短編

 ──恋人と唇を重ねたい。
焦熱を分かち合い互いの輪郭を溶かし合いたい。
そう願うことは贅沢なことなのだろうか。
いや、きっと贅沢なことなどではないのだろう。
世の恋人達は当然という顔をして唇を、そして肌を重ね合わせ、互いの存在を認識し合っているのだから。
ではなぜ目の前で次の室長会議の日取りを確認するこの男──ミヤジ・オルディアは、一切手を出してこないのだろうか。
 恋人としての付き合いを始めて、早二年。
二千年以上を生きる中の僅か二年。
悠久の時を生きる身の上ではほんのささやかなひと時ではあるが、ミヤジが文字通り指の一本も触れることがなかった二年の月日は永遠よりも長く感じた。
 恋人とは名ばかりで、これまでも今も立っているのはあくまでも廉潔な友人関係を保っている天秤の上。
いつまでこの均衡を保っていれば良いのだ、と髪の毛の一本、爪の先の先までもが叫んでいる。
こんな我慢の上に成り立つくだらない天秤など、乱暴に蹴り倒してしまいたい衝動に駆られた。

「……ねぇ、ミヤジ」
「どうした?」
「最近さ、……肩とか凝ってたり、しない?」
「いや、特別……」

 少し遠回しな言い方すぎただろうか。
会議で使う資料を撫でる古びた羊皮紙の指先。
その先端をほんの僅かに向けてくれるだけでいいのだけれど。
青天白日の色を瞳に宿して訝しむ。
その産まれたばかりの小鳥の産毛のような睫毛にすらじりじりと焦げ臭い愛執を抱いていることが、卑しくみすぼらしい。
 無意識ではあるが「特別……」と動いた微かな湿り気を帯びた形の良い唇を、まるで獲物を待ち構える梟のような顔をして見つめてしまう。
それなのにミヤジは大きくなった瞳孔の理由に気付いていて、その上で気付かないふりをしているのか、はたまた本当に気付いていないのか、冬のよく晴れた寒空のように澄み渡った眼差しを向けてくる。

「あ、あのさ、ミヤジ……」
「なんだ? 何か言いたいことがあるならハッキリ言ってくれ」
「……手、繋ぎたい」
「手? なぜだ?」

 なぜ、と言われても。
好き合っている者同士、宿す熱を共有し、その熱が一つに重なり合うまで相手に触れたいと思うことに、心が求めている以上の理由が必要なのだろうか。
 もしかするとミヤジは二千年以上生きてきた時間の中のどこかに、そういった欲というか、身を溶かし尽くすような焦熱を置いてきてしまったのだろうか。
それとも二千年以上も生きていて、未だに心臓の隣の骨がひしゃげるほどの熱を持ってミヤジを見ていることがおかしいのだろうか。
 訳が分からないといった顔をして首を傾げるミヤジに淡い桃色をした溜息が漏れる。
こんな調子で二年間、彼の隣で友人以上ですらなくただの一方的な恋人未満のような友人の関係を続けていた。
それでもこれまでミヤジに対して深く言及することをしなかったのは、今自分が感じているような焦熱をミヤジが持ち合わせていないのだと突き付けられることが怖かったからだ。
突き付けられたとて、変わらずにミヤジの隣に居続ける心持ちではいたけれど、それにしたって求められないことには寂寥感を感じてしまう。

