短編
醒めきらない頭で廊下を歩く。
昨夜のミヤジはいつにも増して凄まじかった。
もう無理だと数え切れないほど言ったのに、その言葉すらミヤジの興奮を煽るだけの材料と成り果て、終いには言葉にも喘ぎにもならないただの音を喉奥から鳴らすだけになっていた。
何度も体を求められたせいで、抜けきらない倦怠感は熱の乗り移った昨夜のシーツがそのまま体に纏わりついているようだった。
髪の一本一本にまで、ミヤジの匂いと蜜がこびり付いているような気さえしてくる。
近頃はまた寝不足続きだったものだから昨夜は早く寝ようと考えていたけれど、その望みが叶うことはなく、寝付くのもすっかり遅くなってしまった。
それ故に先程朝食も食べ終えたというのに未だ欠伸が止まらない。
窓の外にはあまりの鋭い眩しさに、思わず片目を閉じたくなるほどの青空が広がっている。
しかし足に絡みつくような重だるさと、体中に残る焦げ跡と熱の残滓のせいで、透き通る冬の空に憎々しさすら感じた。
よくもまあ、二千年以上も生きているというのに、あんな思春期の青年のように夢中で盛れるものだと感心してしまう。
──その熱を拒むこともなく応え続け、ひたすら喘ぎ続けただけのこの体もどうかと思うが。
考えていると昨夜のミヤジのじっとりと汗ばんだ肌を思い出して、腰を締め付ける鈍い痛みに意識が向いてしまう。
意識に呼応するかのように下腹部の奥が切なく脈動しているように感じ始め、仕事中にこんなことを考えていてはいけないと振り切るように頭を振った。
外で訓練をしている執事達の声はまるで、燻った熱を象徴するオルゴールのようだった。
何度目になるか分からない微睡みへ誘う誘惑の吐息を噛み殺して、夢と現実の境界を滲ませる生理的な涙を指の背で拭う。
今日はこれから会議で使用する書類の整理をして、届いていた貴族への手紙も返信しなければ。
そうだ。薬草のストックも足りなくなりそうだと昨日思っていたんだった。
薄く白濁した霧がかった頭を必死に動かしながら足を進めるが、足裏から伝わる歩行の振動すらも心地良さを高めている。
重すぎて勝手に閉じてくる瞼に、一度部屋に戻って僅かな時間でも仮眠をとろうか、と思っていると背中からベリアンに名前を呼ばれて振り返った。
「やあ。ベリアン。おはよう」
「おはようございます、ルカスさん」
掠れた声が口腔内にへばりつく。
眠気も、体のだるさも、掠れた声も、すべてミヤジのせいだ。
わざと腹が立ったと言い聞かせることで、鼓膜の奥に張り付いたままの、蜂蜜程度に粘度のある囁きから逃れようと試みた。
幸いベリアンは声が掠れていることには一切気付いていないようで、ほっと胸を撫で下ろした。
つい先日倒れて、終いには悪魔化までして、ベリアンには散々心配をかけたばかりだ。
ここでまた、それも今度は必要のない心配をかけてしまうことは、流石に申し訳なさが過ぎる。
どうしたの? と聞くより前に頭の先から爪先までを目視で流れるように確認する。
ベリアンも寝不足なのだろうか。
ただでさえ白い肌が、今は青色の血管が浮き上がって感じるほど無機質で冷めきった色をしている。
過労で倒れた身でありながら、人の事を言えるような立場にないのは分かっている。
規則正しいと胸を張れる生活を送っているわけでもない。
それでもベリアンは少し頑張りすぎているのではないかと心配になってくる。
いつも互いが互いの心配をしているばかりで、お互いに自分の事を疎かにし過ぎているのだな、とベリアンの目の下を彩る濃い隈に鏡合わせになっている錯覚を覚えた。
「どうしたの?」
「あの、目が覚めた時から少し頭痛が酷くて……お薬をいただけるとありがたいのですが」
人差し指と中指でこめかみを押さえながら申し訳なさそうに微笑むベリアン。
二千年以上の付き合いがあるのだ。
今更何かを申し訳なく思う必要はどこにもないというのに。
そう考えて、もしかしたらベリアンも自分に対してそう思っているのかもしれないなと苦笑した。
お互い長く生きているというのに、いや、長く生きてきたからこそ、かもしれない。
遣う必要のない気ばかり遣ってしまっている。
これも言えたことではないことを承知の上で、ベリアンはあまり人に相談事をしたり、辛さを訴えることがない。
年長者として気を張っている部分も大いにあるとは思うが、彼の性格による部分も十分にあるだろう。
そのベリアンがわざわざ呼び止めて薬が欲しい、と訴えてくるということは余程の痛みなのだろう、と推測した。
「……うん。分かった。治療室まで付いてきてくれる?」
「はい、もちろんです。ありがとうございます、ルカスさん。お手数お掛けしますがよろしくお願いします」
次の室長会議の日程はどうだの、昨日来た依頼は誰に行ってもらうのが良いかなどと業務的な話をちらちらとしながら治療室へ向かう。
仕事の話をしているうちに、体に残る昨夜の燃えカスの存在から意識が遠のいて、ああ良かったと一安心した。
治療室の扉を開けると見慣れたいつもの室内と嗅ぎ慣れた消毒液と薬品の匂い。
そして念入りに空気を入れ替えた室内にそんな匂いが残っているわけはないのに、昨夜のミヤジとの行為の生々しい皮膚と湿っぽい声の残り香が、ベッドのまっさらで皺ひとつないシーツから漂ってくる。
一度残り香の存在を感じてしまうと、より強くその存在が浮き彫りになってきた。
目を逸らさなければ、仕事のことを考えなければ、と必死になって頭を働かせようとするが、もう手遅れだと嘲笑う燃えカスが、膝裏から内腿へと這い上ってくる。
目を凝らさずともベッドの上に蹂躙され尽くすことしかできなかった滑稽な幻影まで見えてくるようだ。
腎臓の辺りに燻り続ける熱が決して漏れ出してこないように蓋をしながら、鎮痛剤の粉薬が入った小瓶を取り出して中身の少なさに気が付いた。
「すまない、ベリアン。すぐに薬を作るから、少し待っていてもらえる?」
「はい、ありがとうございます。……すみません、本当に」
「これも私の仕事のうちだし、ベリアンには元気でいてほしいからね。そんな顔をしないで」
