短編
深夜一時。昼間は何かと騒々しいパレス内も今は静寂に包み込まれている。
薄明かりのついた三階執事室。
ギ、と小さく椅子を鳴らしてルカス・トンプシーは深く長いため息を吐いた。
「疲れたな……」
誰に届いてほしいと思った訳でもなくぽそりと口から漏れ出た言葉は夜闇に吸い込まれていく。
ぐるぐると回り続ける頭の中を無理矢理静かにさせてぼんやりと天井を見上げる。
近頃いつにも増して多忙であった自覚はある。
ほんの少し気を抜いた途端に自分で意識したつもりのない言葉がポロッと零れ落ちてしまう程度には仕事、仕事、仕事の毎日だった。
何も考えずに天井を見つめていると不意に、心というのだろうか、胸のあたりがとぷんとまるで深い深い海の底に潜り込んでいくような感覚。
これはあまり良くない。
もうとっくの昔に過ぎ去って自分自身では乗り越えたと思っていた過去の思い出や感情、不安感、後悔、迷い、そういったものが大きな波のようにざわざわと押し寄せてくる。
押し寄せてくるからといって、ルカスは自分でも忘れてしまうほどに長い長い時を生きてきたのだから、今更飲み込まれることはない。
ただじっと過ぎ去るのを待つだけ。
朝が来ればきっといつも通り。
そう自分に言い聞かせながら目を閉じる。
『君とはもう何も話したくない』
『ルカスといると自分がひどく惨めな人間に思えてつらいんだ』
『もう関わらないでくれ』
『アンタの傲慢な態度にはもう耐えきれない』
『頼む、どこか遠くへ行ってくれよ』
過去に言われた言葉達が泡のように次から次へと浮かんでは消える。
いつもそれをじっと見つめ耐えるのは、今のルカスではなくまだ悪魔執事になるよりも前の、もっとずっと幼いままのルカス。
「どうして?」
「みんな離れていく」
「さみしい」
「僕のようになれないことなんて、仕方のないことなのに」
そんな風にただ投げかけられた言葉達を受け止め、離れていく背中を見送ることしかできなかった。
ふぅ、とルカスは小さく息を吐き出し少しわざとらしく目頭を抑えたあと、これまた大袈裟にうーんと言いながら伸びをする。
そして今日はダメかもしれないなと自嘲気味に笑った。
ここに座ったままいてはダメだ。
疲れているせいか普段の通りであれば浮かんで消えるだけの泡も、じっとりと全身に纏わりついてくるようだった。
静かに立ち上がり部屋を出る。
静寂の中に靴音だけがやけに響く。
この日のように心がとっぷりと暗い水底に沈んだまま帰ってこない時いつも行く場所があった。
それは屋上の見張り台。
夜風に当たりながら星を眺めているといつの間にかざわざわと押し寄せていた波が静けさを取り戻す。
思い出が悲しいものばかりでは決してなかったことを思い出せる。そんな場所。
それを期待して見張り台へと上がる。
けれどその日は少しだけ様子が違った。
見張り台への扉を開けているまさにその瞬間、フラッシュバックのように一瞬だけミヤジ・オルディアの、自分へ向ける軽蔑的な眼差しがバチッと頭の中に浮かびあがってきた。
海のように涼やかな双眸が冷たくルカスを映し、映してしまったことを後悔するかのように反対方向へきょろりと動く。
昔からそういった視線や態度を幾度となく向けられてきたものだから慣れきっているとずっと思い込んでいた。
そして、鏡の中の自分に何度もそう言い聞かせた。
けれどミヤジはルカスにとって初めて同じ職業で心から向き合える、親友と呼べる存在だった。
恋焦がれてると言っても過言でないほどに唯一無二。
ミヤジと一緒ならどこへだっていける、何だってできる、そう思っていた。
何者にも変え難いミヤジにそんな目をさせているのが他でもない己であることがひどく悲しかった。
ミヤジと話さなくなってもう何度季節が巡っただろうか。
今ではそういうものだと、傷付けたのは自分なのだからと思うものの、ずっと悲しいままだった。
理解してほしい、分かり合いたいという傲慢な気持ちだけが宙ぶらりんのまま行く宛てもなく彷徨っている。
