微笑う繁縷
──なぜ、よりにもよってこのタイミングで。
ミヤジは一通の手紙と書類の束を持って、三階執事室前の扉の前に来ていた。手紙も書類も、全てルカス宛のものだ。
ミヤジはルカスと顔を合わせづらかった。昨夜も夢にルカスが現れたからだ。こうも続くと流石に夢の中で、これは夢だ、と気付くこともできるようになってきた。しかし、気付いたとて夢の中のルカスは、そんな事はお構い無しだと言わんばかりにミヤジを煽った。……つい、絆されてしまう。夢でもいいと。挙句の果てに昨夜のルカスは、珊瑚色の唇を寄せてきた。なんて滑稽な願望。触れる直前、叫び声を上げながら目を覚ました。何事かと起きたラトとフルーレには、ミヤジが悪夢を見たのではと誤解された。……悪夢と言えば悪夢であったが。ミヤジは、ルカスの夢を見た事と、遂に同室の執事にまで迷惑をかけたと、二重の罪悪感で、結局朝までろくな睡眠が取れなかった。
そんな日に限って、ミヤジが郵便屋から、この手紙を受け取った。差出人名に見覚えはない。大方貴族からの任務依頼だろう。どうしたものか。ベリアンか誰かに頼もうか。そう考えたミヤジが、ベリアンの元を訪ねると、「では、これも一緒に」と資料の束を渡された。ミヤジが断ろうと口を薄く開けると、先にベリアンはよろしくと笑った。有無を言わせぬ笑顔で。
ミヤジは既に扉の前で、三度、じっくりと肺を膨らませては、吸い込む時よりさらに時間をかけて窄めていた。いい加減、この扉を叩かなければ。そう思えば思うほど、ミヤジは身体中の血液が、巡る速度を落としたのを感じた。おかしな力のこもった指先は、ぎこちなく震える。
──なるようになれ。
ミヤジは半ば祈る気持ちで扉を叩いた。木製扉の乾いた音が鼓膜に届く。刹那、血液がわずかに速度を速めた。しかし、中から人が歩いてくる気配はない。ミヤジは息を吐き出すように小さく笑う。いない。そう確信した途端、この震えが滑稽で。
血の巡りが正しく戻る。ミヤジは勢いに任せて、そのまま治療室へと向かった。今向かわなければ、もう向かうことができないと、第六感が告げていた。治療室の扉の前に立つと、ミヤジは一度だけ深呼吸した。先程のような重いものではない。屋敷の空気と、ミヤジ自身の身体を同化させるような、深く、そして軽い深呼吸だった。
「……ルカス、いるか」
扉を叩かずに開ける。開けた途端、室内に充満していた薬品香が突き刺さった。しかしミヤジにとって不快なものではない。むしろ、懐かしさを感じるのだ。この匂いを嗅ぐ度に。
ルカスは机に向かって、扉の方には一瞥もくれず、「いるよ」と独り言のような返事をした。また小言が出そうになる口を結んで、ミヤジは室内に足を踏み入れる。手に持った、この紙束を渡せば終わり。そう頭の中で繰り返して。
「お前宛ての手紙と、ベリアンから依頼に関しての資料だ」
「ありがとう。そこに置いておいてもらえる?」
あまりにも味気ない会話。手を震わせて佇立していたミヤジは、気が抜けると共に、なぜだか物足りないような空白感があった。
そこ、とルカスは簡単に言ってのけたが、机の上はルカスが広げた医学書や、資料の山、そしておそらく貴族への手紙に返信を書いているのだろう。無造作に置かれた便箋と封筒があり、置き場などまるでなかった。
ミヤジがルカスと共に、屋敷の医療係をしていた頃、これらを整頓するのはミヤジの役目だった。ルカスに任せておくと、一瞬片付いたと思っても、またすぐにこの有様なのだ。ミヤジはルカスに聞こえるように溜息を吐いた。ルカスの口端から、かすかに笑い声のような吐息が返ってくる。
「あ、手紙だけこっちにもらっていい? 資料はこれが終わってから目を通すよ」
「……わかった」
ミヤジは片付けろとも、置き場がないとも言わなかった。それは既にミヤジの役割ではないと、一線を引いた。紙束の上に置いていた手紙を、ルカスに手渡す。ルカスは差出人名を見て、明らさまに顔を顰めた。