さて、いい加減ここいらで幻影は振り落として、現実を見て、頭をしっかりと切り替えなければ。
ベリアンに気取られないように雁皮紙よりも薄くそれでいて木の洞よりも深い息を吐き出した。
薬品庫に保管してあった薬草を手早く選び取り治療室へと戻る。
毎日使っている椅子、机。
目の前に広がっているのは、熱に浮かされた非日常的な重厚な宵の緞帳などではない。
もうとっくのとうに幕は上がり、何ら変わりのない日常が始まっているのだ。
なのに、それなのに────。
先程残り香を感じた時から、じっとりと背中に張り付くミヤジの青い太陽よりも熱い吐息が剥がれない。
うっかりすると自らの肺からも灼熱の風のような吐息が漏れ出してしまいそう。
欲に囚われたままの思考をなんとか転換したくて、また背中に張り付いてる幻影を払い落としてしまいたくて、結った髪の毛を右肩へどかした。
項には悪魔との契約印もある事から普段好き好んでその場所を晒そうとは思わなかったが、今この空間にいるのはベリアンと自分の二人だけ。
多少のことは構いやしないだろうと特に気にとめることをしなかった。
冷たい空気に首元が触れたおかげで、少し頭が冷静さを取り戻してきたような気がする。
下腹の奥で燻っている熱も意識をしなければきっと大丈夫。早いところ薬を作ってしまおう。
そう思って薬草を手に取った瞬間、背後で椅子に腰掛けていたベリアンの声に振り返る。
「……ルカスさん。最近は何か、……困っていることはありますか」
質問の内容自体は思いやりのある優しいものだった。
けれどその言葉を発したベリアンの声色は、早朝の氷柱のように冷たく鋭かった。
なぜ急にそんな声色になったのか。
なにか気分を害してしまうようなことをしただろうか。
それとも体調が悪化したのか。
しかしベリアンの眼差しは怒りを抱えているようでも、体調不良を訴えているようでもなかった。
ただ雪が降る直前のような静けさを湛えたフクシアの奥には困惑の色が混ざりこんでいた。
「困り事……は、特にないかな。私が言ってもあまり説得力が無いかもしれないけれど」
「そうですか……。例えばまた悪魔の声が聞こえたりなどは……」
「それは大丈夫。問題ないよ。……急にどうしたの?」
「いえ……その、」
明らさまに困った、という顔をして言い淀む。
一体何があると言うのだろう。
頭痛のせいか、言いたいことの言葉が見つからないもどかしさからか、もしくはその両方か。
ベリアンは人差し指と中指を爪の跡が残るほど強くこめかみに突き立てた。
ああ、早く薬を飲ませてあげたいのだけれど。
けれど何か言いたげなベリアンをこのまま放っておくわけにもいかない。
「……ベリアン、何かあったのかい?」
「……正直に言いますね。その、……ルカスさんの契約印のあたりが赤紫色になっておりまして……それで、また悪魔と何かあったのでは、と」
一瞬何のことだと思ったが、すぐに心当たりに行き着いた。
心当たり──、それは悪魔などではなく、昨夜のミヤジの舌が這いずり回る熱。
噛み付くように突き立てられた歯列。
そして頚動脈を濡れた真綿で絞めるような唾液の痕跡。
既に見られてしまっているというのに、見られたくない、と慌ててどけていた髪を戻し、右手の指を項に添わせた。
この指で触れている硬い骨の上にミヤジの独占的な執着心の証がある。
一気に心臓が破れそうなほど早鐘を打つ。
耳の奥深くで拍動の音が鳴り響いていて、玉響の間自分の呼吸の音すら掻き消した。
なんと言えばいいのかまるで分からなかった。
いくらベリアンとは二千年以上も付き合いがあるからと言って、これは昨夜の行為の際にミヤジがマーキングをしただけのことだから気にしないで、などとはとてもじゃないが言えやしない。
凍りつくほど冷えた室内の空気は冬の寒さのせいだけではない。
凍りついた空間の中で、ぽつぽつと誤魔化しようもなく火のつき始めた体の熱に燃やし尽くされてしまいそうだ。
そしてふと考えついてしまった。
今ベリアンに言われて初めてマーキングされていることに気が付いたけれど、もしかして他にも気付いている者がいたのではないか。
同室の執事達は、朝食時すれ違った執事達は、この痕跡に気付いていただろうか。
────いや、何も言わなかったということはきっと気付いていなかったのだろう。
そういうことにしてしまわなければあまりの羞恥で自分が保ちきれそうにない。
「ルカスさん? 大丈夫ですか?」
「ぁ……うん。大丈夫……」
「あの、少し契約印を確認させていただいてもよろしいでしょうか」
「えっ……」
ベリアンが契約印を確認する──。
それは即ち付けられているマーキングの痕を確認するということ。
心臓が一拍大きく跳ね上がり、溺れた小鳥のように呼吸の仕方を忘れた。
確認なんてしないでほしい。
今すぐにこの場から逃げ出してしまいたい。
けれどベリアンの言っていることは何もおかしくないどころか、もっともだった。
もし自分が逆の立場で、他の執事達の契約印に痣を見つけたら同じように確認させてくれと言っただろう。
ベリアンが立ち上がり一歩、また一歩とこちらへ歩を進める度に皮膚が粟立つ。
見てほしくない、来ないでほしい、と頭では考えているのに思い浮かぶのは昨夜のミヤジのぐらぐら揺れる溶岩のように熱を宿した空色の瞳と、噎せ返るような愛執の匂い。
冷えきった部屋の空気とは裏腹に熱の籠る体に、早まった呼吸が雷鳴のように轟いた。
「失礼します」
ベリアンの指が髪をまとめ直し項を曝け出そうとする。
夜中の情事を隠す為に、どうしようもなく愛された時間を確認する為に添えていた右手を力無く下ろすことしかできない。
全身の産毛が逆立つようだった。
見ないで、見ないで、と全身が警鐘を鳴らすように叫んでいるのに、まるで椅子に張り付いてでもいるようにその場から一歩も動くことができない。
心臓から送られた血液が顔に集まってくる。
一瞬肌に触れた指先が喉元に突き立てられた刃物みたいに思えてくる。
