力が僅かに強まった。
今この瞬間にあの夜へ戻れたら。
そんなことを考えてみたところでどうにもなりはしないのだけれど、一人厨房に立っているこの夜を避けることはできたのではないだろうかと、やるせなさばかりが降り積もる。
 食器棚に置かれた象牙色のマグカップを一つ手に取る。
触れた陶器の冷たさは冬風に身を竦める涙と同じ温度をしていた。
湯気の立つミルクを一度では注ぎきれずに、二度に分けて飲もうと半分量をマグカップに注ぐ。
マグカップの中で揺らめくミルクを見つめながら、彼は一体どんな顔をしてこのマグカップを受け取っていただろうかと考えた。
覚えていないのではない。
見ていなかったのだ。きっと。
研究中の彼は薬品臭くて、白衣は薄汚れていて、透き通るほど青白い手の甲は荒れて赤い線がいくつも浮いていて。
そんな事ばかり、覚えている。
 彼を単純にただ憎たらしく思っていて赦せないのかと聞かれれば、そんな纏まった綺麗な感情ではない。
酸で溶かされた左心房と同程度に目も当てられないような、善悪も嘘も真も救済も破滅も、あらゆる二律背反が綯い交ぜになって、一言で説明の聞かない感情なのだ。
仕方がなかったことだと宣う彼に、お前が心底憎たらしいと言い切れたのなら、今頃はきっと救われていたことだろう。
どれだけ詰っても罵っても、それすらも仕方のないことだと言う顔をして聞き入れている彼の鏡のような満月の双眸が、全て映し出してくるようで恐ろしかった。
彼の瞳の奥に映り込む自身が、自分の無力さを、何も掴めなかった手を、ぶつける事しかできない感情の一葉も、己の醜さを余すところなく正面から見せつけていた。
 肺の奥まで届かせるように深く息を吸い込んでから、体中の空気を抜ききる勢いで吐き出す。
流し込んだホットミルクの味は感じられなかった。
温かさだけが食道を通り胃の腑を広げながら染み渡っていった。
要らぬ事ばかりが網膜の裏を滑り流れていくのは、この夜があまりに寒く、そして静かだからだろう。
 ホットミルクを飲み込んで、時々暗いだけの天井を仰ぎ見ていると、次に浮かんできたものが一体いつ頃の記憶なのか自分でも定かではない。
それほどに朧気な記憶の片隅に一つだけ確かな感触がある。
記憶の中の彼は見張り台に立っていた。
溶け込む漆黒と洋紅色の長い髪に隠れた後ろ姿に、一声掛けようかと近付いた。
けれどその後ろ姿は今にも夜闇の重厚感のある膜に包まれて消え入ってしまいそうで、自分の知らない彼の孤独が空を埋めつくしているように見えた。
腕を伸ばしたらまだ彼に届くのでは、今腕を伸ばさなければそのまま二度と触れることが叶わなくなるのでは、震える下顎がそう告げたというのに、舌の上に乗りかけた彼の名前を飲み下した。
彼は自分が背後に立っていることに気付いていたのだとは思うけれど、振り返ることもせず、一瞥すらくれず、その表情が何を物語り、その瞳が何映しているのかは想像もつかなかった。
声を掛けることはせずに部屋へ戻った後になってから、もしこのまま彼が夜闇に飲み込まれてしまったらどうしようと呼吸が浅くなったまま朝を迎えた、その感覚だけを今でもはっきりと覚えている。
赦せないと突き放しながら、それでも時折彼の動向を目で追ってしまっているのは、この感覚が原因なのかもしれない。
 ぬるくなったホットミルクを飲み干して、鍋に残った半量を注ごうと思っていたのに、鍋を掴む気になれなかった。
それどころか足先は勝手に厨房を出ようと歩き出す。
自分の体だと言うのに、まるで別の存在が突き動かしているように、意思が乗っていない。
なのに向かう先は鮮明に理解できた。
そこにいないことを確認するだけだ。
確認さえすれば戻って、冷たくなったミルクを飲み干して、部屋へ帰ればいい。
言い聞かせながら廊下へ出て階段を上る。
二階の床を踏んだ時、一体何をしているんだと踵を返そうとしてまごついて、次の一歩をどこに踏み出せばいいのか、行ったところで何をしたいのかさえ分からないまま、三階へと向かった。
物音一つ聞こえてこない。
聞こえるのは自分の靴底が敷き詰められた絨毯を擦る音だけ。
足は前へ行こうとするのだけれど、足が進む度に飲み込む空気は薄くなって、拍動が耳管を揺さぶった。
もしもそこに彼がいたら、何をするというのだろう。
何を確認したいのだろう。
気さくに声を掛けたり、眠れないのなら晩酌でもどうかなどと誘える間柄ではなくなっているのだ。
自分がそうしているのだ。
いないことを願いながら、見張り台へ向かう石階段に足をかける。
いてくれるなと思うのであれば、わざわざ見になど行かなければいいものを。
一段上がってはここで戻ろうと思い、一段上がっては早く戻って寝てしまおうと思いながら、足だけは確実に天を目指した。
 見張り台へ出る扉を開けると、ここに来る道すがら散々そこにいないでくれと祈り続けていた相手は、ルカス・トンプシーは、夜闇に溶け込むように、そこにいた。
確認のためだのなんだのと理由を付けてこの場所へ来たのは自分の方だと言うのに、理不尽にもなぜいるんだとしゃがみこんでしまいたくなった。
ほとんど同時に湧いた、やはり彼は、ルカスはここにいたと確信めいた安堵にも似た気持ちが後を追い、分かりたくなんてなかったと言い訳をした。
