短編

 今日は街で子供達と行う勉強会の日だった。
子供達の溢れ出る光の結晶のような力は太陽よりも眩く、逞しい。
その光の結晶を浴びているほんの数時間だけは、自分が悪魔と契約をしている業の深い人間であることも、この世界が天使の脅威に怯えていることも、全て忘れられるようだった。
この光の中に身を置いているひと時が、唯一の心の安寧と言っても決して過言ではなかった。
時に手を焼くこともあったが、それすらも微かに色を変えただけの幸福であることに変わりはなく、純真無垢な心の在り方を受け止めていると、穢れを知った自分自身さえ浄化されるように感じられた。
 子供達の有り余る力を一身に受け、いつもより少し長引いた勉強会を終え、帰路に着く。
足元に伸びる影ごと世界に融けて、前だけを見据えて歩く自分ごと街を彩る蜜色の一部となっていって、誰でもない、唯のミヤジ・オルディアでいられる束の間を心地良く思った。
すれ違う顔も名前も知らぬ人々。見知った街の店並び。
二千年以上の年月をこの街と共に歩んできた。
けれどこの蜜色の世界の中では、自他の境界も随分と曖昧に融解して、建物でさえ境界線をなくしかけている。
伸びた影がいくつも重なり合う。
母に手を引かれ歩く幼い子供とすれ違い、その光景を微笑ましく思うと同時に、二度と引かれることはなくなった己の手を冷たい風が慰めた。
 見つけてしまった心臓の奥に眠る空白を誤魔化す為、屋敷へ戻る前に一息入れようと思い、月に数度足を運ぶ喫茶店へと赴いた。
冬の外気に晒された真鍮のバーハンドルは、触れた掌を切り付けているのではないかと思うほど張り付いた。
掌から体温が抜け落ちたのを感じながら、年季が入って色は褪せ、端の方などは擦れて細やかな傷のできた木製の扉を開ける。
蝶番の異音と共に、頭のすぐ近くでドアベルが凍てついた静寂を溶かし、木製の扉に雫を落とすように、コロコロと硬質な鈴の音を転がした。
途端に鼻腔の奥深くから眉間まで、熱に焼かれた果実の昏い芳醇と、抽出されすぎた刻が放つ、青い未練を煮出したような植物の芳香が滑り込んでくる。
店内に足を踏み入れながら吐き出した、煙のように立ち上った白い息が、ドアベルをひと撫でしてから姿を消した。
煙の消えたその先、店の一番奥、蜜色が最も強く射し込む窓際の席に、よく知った男の姿を見つけた。
男の姿は通路に迫り出した柱によって、その存在を街の喧騒から切り離すように身体半分隠れており、艶のある黒い髪は射し込む光に照らされて表面が茶けて見えた。
 一歩踏み出して身を乗り出すように覗き込むと男、ルカス・トンプシーはどうやら手元の本に耽溺しきっているようで、口を結んだまま俯いている。
元よりただ休憩の為だけに入った喫茶店だ。
声をかける選択肢はないに等しく、それ以上ルカスの存在を気に留めることもなく案内された席へ座る。
左後方に目を向ければ隅の方に小さくルカスの姿があり、彼が顔を上げればこちらにも気が付くかもしれないとは思うが、別に隠れているわけでもなければ逃げているわけでもないので構うことではない。
店主にコーヒーを一杯注文して、猫足のパーソナルチェアに身を沈めると、微かな足の重さが太腿の裏側から溶けだした。
暖炉で暖まった店内の空気が鼻先を滑り降りる。
背もたれに体を委ねると、ダマスク柄のパーソナルチェアの重厚感のある柔らかさが受け止めた。
きちんとした大人の男でいなければ、と肩肘を張り続けていたが、深海よりも深い溜息と共に、肩甲骨の周りの筋肉が弛んだ。
 先程のルカスの姿を思い出し、コーヒーを待つ間本でも開こうと、子供達の為にと用意してきていた童話集を麻の手提げ袋から取り出す。
童話集の表紙の中には、白いレースのバブーシュカを着け、薄縹色のワンピースを翻した少女が暗澹とした森の入口に立っている。
子供向けの作品らしい華やかさのある表紙ではないけれど、子供達にとってはあまり見慣れぬその静けさが、未知の世界そのもので興味をそそるらしい。
今日の授業に参加した子供達も代わる代わる読みたがり、終いには年長の子供が幼い子供達に囲まれて読み聞かせを始めていた。
読み聞かせをしていたその子供も、ほんの何年か前までは聞く側として耳を澄ませ、目を輝かせていたというのに。
 本の表紙を捲るとそこには一節『この童話集を未来あるすべての子供達へ贈る。』と書かれている。
そのささやかな一節が、本の中身よりも好きだった。
目を惹かれるのは、自分もかつては未来ある子供のうちの一人だったからかもしれない。
もう二千年以上も前の話にはなるが。
家族と友と、自分の近くで呼吸をする者が世界の全てだったあの頃。
例え産まれ落ちたのが戦時下であっても、自分を含め、子供達の純粋な眼が曇ることはなかったように思う。
道端に咲く一輪の花を見て、隣で笑う友を見て、自分が必ず救うのだと、闇を切り裂くのは自分の手に違いないと、傲慢なまでの希望を握りしめていた。
 けれど歳を重ねるにつれて、取り零すことを受け入れていかなければいけないことを知り、現実の重さには何度も押し潰された。
何と声をかけられても、自分が生きている事に何一つ価値はないのだと、生きていることに光を見出すことができなくなったこともあった。
