【新訳】星が繋ぐ君と僕/Aporia

 深夜一時。
蝋燭の灯りと月明かりだけが頼りの屋敷内は、大きな一つの洞穴のようで、水滴が重力に逆らえず尾を引きながら滴り落ちるかすかな音さえも、鼓膜の奥に張り付くほどの静寂が覆い被さっていた。
日中は十八人と一匹の執事によって、あちらこちらから聴こえる音や声が、寂寥感など感じている暇がないほど溢れている。
昔からの習慣で考え込む癖のついている頭には、騒がしいとも言える音の数々が心地よかった。
しかしこうして一人で夜闇に溶け込みながら机に向かっていると、悪い癖が鎌首をもたげてこちらを睨み始めるのだ。
決して昨日今日始まったような簡単な話ではない。
ただの人間として生きていた時もあるにはあったことだけれど、特に酷くなってきたのは悪魔と契約した頃からだろうか。
日頃見つめないようにしまい込んでいるはずの、無数の傷跡を、夜風が嘲笑いながら撫でてくることが増えたのは。
他の執事達も寝静まって、影すら形を浮かばせることができずに夜闇と重なり合う部屋で、埋まることのない空白を薄目を開けて見つめていると、次第に考え事をするだけの隙間が前頭前野にできてきて、奥底に沈めたはずの感情や、今この瞬間に考えたところでどうに動くこともできないだろうと笑えてくるような課題の山が、濁流の如く押し寄せてくる。
そういうものだと分かっているから、嵐が過ぎ去るのを待つ時と同じく、身を潜めながら濁流を眺めて、流れが凪ぐのをひたすらに見守るのだ。
多くの場合は濁流の外から見下ろすように眺めていればよかったのだけれど、時折、突如として現れた分水界によって流れを変えた濁流に飲み込まれることもあった。
気力、体力を共に消耗している時などは、飲み込まれることの方が多いかもしれない。
今宵はどうやら飲み込まれることを覚悟しなければならないようだ。
何故そんなことが分かるのかと聞かれれば、今まさに足首の辺りまで濁流が流れ込んできているからだった。

「疲れたな……」

 零した独り言は誰かに聞かせるために零れ落ちたものではない。
濁流に飲まれる覚悟を決め、それでも何とか逃れる術はないのかと、目の前に広がってなどいない、ただの被害妄想的空想を振り払う為に、意図的に零したものだ。
 わざとらしく椅子の背もたれを軋ませながら天井を仰ぐ。
暫く座り続けていたはずだけれど、木製の背もたれの柔い冷たさが、衣服を突き抜けて皮膚の上から背骨をなぞった。
その冷たさ一つで下眼瞼が震えた。
唾液を飲み下すことすら拒否している狭まった喉奥の小さく竦んで鳴る音が、頬の内側を震わせた。
瞬きをすることも忘れて天井を見つめてみても、何も無い。何も見えない。何も聞こえない。
自分の内側で鳴る拍動も、浅い呼吸に混じる口内を掠める音も、空よりも遠くで行われていることのように感じられた。
腕には一切の力が入らず投げ出されていたが、自分を繋ぎ止めておくために両の指を重ね絡めた。
 ここ最近、いつにも増して忙しく過ごしていた自覚がないとは言えない。
多忙に身を置いたから気力を消耗したのか、気力の消耗を誤魔化すために多忙に身を置いたのかは分からないけれど。
仕事をしている時だけは、自分で自分が保てている感覚があった。
目の前の事を淡々とこなす。
体が追いつかないと感じる瞬間もなかったわけではないけれど、仕事に集中している間は意識が過去や未来を悪戯に弄ることを防いでいた。
現実逃避だと言われてしまえばその通りだと返すだろう。
自分でも少なからず、これは現実逃避なのではないだろうか、自分自身の消耗から目を背けているだけなのではないか、という気持ちを抱えながら仕事に取り組んでいた面もある。
気付いていながらもひたすら仕事に没頭する、ある種自己犠牲的なやり方を続けていたのは、追い込むことでしか目を背けられなかったからだ。
 もしも濁流が足元から順を追って、這い上るように浸蝕してくれるのならどれだけ良かったことか。