ミヤジもそうだが、ルカスは日頃あまり感情を表出させない。全てを笑顔で、口当たりの良い言葉で包んで、真意に気付かせない。掴みどころがない。ルカスは屋敷の交渉係として、日夜曲者揃いの貴族を相手にしているから、余計そうしているのだろう。そのルカスが、ミヤジが気付く程嫌な顔をするのは珍しい。
「……何の手紙なんだ」
「縁談。もう何度も断りの手紙を送っているのに。私がいいんだって。……懲りない人」
ルカスは封を開けずに、机の端へと手紙を放った。縁談と聞いて、ミヤジは一拍心臓が跳ね上がった。ルカスが、縁談。考えようと思っていなくても、ミヤジはついその場を想像してしまう。こんな考えを起こす自分に、ミヤジはほとほと嫌気がさした。しかし、ルカスが断りを入れていることを知ると、詰まりかけた呼吸はすぐに流れ出る。ルカスは書きかけの便箋に向き直り、「届けてくれてありがとう」とだけ言った。ルカスが嫌悪感を剥き出しにしている。そんな顔、させたくなかった。中身を知っていたら、あの手紙を届けなかったのにと、そう思ってしまうのは、隠しようのないミヤジの本音だった。
溜息混じりのルカスは、わずかに動作が荒くなったのだろう。机の上に乗っていた書類の山が、均衡を保てなくなった。雪崩れるように数枚が床に落ちる。椅子に座っていたルカスが、立ち上がりしゃがんだ。それとほとんど同時に、ミヤジも同じようにしゃがんで、散らばった紙へと手を伸ばす。ルカスが小さく嘆息を漏らしたのを、ミヤジは聞き逃さなかった。かと言って触れもしなかったが。
一通り散らばった紙を拾い集めて立ち上がる。ルカスに差し出すと、「ありがとう」と言いながら受け取った。垂れた顔周りの髪の毛を、ルカスが掬うようにして耳にかける。細長い指先に絡む黒髪。気まずそうに伏せられた、暗紅色の睫毛。
「……好きだ……」
ミヤジは完全に無意識だった。紙の触れ合う音より小さな声を、ミヤジが自分の声だと認識するまでに、数秒の時間を要した。ルカスの目が見開かれている。窓から差し込む、雪に反射する強い日差しを受けて光る瞳は、真昼に浮かぶ満月のようだった。ルカスが息を詰めたのが、空気を通して伝わってくる。ミヤジは咄嗟に掌で口を覆った。そんな事をしても、出た言葉が返ってこないことを知りながら。
「今、なんて言った?」
ルカスの声は静かだった。あまりに静かすぎて、怒っているようにも、悲しんでいるようにも、驚いているようにも捉えられる。ミヤジはルカスから目を逸らした。彼が今、どんな顔をして見ているのか。ミヤジは確かめたくなかった。窓の外で囀る鳥の声も、屋敷内で働く執事達の声も、何一つ聞こえない。全てが彼方だ。この治療室と、ミヤジとルカス。それだけが世界から乖離していた。
「……すまない。忘れてほしい」
「嫌だ。……聞きたい。ミヤジ、もう一度、……言ってくれ」
ミヤジ、と名を呼ぶ声が圧を持っている。逃がさないと言っている。折角ルカスと和解したというのに、それを自ら捨てるような事をしたのだと、ミヤジは自分に対しての呆れが押し寄せてきた。口元を覆っていた手で、顔の上半分を塞ぐ。この現実を見なくて済むように。
「……す、」
言葉が喉の奥で縺れている。出てこない。出してしまったら終わりだ。ミヤジは下瞼の奥の方が、滲むように潤み始めたのを、目を瞑って誤魔化した。悪い癖だ。見ないようにすることばかり、上手くなった。言葉を待ち続けるルカスは、一言も発しなかった。その事が余計に、心の臓をきつく縛りあげるように、息苦しくさせる。
ルカスがなぜ、聞きたがっているのか。ルカスがなぜ、いつになく感情を顕にしているのか。様々な疑問がミヤジの脳内を駆けた。けれど、今逃げ出してしまえば、きっとこの先どれだけ生きたとしても、二度と伝える日は来ない。その事をミヤジの脳髄は知っている。
「……好きだ」
ミヤジがやっとの思いで言葉を絞り出しても、ルカスはまだ、何も言わなかった。ミヤジは顔を覆ったまま、ルカスを見れずに顎を上げた。指の隙間から、光が入り込んでくる。一筋の光も入ってこなければいいのにと、ミヤジは指に力を込めた。それでも漏れ入って来ていたが。