しかし、なんの皮肉かは知らないが、今もこうして自分は生きていて、抜け出すことのない深淵だと思っていた闇は、道端に咲く一輪の花や、子供達の純粋な眼、笑顔によって薄明光線が差している。
薄くも柔く温かい光。
その光に手を引かれながら、この頃漸くこの深淵の歩き方を覚え始めた。
 じっと一文を見据えたままページも捲らずにいると、注文していたコーヒーを持ってきた店主が恭しくテーブルに置いた。
ソーサーとカップの触れる微かな音。
お好みで、と隣に並べられた海軍型ミルクピッチャーと角砂糖の詰まった瓶。
湯気と共に立ち上る、幾重にも焙り出された深く昏い芳香。
一言礼を告げると、ごゆっくりとだけ言って店主はカウンターの向こう側へ帰っていく。
 この喫茶店ができた当初、店主はまだ自分と同じ三十四だった。
店主の作るパンプディングが特に人気で、連日外まで行列ができていた。
あまりの評判に興味をそそられ、何度か注文したこともあったが、評判の通り卵の味が色濃く、一度食べるとその卵の強さが癖になり、数日の間舌先が滑らかな甘い卵を求めるほど。
けれどその店主も今や七十になろうとしている。
数年前に腕を骨折した後、完治したはずの今でも指の先に痺れが残っているとかで、パンプディングは永遠に注文することができなくなってしまった。
未練がましく屋敷でロノに再現を頼んだこともあった。
確かに店主のパンプディングの味にごく近く絶品だったのだが、説明し難い物足りなさがあり自分なりに考えたところ、どうやらこの店で店主の作るパンプディングが食べたいのだと気付いてしまった。
物足りなさの原因は真鍮のバーハンドルの感触であったり、迫り出した柱であったり、ダマスク柄のパーソナルチェアであったり、店主の恭しい態度であったりするようで、こればかりはどうにも他の何かで補いきれるものではないのだと諦めるよりほかないのだった。
不老であることを店主に悟られないために、長い時で十数年もの間、店から足を遠ざけることもあったが、自分で思っている以上にこの場所に執着しているのだろう。
この先店がなくなってもきっと思い出すのだ。
卵を丸ごと味わい尽くすようなパンプディングの味と、この場所の全てを。
 角砂糖の瓶を開け、焦香の中に一つ落とし、もう一つ入れようか悩んで、やめた。
本当は砂糖を入れなくても良かったのだが、蜜色の世界の蕩ける甘さのせいで、つい入れてしまった。
角砂糖を落とす時というのは、なぜ小さく固めただけのただの砂糖が、川縁で浮かれる子供のように思えてしまうのだろうか。
もしかするとコーヒーの中で形を無くしていく砂糖に、せめて融解することを幸福としてほしいという祈りがあるのかもしれない。
ティースプーンを差し込むと、カップの底で辛うじて姿を保っている砂糖に触れ、そして沈んだ。
 砂糖の溶け込んだコーヒーに口を付けるか、それとも童話集のページを捲るか、目線だけ動かしながら考えて、そして童話集を閉じた。
暗緑色の焼き陶器。
縁と内側は黄金に彩られているコーヒーカップは、この店ができた当初から変わらないが、長い年月働き続けたことで、気にならない程度ではあるが縁が欠けていた。
ループに指を絡めるとカップ内部の熱で温まっており、取り戻した体温とよく馴染んだ。
温度を確かめるように、唇の粘膜にカップをゆっくり沿わせると、肺の奥まで沈み込む重い焦土の香りが突き抜けていく。
口内に流れ込んだ一口分の熱い鉛が、喉を通って胃の腑に広がるように腹の奥底を温める。
恍惚とした吐息。
一度カップを、カップと同じ色をした暗緑色のソーサーに戻す。
戻す時微かに、けれど確かに静寂の中に投げ込まれた小さな音の石が、同心円状の波紋を描いて消えていくのを、耳管が追いかけた。
より深くダマスク柄のパーソナルチェアに身を沈み込ませると、体温と同化したジャガードが自分の体の一部のように感じられる。
当分の間立ち上がることはできないだろう。
 右手側にある窓へと顔を向けると、鮮やかな蜜を閉じ込めていた空に、薄く夜闇の階調がかかり始めていた。
直に夜がくる。
家路を急ぐように駆け抜けていった馬車の振動が、地面に響いて店の床を震わせた。
奥の通りに生えている楓の木は、秋口には銀朱に染まり街を彩っているが、今はすっかり葉も落ちて、寒々とした細い枝を揺らしていた。
こうして窓越しに外を眺めていると、自分も先程まではその道を歩いてきたはずなのに、一度も歩いたことのない、知らない道のように見える。
歩きながら一度こちらに目を向けた見知らぬ老紳士と刹那的に視線が交差したが、何も気付いていないという風な顔をして、店内へと顔を戻した。
 店の中では店主がランプの蝋燭に火を灯して回っている。
店主がマッチを擦る度、翳り始めた店内を橙が丸く照らした。
あまり遅くならないうちに屋敷へ帰ろうと思ったものの、まだ下半身はすっかりダマスク柄のパーソナルチェアにしっかりと根を張ったままだったし、湯気の消えたコーヒーはまだ一口分しか減っていない。
 ……そういえば、ルカスはどうしたのだろうか。
気付かない間にもう店を出ているのだろうか。
ふとそんな事が気になって、顔を左後方へと向ける。
灯されたばかりのランプの足元に落ちた影の輪郭がぼやけた。