現実は自分の頭が思うほど、順番を重要なこととして扱わない。
窓から射し込む月の明かりが伸びた天井を、無感情に呼吸をすることだけに体の全神経を研ぎ澄ませながら見つめていると、不意に木製椅子に委ねていた体全体が宵の闇に沈み込んだ。
浅かった呼吸が詰まる。
自分一人では到底這い上がることが不可能に感じられる底無しの沼。
正確に言えば水草に絡め取られながら一人で這い上がるしかないのだけれど、底は確かに存在しているのだけれど、今は雁字搦めになった水草を解くことも、底を見つけることもできずに沈溺していた。
苦しい。息ができない。誰かこの深く、昏く、冷たい場所から無理矢理にでも引き上げてくれやしないだろうか。
 椅子の上で体を丸めて膝を抱え込む。
擦れた布地の乾いた音が、木製椅子の背もたれに刷り込まれてか細い悲鳴をあげた。
丸くした体では内臓が物理的に圧迫されていて、喉奥が狭まるどころか、吸い込もうが、吐き出そうが、薄い酸素は肺を介していない。
布越しに伝わる自らの皮下組織の奥から漂ってくる、母の腕の中と同じ生の温かさを含んだ薬品臭い体香。
膝の内側に滞留している、体を温める事もなければ、耳に届くこともない、肺の奥から絞り出してきた輪郭の覚束無い「頑張れ」。
濁流に押し流されて、沼の底に沈み込むしかない脆さを鼓舞する為に漏れ出たはずの言葉は、酸素に触れて歪んで、持つ意味すらあやふやになりながら、元の形が分からなくなるまで崩れ、流砂となって消えていくことを見つめていることが、この状況での精一杯だった。
けれどそれこそいい歳の一人の大人の男だ。
三十四を越えて、いや二千を越えて、膝を抱え込んで必死に呼吸をしている様を、俯瞰しながら滑稽なものだなと冷静に見ている自分もいた。
滑稽なことを理解した上で、どれだけこの丸め込んだ体が情けのないみすぼらしい姿であったとしても、そんなことを気にして格好付けられるだけの見栄はどこにも残ってやしなかった。
 希望だの未来だのと無理矢理引っ張り出してきた安価な眩さで、この暗澹を誤魔化そうと試みもしたが、沼底から見える反射光にいくら手を伸ばしても、瞳孔を開いて目を凝らせば映り込んでいたのはまさにこの沼の底。
結局光を掴むことなどできやしない事を悟り、最初から分かりきっていたことだと言い聞かせる。
搦んだ水草に抵抗する気も起こらない。
諦めて沈むことに身を任せていると、過去の記憶が棘を持った水泡となって水草を掴んだ。
水泡に触れることを脳関門が拒む。
触れてしまえば更なる泥濘に足元を絡め取られるのだぞと頚椎が首の後ろを固まらせた。
水泡はこちらの意志とは無関係に近付いてくる。
痛みを感じることで、疼く海馬を黙らせてしまいたくて、来るなと願いながら掌に爪を突き立てたけれど、耳後ろに触れた水泡の棘によって、痛みは上書きされてしまった。
棘は意外なほど透き通っていて、神経に触れながら体内へと侵入してきた。
 なぜ、こうして沈みこんで雁字搦めになって、身動きがとれなくなっている時に思い出すのは、自分でも忘れていたような、しまい込んでそのまま忘れてしまっていたような記憶なのだろう。
意地の悪い脳だ。
いや、こんな記憶を引っ張り出してくるのは脳ではなく心臓なのかもしれない。
血液に、内臓に、骨に刻み込まれた記憶が忘れてくれるなとシュプレヒコールをあげているのかもしれない。
それにしたって、あまりにも悪趣味ではないか。
血液で描かれた絵画のように鮮烈で、鉄の生臭さが前頭洞に突き刺さる。
 二千年以上の途方もない年月の中で、腕を伸ばすことすらせずに、引き止める言葉を投げることすらせずに、鼻を鳴らして見送った背中達の幻影。
自分の元から去っていくことは仕方のないことだ、頭の作りが違うのだと物を知った気になって、傲慢に言い聞かせていたけれど、納得がいって言い聞かせていたわけではなかった。