淡い祈りも虚しく項が空気に触れる。
背後に立つベリアンの表情は見えないけれど、意識しすぎた視線がじくじく刺さって頚動脈が震えた。
「これは……痣? なぜこんな場所に……。念の為お聞きしますが、どこかにぶつけたわけではないのですよね」
「ぁ……、ああ。ぶつけては、いない──と思う」
何がぶつけてはいないと思う、だ。
その痣の理由はとうに知っているというのに。
誰かに話すことを許されないほど淫らな時を過ごした証であるというのに。
純粋な気持ちで心配しているであろうベリアンの視線と、指先が触れた場所から全身が凍りつくようだった。
それなのに体の内側に燻った欲望の火種は徐々に、しかし確実に大きくなっていく。
蜜を促すような下腹の疼きを奥歯を噛んで耐え忍ぶ。
靴の中の足指が逃げ場のない羞恥を察して丸くなる。
「……一度、室長の皆さんだけでも共有しておきたいので呼んできますね」
「ベ、ベリアン……。それは、共有しなくても大丈夫だと思うよ。みんなも忙しいだろうし」
「ええ。ですが万一悪魔の干渉の一端として浮き出た痣であるなら、今後他の方にも起きる可能性がありますから」
起きないと思う。こんなこと。
そう言いきってしまいたかったけれど、それすらも言えずに絞り出すようにそうだね、と小さく同意の声を漏らすことしかできない。
室長達を呼んでくるから、と部屋に一人取り残される。
いっそ今この瞬間に素知らぬ顔をして逃げてしまおうか。
ミヤジに会ったら目立つ場所にマーキングすることをやめてほしいとまた伝えなければ。
──ああ、ミヤジも来るのか。室長として、この場所へ。
今すぐこの場を立ち去りたいけれど、それをしてしまうともっと大きな騒ぎになってしまうかもしれない。
騒ぎが大きくなれば室長だけの話では済まずに、屋敷にいる執事達全員に、この爛れた愛執の証を晒さなければいけなくなるかもしれない。
そう考えると戻ってくるベリアンの姿をただ待つことしかできずに、まさにまな板の上の鯉とはこのことだと思った。
調理されることを待つだけの、項の蹂躙された証を観察されることを待つだけの、なんと無力な存在だろう。
──どれだけの時間待ったのか分からないけれど、おそらくそんなに経たずにベリアンが室長達を連れて帰ってきた。
なぜどれだけ待ったのか分からないかといえば、混乱しきって纏まりをなくした頭では、ほんの少しの時間であっても二千年より余程長く感じたからだ。
「それでベリアン、痣というのは──」
室内に入ってくるなりベレンが口を開いて、もう完全に逃げられないことを悟る。
室長は自身を除いて五人もいるのだ。
そのうちの一人はこの痣を付けた張本人ではあるけれど。
誰かしら、一人くらいは気付いてしまうかもしれない。
これが決して悪魔の干渉などという潔白なものではない、邪な唾液の熱を存分に含んだ痣なのだと。
助けてほしいと懇願する気持ちでミヤジを見ると、何を考えているのかまるで分からず目も合わない。
自分は何も知らないただの清廉潔白な男です、とでも言いたげな顔をして突っ立っている。
こんなにも恥を晒す羽目になっているのはミヤジのせいだと言うのに。
「はい……。ルカスさん、失礼しますね」
「あ……うん……」
掠れたか細く頼りのない棒切れのような同意。
室内を満たしているはずの消毒液の匂いも、薬品の匂いもすっかりしなくなってしまった。
今この部屋に充満しているのは、あどけなく擦り切れた弦が鳴らす悲鳴のように喘ぐことしかできなかった自身と、食らい尽くすと言わんばかりに貪るミヤジの二頭の獣に成り下がった残滓だけ。
ベリアンの指先は悪魔の仕業かもしれないという、緊張と不安を孕んでいるように冷えきっていた。
指先が髪の表面を撫でる度に皮膚が粟立ち、襟足が逆立つ。
もう逃げられない──金魚鉢から飛び出した金魚のように酸素を求めて戦慄した。
「ここです。契約印が────」
「……本当ですね。痣が浮かび上がっている。ルカスさん、痛みはありますか」
「あ……えっと、特には」
「この間悪魔化したと聞いたし、その影響もあるのかな」
暴かれた契約印、いやマーキング痕をぞろぞろと覗き込まれる。
冷たい冬の空気とは反対に、酸をかけられたように体が熱い。
いっそこのまま溶かしてほしい。
五人、──正しくは四人の執事達が真剣に言葉を交わせば交わすほど押し寄せる、この世界に自分の居場所がないのではないかと感じるほどの居心地の悪さ。
「ルカス先生大丈夫か? 顔が赤いけど……また体調不良を隠してるとかじゃないんだよな?」
「えっ……? ああ、うん……。気のせいだと思うよ……」
体調不良で倒れたことも、悪魔化をしたことも、今この瞬間すべてが執事達の心配を煽る一要因になってしまっていた。
羞恥で混乱しきった頭では最早自分がどんな言葉を口から発しているのかすら分からず、あやふやな形のない音に聞こえてくる。
平常心を装おうとするけれど、下肢には大蛇にでも巻かれているのではないか、と錯覚するほど力が入り靴の布越しに足先を擦り合わせた。
「ルカスさん、痛みを感じないようであれば、少し触れさせていただいてもよろしいでしょうか」
「え……えっと、それは……」
ここで断ったらおかしく思われるだろう。
断る選択肢は最初からないも同然だった。
けれどベリアンが今触れようとしているそれはただの傷跡としての痣などではない。
意識をすればするほど、項を這う舌先の蕩けるような熱を思い出してしまう。
誰かこの状況を打開してくれ、その一心で祈りを捧げるように瞼を閉じた。
「待って。ベリアン。悪魔の仕業だとしたら何があるか分からない。あまり不用意に触れない方がいい」
「ミヤジさん……しかし……」
「それにもし悪魔の仕業ではなく、何かの伝染病だったとしたら……触れることで感染の危険性が高まる。そういう点でも、あまり触れない方がいいんじゃないかな」
大真面目な顔をしてもっともらしい御託をいくつも並べてはいるが、この男は痣を付けた張本人だ。