扉を開けた際に静寂を裂いて夜闇に響いた重厚な金属音を、一人きりでこの場所にいたはずのルカスが聞き漏らすはずはない。
それどころか自分でも気付かないような扉を開ける時の癖を彼は把握しているだろう。
けれど、ルカスは微動だにしない。
まるで水底から水上を渇望するように空を見上げたままの姿勢を保っている。
頑なな沈黙が、二百年以上続く断絶を物語っているように感じられて、軽く握っていた拳を骨が浮き上がってくるほど強く握り直した。
その背中に声を掛ける選択肢は、初めからなかった。
居続けたところで確認以上のことをするつもりもなくこの場所へ来ていたものだから、ホットミルクで温まっていた指先の体温が夜風に流れていくことだけを黙って見つめてから、厨房へ戻ろうと背を向ける。
これでいい。これが今の自分とルカスの最適解なのだから。
グレモンハンドルを握る。
月明かりに浮かぶ真鍮は鈍く重い。
掴んだ手を咄嗟に離したくなるほど冷えたハンドルを回しかけた刹那、木の葉の触れ合う音よりか細く名前を呼ばれたような気がして、つい振り返ってしまった。
 空を見上げて動かなかったルカスの顔がこちらを向いている。
照らし出された青い顔は覇気がなく、最低限の生命維持活動だけを続けるように薄く開かれた唇は、寒さのせいか、暗がりのせいか、濃紫に見えた。
何も聞くな。お前に聞く権利はない。
そよぐ風が耳元で囁いた。
金属を擦り合わせた時のような耳鳴りが、何か紡がなければと喉奥で声にならずに漏れた音を掻き消した。
息が続かない。
けれど目を離すこともできなければ、呼ばれた気がしたのは気の所為だと決めつけて、この場をすぐに立ち去ることもできなかった。
視線の先にいるルカスの輪郭は、夜闇のミュールが広げた薄いベールに包まれて朧に浮かんでいるはずなのに、その頬に乾いた涙が張り付いているように見えるのは、そうであるかもしれないという思い込みだろうか。
ルカスが何かを言葉にすることを待ち望んだが、発することはなかった。
沈黙を選んでいるようでもなければ、言葉を選んでいる様子でもなく、言葉を形作ることにも疲れた、そういった顔をしていた。
呼吸がままならない。
光を通さないルカスの瞳はまるで沼の底のように昏く、深い色を宿していて、見つめているとこの空間ごと沼底まで吸い込まれていきそうだった。
ルカスが口を結ぶ。
それが合図だとでも言うように、目を逸らし背を向けた。
小刻みに震える右手の手首を押さえつけながらグレモンハンドルを回して、その場から逃げ出した。
これ以上顔も見たくないと逃げたのではない。
確認だと言って足を向けたくせに、今にも夜闇に沈んでいってしまいそうな儚さを、知りたくなかったと思ってしまった己の弱さから逃げたのだ。
 走るように階段を駆け下りて、置きざらしになっていたマグカップと鍋を片付けた。
冷めきったミルクは捨ててしまおうかと思ったが、痛むほどがなり立てる心臓に平静さを取り戻したくて一気に飲み干した。
体を温めに起きてきたはずなのに、内側から体温を奪うミルクに腹の奥が縮こまる。
その間もずっと、今自分が見たルカスは作り出された幻ではなく、本当にそこに体温を持って立っていたのだろうかと血流の不足した脳は思考することを拒みながら、思考を止められずに働き続けた。
瞼は確かに開いているはずなのに、網膜に映っているのは先程の息を吸い込むことも吐き出すこともできない、沈澱した見張り台に佇む崩れさりそうなルカスと、夜闇に浮かび上がった白衣の不気味な白だった。
 どのようにして部屋まで戻ったのか、それすら曖昧に、自分が今歩いているのが、本当に日頃生活をしている屋敷の中なのかも判断できない程前後不覚のような状態になりながら辿り着いた部屋の扉を、意図せず音を立てながら閉めたその音で、漸く今自分がいるのは地下執事室で、今は真夜中で、同室の執事二人が規則正しく寝息を立てていることに気が付いた。
重い木の手触りが皮膚を逆撫でしていく感触に、体の内側で凍りつく血液の温度を知った。
喉の奥には無理矢理飲み込んだ冷たいミルクの重みが石のように居座っていて、ベッドまでが遠く感じられる。
体を丸めて頭まで覆い隠すようにしながら、ベッドの中で肩が薄く揺れるほど浅い呼吸を繰り返した。
布に当たり跳ね返ってくる熱が鼻に触れる。
 まるで悪い夢を見た直後のような気持ちだった。
夢でなく現実であった為、もしかするとそれ以上かもしれない。
縋りたいような、誰かに抱きしめてほしいような、赦されたいような、赦したいような、冬の寒さとはまた違った、抱いている感情がそのままの形を保って固定されていく寒さが脊椎をなぞる。
──逃げた。私はまた、彼から逃げたのだ。
微かに震える指先で、張りつめられていたシーツを掴み、意識を引きずり下ろそうと瞼を閉じたが、仄暗い満月が黙ってこちらを見つめていて、額に瞼を貼り付けるように目を見開いた。
彼の瞳を直視しなくなってから、もう直三百年が経とうとしている。
幾星霜を凝縮した僅か数分間、いや、もしかすると数秒だったのかもしれない。
その一欠片にも満たない一瞬に、瞳孔は開き懊悩を繰り返した。
早く朝が来てほしい。
祈るように両手を抱きしめて唇を噛み締めた。
──そして、永い、永い、夜の果てに。