「……すまないが、これからフルーレくんと街へ買い物に行く約束をしているんでね。これで失礼させてもらう」
「……うん。わかった。行ってらっしゃい」

 部屋を出ていくミヤジの腕を行かないで、といじらしく抱きしめることができたなら、その先にはどれほどの幸福が待ち受けていただろうか。
置いて行くくらいなら、いっそ今この場で我楽多のように乱雑に捨て去ってくれと言うことができたなら、胸骨の奥に留まったまま出てくることのない、聞き分けの良い「キスしたい」の五文字は跡形もなく消え去ってくれるのだろうか。
いや、いじらしく抱きしめたとてミヤジは時間がないだとか、フルーレが待っているだとか、何だかんだと理由を付けて部屋を出ていくに違いない。
そして我楽多同然に捨て去られたとしても五文字が消え去ることは決してなく、ただ骨を抉るような痛みに形を変えるだけだろう。
 への字に曲がりそうになる口元に歪な三日月の弧を携えてミヤジの背中を見送る。
 ──あと何年、こんな毎日を送らなければならないのだろうか。
一人取り残された室内で、椅子の背もたれに力の入らない体を沈み込むように凭れさせ、天井と壁の間を視線の置き場所に決めた。
隣にはまだミヤジの残り香を宿した空の椅子。
その椅子に手を添えて繋がれることなく空を掻き、今にも泣き出してしまいそうな左の手のひらの慟哭に耳を傾けた。
ミヤジの火照りを期待した薄ら寒い手のひら。
情炎を熱望したまま乾いた唇。
一人でひたすらに求め続けて、一体何をしているのだろうと酷く滑稽に思えてくる。

「……惨めだなぁ」

 涙の代わりに頬を伝う言葉は、誰に届くこともなく静まり返った空虚な世界に消え失せた。
 こんな思いをしているくらいならば求めることを止めてしまおうか、と思ったことも一度や二度ではない。
けれどそれが叶わない。
理性の部分で何度これで終いだ、今日で最後だと唱えたところで、制御のきかない細胞の一つ一つ、そのすべてがミヤジというただ一人の男を求めていた。
誰か一人に対して爛れ落ちてしまうほどの想いを持ち得たのだな、と自分を嘲り笑った。
 考えていても仕方がないこと、仕事へ戻らなければ、と抜け殻となった体をぬらりと持ち上げる。
糸が数本切れた操り人形のようになりながら、こんな行住坐臥では他の執事達の不安を煽るだけだと仮面を張り付け鎧を着込んだ。
 ──部屋を出て普段と変わらぬルカス・トンプシーとして目の前で山積みになっている仕事をこなしていると、胸骨の奥で主張していた渇きをすっかり忘れることができた。
ああこれでよかったんだ。
このまま忙しなく働いて、ミヤジに抱いた物悲しさなど忘れてしまおう。
そう思っている時点で忘れられてなどいないのだろう。
それも分かってはいたけれど、極力頭の中にあるミヤジという存在を丁寧に箱にしまい込んで仕事に打ち込んだ。
 ──別にミヤジと触れ合えると期待して、それを目当てにして付き合いを始めたわけではなかった。
そもそもミヤジとは決して短くはない年数をまともに言葉を交わさずに過ごした時期もあった。
むしろ恋人として成立している──していると言えるのかどうかは分からないが──今の方がもしかしたら異常なのかもしれない。
けれど手を伸ばせば触れられる距離にいて、触れることのできる関係性があるならば、指先のひとつくらい、吐息のひとつくらいで構わない。
冬のよく澄んだ青空のような瞳の中に、自分の存在を確かに置いておいてほしかった。
 ミヤジとの関わりが薄まっていた頃と今はとてもよく似ている。
もちろん険悪なわけでもなければ、意図的に避けるようなことはしていない。
しかし同じ部屋の中にいても触れることはない。
手のひらが冷たいのか温かいのか、それすら分からない。
そもそもミヤジの瞳の奥に、自分はまったく映り込んでいないのではないか、とすら考えていた。
 恋人としての関係を始めたのがもしも、関わりを避けて過ごした二百八十四年よりも、もっとずっと前であったなら、また関係は今とは違ったのかもしれない。
互いを尊重し、敬い、友として、恋人として、言葉を交わし、ぬくもりを分け合っていたかもしれない。
なんてタラレバをどれだけ捏ねくり回したところで、ぬくもりを感じることのない現実がすべてだ。
戻らない過ぎた時間に、どれだけの思いを馳せたとしても、今この時に何の関係も影響も及ぼすことはないのだから。
 海馬の奥で佇んでいるミヤジの背中を振り払ってしまいたくて、つい夢中になって仕事をしすぎた。
こめかみの深部、眼球の奥が鈍く痛む。
頭部の痛みは骨を伝ってじわじわと凝りすぎた肩や腰、疲れの溜まった手の先足の先まで、血液に乗って流れた。
体の痛みを感じ始めると、今度は弱りかけの心にまで痛みが流れ込む。
胸骨の奥が鷲掴まれて喉の奥に肺から吐き出しきれなかったのか、入りきらなかったのか分からない酸素が詰まった。
息苦しさが余計に頭痛を強める。
 一度部屋へ戻って休憩してこよう。
自らの情念が巻き付くように重い体をなんとかかんとか引きずって歩く。
するといつの間にか街から帰ってきていたらしいミヤジと鉢合わせて、今じゃないんだけれどな、と回らない頭が独りごちた。