なぜ彼らが背を向けるのか、その理由を真に理解はしていなかったからだ。
理解などしたくなかっただけかもしれないが。
去りゆく背中の幻影の中に、知りすぎるほどよく知った白亜の執事服が混ざっていた。
同じ視座に立ち共に笑いあった初めての人。
並び立つ喜びを教えてくれた人。
古びた羊皮紙の手を掴もうと、藻掻きながらどれだけ必死に腕を伸ばしても、もう二度と届かなくなってしまった人。
彼はきっと背を向けたのではない。
あの日を境に彼の世界から抜け落ちるように、ルカス・トンプシーという男は丸ごと消滅したのだろう。
そして消失した後にできたであろう微かな綻びは既に修復され、自分の入る余地などないように見えた。
それ故に、届かなくなってしまったのだろう。
届かないと知りながら、なぜこんなにも諦め悪く腕を伸ばし続けているのか、自分でも理解不能だった。
それまで感情を殺して見送ったように、彼の世界から消え失せたことを認めて諦めてしまえばよいだけのこと。
たったそれだけの事が二百年以上もできずにいた。
もしかすると明日は彼の世界にほんの一片でも自分が存在しているのではないか。
ありもしない、期待ですらないただの願望だ。
望むような明日は来ないことを理解しているはずなのに、なぜだか不思議と捨ててしまうことはできなかった。
 こうして蹲っていてもきっと夜が明けることもなければ、引きずり込まれた沼の底から浮上することもないだろう。
じっと息を潜めていても何も変わる事がないのならば、何か一つくらい足掻いてみてもいいのではないか。
しかし、生憎全てを曝け出してありのままの自分を一切取り繕うことなく見せられるような相手は一人もいなかった。
正確に言えば過去には両親を除いて一人だけいた。
等身大の自分のままで構わないのだと、向き合い心を預けられるのだと思えた男が。
けれど彼の世界は既に閉じてしまったのだから、過去の偶像でしかないのだ。
脳関門が拒む記憶も、海馬に深く沈みこんでしまうことも、もしかすると身動きも取らずに息を詰めて、膝を抱え込んで蹲っているからかもしれない。
抱えた足を床に下ろすと、木製椅子が床を薄く沈めた音が体の芯に触れた。
前頭前野に考える隙を与えてはいけない。
向こうが透けて見えるほど薄く頼りのない息を一つ吐いて、辺りを見渡す。
 部屋の空気。指の内側まで痛くなるほど冷えきっている。
動きはぎこちないが特段支障はないだろう。
乱雑に置かれた書籍の山。一番最近読んだ本のタイトルは『毒薬草』。
書店で見かけて手に取った本だったけれど、望んでいた以上に毒について幅広く解説されていて奥深かった。
棚に置かれたウィスキーボトル。先日譲ってもらった高価な物が二つ新顔として並んでいる。
近いうち誰かを誘って飲むのもいいかもしれない。
窓の外。木の葉が揺れていないから風は吹いていないか、もしくは小風だろう。
見える範囲は雲がなく美しい寒月も星もよく見えた。
ラムリの生活スペースと、ナックの生活スペース。二人とも今日は任務で出払っていて、ベッドは朝に整えられたままの状態だ。
二人のことだから任務の心配をする必要はないが、万が一を考えて薬の在庫を確認しておかなければ。
目に入ったものを一つずつ解剖していく。
そうしていくことで意識を今この瞬間にだけ縫い止めたかった。
目の前で起きている出来事だけを注視することで、徐々に拍動が安定してくる。はずだった。
現実はと言うと、安定してくるどころか、一つ解剖を進めるごとに呼吸の浅さに勢いがつき、拍動は耳管を震わせるほど膨れ上がった。
口の端から意識すら行き届いていない呻き声が漏れた気がした。
 ──この部屋にいては沼底で溺死してしまう。
粘度のある水で肺が満たされているような息苦しさで戦慄く唇を噛み締めて、体内を巡る全ての神経を足の爪先に向かわせて椅子から立ち上がった。
振り返ると部屋の扉がはるか遠くに感じる。