痣の理由を知らないはずがないだろうと叫んでやりたくなる。
しかし咄嗟に叫んでしまうこと、それは「私は素知らぬ顔をしているこの男に、マーキングをされた事にすら気が付かないほど蹂躙されてました」と申告することと同義だ。
逃げ場も見つからない、耐え難い羞恥の渦の中でどうすることもできずに、じっと震えを起こしそうになる膝を手のひらで押さえつける。
それでもベリアンが項に触れなかったことは幸いだった。
もしベリアンに触れられていたら、蛇のように這い回るミヤジの舌先の熱と、塗り広げられる唾液の足跡を思い出して、あられもない声を上げてしまっていたかもしれない。
その点に関してだけ、ほっと胸を撫で下ろしていたその矢先──
「私が触れてみるよ。こう見えても、一応は元医者だしね。多少の事は他のみんなよりも対処法を心得ているつもりだ」
とミヤジが言い出して思わず勢いよく振り返りそうになる。
一体、一体何を言い出すんだ、この男は。
この中の誰よりも一番触れてほしくない相手だ。
それなのに、触れられることを望んでいる体の奥はじんじんと焼け付くように期待をしてしまっていた。
こんなにも欲に支配されて情けない。
まるでうじゃじゃけた果実そのものではないかとルカスは足の上に置いた震える手を組んだ。
「ルカス。これはただの確認だが、なにか心当たりは?」
「ぁ……。と、特に、ない……かな」
「……寝ぼけてどこかにぶつけたりは」
「して、いない……と思うよ。分からないけれど」
ミヤジが付けた痣じゃないかと言えたらどれほど気持ちが楽になっただろうか。
いや、おそらく楽になることよりもその後の居た堪れなさの方が上回るだろう。
触れるよ、と冷たい大理石に響き渡るような深い声が鼓膜を突き破って、脳の神経が震えた。
ゆっくりと近付いてきているであろうミヤジの指先が毒牙を向けているように感じた。
ふ、ふ、と呼吸が早まってしまうのを誰にも気付かれないようにきつく閉じた喉の奥へ追いやって、無理矢理に押し込める。
厭に研ぎ澄まされた神経は、空気の揺れる音まで聞こえてくる気がした。
どれだけダメだと頭の中で大声を出したところで、熱を教えこまされた体は溶解し尽くすような熱を渇望してしまっている。
「っ……!」
室内の冷めきった透明感のある空気を溶かして蒸発させてしまうほどに熱い指の腹が、薄い皮の下の骨を抉るように押し潰す。
他の執事たちからはただ触れているように見えているだろうが、決してそうではない。
宵の熱を思い出せと言わんばかりに食らいついている。
神経毒のような熱の塊が項から、脊椎を伝って下腹部に到達した。
大蛇に巻かれたように力の籠っていた下肢は、羞恥など知ったことかと言いたげに僅かに震え、下腹の奥でくゆり続けていた火種が煙を上げて激しく燃え盛り始める。
ベリアン達が何かを話しているようだけれど、その声が鼓膜を震わせることはなく、どこか遠くの別世界の音のように聞こえていた。
視界がぼやけて滲んでいく。
すべての輪郭が曖昧になっていく世界で今、熱を刻み込む指先だけが、ハッキリとした輪郭を保っていた。
「……熱いな。……声も掠れているようだが、また熱でもあるのか」
「ない……っ、から……!」
組んだ指の先が白く変色する。
ミヤジは自分で付けた証をじっくりと確認するように何度も何度もその場所に指の腹を撫で付けた。
ベリアン達がどんな顔をしてこの状況を見つめているのか、それを考えることのできる思考すら神経毒の甘い酸に溶かし尽くされてしまった。
嫌だ。逃げ出したい。恥ずかしい。このまま甘美な毒に侵食されてしまいたい。
剥き出しになった感情が綯い交ぜになりながら靴の中の指先を小刻みに震わせた。
「……うん。ただの痣のようだから、数日様子を見てみよう。……大方気が付かないうちにどこかにぶつけでもしたんだろう」
しっとりと汗ばんだ指の先が離れることを惜しむように薄く皮膚に張り付く。
助かった──。肺に溜まった火風を火の粉を散らすように吐き出す。
変色するほど強く組んでいた両の手から糸が切れるように力が抜けた、その刹那。
一瞬、ほんの僅かな一瞬、髪と肌の隙間に潜り込み耳朶を摘んで熱を移した。
「あ……っ」
「どうかされましたか? ルカスさん」
「あ、いや、すまない。何でも、ないよ……」
ルカス・トンプシーとしての仮面を被り直しながら、ミヤジに鋭い視線を向ける。
視線に気付いたミヤジは何か? とでも言いたげに意地の悪い微笑みを口端に宿して、指先に残る熱を舐め取るように自身の唇に擦り付けた。
腹の底に押し付けた熱が、尾骶骨を伝って脊椎を駆け抜け波紋が広がっていく。
「ただの痣、ということなので我々は一度業務に戻ろうと思うのですが……。ルカスさん、くれぐれも無理はしないでくださいね」
「あ……!ベリアン、薬を……」
「痛みも大分引いてきたので大丈夫ですよ。もし後でいただけるようでしたら、その時はお願いしますね」
それでは、とベリアンが五人を連れて部屋を出ていく。
ミヤジが部屋を出ていく直前、噛み付くように視線を這わせたことには、気付かないふりを決め込もうと言い聞かせた。
そうしなければ部屋を出るミヤジの腕を縋るように捕まえてしまいそうだった。
──ああ、よかった。なんとか気付かれずに済んだ。
治療室の扉が完全に閉じられて、頭ではそう理解しているというのに、下腹の爛れた愛執はまったく落ち着く気配がない。
室内の乾いた空気すら湿気を帯びて感じた。
ゆくあてのない愛執をどこにぶつけろと言うのだろうか。
誰もいなくなった治療室の中で、見えない熱を絡め取るように指の腹を項に添わせる。
熱を移されたそこは焦げ付くようにひりひりと籠る熱を訴えてくる。
消毒液と薬品の匂い。外から微かに聞こえる執事達の訓練の声。澄み渡る冬の青く遠い空。
どれもがよく見慣れているものであるにも関わらず、未だ誰も足を踏み入れていない異空間のように思えてくる。
その異空の世界の中で項に残るミヤジの指の形をした熱の残り香だけが、唯一現実のものだと感じられた。