 ルカスは変わらず迫り出した壁の奥にいた。
本は閉じられ、人の世を憂うような、それでいて慈しむような寂寥感で満たされた顔をして、眼差しは座席の真隣にある窓へと向けられている。
日頃から何を考えているのか解りづらい男ではあったが、今は間に流れる決定的な距離もあり、尚のことルカスが何を思い座っているのか理解のしようがなかった。
ルカスの元にも、今自分の座っているテーブルにある物と同じ、暗緑色のコーヒーカップを見つけたが、手を伸ばす素振りがないところを見ると、もしかすると既に中身は入っていないのかもしれない。
ただ、テーブルの上に置かれた青白く細い両手が、自らの存在を抱きしめるように結ばれていて、屋敷では決して見ることのない真実がそこに座っているのだと悟った。
 暫くの間ルカスは瞬きもせずに窓の外を眺めていたが、やがてゆっくりと目を閉じると、顔を正面に向き直した。
そして閉じた時よりもさらに時間をかけて、ランプの灯りに臙脂色の睫毛を透かしながら、瞼を開ける。
月と同じ輝きを持ったルカスの瞳の色が、窓の外に広がる夜闇の至極と重なり合った。
向けられる花緑青。
距離は相当離れているというのに目が離せない。
毒に浮かされるように、酸素を肺に送り込むことさえ忘れて、拍動の音だけが脳髄を揺さぶる。
 まるでこの世界を生きるのは自分とルカスの二人だけなのではないかと錯覚するほどの静寂の中で、先に動いたのはルカスだった。
一瞬花緑青を丸く見開いてから、真一文字に結んでいた口元を綻ばせ、握りしめていた手を解してこちらへひらひらと舞い踊る蝶の優雅さを指先まで携えて手を振ってきた。
何の反応も示さずにその様子を眺めていると、テーブルの上の本を手に持って、迫り出した柱の向こう側を越えて歩いてくる。
静かな店内に響く、ルカスの靴底と床が触れ合う音が衣擦れの残香を引き連れて、目の前までやってきた。