「おかえり」
「ああ」

 なんてことないただの挨拶。
友にも、恋人にもなれなかった、ただの挨拶。
短い返事の後すぐにミヤジは地下へ続く階段へと向かって行った。
その背中を見送りながら、ミヤジにとって自分は一体どういう存在なのだろう、と押し込めていた疑問が形を持って浮かんできた。
これ以上考えても頭部の痛みを強めるだけ。
考えることをやめなければ。
分かってはいるはずなのに妙に働き始めた思考の動きが止められない。
 痛みに耐えながら三階まで可能な限り足早に駆け上がり、執事室のベッドに倒れ込むように体を預けた。
染み付いている自分自身の匂い。
柔らかな毛布。
シーツの皺一つ一つに体の痛みが吸い込まれていく。
もう起き上がれそうにない。
指一本だって動かしたくなかった。
胎児のように体を丸め込みたくてベッドに張り付いた体を縮こまらせた。
ようやく一息つく事ができて、張り詰めていた体から力が抜けた。
このまま少しの間眠ってしまおう。
そう思って瞼を閉じた。
けれど頭痛のせいで鋭くなった感覚は、閉じた暗闇の向こうで睫毛が揺れ動くことすら煩わしくて、漆黒の鉄球のように重さのある溜息を吐きながら瞼を持ち上げる。
 目を開けてまず視界に入ったのは、顔の前に置いていた自らの両手。
ミヤジが触れることなく、ただ空気を掴むことしかできなかった手。
左手を握り込むと指先にぬるい手のひらの感触。
昼間手を繋げていたとしたら、ミヤジの手もこんな温度だったのだろうか。
ゆっくりと指を開いて触れることのなかったぬくもりを想う。
触れたいと思わないのだろうか、ミヤジは。
それとも男同士だから、同じ屋敷内で働く仲間だから、距離を取っているのだろうか。
二千年以上の関わりがあるから、触れなくても良いと判断しているのだろうか。
考えたくもないのに次から次へと悲鳴のように疑問が湧き上がってきて、視界が僅かに滲んだ。
 ──明日は、指の先だけでもミヤジの体温がこの体に触れますように。
祈りに近い気持ちを込めながら、左の手のひら、ちょうど人差し指の下あたりに口付けた。
唇の感触が柔らかくて温かい。
その温度がひどく残酷に思えた。
分け合えなかった体温だけがやけにくっきりと輪郭を持っていて、腹の奥が締め付けるように苦しくて、このまま透明になってしまいたかった。
自分でも馬鹿げたことをしていることは分かっていた。
こんなことをしたところで、明日もきっと今日と変わらない。
ミヤジは触れてきやしないだろう。
いつもと同じ顔で、いつもと同じ調子で、いつものように挨拶を交わす。
ただそれだけ。
 それでもミヤジと過ごす日常がそこに存在しているならば、それでいいのだと言い聞かせていたら、目の端から熱を持った涙が耳の後ろまで流れていった。
一束濡れた髪の毛が気持ち悪い。
ただ触れ合えないというだけで涙を流すだなんて、今日は疲れすぎている。
いい加減眠ってしまわなければ。
唇に触れていた手をベッドに戻そうとした時、部屋の扉が開いた音がした。
ラムリかナックが戻ってきたのだろう。
人差し指の下を食むように一度唇を動かしてから、何事もなかった、そういう顔を作って寝返りを打つ。