ややあって、下ろしたままでいたミヤジの右手の指先に、なぞるような感触が這う。一体何事だと、ミヤジが手をずらして指先へ目を向ける。指先、丁度第一関節のあたりに、ルカスの指が添えられていた。ルカスはぎこちなく笑顔を引き攣らせていて、何を思ってそうしたのか、ミヤジには見当もつかなかった。迷うように、ルカスの珊瑚色の唇が形を変えていく。
「……ミヤジ」
「……なんだ」
「……正直に言うと、……私は恋をした事がない。恋愛小説の中でしか、恋愛を知らない。ミヤジ……、私は、……誰かの事を、特別に愛した事がないんだよ」
ミヤジはルカスが何を話し始めたのか、理解が追いつかなかった。けれど、自分にとって良くない話なのだろうと覚悟した。ルカスの手が、小刻みに震えている。その震えがミヤジにも移って、手を握り返したい衝動に駆られた。そうしなかったのは、理性が働いたからではない。この震えを作っている原因は自分なのだと、ルカスに対して抱く引け目のようなものだった。
「ねぇ……。キス、してくれよ」
「……は?」
「知りたいんだ。……恋を。……愛を。私に教えてくれないか。ミヤジ」
何を、とルカスを見ると、彼は至って大真面目なようだった。ルカスの唇が、困り果てたような笑顔を作りながら、「頼むよ」と紡いだのは、決してミヤジの気の所為ではない。
空いていた左手を、ルカスの頬に導かれる。滑らかな皮膚が、指の腹を薄く沈めた。これは、夢の中だろうか。都合のいいストーリーを、脳が勝手に組み立てただけだろうか。ミヤジは期待しすぎないように、必死に理性を繋ぎ止める。しかし、触れているルカスの指先は、手袋越しであっても温かい。潤む双眸は、夢の中より鮮明で目映い。作り物の吐息でない、確固とした温度が手首に触れる。柔く握られた指先の力が強められる。
──もしかしてこれは、現実なのではないか。
誰かに見られでもしたら、いい歳の大人が、二人揃って何をしているんだと笑われそうだ。目の前の男の顔一つ、満足に見ることができないのだから。今すぐに目を逸らしたい衝動を抑え、息を潜める。……先に逸らしたのはルカスだった。追うように、ミヤジの顔はルカスとは真逆を向いた。
「……目、閉じてくれないか」
「……ごめん。……無理かも」
ミヤジはルカスと同じように、「頼むよ」と懇願した。狭くなった喉奥から出た声は、あまりにもささやかだった。ルカスにその声が届いたのか、ミヤジに知ることはできない。しかし、ミヤジが横目でルカスに視線を向けると、ルカスは不格好に瞼を閉じ合わせていた。
頬に添えた手で、ミヤジはルカスの顔を自分の方へと向ける。抵抗するでもなく、ルカスはミヤジの手に従った。
「……悪い。やっぱり、むり……」
ルカスの目が、薄く開く。言葉は押し戻されるようにくぐもった。瞬間、当事者達も判断し兼ねるほどかすかな一瞬、唇が触れた。甘い、ヴァニラの香り。
触れた、と思う。ミヤジは触れたのか触れていないのか、自信が持てずにいた。それ程までに、幼い口付けだった。
ミヤジはその場にしゃがみこんだ。長く吐き出された空気だけが、今までミヤジの顔があった場所に留まる。指先を繋いだまま、頭をしまい込むように項垂れた。
「……終わった?」
「……わからん……」
「ただのキスで、こんなに緊張すると思わなかった。……すごいね、ミヤジって」
「……すごいのはお前だよ」
上から降ってきた、情緒の欠片もないルカスの声に、ミヤジは溜息を零しながら顔を上げた。一体どんな顔をして、この情けない姿を見下ろしているのか、見てみたくなった。いつもの通り、ルカスは余裕綽々とした涼しい顔をしているに違いない。そう思って、見上げたのに。ミヤジの予想に反して、ルカスの白い頬は薄紅の熱を宿していた。手の甲で口元を隠してはいたが、作り笑顔を浮かべる余裕が今の彼にないことは、一目で理解できた。ミヤジは持ち上げた顔を再び膝にくっつく程深く埋めた。