***

「……そういえば、あの夜、お前は何をしていたんだ」
「あの夜? あの夜、とは、一体いつの事かな」
「覚えていないなら気にしないでくれ」

 ミヤジの世界の片隅に、再び自分の居場所ができてから数年が経った頃、ふとミヤジに投げ掛けられた質問。
彼の言ったあの夜が、一体いつの事で、彼が何を気に留めて問いかけてきたのかを勘付いてしまうのは、単に付き合いの長さによるものかもしれない。
生きていることに疲れた。
歩き続けている足を止めてしまおうか。
口を開けば自分を傷付け破壊し尽くす言葉しか出せないような夜に、心当たりがあったからかもしれない。
ミヤジの言う、あの夜。
夜空が落ちてくればいいとさえ思ったあの夜。
眠れなかったのか、星を見ようとでも思ったのか、見張り台にやってきたミヤジの存在にすぐ気が付いた。
呼び止めるつもりなどなかった。
気軽に声をかけて、名前を呼ぶことを赦される関係性ではなくなったのだと思っていたからだ。
けれどミヤジの手がグレモンハンドルを握った時、風の音かと聞き逃すほど薄く金属の触れ合う音がして、つい、振り返ってしまった。
彼の背中に縋りついて、行かないでくれと言葉にしてしまいたかった。
立ち去ろうとする白亜の執事服に、何かを言ったのかもしれないし、何も言わなかったのかもしれない。
けれどミヤジは振り返った。
振り返って、何も言わずに帰って行った。
グレモンハンドルに残った微かな体温。
冬の夜風に撫でられただけで存在を無くしてしまいそうな体温の残り香に、夜が落ちてこないのであれば、いっそ自分が夜へ落ちていけばいいのではないのかと思い始めていた大脳が、部屋へ戻れと静かに声を上げた。