他の執事達と談笑しているのを見かければその声を、笑みを、自分に向けてくれたらと羨んだ。
あの頃のように手を伸ばせば簡単に触れられる距離にいられたらと何度自分の手を、ミヤジを見つめたことか。
「今日は本当に余計なことばかり考えしまうね」
見張り台に着いて、星を見ながら自虐的に呟く。
穏やかな風が頬を撫で木々を揺らす。
じわりと目に温かいものが込み上げてくるのが分かった。
悲しいわけじゃない。
苦しいわけでもない。
諦めにもよく似た寂しさ。
ぽつ、とひと雫、ふた雫、涙が頬を伝うのを感じた。
いけない、と指で口角を押し上げる。
嗚呼なんてぎこちなく下手くそな作り笑顔だろう。
そもそもなぜ泣いているのか自分でも理解が追いつかない。
今までもあったこと。
ずっと繰り返してきたこと。
ただ相手が、ミヤジが、自分にとってほんの少し特別であったというだけのこと。
共に在る幸せを知ってしまったから、その幸せを手放すのが惜しくなってしまったというだけのこと。
ただ、それだけのこと。
***
その日ミヤジ・オルディアは特別何があったという訳ではないけれど寝付けないままでいた。
ベッドに潜り込みもぞりと体勢を変えてみたり、目を閉じて瞑想してみたり、試行錯誤を繰り返してみても妙に冴えた頭ではまだ眠りにつけそうになかった。
はぁ、と小さく息を漏らしベッドを出る。
水でも飲んでこようかと思い厨房へ向かう途中に、そうだ、起きたついでに星でも見てこようと思い立った。
ゆるりと空を見上げながら自然の音に耳を澄ましていればそのうちに眠気もやってくるだろう。
そうして展望台へと上がると先客の姿が目に入る。
よく見慣れた黒と赤。
研究でもしていたのだろう、汚れのついた白衣が月明かりを浴びている。
よりにもよって、と腹の奥底に黒い感情がぐるりと渦巻くのを感じる。
相手がこちらに気付くより前にこの場を離れようと踵を返そうとした。
けれど扉を開けた音が聞こえていたのだろうか。
不意に白衣の人物、ルカスが振り返る。
その表情を見て少しだけぎょっとした。
星明かりに負けないくらいきらきらと輝く琥珀色。
形の良い唇は物静かに結ばれたまま。
何か声をかけた方が良いのかと口を開きかけたが、この男のことなど知ったことではないと噤んだ。
ルカスの方から何か言ってくるかと一瞬待ったが結局お互いに挨拶のひとつも交わさないままにミヤジは展望台を後にした。
気分転換のつもりだったけれどまた眠れそうになくなったと考えながら足早に部屋に戻る。
まるで何かから逃げるようにベッドに潜り込み、考えるのをやめよう、やめよう、と今見た光景を忘れようとするが、チリチリと頭の片隅に先程のルカスが過ぎる。
こちらも何も声をかけなかったし、ルカスからも声をかけられなかった。
ただ月の明かりに照らされた、ルカスの透き通るように白い肌の上をはらはらとこぼれ落ちる涙が、厭に輝いて見えた。
普段人前で自分の弱さを曝け出すことがない、ミヤジから見れば恐ろしい程に完璧で、冷酷で、隙のない彼の涙の理由は分からないし、分かる必要も、分かりたくもない。
もしかすると自分が原因かもしれないし、そうでないかもしれない。
「はぁ、何をやってるんだか……」
あまりに見慣れない姿を見たものだから動揺しているだけだ。
声くらい、かけてやれば良かったかな。
かけて、今更いったい何を話すと言うんだ。
赦せない相手に対して一体どれだけの優しい言葉をかけられるというのか。
あの憎々しい、生命を選別してきた、自分を生かした手でも握って大丈夫だと励ましてやるのか。
馬鹿馬鹿しい。
考えるだけ無駄だ。
どっちみちもう声はかけないままに部屋に戻ってきているのだし。
そうやって頭の中でいくつもいくつも声をかけなかった言い訳のように思考を巡らせながら、それらに蓋をするように布団をかぶる。
昔の自分達のままの関係性だったら、言葉をかけて、薄くて儚げなその背に手を添えただろう。