「……そんな顔をしないでくれ……。ずるい」
ミヤジは一通の手紙と書類の束を持って、三階執事室前の扉の前に来ていた。手紙も書類も、全てルカス宛のものだ。
ミヤジはルカスと顔を合わせづらかった。昨夜も夢にルカスが現れたからだ。こうも続くと流石に夢の中で、これは夢だ、と気付くこともできるようになってきた。しかし、気付いたとて夢の中のルカスは、そんな事はお構い無しだと言わんばかりにミヤジを煽った。……つい、絆されてしまう。夢でもいいと。挙句の果てに昨夜のルカスは、珊瑚色の唇を寄せてきた。なんて滑稽な願望。触れる直前、叫び声を上げながら目を覚ました。何事かと起きたラトとフルーレには、ミヤジが悪夢を見たのではと誤解された。……悪夢と言えば悪夢であったが。ミヤジは、ルカスの夢を見た事と、遂に同室の執事にまで迷惑をかけたと、二重の罪悪感で、結局朝までろくな睡眠が取れなかった。
そんな日に限って、ミヤジが郵便屋から、この手紙を受け取った。差出人名に見覚えはない。大方貴族からの任務依頼だろう。どうしたものか。ベリアンか誰かに頼もうか。そう考えたミヤジが、ベリアンの元を訪ねると、「では、これも一緒に」と資料の束を渡された。ミヤジが断ろうと口を薄く開けると、先にベリアンはよろしくと笑った。有無を言わせぬ笑顔で。
ミヤジは既に扉の前で、三度、じっくりと肺を膨らませては、吸い込む時よりさらに時間をかけて窄めていた。いい加減、この扉を叩かなければ。そう思えば思うほど、ミヤジは身体中の血液が、巡る速度を落としたのを感じた。おかしな力のこもった指先は、ぎこちなく震える。
──なるようになれ。
ミヤジは半ば祈る気持ちで扉を叩いた。木製扉の乾いた音が鼓膜に届く。刹那、血液がわずかに速度を速めた。しかし、中から人が歩いてくる気配はない。ミヤジは息を吐き出すように小さく笑う。いない。そう確信した途端、この震えが滑稽で。
血の巡りが正しく戻る。ミヤジは勢いに任せて、そのまま治療室へと向かった。今向かわなければ、もう向かうことができないと、第六感が告げていた。治療室の扉の前に立つと、ミヤジは一度だけ深呼吸した。先程のような重いものではない。屋敷の空気と、ミヤジ自身の身体を同化させるような、深く、そして軽い深呼吸だった。
「……ルカス、いるか」
扉を叩かずに開ける。開けた途端、室内に充満していた薬品香が突き刺さった。しかしミヤジにとって不快なものではない。むしろ、懐かしさを感じるのだ。この匂いを嗅ぐ度に。
ルカスは机に向かって、扉の方には一瞥もくれず、「いるよ」と独り言のような返事をした。また小言が出そうになる口を結んで、ミヤジは室内に足を踏み入れる。手に持った、この紙束を渡せば終わり。そう頭の中で繰り返して。
「お前宛ての手紙と、ベリアンから依頼に関しての資料だ」
「ありがとう。そこに置いておいてもらえる?」
あまりにも味気ない会話。手を震わせて佇立していたミヤジは、気が抜けると共に、なぜだか物足りないような空白感があった。
そこ、とルカスは簡単に言ってのけたが、机の上はルカスが広げた医学書や、資料の山、そしておそらく貴族への手紙に返信を書いているのだろう。無造作に置かれた便箋と封筒があり、置き場などまるでなかった。
ミヤジがルカスと共に、屋敷の医療係をしていた頃、これらを整頓するのはミヤジの役目だった。ルカスに任せておくと、一瞬片付いたと思っても、またすぐにこの有様なのだ。ミヤジはルカスに聞こえるように溜息を吐いた。ルカスの口端から、かすかに笑い声のような吐息が返ってくる。
「あ、手紙だけこっちにもらっていい? 資料はこれが終わってから目を通すよ」
「……わかった」
ミヤジは片付けろとも、置き場がないとも言わなかった。それは既にミヤジの役割ではないと、一線を引いた。紙束の上に置いていた手紙を、ルカスに手渡す。ルカスは差出人名を見て、明らさまに顔を顰めた。