 薬の研究にのめり込んで、時間が経つことに気も回さず、食事も取らないまま机の上で薬品と向き合っていたら、視界の片隅に音も立てずに置かれた。
なんだと一瞬意識が引き戻されると、薬品臭い部屋の中に、まるで赤子の寝息のように柔く甘やかな香りが漂っていて、顔を上げると自分の分のマグカップを手に持ったミヤジと目が合った。
マグカップの中ではなみなみと注がれた白い液体が細く揺れ動いていた。
確かに昔はこうして薬の研究に没頭していると、早く寝ろと小言を言いながらミヤジがホットミルクを持ってくることがあった。
二度と飲むことのできないものなのだと思っていたけれど、目の前に置かれたマグカップは両手で包むと掌に染みるほどの熱を伝えてきて、決して都合のいい願望や、いつの間にか居眠りをしていたなどということではなさそうだった。
よかったらとだけ無愛想な独り言のような一言を口にしながら、良いとも悪いとも言っていないけれど、ミヤジは椅子を引いて腰を下ろした。
木製椅子の軋む乾いた音にミヤジの輪郭が縁取られていって、もしかしたら夢か幻影なのではないかという疑心を崩落させていく。
 同じ部屋の中でホットミルクを飲むだなんて、同じ屋敷で二千年以上を共に過ごしているのだから、気負うことなく当たり前にできることなのだろうが、自分とミヤジは二百八十四年もの間当たり前にできなくなってしまっていた。
乾いた唇を陶器に沿わせると、冷たい粘膜に触れた熱に咄嗟に口を離して、もう一度寄せた。
蜂蜜が入っているのだろうか。
ミヤジの持ってきたホットミルクは甘く喉を流れ、胃の腑から爪の先まで全身に行き渡るようだった。
飲みながらミヤジの様子を確認すると、目を合わせる素振りも見せずに、それでもここに居ることが当然だとでも言いたげな表情をしていた。
少しでも腕を伸ばせば触れられる距離。
いっその事触れてやろうかとも思ったが、焦りは禁物だと自分に言い聞かせて、何食わぬ顔をしてホットミルクを飲んだ。
 マグカップの底が完全に見えた頃、ミヤジが今偶然思い出したと言うような顔を取り繕ってわざとらしく「……そういえば」などと言い出すものだから、あの夜のほんの数分、いや数秒程度の短い一瞬を覚えていたのかと、綻びそうになる口元に気付かれたくなくて、空のマグカップの縁を唇で食んだ。
ミヤジの世界から抜け落ちた存在なのだと思い込んでいた過去の自分が、もしかするとミヤジは君の事をないものとしては思っていなかったようだよと聞いたならば、嘘をつけと頬を引き攣らせながら笑ったかもしれない。
そんな自分の顔を想像して、声を殺しながらくつくつ笑うとミヤジが訝しげに眉根を寄せた。

「……何が言いたい」
「いや、すまないね。何も」

 ミヤジは納得のいかない様子であったが、それ以上何かを聞くつもりもないらしく、マグカップに口をつけてから、小さく「あ、」と漏らした。
おそらくミヤジのマグカップの中身も空なのだろう。
底に乾いた白い輪の張り付いた、象牙色のマグカップ。
滑らかな陶器が体温と同じ温度を保っているのは、自分の掌の熱によるものかもしれないし、先程まで注がれていた中身によるものかもしれない。
そしてそのどちらも等しく正しいのだと思う。
 ミルクを飲み終えたらミヤジは部屋を出るのだと思っていたが、なかなか動こうとしない。
何か話でもあるのかと思ったが口を開く素振りすら見せないところを見ると、言い淀んでいるようには感じられなかった。
こちらから声を掛けた方がいいのだろうかとも考えたが、不用意な発言をすればこのひと時が終わりを告げてしまうようで、黙ったまま足を組み替えた。
どちらが口を開くわけでもない、今この時が堪らなく眩しかった。
 結局どれ程の時間そうして自然の一部のように沈黙しながら時を過ごしただろう。
ミヤジの呼吸に梢が触れ合うような微かな音が混じった。
自分の部屋に戻ろうとしているのだろうかとミヤジが口を開くのを待ったが、何も言わずにミヤジは椅子に腰掛け直した。
室内で炎を揺らめかせていた蝋燭が一本、役目を終えたと言わんばかりに白濁とした塊に成り果てた。
暗闇が急激に領土を広げ、境界線を曖昧にぼかしていく。