自分がいるから大丈夫だと手を握っていたかもしれない。
けれどもう、その時とは違うんだ。何もかも。
そう何度も何度も頭の中のルカスに、自分自身に、言い訳を続けていると、いつの間にか眠りに落ちていた。
***
翌朝。寝起きの悪いルカスは頭痛に叩き起された。
ズキズキと痛む頭を抑えながらのっそりと起き上がる。
原因は明らか。柄にもなく溢れ出した涙を、ただ流れるまま流し続けたことと、連日の睡眠不足。
無意識のうちに長い長い溜め息がこぼれた。
身だしなみを整えるために鏡を覗けばとても人前に出られないようなひどい顔をしていた。
僅かに赤く腫れぼったい瞼。濃い隈。こんなに白かったかと自分でも驚くほど青白い顔。血色の悪い唇。寝癖で収拾がつかなくなっている長い髪の毛。
「(まるで亡霊だな)」
鏡の向こうの男は無表情にこちらを見つめている。
ずっと目を合わせていると自分ではない、まったく別の人間のように思えてきてやや不気味だ。
ぎゅっと口角を上げ、目尻を下げる。
いつ大切な主がこの世界に帰ってくるか分からない。
帰ってきた時にあまりにひどい顔をしていれば優しい主のことだ、いらぬ心配をかけさせることになってしまうかもしれない。
笑え。笑え、ルカス・トンプシー。
絶対に気取られるな。
よし、と小さく呟いて、そういえば昨夜見張り台にいる時にミヤジが来たなと思い返す。
ミヤジはこちらを見て何か言おうとしたようだったが、何も言うことはなくすぐに出ていってしまった。
くるりと向けられた背中に一瞬腕を伸ばしかけて、やめた。
少しの時間でいいから傍にいてほしい、そんな我儘はもうぶつけられない相手なのだから。
泣いていたことに気付かれたかもしれないが、悲しいかな他の執事ならまだしも自分のことなど気に留めることもないだろう。
身だしなみを整え終えて、こなさなければいけない仕事を確認する。
郵便の返送に街への買い出し、そうだ、薬品庫の薬の在庫確認もして、それから、それから。
とりあえず先に買い出しを済ませてしまおうかと一階のホールに向かうため歩いていると、前からミヤジが歩いてくるのが見えた。
「やぁ、おはようミヤジ」
いつもの笑顔。いつもの声音。仕草もおかしくはないだろうか。
彼の瞳にはいつものルカス・トンプシーが映っただろうか。
まぁ、どうせ返事はないんだけれど。
返事が来ることはもう半分以上も諦めてしまったけれど、もしかしたらなんて淡い期待を胸に少しだけ脈を早めながらすれ違う。
ほら、また何も返ってこなかった。
もう飲み込みきれないほど飲み込み続けた寂しさを、また今日も飲み込む。
「昨日、」
「えっ?」
聞き間違いだろうか。
今確かに背中からミヤジの声でなにか言葉が聞こえた気がした。
バッと振り返って、それから相手が自分じゃなかったかもと居心地が悪くなる。
けれど周りに視線をやっても今ここにいるのはルカスとミヤジだけだった。
顔は見えなかったが、体はほんのちょっぴりこちらを向いていた。
「昨日、何をしていた」
「え…っと、特には何もしてないよ。寝付けなくて、星を見てた」
「……そうか」
それだけ言うとミヤジはまた歩き出す。
一体なぜ彼は今声をかけてきたのだろう。
自分のことなど気にも留めていないのではなかったか。
実に何年ぶりだろう。
仕事以外で話すことがなくなったミヤジの方からルカスを気にかけるような言葉が出たのは。
それはほんの短いひと言だったけれど、必死で掬いあげなければ指の隙間からこぼれていってしまうほどに僅かな一瞬だったけれど、それでも、ミヤジの世界のほんの片隅にでもルカスの存在がまだあることが嬉しかった。
あんなにもズキズキと鈍い痛みを放っていた頭もなんだかスッキリとしている。
浮かれてるな、と思う。
浮かれずにいられるか、と思う。
まだ望みを持っていてもいいだろうか。
君とまた笑い合い、支え合える日が来ることを夢見てもいいだろうか。
今だけは、今だけは少し、この高揚感に身を預けて。