ミヤジもそうだが、ルカスは日頃あまり感情を表出させない。全てを笑顔で、口当たりの良い言葉で包んで、真意に気付かせない。掴みどころがない。ルカスは屋敷の交渉係として、日夜曲者揃いの貴族を相手にしているから、余計そうしているのだろう。そのルカスが、ミヤジが気付く程嫌な顔をするのは珍しい。
「……何の手紙なんだ」
「縁談。もう何度も断りの手紙を送っているのに。私がいいんだって。……懲りない人」
ルカスは封を開けずに、机の端へと手紙を放った。縁談と聞いて、ミヤジは一拍心臓が跳ね上がった。ルカスが、縁談。考えようと思っていなくても、ミヤジはついその場を想像してしまう。こんな考えを起こす自分に、ミヤジはほとほと嫌気がさした。しかし、ルカスが断りを入れていることを知ると、詰まりかけた呼吸はすぐに流れ出る。ルカスは書きかけの便箋に向き直り、「届けてくれてありがとう」とだけ言った。ルカスが嫌悪感を剥き出しにしている。そんな顔、させたくなかった。中身を知っていたら、あの手紙を届けなかったのにと、そう思ってしまうのは、隠しようのないミヤジの本音だった。
溜息混じりのルカスは、わずかに動作が荒くなったのだろう。机の上に乗っていた書類の山が、均衡を保てなくなった。雪崩れるように数枚が床に落ちる。椅子に座っていたルカスが、立ち上がりしゃがんだ。それとほとんど同時に、ミヤジも同じようにしゃがんで、散らばった紙へと手を伸ばす。ルカスが小さく嘆息を漏らしたのを、ミヤジは聞き逃さなかった。かと言って触れもしなかったが。
一通り散らばった紙を拾い集めて立ち上がる。ルカスに差し出すと、「ありがとう」と言いながら受け取った。垂れた顔周りの髪の毛を、ルカスが掬うようにして耳にかける。細長い指先に絡む黒髪。気まずそうに伏せられた、暗紅色の睫毛。
「……好きだ……」
ミヤジは完全に無意識だった。紙の触れ合う音より小さな声を、ミヤジが自分の声だと認識するまでに、数秒の時間を要した。ルカスの目が見開かれている。窓から差し込む、雪に反射する強い日差しを受けて光る瞳は、真昼に浮かぶ満月のようだった。ルカスが息を詰めたのが、空気を通して伝わってくる。ミヤジは咄嗟に掌で口を覆った。そんな事をしても、出た言葉が返ってこないことを知りながら。
「今、なんて言った?」
ルカスの声は静かだった。あまりに静かすぎて、怒っているようにも、悲しんでいるようにも、驚いているようにも捉えられる。ミヤジはルカスから目を逸らした。彼が今、どんな顔をして見ているのか。ミヤジは確かめたくなかった。窓の外で囀る鳥の声も、屋敷内で働く執事達の声も、何一つ聞こえない。全てが彼方だ。この治療室と、ミヤジとルカス。それだけが世界から乖離していた。
「……すまない。忘れてほしい」
「嫌だ。……聞きたい。ミヤジ、もう一度、……言ってくれ」
ミヤジ、と名を呼ぶ声が圧を持っている。逃がさないと言っている。折角ルカスと和解したというのに、それを自ら捨てるような事をしたのだと、ミヤジは自分に対しての呆れが押し寄せてきた。口元を覆っていた手で、顔の上半分を塞ぐ。この現実を見なくて済むように。
「……す、」
言葉が喉の奥で縺れている。出てこない。出してしまったら終わりだ。ミヤジは下瞼の奥の方が、滲むように潤み始めたのを、目を瞑って誤魔化した。悪い癖だ。見ないようにすることばかり、上手くなった。言葉を待ち続けるルカスは、一言も発しなかった。その事が余計に、心の臓をきつく縛りあげるように、息苦しくさせる。
ルカスがなぜ、聞きたがっているのか。ルカスがなぜ、いつになく感情を顕にしているのか。様々な疑問がミヤジの脳内を駆けた。けれど、今逃げ出してしまえば、きっとこの先どれだけ生きたとしても、二度と伝える日は来ない。その事をミヤジの脳髄は知っている。
「……好きだ」
ミヤジがやっとの思いで言葉を絞り出しても、ルカスはまだ、何も言わなかった。ミヤジは顔を覆ったまま、ルカスを見れずに顎を上げた。指の隙間から、光が入り込んでくる。一筋の光も入ってこなければいいのにと、ミヤジは指に力を込めた。それでも漏れ入って来ていたが。