「……ミヤジ?」
「勝手に入って悪かったな。一応ノックはしたんだが」
「それはすまなかった。少し眠ってしまっていたのかもしれない。……どうしたの?」
「いや……。先程やけに顔が青白かったんでな。その確認に来ただけだ」
「そうかい。ありがとう。でも、大丈夫」

 ──気付かれては、いなさそうだ。
繋がれなかった手にぬくもりを纏いたくて唇を寄せていたなんて、そんな虚しさと卑しさしかない行為をしていたなんて気付かれたくない。
枕に顔を擦り付けるようにして涙を拭った。
一瞬のことだから大丈夫だろうと思ってはみるが、凝視してくるミヤジの瞳に今の自分がどう映り込んでいるのか見当もつかない。
しかしあまりにじっと見られていると、その澄んだ青空の中ではなんの誤魔化しもきかないのではないかと居心地が悪くなった。
すべて見ていたのではないか。
そんな気さえ起き始めて、隠すように腕に頭を乗せて肘の内側に口元を埋めた。
 ミヤジが何も言わず、ただじっと見つめてくる時間にほんの僅かな苦手意識があった。
これまでにも時折今と同じ顔をしていた。
何も言わず吸い込むように、飲み込むように、何を考えているのか、何を見ているのか分からない顔で凝視する。
その顔で、その瞳で見られていると、取り繕っていた心が一枚一枚丁寧に剥がされて、そのうち全てが曝け出されてしまうのではないかと怖かった。
何も暴かないでほしい。
すべてを暴いてほしい。
矛盾した二つの心が動脈と静脈それぞれを通って全身にくまなく行き渡るようだった。

「……なあ、ルカス」
「……なに? 私のことなら気にしなくて大丈夫だよ。少し休めば治る」
「そうか。……一つ、聞いてもいいか」
「いいけど、どうかした?」

 随分と歯切れが悪い。
 ミヤジは元々お喋り上手な人間とは言い難い。
付き合いの長い者とはそれなりに言葉を交わすけれど、どちらかと言えば口下手で、慎重に言葉を選びすぎて言葉足らずになっている部分もあった。
おそらく今も何を発するのが最善かと考えているのだろう。
先程まで瞬きの一つもせずに佇んでいた空は瞼の向こう側に隠れている。
 沈黙のヴェールに包まれた室内の中で、規則正しく脈打つ鼓動はメトロノームのようだった。
空気に薄く溶ける甘いホワイトムスク。
その静かな芳香が、無意識に強張っていた眉間を優しく解いていく。
ミヤジの言葉を待つだけの時間は穏やかで緩やかで、羽毛の柔らかさを持って全身を掬い上げるように包んだ。
このまま微睡みの波に身を任せてしまいたい。
そう思い始めた頃、漸くミヤジが口を開いた。