昨夜のミヤジはいつにも増して凄まじかった。
もう無理だと数え切れないほど言ったのに、その言葉すらミヤジの興奮を煽るだけの材料と成り果て、終いには言葉にも喘ぎにもならないただの音を喉奥から鳴らすだけになっていた。
何度も体を求められたせいで、抜けきらない倦怠感は熱の乗り移った昨夜のシーツがそのまま体に纏わりついているようだった。
髪の一本一本にまで、ミヤジの匂いと蜜がこびり付いているような気さえしてくる。
近頃はまた寝不足続きだったものだから昨夜は早く寝ようと考えていたけれど、その望みが叶うことはなく、寝付くのもすっかり遅くなってしまった。
それ故に先程朝食も食べ終えたというのに未だ欠伸が止まらない。
窓の外にはあまりの鋭い眩しさに、思わず片目を閉じたくなるほどの青空が広がっている。
しかし足に絡みつくような重だるさと、体中に残る焦げ跡と熱の残滓のせいで、透き通る冬の空に憎々しさすら感じた。
よくもまあ、二千年以上も生きているというのに、あんな思春期の青年のように夢中で盛れるものだと感心してしまう。
──その熱を拒むこともなく応え続け、ひたすら喘ぎ続けただけのこの体もどうかと思うが。
考えていると昨夜のミヤジのじっとりと汗ばんだ肌を思い出して、腰を締め付ける鈍い痛みに意識が向いてしまう。
意識に呼応するかのように下腹部の奥が切なく脈動しているように感じ始め、仕事中にこんなことを考えていてはいけないと振り切るように頭を振った。
外で訓練をしている執事達の声はまるで、燻った熱を象徴するオルゴールのようだった。
何度目になるか分からない微睡みへ誘う誘惑の吐息を噛み殺して、夢と現実の境界を滲ませる生理的な涙を指の背で拭う。
今日はこれから会議で使用する書類の整理をして、届いていた貴族への手紙も返信しなければ。
そうだ。薬草のストックも足りなくなりそうだと昨日思っていたんだった。
薄く白濁した霧がかった頭を必死に動かしながら足を進めるが、足裏から伝わる歩行の振動すらも心地良さを高めている。
重すぎて勝手に閉じてくる瞼に、一度部屋に戻って僅かな時間でも仮眠をとろうか、と思っていると背中からベリアンに名前を呼ばれて振り返った。
「やあ。ベリアン。おはよう」
「おはようございます、ルカスさん」
掠れた声が口腔内にへばりつく。
眠気も、体のだるさも、掠れた声も、すべてミヤジのせいだ。
わざと腹が立ったと言い聞かせることで、鼓膜の奥に張り付いたままの、蜂蜜程度に粘度のある囁きから逃れようと試みた。
幸いベリアンは声が掠れていることには一切気付いていないようで、ほっと胸を撫で下ろした。
つい先日倒れて、終いには悪魔化までして、ベリアンには散々心配をかけたばかりだ。
ここでまた、それも今度は必要のない心配をかけてしまうことは、流石に申し訳なさが過ぎる。
どうしたの? と聞くより前に頭の先から爪先までを目視で流れるように確認する。
ベリアンも寝不足なのだろうか。
ただでさえ白い肌が、今は青色の血管が浮き上がって感じるほど無機質で冷めきった色をしている。
過労で倒れた身でありながら、人の事を言えるような立場にないのは分かっている。
規則正しいと胸を張れる生活を送っているわけでもない。
それでもベリアンは少し頑張りすぎているのではないかと心配になってくる。
いつも互いが互いの心配をしているばかりで、お互いに自分の事を疎かにし過ぎているのだな、とベリアンの目の下を彩る濃い隈に鏡合わせになっている錯覚を覚えた。
「どうしたの?」
「あの、目が覚めた時から少し頭痛が酷くて……お薬をいただけるとありがたいのですが」
人差し指と中指でこめかみを押さえながら申し訳なさそうに微笑むベリアン。
二千年以上の付き合いがあるのだ。
今更何かを申し訳なく思う必要はどこにもないというのに。
そう考えて、もしかしたらベリアンも自分に対してそう思っているのかもしれないなと苦笑した。
お互い長く生きているというのに、いや、長く生きてきたからこそ、かもしれない。
遣う必要のない気ばかり遣ってしまっている。
これも言えたことではないことを承知の上で、ベリアンはあまり人に相談事をしたり、辛さを訴えることがない。
年長者として気を張っている部分も大いにあるとは思うが、彼の性格による部分も十分にあるだろう。
そのベリアンがわざわざ呼び止めて薬が欲しい、と訴えてくるということは余程の痛みなのだろう、と推測した。
「……うん。分かった。治療室まで付いてきてくれる?」
「はい、もちろんです。ありがとうございます、ルカスさん。お手数お掛けしますがよろしくお願いします」
次の室長会議の日程はどうだの、昨日来た依頼は誰に行ってもらうのが良いかなどと業務的な話をちらちらとしながら治療室へ向かう。
仕事の話をしているうちに、体に残る昨夜の燃えカスの存在から意識が遠のいて、ああ良かったと一安心した。
治療室の扉を開けると見慣れたいつもの室内と嗅ぎ慣れた消毒液と薬品の匂い。
そして念入りに空気を入れ替えた室内にそんな匂いが残っているわけはないのに、昨夜のミヤジとの行為の生々しい皮膚と湿っぽい声の残り香が、ベッドのまっさらで皺ひとつないシーツから漂ってくる。
一度残り香の存在を感じてしまうと、より強くその存在が浮き彫りになってきた。
目を逸らさなければ、仕事のことを考えなければ、と必死になって頭を働かせようとするが、もう手遅れだと嘲笑う燃えカスが、膝裏から内腿へと這い上ってくる。
目を凝らさずともベッドの上に蹂躙され尽くすことしかできなかった滑稽な幻影まで見えてくるようだ。
腎臓の辺りに燻り続ける熱が決して漏れ出してこないように蓋をしながら、鎮痛剤の粉薬が入った小瓶を取り出して中身の少なさに気が付いた。
「すまない、ベリアン。すぐに薬を作るから、少し待っていてもらえる?」
「はい、ありがとうございます。……すみません、本当に」
「これも私の仕事のうちだし、ベリアンには元気でいてほしいからね。そんな顔をしないで」