「こんばんは、ミヤジ。奇遇だね」
「ああ」

 ルカスが向かい側にもう一脚置かれていた、空席のパーソナルチェアに身を沈めた。
先程の悍ましい花緑青はなりを潜め、見慣れた静かな月の光を湛えている。
飲もうと思ったわけではなかったけれど、見透かすような月光を前にして、無意識にコーヒーカップに手が伸びた。
何もせず手を添え置いているだけではおかしく思われるだろうと思い口を付けると、表面の冷たくなったコーヒーが喉奥を潤していく。
 カップを置きながら、あんなに真剣に一体何を読んでいたのだろうとルカスの手元に目を向けると握られた一冊の本の表紙には『君愛し』と書かれていた。
装飾を一切排した白亜の表紙に、細い万年筆の先でなぞったような頼りなげな花が一輪だけ線画で描かれていて、なぜだかその花に窓の外を眺めていたルカスを重ねて見た。

「その本は……」
「ああ。これ?最近若者の間で流行っているんだって。ミヤジにも貸してあげようか」
「……いや。私は遠慮しておくよ」

 見たことのない表紙だったが、書名からして恋愛小説か何かだろうか。
若者向けの明朗快活な物語を予感させるにはあまりに質素な表紙だけれど。
表紙の線画を指先に覚えさせるように、おもしろいのになあと独り言ほど細かな吐息を吐きながら二度、三度となぞった。
 ルカスは昔からよく本を読む男だと思う。
児童書から捲るだけでページが砕けてしまいそうな古い文献まで、何でも興味深げに読み込んでは、得た知識を自らの血肉としているようだった。
まだルカスの助手として屋敷で共に医療係をしていた頃、その姿に幾度となく感心した。
読書が好きなだけだと本人は笑っていたけれど、ただの読書好きと呼ぶにはルカスの読書量は膨大すぎた。
この世界の知識を全て取り込もうとでもしているかのように。
しかし、膨大な知識を蓄えながらもルカスはそれを無意味にひけらかす事はしなかった。
飄々とした態度を崩さないまま、昨日得た知識を今日の礎とし、今日得た知識を明日への糧とする。
天才が天才と呼ばれる所以はここにあるのだと理解せざるを得ない程。
そして傍らでその様子を見続けていると、己はなんと無力な存在なのだろうと思い知らされてしまう程。
 そんな男が若者向けの、おそらく恋愛小説を周りに目も向けることなく没入していたのだから、さぞ面白いのだろう。
恋愛小説には触れる機会も少ないが、そのうち気が向いたら読んでみるのもいいかもしれないと考えながら、ルカスの薬品で表皮の溶けた滑らかな指先を眺めた。
屋敷では手袋をはめていて見えない左手首のほくろが、静かな主張をしている。