薄明かりのついた三階執事室。
ギ、と小さく椅子を鳴らしてルカス・トンプシーは深く長いため息を吐いた。
「疲れたな……」
誰に届いてほしいと思った訳でもなくぽそりと口から漏れ出た言葉は夜闇に吸い込まれていく。
ぐるぐると回り続ける頭の中を無理矢理静かにさせてぼんやりと天井を見上げる。
近頃いつにも増して多忙であった自覚はある。
ほんの少し気を抜いた途端に自分で意識したつもりのない言葉がポロッと零れ落ちてしまう程度には仕事、仕事、仕事の毎日だった。
何も考えずに天井を見つめていると不意に、心というのだろうか、胸のあたりがとぷんとまるで深い深い海の底に潜り込んでいくような感覚。
これはあまり良くない。
もうとっくの昔に過ぎ去って自分自身では乗り越えたと思っていた過去の思い出や感情、不安感、後悔、迷い、そういったものが大きな波のようにざわざわと押し寄せてくる。
押し寄せてくるからといって、ルカスは自分でも忘れてしまうほどに長い長い時を生きてきたのだから、今更飲み込まれることはない。
ただじっと過ぎ去るのを待つだけ。
朝が来ればきっといつも通り。
そう自分に言い聞かせながら目を閉じる。
『君とはもう何も話したくない』
『ルカスといると自分がひどく惨めな人間に思えてつらいんだ』
『もう関わらないでくれ』
『アンタの傲慢な態度にはもう耐えきれない』
『頼む、どこか遠くへ行ってくれよ』
過去に言われた言葉達が泡のように次から次へと浮かんでは消える。
いつもそれをじっと見つめ耐えるのは、今のルカスではなくまだ悪魔執事になるよりも前の、もっとずっと幼いままのルカス。
「どうして?」
「みんな離れていく」
「さみしい」
「僕のようになれないことなんて、仕方のないことなのに」
そんな風にただ投げかけられた言葉達を受け止め、離れていく背中を見送ることしかできなかった。
ふぅ、とルカスは小さく息を吐き出し少しわざとらしく目頭を抑えたあと、これまた大袈裟にうーんと言いながら伸びをする。
そして今日はダメかもしれないなと自嘲気味に笑った。
ここに座ったままいてはダメだ。
疲れているせいか普段の通りであれば浮かんで消えるだけの泡も、じっとりと全身に纏わりついてくるようだった。
静かに立ち上がり部屋を出る。
静寂の中に靴音だけがやけに響く。
この日のように心がとっぷりと暗い水底に沈んだまま帰ってこない時いつも行く場所があった。
それは屋上の見張り台。
夜風に当たりながら星を眺めているといつの間にかざわざわと押し寄せていた波が静けさを取り戻す。
思い出が悲しいものばかりでは決してなかったことを思い出せる。そんな場所。
それを期待して見張り台へと上がる。
けれどその日は少しだけ様子が違った。
見張り台への扉を開けているまさにその瞬間、フラッシュバックのように一瞬だけミヤジ・オルディアの、自分へ向ける軽蔑的な眼差しがバチッと頭の中に浮かびあがってきた。
海のように涼やかな双眸が冷たくルカスを映し、映してしまったことを後悔するかのように反対方向へきょろりと動く。
昔からそういった視線や態度を幾度となく向けられてきたものだから慣れきっているとずっと思い込んでいた。
そして、鏡の中の自分に何度もそう言い聞かせた。
けれどミヤジはルカスにとって初めて同じ職業で心から向き合える、親友と呼べる存在だった。
恋焦がれてると言っても過言でないほどに唯一無二。
ミヤジと一緒ならどこへだっていける、何だってできる、そう思っていた。
何者にも変え難いミヤジにそんな目をさせているのが他でもない己であることがひどく悲しかった。
ミヤジと話さなくなってもう何度季節が巡っただろうか。
今ではそういうものだと、傷付けたのは自分なのだからと思うものの、ずっと悲しいままだった。
理解してほしい、分かり合いたいという傲慢な気持ちだけが宙ぶらりんのまま行く宛てもなく彷徨っている。
他の執事達と談笑しているのを見かければその声を、笑みを、自分に向けてくれたらと羨んだ。