ややあって、下ろしたままでいたミヤジの右手の指先に、なぞるような感触が這う。一体何事だと、ミヤジが手をずらして指先へ目を向ける。指先、丁度第一関節のあたりに、ルカスの指が添えられていた。ルカスはぎこちなく笑顔を引き攣らせていて、何を思ってそうしたのか、ミヤジには見当もつかなかった。迷うように、ルカスの珊瑚色の唇が形を変えていく。
「……ミヤジ」
「……なんだ」
「……正直に言うと、……私は恋をした事がない。恋愛小説の中でしか、恋愛を知らない。ミヤジ……、私は、……誰かの事を、特別に愛した事がないんだよ」
ミヤジはルカスが何を話し始めたのか、理解が追いつかなかった。けれど、自分にとって良くない話なのだろうと覚悟した。ルカスの手が、小刻みに震えている。その震えがミヤジにも移って、手を握り返したい衝動に駆られた。そうしなかったのは、理性が働いたからではない。この震えを作っている原因は自分なのだと、ルカスに対して抱く引け目のようなものだった。
「ねぇ……。キス、してくれよ」
「……は?」
「知りたいんだ。……恋を。……愛を。私に教えてくれないか。ミヤジ」
何を、とルカスを見ると、彼は至って大真面目なようだった。ルカスの唇が、困り果てたような笑顔を作りながら、「頼むよ」と紡いだのは、決してミヤジの気の所為ではない。
空いていた左手を、ルカスの頬に導かれる。滑らかな皮膚が、指の腹を薄く沈めた。これは、夢の中だろうか。都合のいいストーリーを、脳が勝手に組み立てただけだろうか。ミヤジは期待しすぎないように、必死に理性を繋ぎ止める。しかし、触れているルカスの指先は、手袋越しであっても温かい。潤む双眸は、夢の中より鮮明で目映い。作り物の吐息でない、確固とした温度が手首に触れる。柔く握られた指先の力が強められる。
──もしかしてこれは、現実なのではないか。
誰かに見られでもしたら、いい歳の大人が、二人揃って何をしているんだと笑われそうだ。目の前の男の顔一つ、満足に見ることができないのだから。今すぐに目を逸らしたい衝動を抑え、息を潜める。……先に逸らしたのはルカスだった。追うように、ミヤジの顔はルカスとは真逆を向いた。
「……目、閉じてくれないか」
「……ごめん。……無理かも」
ミヤジはルカスと同じように、「頼むよ」と懇願した。狭くなった喉奥から出た声は、あまりにもささやかだった。ルカスにその声が届いたのか、ミヤジに知ることはできない。しかし、ミヤジが横目でルカスに視線を向けると、ルカスは不格好に瞼を閉じ合わせていた。
頬に添えた手で、ミヤジはルカスの顔を自分の方へと向ける。抵抗するでもなく、ルカスはミヤジの手に従った。
「……悪い。やっぱり、むり……」
ルカスの目が、薄く開く。言葉は押し戻されるようにくぐもった。瞬間、当事者達も判断し兼ねるほどかすかな一瞬、唇が触れた。甘い、ヴァニラの香り。
触れた、と思う。ミヤジは触れたのか触れていないのか、自信が持てずにいた。それ程までに、幼い口付けだった。
ミヤジはその場にしゃがみこんだ。長く吐き出された空気だけが、今までミヤジの顔があった場所に留まる。指先を繋いだまま、頭をしまい込むように項垂れた。
「……終わった?」
「……わからん……」
「ただのキスで、こんなに緊張すると思わなかった。……すごいね、ミヤジって」
「……すごいのはお前だよ」
上から降ってきた、情緒の欠片もないルカスの声に、ミヤジは溜息を零しながら顔を上げた。一体どんな顔をして、この情けない姿を見下ろしているのか、見てみたくなった。いつもの通り、ルカスは余裕綽々とした涼しい顔をしているに違いない。そう思って、見上げたのに。ミヤジの予想に反して、ルカスの白い頬は薄紅の熱を宿していた。手の甲で口元を隠してはいたが、作り笑顔を浮かべる余裕が今の彼にないことは、一目で理解できた。ミヤジは持ち上げた顔を再び膝にくっつく程深く埋めた。
「……そんな顔をしないでくれ……。ずるい」