さて、いい加減ここいらで幻影は振り落として、現実を見て、頭をしっかりと切り替えなければ。
ベリアンに気取られないように雁皮紙よりも薄くそれでいて木の洞よりも深い息を吐き出した。
薬品庫に保管してあった薬草を手早く選び取り治療室へと戻る。
毎日使っている椅子、机。
目の前に広がっているのは、熱に浮かされた非日常的な重厚な宵の緞帳などではない。
もうとっくのとうに幕は上がり、何ら変わりのない日常が始まっているのだ。
なのに、それなのに────。
先程残り香を感じた時から、じっとりと背中に張り付くミヤジの青い太陽よりも熱い吐息が剥がれない。
うっかりすると自らの肺からも灼熱の風のような吐息が漏れ出してしまいそう。
欲に囚われたままの思考をなんとか転換したくて、また背中に張り付いてる幻影を払い落としてしまいたくて、結った髪の毛を右肩へどかした。
項には悪魔との契約印もある事から普段好き好んでその場所を晒そうとは思わなかったが、今この空間にいるのはベリアンと自分の二人だけ。
多少のことは構いやしないだろうと特に気にとめることをしなかった。
冷たい空気に首元が触れたおかげで、少し頭が冷静さを取り戻してきたような気がする。
下腹の奥で燻っている熱も意識をしなければきっと大丈夫。早いところ薬を作ってしまおう。
そう思って薬草を手に取った瞬間、背後で椅子に腰掛けていたベリアンの声に振り返る。
「……ルカスさん。最近は何か、……困っていることはありますか」
質問の内容自体は思いやりのある優しいものだった。
けれどその言葉を発したベリアンの声色は、早朝の氷柱のように冷たく鋭かった。
なぜ急にそんな声色になったのか。
なにか気分を害してしまうようなことをしただろうか。
それとも体調が悪化したのか。
しかしベリアンの眼差しは怒りを抱えているようでも、体調不良を訴えているようでもなかった。
ただ雪が降る直前のような静けさを湛えたフクシアの奥には困惑の色が混ざりこんでいた。
「困り事……は、特にないかな。私が言ってもあまり説得力が無いかもしれないけれど」
「そうですか……。例えばまた悪魔の声が聞こえたりなどは……」
「それは大丈夫。問題ないよ。……急にどうしたの?」
「いえ……その、」
明らさまに困った、という顔をして言い淀む。
一体何があると言うのだろう。
頭痛のせいか、言いたいことの言葉が見つからないもどかしさからか、もしくはその両方か。
ベリアンは人差し指と中指を爪の跡が残るほど強くこめかみに突き立てた。
ああ、早く薬を飲ませてあげたいのだけれど。
けれど何か言いたげなベリアンをこのまま放っておくわけにもいかない。
「……ベリアン、何かあったのかい?」
「……正直に言いますね。その、……ルカスさんの契約印のあたりが赤紫色になっておりまして……それで、また悪魔と何かあったのでは、と」
一瞬何のことだと思ったが、すぐに心当たりに行き着いた。
心当たり──、それは悪魔などではなく、昨夜のミヤジの舌が這いずり回る熱。
噛み付くように突き立てられた歯列。
そして頚動脈を濡れた真綿で絞めるような唾液の痕跡。
既に見られてしまっているというのに、見られたくない、と慌ててどけていた髪を戻し、右手の指を項に添わせた。
この指で触れている硬い骨の上にミヤジの独占的な執着心の証がある。
一気に心臓が破れそうなほど早鐘を打つ。
耳の奥深くで拍動の音が鳴り響いていて、玉響の間自分の呼吸の音すら掻き消した。
なんと言えばいいのかまるで分からなかった。
いくらベリアンとは二千年以上も付き合いがあるからと言って、これは昨夜の行為の際にミヤジがマーキングをしただけのことだから気にしないで、などとはとてもじゃないが言えやしない。
凍りつくほど冷えた室内の空気は冬の寒さのせいだけではない。
凍りついた空間の中で、ぽつぽつと誤魔化しようもなく火のつき始めた体の熱に燃やし尽くされてしまいそうだ。
そしてふと考えついてしまった。
今ベリアンに言われて初めてマーキングされていることに気が付いたけれど、もしかして他にも気付いている者がいたのではないか。
同室の執事達は、朝食時すれ違った執事達は、この痕跡に気付いていただろうか。
────いや、何も言わなかったということはきっと気付いていなかったのだろう。
そういうことにしてしまわなければあまりの羞恥で自分が保ちきれそうにない。
「ルカスさん? 大丈夫ですか?」
「ぁ……うん。大丈夫……」
「あの、少し契約印を確認させていただいてもよろしいでしょうか」
「えっ……」
ベリアンが契約印を確認する──。
それは即ち付けられているマーキングの痕を確認するということ。
心臓が一拍大きく跳ね上がり、溺れた小鳥のように呼吸の仕方を忘れた。
確認なんてしないでほしい。
今すぐにこの場から逃げ出してしまいたい。
けれどベリアンの言っていることは何もおかしくないどころか、もっともだった。
もし自分が逆の立場で、他の執事達の契約印に痣を見つけたら同じように確認させてくれと言っただろう。
ベリアンが立ち上がり一歩、また一歩とこちらへ歩を進める度に皮膚が粟立つ。
見てほしくない、来ないでほしい、と頭では考えているのに思い浮かぶのは昨夜のミヤジのぐらぐら揺れる溶岩のように熱を宿した空色の瞳と、噎せ返るような愛執の匂い。
冷えきった部屋の空気とは裏腹に熱の籠る体に、早まった呼吸が雷鳴のように轟いた。
「失礼します」
ベリアンの指が髪をまとめ直し項を曝け出そうとする。
夜中の情事を隠す為に、どうしようもなく愛された時間を確認する為に添えていた右手を力無く下ろすことしかできない。
全身の産毛が逆立つようだった。
見ないで、見ないで、と全身が警鐘を鳴らすように叫んでいるのに、まるで椅子に張り付いてでもいるようにその場から一歩も動くことができない。
心臓から送られた血液が顔に集まってくる。
一瞬肌に触れた指先が喉元に突き立てられた刃物みたいに思えてくる。