「……何を、していた」
「うん……? 何を、って、何が?」
「……いや、いい。すまなかった。休んでくれ」
「うん……。ありがとう。おやすみ……」

 意識がシーツに溶けていく。
深くなった呼吸に合わせて体が沈みこんで、微かに映る景色はもうすっかり夢と区別がつかなくなった。
ピントの合わなくなった視界の中の、ぼやけきった手のひらに手を繋ぎたかった、と未練がましく思いながら、ゆっくりと意識をシーツに預ける。
完全に意識を手放す直前、ミヤジの熱が頬に移った気がした。
左の頬があたたかい。
きっと都合のいい夢の世界が見えている。
こんな夢まで見てしまうなんて、なんて愚かしいんだろう。
もう持ち上げることすら困難になった瞼に熱さを感じて、睫毛がしっとりと湿った。
それでもじわりと頬に広がる熱があまりに心地良くて、暗い海の底にどっぷりと沈み込むように眠ってしまった。
 ──思った以上に眠りすぎてしまったらしい。
気が付けば窓の外には星が輝いていて、蝋燭の薄明かりが灯されている部屋は、再び眠りに落ちてしまいそうなほど薄暗い。
ゆっくり休んだからだろう。
鉛玉を仕込んだように重かった体は元の通りになっていた。
 鼻根に突っ張るような感覚を覚えて、指でそっと触れると鼻根から頬に向かって流れるような跡がついている。
そういえば眠る直前に涙を零したかもしれない。
もし泣いていたとして、ミヤジには見られていないだろうか。
未だ目の覚めない頭で考えて、見られたところでなんだろうと思い直した。
ミヤジは心の優しい人間だ。
多少は気に留めるかもしれないけれど、それすらもどうだか分からない。
もしもフルーレやラトが眠る直前に涙を流していたら、きっとミヤジは気付かれずとも朝が来るまで手を握っただろう。
けれど今の自分はどうだ。
恋人という立ち位置にいるとも言い切れず、手を繋ぎたいと望んでも拒まれている。
何を思ってミヤジが恋人という特殊な関係を選択しているのか、まるで分からない。
 攻撃をしたいわけではないけれど、寝起きの無防備で剥き出しの心が悲鳴を上げている。
どれだけ手を伸ばしても、ミヤジが遠い。
いい加減諦めろ、これ以上を望んではいけない、と何度も自分に言い聞かせた。
それでも諦めきれずにじっとりと燃え続ける小さな灯りだけを頼りに今日まで歩いてきた。
これからもこのささやかな灯りを絶やさないように守りこんでしまうのだろうか。
室内に広がる夜闇が滲む。
二千年以上も生きた、それこそいい歳の大人が情けのないことだ、と指先で零れる前の涙を拭い取りながら、そういえば誰が蝋燭に火を灯したのだろう、と部屋の扉へ目を向けた。
室内は完全な無音の世界が広がっているけれど、ラムリかナックが戻ってきたのだろうか。

「目が覚めたか」

 突如静寂を切り裂いた重厚感のある鐘の音のような声に心臓が跳ねた。
一体どこから、と慌てて寝返りを打つと日頃自分が使っている椅子にぼんやり浮かぶ人影を見つけた。

「び……っくりした。ミヤジか。えぇっと……どうしたの? というか、いつからそこにいたの……?」
「お前が起きる少し前。……また体調を崩されたんじゃ堪らないからな」
「そうかい……。けれど本当に大丈夫。少し頭が痛かっただけだから」

 ミヤジがどんな顔をしてそこに座っているのか、その表情は暗くて見えない。
今目が合っているのか、それとも全く合っていないのかも薄暗い室内ではいまいち分からない。
分からないけれど、鼓膜を震わせる振動の一つ一つに触れられているかのような重みを感じた。
ミヤジの姿は大きな影となって輪郭もぼやけているのに、着ている燕尾服の白だけが浮いて見えて、何だか妙に不安になった。
 今度こそ泣いていることに気付かれただろうか。
いや、顔が分からないほど室内は暗いのだから気付くわけがない。
必死に言い聞かせている自分に気が付いて、もしかして気付かれたいのかもしれないと思った。
思ったけれどそんな事を言えるわけもなく、辿り着いた気持ちから目を逸らしたくて、ミヤジからも視線を逸らした。
ミヤジの右側に目線を動かすと、机の上でちろちろ燃えるアロマキャンドルを見つけた。
見つけて初めて、室内に漂う白檀の香りに気が付いた。