「どうしたの?」
「いや。……そんなにおもしろいのか、それ」
「ああ。人の感情の衝動性が散りばめられていて、とてもおもしろかったよ」

 あっけらかんとルカスは言ってのけたが、やはり天才と呼ばれる人間は着眼点も違うのだと、その一言で突きつけられた。
おそらくその本を読んでいる若者達は、感情の衝動性を読み解くために読んでいるわけではないだろう。
読んでいないから中身は分からないが、単純に互いを想い、最終的には想いが重なるその過程を楽しんでいるのではないだろうか。
この男のように感情の階調や、機微を見るために読んでいる者はそんなに多くないだろう、と口には出さずにルカスを見た。
焦がすような焔を宿した満月が、右半分だけかすかに花緑青を孕んだ気がした。
毒気に当てられないように、すっかり冷めきったコーヒーを一気に飲み込んだ。
カップがソーサーと触れ合って、無機質な陶器の音が静寂にこぼれ落ちた丁度その時に、店主が閉店を告げに席へきた。
 この喫茶店は夕方の数時間店を閉め、とっぷり夜の帳が降りきると酒場として再び店を開ける。
夜は屋敷で過ごすことが殆どだから、酒場に顔を出したことはなかったが、三年程前に一度だけ、ルカスと来たことがあった。
その日は偶然にもルカスと二人で依頼された任務があり、任務を終えて帰る頃にはすっかり辺りは暗くなっていて、二人での任務など早々あることではないのだからとルカスに押し切られてこの店に来たのだ。
喫茶店としての顔を隠した店内は、互いの存在しか見えていない恋人達や、労働を終えて盛り上がる者達、会話ぶりから長年通い続けているであろう老夫婦で賑わいがあった。
 入口から離れた人気の少ない席に着いて、ルカスがホットワインを二つ注文した。
届くまでの間、店に入るまでは何かと饒舌だったルカスは黙って店内の喧騒を微笑みながら、けれど孤独を内包するように見つめていた。
ランプの灯りに彫り出された横顔がやけに浮世離れして見えたのを覚えている。
ホットワインのマグカップが席に届けられてからも、大した会話はしなかったと思う。
交わす言葉がその当時は見つからなかったのかもしれない。
触れると熱いほどに温まった花紺青のマグカップを両手で包みながら、惜しむように少しずつ口を付けるルカスの姿に、この時間を束の間であっても引き伸ばしたいなどと思ったことも、言えずに静寂の中に身を委ねた。
きっと今また同じ状況になったとしても、情けないことではあるが、やはり何も言えずに店を出るのだろう。

「ミヤジ?」

 立ち上がったルカスに声を掛けられて現実に引き戻された。
追い立てるわけでもなく退店を待つ店主にコーヒー代を渡して外へ出る。
店まで歩いてきた時よりも強い風が吹いていて、温まっていた体温を一息で奪い去って行った。
灯りも何もない通り道。
反対側からは葉を無くした楓の木の枝が擦れる音がする。
まだそう遅い時間ではなかったけれど、寒さからか暗さからか既に歩く人は疎らで真夜中と錯覚してしまいそうになる。
寒さに声を震わせながら、帰ろうかと言ったルカスの声が風にさらわれ消えていく。
一歩、踏み出した。
踏み出して、立ち止まった。
半歩先にいたルカスが振り返る。
毛量の多い長い髪の毛が風のせいでバタバタと広がって、ルカスの存在ごと覆い隠してしまいそうだった。