淡い祈りも虚しく項が空気に触れる。
背後に立つベリアンの表情は見えないけれど、意識しすぎた視線がじくじく刺さって頚動脈が震えた。
「これは……痣? なぜこんな場所に……。念の為お聞きしますが、どこかにぶつけたわけではないのですよね」
「ぁ……、ああ。ぶつけては、いない──と思う」
何がぶつけてはいないと思う、だ。
その痣の理由はとうに知っているというのに。
誰かに話すことを許されないほど淫らな時を過ごした証であるというのに。
純粋な気持ちで心配しているであろうベリアンの視線と、指先が触れた場所から全身が凍りつくようだった。
それなのに体の内側に燻った欲望の火種は徐々に、しかし確実に大きくなっていく。
蜜を促すような下腹の疼きを奥歯を噛んで耐え忍ぶ。
靴の中の足指が逃げ場のない羞恥を察して丸くなる。
「……一度、室長の皆さんだけでも共有しておきたいので呼んできますね」
「ベ、ベリアン……。それは、共有しなくても大丈夫だと思うよ。みんなも忙しいだろうし」
「ええ。ですが万一悪魔の干渉の一端として浮き出た痣であるなら、今後他の方にも起きる可能性がありますから」
起きないと思う。こんなこと。
そう言いきってしまいたかったけれど、それすらも言えずに絞り出すようにそうだね、と小さく同意の声を漏らすことしかできない。
室長達を呼んでくるから、と部屋に一人取り残される。
いっそ今この瞬間に素知らぬ顔をして逃げてしまおうか。
ミヤジに会ったら目立つ場所にマーキングすることをやめてほしいとまた伝えなければ。
──ああ、ミヤジも来るのか。室長として、この場所へ。
今すぐこの場を立ち去りたいけれど、それをしてしまうともっと大きな騒ぎになってしまうかもしれない。
騒ぎが大きくなれば室長だけの話では済まずに、屋敷にいる執事達全員に、この爛れた愛執の証を晒さなければいけなくなるかもしれない。
そう考えると戻ってくるベリアンの姿をただ待つことしかできずに、まさにまな板の上の鯉とはこのことだと思った。
調理されることを待つだけの、項の蹂躙された証を観察されることを待つだけの、なんと無力な存在だろう。
──どれだけの時間待ったのか分からないけれど、おそらくそんなに経たずにベリアンが室長達を連れて帰ってきた。
なぜどれだけ待ったのか分からないかといえば、混乱しきって纏まりをなくした頭では、ほんの少しの時間であっても二千年より余程長く感じたからだ。
「それでベリアン、痣というのは──」
室内に入ってくるなりベレンが口を開いて、もう完全に逃げられないことを悟る。
室長は自身を除いて五人もいるのだ。
そのうちの一人はこの痣を付けた張本人ではあるけれど。
誰かしら、一人くらいは気付いてしまうかもしれない。
これが決して悪魔の干渉などという潔白なものではない、邪な唾液の熱を存分に含んだ痣なのだと。
助けてほしいと懇願する気持ちでミヤジを見ると、何を考えているのかまるで分からず目も合わない。
自分は何も知らないただの清廉潔白な男です、とでも言いたげな顔をして突っ立っている。
こんなにも恥を晒す羽目になっているのはミヤジのせいだと言うのに。
「はい……。ルカスさん、失礼しますね」
「あ……うん……」
掠れたか細く頼りのない棒切れのような同意。
室内を満たしているはずの消毒液の匂いも、薬品の匂いもすっかりしなくなってしまった。
今この部屋に充満しているのは、あどけなく擦り切れた弦が鳴らす悲鳴のように喘ぐことしかできなかった自身と、食らい尽くすと言わんばかりに貪るミヤジの二頭の獣に成り下がった残滓だけ。
ベリアンの指先は悪魔の仕業かもしれないという、緊張と不安を孕んでいるように冷えきっていた。
指先が髪の表面を撫でる度に皮膚が粟立ち、襟足が逆立つ。
もう逃げられない──金魚鉢から飛び出した金魚のように酸素を求めて戦慄した。
「ここです。契約印が────」
「……本当ですね。痣が浮かび上がっている。ルカスさん、痛みはありますか」
「あ……えっと、特には」
「この間悪魔化したと聞いたし、その影響もあるのかな」
暴かれた契約印、いやマーキング痕をぞろぞろと覗き込まれる。
冷たい冬の空気とは反対に、酸をかけられたように体が熱い。
いっそこのまま溶かしてほしい。
五人、──正しくは四人の執事達が真剣に言葉を交わせば交わすほど押し寄せる、この世界に自分の居場所がないのではないかと感じるほどの居心地の悪さ。
「ルカス先生大丈夫か? 顔が赤いけど……また体調不良を隠してるとかじゃないんだよな?」
「えっ……? ああ、うん……。気のせいだと思うよ……」
体調不良で倒れたことも、悪魔化をしたことも、今この瞬間すべてが執事達の心配を煽る一要因になってしまっていた。
羞恥で混乱しきった頭では最早自分がどんな言葉を口から発しているのかすら分からず、あやふやな形のない音に聞こえてくる。
平常心を装おうとするけれど、下肢には大蛇にでも巻かれているのではないか、と錯覚するほど力が入り靴の布越しに足先を擦り合わせた。
「ルカスさん、痛みを感じないようであれば、少し触れさせていただいてもよろしいでしょうか」
「え……えっと、それは……」
ここで断ったらおかしく思われるだろう。
断る選択肢は最初からないも同然だった。
けれどベリアンが今触れようとしているそれはただの傷跡としての痣などではない。
意識をすればするほど、項を這う舌先の蕩けるような熱を思い出してしまう。
誰かこの状況を打開してくれ、その一心で祈りを捧げるように瞼を閉じた。
「待って。ベリアン。悪魔の仕業だとしたら何があるか分からない。あまり不用意に触れない方がいい」
「ミヤジさん……しかし……」
「それにもし悪魔の仕業ではなく、何かの伝染病だったとしたら……触れることで感染の危険性が高まる。そういう点でも、あまり触れない方がいいんじゃないかな」
大真面目な顔をしてもっともらしい御託をいくつも並べてはいるが、この男は痣を付けた張本人だ。