あの頃のように手を伸ばせば簡単に触れられる距離にいられたらと何度自分の手を、ミヤジを見つめたことか。
「今日は本当に余計なことばかり考えしまうね」
見張り台に着いて、星を見ながら自虐的に呟く。
穏やかな風が頬を撫で木々を揺らす。
じわりと目に温かいものが込み上げてくるのが分かった。
悲しいわけじゃない。
苦しいわけでもない。
諦めにもよく似た寂しさ。
ぽつ、とひと雫、ふた雫、涙が頬を伝うのを感じた。
いけない、と指で口角を押し上げる。
嗚呼なんてぎこちなく下手くそな作り笑顔だろう。
そもそもなぜ泣いているのか自分でも理解が追いつかない。
今までもあったこと。
ずっと繰り返してきたこと。
ただ相手が、ミヤジが、自分にとってほんの少し特別であったというだけのこと。
共に在る幸せを知ってしまったから、その幸せを手放すのが惜しくなってしまったというだけのこと。
ただ、それだけのこと。
***
その日ミヤジ・オルディアは特別何があったという訳ではないけれど寝付けないままでいた。
ベッドに潜り込みもぞりと体勢を変えてみたり、目を閉じて瞑想してみたり、試行錯誤を繰り返してみても妙に冴えた頭ではまだ眠りにつけそうになかった。
はぁ、と小さく息を漏らしベッドを出る。
水でも飲んでこようかと思い厨房へ向かう途中に、そうだ、起きたついでに星でも見てこようと思い立った。
ゆるりと空を見上げながら自然の音に耳を澄ましていればそのうちに眠気もやってくるだろう。
そうして展望台へと上がると先客の姿が目に入る。
よく見慣れた黒と赤。
研究でもしていたのだろう、汚れのついた白衣が月明かりを浴びている。
よりにもよって、と腹の奥底に黒い感情がぐるりと渦巻くのを感じる。
相手がこちらに気付くより前にこの場を離れようと踵を返そうとした。
けれど扉を開けた音が聞こえていたのだろうか。
不意に白衣の人物、ルカスが振り返る。
その表情を見て少しだけぎょっとした。
星明かりに負けないくらいきらきらと輝く琥珀色。
形の良い唇は物静かに結ばれたまま。
何か声をかけた方が良いのかと口を開きかけたが、この男のことなど知ったことではないと噤んだ。
ルカスの方から何か言ってくるかと一瞬待ったが結局お互いに挨拶のひとつも交わさないままにミヤジは展望台を後にした。
気分転換のつもりだったけれどまた眠れそうになくなったと考えながら足早に部屋に戻る。
まるで何かから逃げるようにベッドに潜り込み、考えるのをやめよう、やめよう、と今見た光景を忘れようとするが、チリチリと頭の片隅に先程のルカスが過ぎる。
こちらも何も声をかけなかったし、ルカスからも声をかけられなかった。
ただ月の明かりに照らされた、ルカスの透き通るように白い肌の上をはらはらとこぼれ落ちる涙が、厭に輝いて見えた。
普段人前で自分の弱さを曝け出すことがない、ミヤジから見れば恐ろしい程に完璧で、冷酷で、隙のない彼の涙の理由は分からないし、分かる必要も、分かりたくもない。
もしかすると自分が原因かもしれないし、そうでないかもしれない。
「はぁ、何をやってるんだか……」
あまりに見慣れない姿を見たものだから動揺しているだけだ。
声くらい、かけてやれば良かったかな。
かけて、今更いったい何を話すと言うんだ。
赦せない相手に対して一体どれだけの優しい言葉をかけられるというのか。
あの憎々しい、生命を選別してきた、自分を生かした手でも握って大丈夫だと励ましてやるのか。
馬鹿馬鹿しい。
考えるだけ無駄だ。
どっちみちもう声はかけないままに部屋に戻ってきているのだし。
そうやって頭の中でいくつもいくつも声をかけなかった言い訳のように思考を巡らせながら、それらに蓋をするように布団をかぶる。
昔の自分達のままの関係性だったら、言葉をかけて、薄くて儚げなその背に手を添えただろう。
自分がいるから大丈夫だと手を握っていたかもしれない。
けれどもう、その時とは違うんだ。何もかも。