「ミヤジ?」

 冷気で白くなった両唇の隙間から、言葉と共に白煙が昇る。
何を言えばいいのか分からなかった。
自分が今どうしたいのかも分からなかった。
けれど、三年前に喧騒を眺めていた眼差しを、今日窓の外を眺めていた眼差しを、このまま何もせずに見ないふりを決め込んでいいものだろうかと、焦燥ばかりがコーヒーの溜まった胃の腑の奥に渦巻いた。
三年前の冬の日に、静寂の中へ帰る彼の背中に見ないふりをしておきながら、今になって見ないふりができそうもなくなったなどと言ったら、ルカスはどんな顔をするだろう。
 自分でもなぜそうしたのかは分からない。
けれど風に押しこくられるようにして、伸ばした右手が本を抱えたルカスの左手首を掴んだ。
暗くて顔がはっきりと見えるわけではなかったが、一瞬たじろいだところを見ると呆気にとられていることに間違いはなさそうだった。
それはそうだろう。
自分でもなぜ今こうして、ルカスの手首に掌を添わせているのか、彼のほくろに親指を這わせているのか、理解が追いついていないのだから。
ルカスは抵抗することも、口を開くこともなく、言葉を待つように真っ直ぐ顔を向けてくる。
どれだけ頭を働かせたところで、気の利いた言葉の一つも出てきやしない。
風に体温を奪われた皮膚は固く乾いていて、僅かな熱を逃さぬように掌を押し付けて、引き寄せた。
はためく髪を押さえつけるように線の細い肩を抱きしめて、木のざわめきに飲み込まれながら、耳元で帰したくないと呟くことが精一杯だった。
左手に持った麻の手提げを投げ捨てて、髪を指の節に絡め取りたかったが、そうしなかったのはすんでのところで理性が働いたことの証明だろう。
ルカスは何も言わなかった。
いや、もしかしたら何事かは言ったのかもしれなかったけれど、火照った頭ではその声を拾うことができなかった。
空いたままの右腕が背中に回された時、漸く頭が冷静さを取り戻し始め、自分が衝動的にしでかしたことの大きさに気付く。

「……その本」
「えっ……?」
「その本、後で貸してくれないか」
「ん。わかった。いいよ」

 誤魔化そうにも誤魔化しようがなかったけれど、ルカスは揶揄うでもなく、温もるように首筋に冷えた鼻梁を擦り付けてきた。
冷気に体温を奪われた体は芯まで冷えているというのに、掌には汗が滲み始めている。
離れてしまうことができずに、ルカスの髪に顔を埋めるように寄せると、風に奪われた香りの奥から、かすかに甘やかな乳白色が鼻腔に潜り込んできた。
このまま二人、不安も孤独もない穏やかなだけの世界を生きることができたなら、それはどれ程の幸福だろうか。
今はまだ想像することすら叶わない。

「ふふ……」
「……なんだ」
「帰したくないって言ったって、私達、同じ場所へ帰るのに」

 そう言ったルカスの声色には諦念が含まれているように感じられた。
この瞬間どれだけ日常に帰したくないと願っても、抱き寄せた体温も、甘やかな乳白色も、全てこの道の上に置いていかなければならないのだと釘を刺されているようだった。
心身の求めるままに求められる二人であったなら良かったのに。
けれどどれ程強く願ったとしても、何食わぬ顔をして帰り、悪魔執事のルカス・トンプシーとミヤジ・オルディアとして生きる。
その道がどれだけ過酷な道だとしても、捨て去ることは到底できはしないし、するつもりもない。
それ故余計に、もしも天使の脅威におびえず平和な明日があったなら、同じ帰る場所がどこか遠く、二人だけの聖域であったならと考えてしまうのかもしれなかった。
 いつまでもこうして、ルカスの体温を腕の中に閉じ込めておきたいけれど、帰らなければならない場所がある。
やらなければならない使命がある。
細い手首を指で骨格を確かめるようになぞりながら体を離そうとすると、背中に回された手が離れることを制止した。