痣の理由を知らないはずがないだろうと叫んでやりたくなる。
しかし咄嗟に叫んでしまうこと、それは「私は素知らぬ顔をしているこの男に、マーキングをされた事にすら気が付かないほど蹂躙されてました」と申告することと同義だ。
逃げ場も見つからない、耐え難い羞恥の渦の中でどうすることもできずに、じっと震えを起こしそうになる膝を手のひらで押さえつける。
それでもベリアンが項に触れなかったことは幸いだった。
もしベリアンに触れられていたら、蛇のように這い回るミヤジの舌先の熱と、塗り広げられる唾液の足跡を思い出して、あられもない声を上げてしまっていたかもしれない。
その点に関してだけ、ほっと胸を撫で下ろしていたその矢先──
「私が触れてみるよ。こう見えても、一応は元医者だしね。多少の事は他のみんなよりも対処法を心得ているつもりだ」
とミヤジが言い出して思わず勢いよく振り返りそうになる。
一体、一体何を言い出すんだ、この男は。
この中の誰よりも一番触れてほしくない相手だ。
それなのに、触れられることを望んでいる体の奥はじんじんと焼け付くように期待をしてしまっていた。
こんなにも欲に支配されて情けない。
まるでうじゃじゃけた果実そのものではないかとルカスは足の上に置いた震える手を組んだ。
「ルカス。これはただの確認だが、なにか心当たりは?」
「ぁ……。と、特に、ない……かな」
「……寝ぼけてどこかにぶつけたりは」
「して、いない……と思うよ。分からないけれど」
ミヤジが付けた痣じゃないかと言えたらどれほど気持ちが楽になっただろうか。
いや、おそらく楽になることよりもその後の居た堪れなさの方が上回るだろう。
触れるよ、と冷たい大理石に響き渡るような深い声が鼓膜を突き破って、脳の神経が震えた。
ゆっくりと近付いてきているであろうミヤジの指先が毒牙を向けているように感じた。
ふ、ふ、と呼吸が早まってしまうのを誰にも気付かれないようにきつく閉じた喉の奥へ追いやって、無理矢理に押し込める。
厭に研ぎ澄まされた神経は、空気の揺れる音まで聞こえてくる気がした。
どれだけダメだと頭の中で大声を出したところで、熱を教えこまされた体は溶解し尽くすような熱を渇望してしまっている。
「っ……!」
室内の冷めきった透明感のある空気を溶かして蒸発させてしまうほどに熱い指の腹が、薄い皮の下の骨を抉るように押し潰す。
他の執事たちからはただ触れているように見えているだろうが、決してそうではない。
宵の熱を思い出せと言わんばかりに食らいついている。
神経毒のような熱の塊が項から、脊椎を伝って下腹部に到達した。
大蛇に巻かれたように力の籠っていた下肢は、羞恥など知ったことかと言いたげに僅かに震え、下腹の奥でくゆり続けていた火種が煙を上げて激しく燃え盛り始める。
ベリアン達が何かを話しているようだけれど、その声が鼓膜を震わせることはなく、どこか遠くの別世界の音のように聞こえていた。
視界がぼやけて滲んでいく。
すべての輪郭が曖昧になっていく世界で今、熱を刻み込む指先だけが、ハッキリとした輪郭を保っていた。
「……熱いな。……声も掠れているようだが、また熱でもあるのか」
「ない……っ、から……!」
組んだ指の先が白く変色する。
ミヤジは自分で付けた証をじっくりと確認するように何度も何度もその場所に指の腹を撫で付けた。
ベリアン達がどんな顔をしてこの状況を見つめているのか、それを考えることのできる思考すら神経毒の甘い酸に溶かし尽くされてしまった。
嫌だ。逃げ出したい。恥ずかしい。このまま甘美な毒に侵食されてしまいたい。
剥き出しになった感情が綯い交ぜになりながら靴の中の指先を小刻みに震わせた。
「……うん。ただの痣のようだから、数日様子を見てみよう。……大方気が付かないうちにどこかにぶつけでもしたんだろう」
しっとりと汗ばんだ指の先が離れることを惜しむように薄く皮膚に張り付く。
助かった──。肺に溜まった火風を火の粉を散らすように吐き出す。
変色するほど強く組んでいた両の手から糸が切れるように力が抜けた、その刹那。
一瞬、ほんの僅かな一瞬、髪と肌の隙間に潜り込み耳朶を摘んで熱を移した。
「あ……っ」
「どうかされましたか? ルカスさん」
「あ、いや、すまない。何でも、ないよ……」
ルカス・トンプシーとしての仮面を被り直しながら、ミヤジに鋭い視線を向ける。
視線に気付いたミヤジは何か? とでも言いたげに意地の悪い微笑みを口端に宿して、指先に残る熱を舐め取るように自身の唇に擦り付けた。
腹の底に押し付けた熱が、尾骶骨を伝って脊椎を駆け抜け波紋が広がっていく。
「ただの痣、ということなので我々は一度業務に戻ろうと思うのですが……。ルカスさん、くれぐれも無理はしないでくださいね」
「あ……!ベリアン、薬を……」
「痛みも大分引いてきたので大丈夫ですよ。もし後でいただけるようでしたら、その時はお願いしますね」
それでは、とベリアンが五人を連れて部屋を出ていく。
ミヤジが部屋を出ていく直前、噛み付くように視線を這わせたことには、気付かないふりを決め込もうと言い聞かせた。
そうしなければ部屋を出るミヤジの腕を縋るように捕まえてしまいそうだった。
──ああ、よかった。なんとか気付かれずに済んだ。
治療室の扉が完全に閉じられて、頭ではそう理解しているというのに、下腹の爛れた愛執はまったく落ち着く気配がない。
室内の乾いた空気すら湿気を帯びて感じた。
ゆくあてのない愛執をどこにぶつけろと言うのだろうか。
誰もいなくなった治療室の中で、見えない熱を絡め取るように指の腹を項に添わせる。
熱を移されたそこは焦げ付くようにひりひりと籠る熱を訴えてくる。
消毒液と薬品の匂い。外から微かに聞こえる執事達の訓練の声。澄み渡る冬の青く遠い空。
どれもがよく見慣れているものであるにも関わらず、未だ誰も足を踏み入れていない異空間のように思えてくる。
その異空の世界の中で項に残るミヤジの指の形をした熱の残り香だけが、唯一現実のものだと感じられた。