「……蝋燭、後でまた持ってくる」
「ああ。……いつもありがとう。ミヤジ」

 影に輪郭を縁取られたミヤジが両手で包んだマグカップを指の腹で擦るように撫でている。
蝋燭の燃えきった脂じみた苦い白煙の香りが闇に沈殿していく。
自分の服の擦れ合う乾いた音。
目の前で確かに存在している体温。
それはあの夜にどれ程手を伸ばしても、その幻影に指を掠めることすら叶わなかったものだった。
 二百八十四年。
渇望するばかりで結局腕を伸ばせずに焦がれ続けていた時間。
時間が解決するだろう、いつかはきっとまた分かち合えるだろう、自分にそう言い聞かせながらも頭の片隅から本当にそう思っているのかと囁きかけてくる声なき声。
信じきれなかったかもしれない。
けれど今ここに確かに在る。
二度と帰れない場所だと思っていた、記憶の中だけで生きる彼との思い出が多く詰まった治療室。
その場所が、長すぎる沈黙を経て呼吸を再開した。
まだ気兼ねなく笑い合える関係とは程遠いのかもしれない。
それでも今日ミヤジはここへホットミルクを二つ持ってやってきた。
それだけで、もう充分だとも思えた。
 ミヤジの左半顔を横切る瘢痕。
その傷がなかったならば、あの日失う痛みがなかったならば、こんなにも遠回りすることはなかったのかもしれない。
ミヤジは変わらずに共に医療係を続けていたかもしれない。
一度壊れた物は元通りにはならない。
自分達の関係もまた、元の通りとはいかない。
新しく作っていくのだ。
これから悠久と呼べるほどの長い年月をかけて、樹木のようにゆっくりと、自分達だけの速度で。
 あの夜、沼底に絡め取られ沈み込んでいたのは、部屋にたちこめる苦い香りと、この静謐な夜に辿り着く為だった。
そう思い込んでしまうことが、生きることを選んだ、身動きの取れなくなったあの夜の自分へ向けた救いになるような気がする。
けれど今もまだ、あの夜と同じような夜はたまにあるのだと言ったら、ミヤジは笑うだろうか。
……いや、ミヤジのことだから、きっと笑いはしないだろう。
しかしそれを理解していながら尚、伝えることを選んでしまっては、彼を自分に留めておくことそのものだ。
知られる必要なんてない。
それでも百年に一度くらいは、こうしてホットミルクを持ってきてほしいと願ってしまうのは、少し傲慢すぎる気もするけれど。

「ルカス」
「どうしたの?」
「……いや、何でもない。……あまり遅くまで起きているなよ」

 ミヤジが立ち上がり空のマグカップを手に取った。
陶器の触れる音が、この時間の終わりを告げる鐘の音のようにも聞こえた。
通り過ぎる際に揺れた空気が優しく頬を撫でる。
部屋に残されたのは深まったミュールと、まだ消えないミルクの甘い残り香。
部屋の扉が完全に閉まりきってから、おやすみと一言言うだけのことを失念していたことに気が付いたが、追いかけてまで伝える必要はないと机に向き直り、研究の続きをしようと姿勢を整えたけれど、爪の先まで温まった体が心地良く微睡みを誘う。
徐々に重力に逆らえなくなり、重くなっていく体に、彼がホットミルクを持ってやってきた理由を見て、口の端が上がっていく。
 ミヤジの言った通り、今日はこのまま寝てしまうことにしよう。
着替えも何もかも早く起きてやればいいだけの事だ。
零れた薬品で汚れた白衣を脱いで椅子の背もたれに雑に掛ける。
部屋までの僅かな距離すら歩くのが億劫で、今日はこのまま治療室で寝てしまおうと皺ひとつないベッドに倒れ込んだ。
自分の呼気すら、柔いミルクの匂いを纏っていた。
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