「……少しだけ」

 鼻にかかった声で言われて、握り締めていたはずの麻の手提げが指から滑り落ちていく。
髪に指を差し込むと節に絡みつく細い糸。
吹き荒ぶ風の冷たさも、揺れる梢の擦れる音も置き去りにして、自分の着ている衣服と、ルカスが身に付けている衣服とが触れ合う音が輪郭を帯びていく。
ルカスのあえかな身体を両腕で抱きしめ直して、服の奥にこもる体温を極わずかでも己の身に移そうと背中を探る。
ウールのコートのざらつきが掌をくすぐった。
厚い生地の下にこもる熱の感触は、直接触れようとしても厚い生地の壁に阻まれて、爪の先すら届かない。
自由になった左手を背に回そうとしたらしいルカスの指先がコートに突っかかった一瞬さえも、衝動の澱のようだった。
 心臓は見失っていた魂の片割れを見つけた時と同じくらいの温度を持っているにも関わらず、寄せ合う体は泣きたくなるほど冷たくて、二つのからだは決して一つに融解することはないのだと痛感させられた。
もしもこの世に創造主がいるのであれば随分と粗末な世界を作ったものだ。
絶望は一つの生に一度きりではないのだから。
 境界線をなくすように密着させていた身体を時間をかけて離す。
ルカスの頬に掌を押し当てたが、指先の感覚を失った掌では、その体温を感じることができなかった。
制御の効かなくなった視線だけがルカスの顔の輪郭をなぞる。
薄く開かれた血色の消えた唇が、何か言葉を紡ごうとしたのか薄い白煙をひとつ吐いて閉じられた。
下顎は寒さによるものか、か細く震えている。
月明かりで凍りついて見える臙脂色の睫毛が頼りなげに揺れる。
臙脂の額に縁取られた満月。
水面に映り込む月の双眸の中に、今にも崩れ落ちそうなほど情けない自分の姿が映り込んでいた。
懊悩に沈む自身から目を背けてしまいたかったが、重なった視線が背けることを思い留まらせ、誤魔化すように眼窩をなぞる。
薄紅に染まった鼻先に親指の腹で触れてから、顔を寄せた。
細められて歪んだ二つの月が、完全に閉ざされた。
重なる直前、肺の奥から無意識に零れたようなルカスの吐息が頬に熱を落とした。
雪の降る音さえ聞こえてきそうな静寂の中で、互いの心音だけが鼓膜を打つ。
左右で鳴る心音が、やがて一つの生き物のように共鳴し始めた。
頭を少し動かすだけで、触れそうな距離。
この距離を越えてしまったなら、今までのようにただの廉潔な友人の顔をして、共に運命を背負った仲間の顔をして、隣を歩くことはできないだろう。
やめておけと頭の片隅に残る理性が警鐘を鳴らす。
けれど指先が痺れるほど伝わる生の温度は、臆病な理性を丸ごと焼き切ってしまった。
唇の表面を食んで湿り気を移し、それから漏れ出る形骸化した熱を肺の奥まで飲み込むように唇を塞いだ。
重なった唇はゆっくりと時間をかけて、体温を分け合いながら熱を取り戻し、その柔さから刹那的に境界線が薄く滲んだ。
くぐもったルカスの声とも吐息ともつかない音が歯列の僅かな隙間を通り、口内へと侵入してきて、脊椎に触れた。
熱を閉じ込めるように耳に手を当て、包むように耳朶を摘むと、それまで腕の中で大人しく抱かれていた体が竦められた。
 時間にすればほんの数秒の出来事だったのだと思う。
けれどその数秒間は永遠と呼ぶに相応しいものだった。
交差した視線を外し、体が離れていく。
離れる直前、ルカスの両手が脇腹で一度停止したことに気付いてはいたが、引き止めてしまっては、いよいよ現実に戻れなくなることを本能は知っていて、静かに見送ることしかできなかった。

「……カバン、落ちたよ」
「ああ。……すまない」

 ルカスが今起きた出来事は最初からなかったことだったのだとでも言うように、背後に落ちていた手提げを拾い上げて付着した砂埃を払い除ける。
残熱を抱き続けている、未だ永遠に閉じこもった肢体が離れた右の拍動を求めた。
けれど、離れてしまった以上名を持たぬ一個人ではいられない。
帰るのだ。日常の延長線上へと。
手渡された麻の手提げに詰め込まれた、冬の風に巻かれて消えた熱の幻影。
受け取ってしまえば唇に残るぬくもりの残滓も、掌の奥の拭えない痺れも、全てがなかったことになる。
そう思い躊躇ったが、受け取ることを拒否したところで天使の襲撃も、悪魔と契約した深い業も、身を焼き焦がす絶望の味も、なくなるわけではなかった。
 ありがとうという簡単な言葉さえ喉奥に絡まって取り出せなかったが、腕を伸ばして受け取る。
気のせいかもしれないが、ルカスの弧を描いた唇が震え、長い睫毛が重力に従って伏せられた。
受け取った手提げの持ち手が纏った体温。
どれだけ大切に逃さぬように握り締めようと、指の隙間からすり抜けて零れ落ちてしまう体温。
直視できずに空を見上げると、星々が網膜を焼き切るほど鮮やかに瞬いていた。
腹の奥底から勢いをつけて込み上げるやるせなさを象ると、視界が雪色に染まる。