縋り付くように真鍮のサムラッチハンドルを握り込むと、掌全体が張り付いて握ったまま固定されてしまいそうだった。
サムラッチを押し下げようと親指をかけたが、指を下ろす、その簡単な動作さえ行うことがひどく難しいことのように感じられる。
早く浮上してしまいたいと意識の表層は焼け付く焦燥に駆られていたが、深層部では沈溺していることに悦びを見出しているのだろうか。
二千年以上も生きているくせに、沈むことに陶酔しているのであれば、それこそ本当の愚か者だ。
サムラッチにかけた親指に力を込めて扉を開ける。
開かれた廊下の奥から人の気配を感じない風が吹き込んできて、顔周りを覆っていた髪をどけるように揺らした。
 部屋を出て向かう先は決めていた、というより決まっていた。
治療室でも、団欒室でも、書庫でも、バルコニーでもなく、この屋敷の中で一番空に近い場所、見張り台だ。
この屋敷での生活を始めた頃から、ずっと。
廊下は蝋燭の灯りすらついていない深い闇が広がっていて、深淵への大口を開けているようだった。
沼の底にいると思っていたが、向かう先は底よりさらに底なのかもしれないと思うと足が竦みそうになって、膝裏が引き攣るように痙攣した。
かと言って、部屋の中に居続ける気にもなれず、前に倒れ込みながら一歩を踏み出した。
酸素が薄い。
喉奥が震えながら冷気に触れることを拒んでいる。
体の芯が凍てつくように冷えているというのに、乾燥した額の生え際には汗が滲んでいる時と同じ気持ちの悪さがまとわりついていた。
 灯されていない白く固まったままの蝋燭を横目に捉えた刹那、前頭前野で制御しきれなくなった白亜の執事服が明滅した。
受動的に差し出していた足の動きが止まる。
真暗闇で柔く溶けだすこともなく停止している蝋は、まるで今の自分と彼のようだと思った。
僅かな可能性すら期待できないけれど、もしも今の自分を彼が見たなら何を言うのだろう。
他の執事達に向けているような、甘やかで凍えた芯を融解させる眼差しを一欠片でも向けてくれるのだろうか。
沼の底にいても揺らぎとなって響く低音で、引き摺り出してくれるのだろうか。
……ありもしない空想は、いくらしたところで虚しさを際立たせるだけだ。
どれだけ彼を愛情深い人だと定義しても、存在しない透明な人間に愛情はかけられない。
その事は決して彼自身のせいでもなければ、彼の優しさを否定するものでもなかった。
彼の優愛が大樹の如く深く、揺るぎないものであることをほんの二百数十年前まで、誰よりも近くで見てきた。
そして、その恩恵を享受していた自負がある。
けれど今は存在しない。残酷なほど。
大樹が道端に転がる石ころを気に留めないのと同じくらい純粋な空白。
他の執事達に向けられた眼差しを、声色を、笑って見つめながら、この先大樹の恩恵に触れることはできないのかもしれないと目の端が歪む事もあった。
あった、というより、今この瞬間もそうだ。
もしも自分がルカス・トンプシーではなく、他の誰かであったなら、決定的に道が分かれていったあの日に全てを救えていたなら、彼の大きな掌は今頃掬いあげようと必死に伸ばされていたことだろう。
だからと言って、二百数十年前のあの夜に自分がした決断を、決して彼に理解しろなどと宣ってみせることはできなかった。
できなかったけれど、解ってくれたなら、分かち合ってくれたなら、選んだ道は間違っていなかったと言い切ってくれたなら、死神と罵られた過去を内包して救われたのだろうかとは考えてしまう。
ベリアンは時間が解決すると言うけれど、どれだけ長い時間をかけたところで、解決なんてしやしないのかもしれない。
時が経てばまた彼の世界に自分の居場所ができるのか。
時が経てば共に医療係をしていたあの頃のように、二人支え合って笑い合えるだろうか。
全て、否だ。
それだけの事を自分がしたのだから。
その自覚は確かにあるのだから。