「……ミヤジ」
「なんだ」
「もしかして、気にしてくれた?」
「……当たり前の事をしただけだ」

 ミヤジが右の腕を動かして、自分の左頬を撫でた。
そのさり気ない仕草一つが照れ隠しのように思えてしまう。
そうあってほしいだけかもしれないが。
夢と現実の境が曖昧になっていた時、その手に熱を移される夢を見たんだよ、と伝えてしまえたらよかった。
けれどそれを伝えたところで何になるのだ、と言葉を丸めて咀嚼もせずに喉の奥に押し込んだ。
頬の奥に熱が残っている。
都合の良い夢ではあったけれど、あれは夢じゃないと思い込みたかった。

「ルカス」

 名前を呼ばれるだけで一拍一拍の拍動が大きくなる。
体を巡る血液の流れが速く鋭く感じる。
深い呼吸が浅くなる。
胸骨が折れて突き刺さっているように苦しい。
こんなにも焦がれていることをミヤジは知らないだろう。
頬を撫で摩っているその手で、熱を分けてほしいと思っていることを知らないだろう。
澄み渡る空色が全てを暴いてくれたらいいのに。

「……もう、部屋へ戻りなよ。私ももう少ししたら夕飯を食べに起きるから。本当にありがとう」
「ルカス」
「なに? フルーレくん達が君の帰りを待ってるだろう。早く戻ってあげて」

 刹那、両の手首を強い力で握り込まれた。
骨の軋む音が聞こえてきそうなほどに強くて痛かった。
手首に閉じ込められた焦熱。
離してほしかった。
同時にこのままその熱で、じりじりと全身を焦がしてほしかった。
 ミヤジはベッド横に立ったまま、覆い被さるように顔を近付けてくる。
古刹の静寂を凝縮した重く甘い木の芳香。
薄明かりのもとでも充分互いの表情が見えてしまうほどの距離。

「……なぜ、泣いているんだ」
「……泣いてなんかいない」
「嘘をつくな」
「嘘じゃない」

 ──言い返す為に発した声は驚くほどに頼りなく、まるで縋り付くように震えていた。
咎めるように、窘めるように強められた手首の痛みに思わず顔を顰めた。
視界が揺れて色が滲む。
これ以上涙を零したくはなくて手首の痛みにも負けないくらい強く下唇に歯を突き立てた。

「ルカス。言いたいことがあるなら言え。下手に隠そうとするな」
「……ないよ。言いたいことなんて。何も」
「それならなぜ泣いているんだ」
「さあ? 欠伸でも出たんじゃないかな」

 話している間にも溢れた雫が目の端からこめかみを通って耳の後でシーツに落ちて染み込んでいった。
通用するわけでもない言い訳を言って何がしたいのだろうと自分自身も思っていたが、虚勢を張り続けることがやめられなかった。
これ以上こんなにも馬鹿げた感情をぶつけたくない。
ぶつけたら嫌われてしまうかもしれない。
嫌われるくらいなら触れられなくても構わない。
ミヤジの隣で存在し続けられるならその方がいい。

「嘘をつくなと言っているんだ」
「嘘じゃないと言ってるだろう」
「ルカス」

 手の跡が残るほど強く握られていた両の手首が軽くなる。
解放された。
そう思った矢先、蝋燭の灯りよりも揺らいだ聞き逃してしまいそうな小さな声で頼む、と言った。
頭を下げているのだろうか。
それとも凭れているつもりなのだろうか。
弱々しく胸の上に置かれた頭につい手を伸ばしてしまった。
指に絡んだ髪の毛がこそばゆい。
なぜだかふと窓の外に目をやって、今日は満月だ、と現実逃避的に思った。