そう何度も何度も頭の中のルカスに、自分自身に、言い訳を続けていると、いつの間にか眠りに落ちていた。
***
翌朝。寝起きの悪いルカスは頭痛に叩き起された。
ズキズキと痛む頭を抑えながらのっそりと起き上がる。
原因は明らか。柄にもなく溢れ出した涙を、ただ流れるまま流し続けたことと、連日の睡眠不足。
無意識のうちに長い長い溜め息がこぼれた。
身だしなみを整えるために鏡を覗けばとても人前に出られないようなひどい顔をしていた。
僅かに赤く腫れぼったい瞼。濃い隈。こんなに白かったかと自分でも驚くほど青白い顔。血色の悪い唇。寝癖で収拾がつかなくなっている長い髪の毛。
「(まるで亡霊だな)」
鏡の向こうの男は無表情にこちらを見つめている。
ずっと目を合わせていると自分ではない、まったく別の人間のように思えてきてやや不気味だ。
ぎゅっと口角を上げ、目尻を下げる。
いつ大切な主がこの世界に帰ってくるか分からない。
帰ってきた時にあまりにひどい顔をしていれば優しい主のことだ、いらぬ心配をかけさせることになってしまうかもしれない。
笑え。笑え、ルカス・トンプシー。
絶対に気取られるな。
よし、と小さく呟いて、そういえば昨夜見張り台にいる時にミヤジが来たなと思い返す。
ミヤジはこちらを見て何か言おうとしたようだったが、何も言うことはなくすぐに出ていってしまった。
くるりと向けられた背中に一瞬腕を伸ばしかけて、やめた。
少しの時間でいいから傍にいてほしい、そんな我儘はもうぶつけられない相手なのだから。
泣いていたことに気付かれたかもしれないが、悲しいかな他の執事ならまだしも自分のことなど気に留めることもないだろう。
身だしなみを整え終えて、こなさなければいけない仕事を確認する。
郵便の返送に街への買い出し、そうだ、薬品庫の薬の在庫確認もして、それから、それから。
とりあえず先に買い出しを済ませてしまおうかと一階のホールに向かうため歩いていると、前からミヤジが歩いてくるのが見えた。
「やぁ、おはようミヤジ」
いつもの笑顔。いつもの声音。仕草もおかしくはないだろうか。
彼の瞳にはいつものルカス・トンプシーが映っただろうか。
まぁ、どうせ返事はないんだけれど。
返事が来ることはもう半分以上も諦めてしまったけれど、もしかしたらなんて淡い期待を胸に少しだけ脈を早めながらすれ違う。
ほら、また何も返ってこなかった。
もう飲み込みきれないほど飲み込み続けた寂しさを、また今日も飲み込む。
「昨日、」
「えっ?」
聞き間違いだろうか。
今確かに背中からミヤジの声でなにか言葉が聞こえた気がした。
バッと振り返って、それから相手が自分じゃなかったかもと居心地が悪くなる。
けれど周りに視線をやっても今ここにいるのはルカスとミヤジだけだった。
顔は見えなかったが、体はほんのちょっぴりこちらを向いていた。
「昨日、何をしていた」
「え…っと、特には何もしてないよ。寝付けなくて、星を見てた」
「……そうか」
それだけ言うとミヤジはまた歩き出す。
一体なぜ彼は今声をかけてきたのだろう。
自分のことなど気にも留めていないのではなかったか。
実に何年ぶりだろう。
仕事以外で話すことがなくなったミヤジの方からルカスを気にかけるような言葉が出たのは。
それはほんの短いひと言だったけれど、必死で掬いあげなければ指の隙間からこぼれていってしまうほどに僅かな一瞬だったけれど、それでも、ミヤジの世界のほんの片隅にでもルカスの存在がまだあることが嬉しかった。
あんなにもズキズキと鈍い痛みを放っていた頭もなんだかスッキリとしている。
浮かれてるな、と思う。
浮かれずにいられるか、と思う。
まだ望みを持っていてもいいだろうか。
君とまた笑い合い、支え合える日が来ることを夢見てもいいだろうか。
今だけは、今だけは少し、この高揚感に身を預けて。
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