「帰ろう、ミヤジ」
「……ああ」

 何も掴むことの叶わなかった右手の指の股にルカスの指先が潜り込んでくる。
細い五本の指が存在を浮き彫りにさせるように閉じられ、開かれ、手の甲に骨を突き上げながら閉じられた。
握り返していいものなのかが悩ましかったが、二つの掌の間にできた熱の繭を、慈しみながら護ろうと密着してくる掌に応えるため、開いた指を丸めた。
滑らかで、それでいて冬の風に晒されて少し皮膚の浮いた手。
 繋いだ手を引かれながら足を踏み出す。
靴底が煉瓦式の道路に触れて音を鳴らした。
踏み出すごとに鳴る音は、ここに置いていかねばならない寂寥の涙のようだった。
ルカスの髪の毛から風に乗って漂ってくる、甘い乳白色が、コート越しの体温を現実のものであったのだと裏付けていた。

 街から屋敷へと戻る道中、どちらもひたすらに無口だった。
静かに目の前に置かれた運命という名の抗いようのない日常を受け入れながら、俯いて歩を進め、時折確認するようにルカスが振り向いて、そしてやはり日常を少しずつ咀嚼しながら歩いた。
屋敷と街との丁度真ん中らへんに生えている、巨大な楠を通り過ぎる時、楠は大きな枝を風に揺らしながら清廉潔白な執事の仮面を被り直せとがなり立てていた。
その叫びが剥き出しの心臓に冷たく突き刺さったが、聞こえていないふりをしながら、指先まで絡まりあったルカスの掌の温度だけを頼りに歩き続けた。
脈動が伝わる右手を、白皙の身体を抱きしめることだけに使いたかった。
せめて自分が気の利いた愛の言葉の一つでも言えるようであったなら、こんなにも静かな帰り道ではなかったのだろうか。
 屋敷の門が視界に入った時、重なり合っていた体温がゆっくりと剥離していく。
後に残されたのは凍てつく夜風と甘い痺れ、そして熱の輪郭が綻びた空白だけだった。
門を越えるための足が伸びない。
──これで、おしまい。
ルカスの月の双眸が水底に沈み込み、揺らぎながらそう告げている。
けれど奥に見えるのは、今すぐに抱き竦めてほしいとでも言いたげな慟哭だった。
たった一人、目の前の男を笑わせることもできない。
優しい言葉をかけて、大丈夫だと、恐れることは何もないのだと言い切れるほどの自信もない。
甲斐性がないと言われてしまえばそれまでだが、この男の前では特に誠実で在りたかった。

「それじゃあ……、またね」

 向けられたルカスの笑顔は、背中は、引き止めてくれと悲鳴をあげている。
それでももう、戻れないのだ。あの道の上には。
ルカスの爪先が門の向こう側へと踏み入れられた。
伸びた影が二つに分かれ、足音もまた孤律した音へと戻っていく。
掌に残るのは滑らかで冷たい、ルカスの皮膚の感触。
触れていた耳朶の熱も、乳白色の香りの残滓も、夜風が全て平等に奪い去っていく。

「ああ……。またな」

 ルカスは振り返ることをしなかった。
声が届いていたのか、あるいは届かなかったのか、それすら確認することができずに空を見上げ洞穴のような沈黙へと身を投じた。
瞼の裏にはまだ、縋るような二つの月の影が浮いていた。
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