「……言ったら、きっと君は呆れる」
「そうだとしても、言ってくれないか」
「嫌だと言ったら?」
「お前が話してくれる日まで待つさ」

 そう、と返事をして絡んだ髪の感触を確かめる。
頭に手を置いていると、ゆっくりと手のひらに温かさが流れてきて境界が薄くなる。
二年の間求め続けていたミヤジの体温。
それが今不思議と手の中にある。
思っていた形とは大分違うけれど。
 いつの間にかアロマキャンドルの火が消えて、白檀の香りに混じって焦げ付くような匂いが充満していた。
鼻腔に留まる決して良いとは言えない匂いの方が、今の自分にはよく合っている。
そう感じたら、変に意地を張っていることが馬鹿らしく思えてきた。
ミヤジの事を口下手だと思っていたけれど、自分も大概だな、と暗闇が広がっているだけの天井を見つめる。

「……触れて、ほしかった。君に」
「ルカス」
「君の瞳の中に私を置いてほしかった。手を繋ぎたかった。唇を重ねて、肌を合わせたかった。君になぜ、と言われても、私がそうしてほしかった。……恋人なんだろう。私達」

 両手で包んでいた頭がゆっくりと持ち上がった。
土嚢で堰き止めていた川が氾濫するかの如く溢れ出した言葉。
受けたミヤジが一体どんな顔をしているのか見るのが恐ろしくて、ただ天井だけを見つめ続けた。
いっそなんの返事も返ってこなければいい。
やや自暴自棄になりかけている心がそう言うけれど、やっぱり何でもない、と誤魔化して逃げなかったのは、もしかしたら受け入れてもらえるかもしれないという僅かな期待があったのだろう。

「……私は今、自分の考えがひどく愚かだったと、そう思っている」
「……」
「お前がそんな風に思っていることに一つも気が付かないまま、大事にできていると思い込んでいたんだ」

 一つ一つ言葉を選びながら話すミヤジの言葉の端が、涙を流しているように聞こえた。
二百八十四年目に和解をしたあの日よりずっと。
いつの間にか纏わりつくような焦げの匂いは空気に馴染んでいた。
今ここに存在しているのは、不器用に吐き出される二つの吐息と確かな熱を持った二つの体温。
天井の暗闇だけを見つめていた瞳をミヤジに向ける。
大きな体をして、子供のように泣き出しそうな顔をしているのが少しおかしかった。

「ミヤジ」
「なんだ」
「キス、したい」

 一瞬の沈黙の後、ミヤジの手のひらと自分の手のひらが合わさった。
絡められた指には先程手首を掴んでいた時のような力強さはなかった。
それでも個として離れている、二つの身体の輪郭をぼやかす程度には強かったけれど。
 あんなにも澄み渡っていると思っていた空色が今は随分脆く見えた。
目に入るもの全てが色としての形しか認識できなくなるほど距離が近づいた時、躊躇うようにミヤジは止まった。
もう、お互いの吐息を飲み込めてしまう。
そんな距離で。

「……本当にいいのか」
「君に、してほしい」

 遠慮がちに触れた唇は、想像していたよりもずっと熱を持っていて、それでいてひどく儚かった。
互いの唇の輪郭を確かめるように、これまでの二年間を埋め尽くすように、何度も唇を合わせた。
重なり合った粘膜の熱。
鼻腔をくすぐるミヤジの香り。
絡められた指先の脈動。
喉の奥に咀嚼もせず押し込めていた熱が、ミヤジの口腔内へと流れ込んでいく。
浅くなった呼吸の音がやけにくっきりと聞こえた。
 小さなリップ音を鳴らして離れていく唇の温度が名残惜しくて、繋がれた手を握りしめた。
たったこれだけのこと。
けれど渇望し続けたのもまた、この温度だけだった。

「……これからは、優しくしてやれなくなるかもしれない」
「優しくなかったよ。今までも」
2/5ページ
スキ