十五歳にも満たない少年か、彼、どちらか一方しか助けることのできなかったあの夜にした決断に間違いなどなかった。
間違っていなかったと言い聞かせたところで、自問自答が止まることもないが。
それでも間違いだったと自分が口にすることは、救えなかった十五歳にも満たない少年の命をそのまま否定することにほかならない。
だからこそ、どれだけ彼に詰られようが間違っていなかったと言い切る。何度でも。
例えその事で彼の世界から自分の存在が消滅したとしても。
彼との時間を永遠に失うことになるとしても。
立ち止まり訪れもしないもしも、に思いを馳せたところでルカス・トンプシーである自分が別の何かに変容することはない。
過去に行く手立てもありはしない。
 歯を突き立てていた唇の薄い皮がついに弾けたらしい。
滑らかな鉄の香りが舌先に触れた。
体の内側にしまわれていたものだからか、粘膜を伝う血液は口内にあっても生温かい。
けれどこんな血液よりも、あの夜取り零した少年の体温は、熱く、焼き付いて、一日たりとも掌から抜け落ちたことはなかった。
手探りで壁を伝わなければ歩けない暗闇の中では、口腔内を染める鉄の香りが、生を繋ぎ止める唯一の物であるとさえ思えてくるのだから、過去の記憶に囚われることも、彼に望みを投げようとすることも、いよいよ自傷行為のようだ。
そうして自嘲したところで、思い出さなくなるわけでもなかったが。
受動的に動かしていただけの足を、能動的に見張り台へと向けた。
──大丈夫、足はまだ動く。
その事だけが託してもいい希望なのだ。
 見張り台へ向かう石造りの階段に足をかけ一段、また一段と登っていくと、暖かみのない硬質な音が闇の中に響いた。
鼓膜を突き刺しながら鳴る音は、独りであることをこの空間そのものに彫りつけているようだった。
いつから独りだったのだろう。
初めからずっと独りだったのだろうか。
彼と道が交わったと思っていたのは勘違いで、本当は交わったことなどなかったのかもしれない。
今踏みしめている階段が、どこへも繋がらないまま永久に続いている気がしてくるのは、そうあってほしいと願っているからだろう。
償いのようなことをしたかったのだ。
これまでの人生で取り零した数々の命に対して。
それから、彼に対して。
遺された者達の慟哭は魂を削り抉りとる。
それほど鋭利で、直接内臓に触れるような痛みもあって、何年も、何十年も、何百年も、何千年も、抜けることのない棘があった。
けれど自分には全てを受け入れ、その慟哭を正面から聞き、受容することしかできなかった。
例えどんなに身を切るような言葉を投げ掛けられても、言い訳のしようもなく、最後に取り零したのは、取り零す決断をしたのは、他の誰でもなく自分なのだから。
 階段を登り切ると眼前に広がる満天の星空を、漏れだした白濁の膜が覆った。
部屋の中で思っていた通り風はほとんど吹いていなかったけれど、冬の夜空の輪郭は鋭く鮮明で、下から見上げていると夜が落ちてきそうだった。
いっそ本当に自分の元へだけ、寄り道もせずに落ちてきてくれたら良かった。
逃れようのないミュールのベルベットで、彼の世界からだけではなく、この世界からルカス・トンプシーという存在を奪い去ってくれたら良かった。
しかし、夜は落ちてこない。
月が光を失うこともなければ、全ての星の命が同時に消えることもない。
風が吹くのをやめることも、木々が梢を揺らさず沈黙することも、花が咲くのをやめることもない。
それこそ二千年以上生きたこの体がこの世に産まれるよりはるか昔から、この空は同じ場所に在り、風は吹き、季節の移ろいと共に植物は葉を花を宿し続けていた。
両親を見送った夜も、少年を救えなかった夜も、彼の慟哭が自分を、そして彼自身を拒んだ夜も、変わらずそこに在った。
優しく肩を抱くわけでもなければ、慰めの言葉を掛けてくれるわけでもなく、ただ、在った。
何も無い。けれど全てが在る。
それだけのことだった。
1/2ページ
スキ