微笑う繁縷
「今日、ベリアンにからかわれちゃった」
「ベリアンに?」
その日の仕事を終えたルカスは、グラスの中で波打つ葡萄色を煽った。胃が温かい。
願い虚しく雪は降り続け、会議が終わりグロバナー邸から出ると、辺り一面が白銀に染まっていた。今もまだ大粒の雪が空から舞い降りてきているようで、ただでさえ冷える屋敷内は、身体の芯を凍りつかせた。
ハナマルが屋敷へ来てから、ルカスにとってハナマルは晩酌の友だった。同室の執事と呑むこともあれば、数人で盛り上がることもある。けれど、悪魔と契約した時の年齢が近いハナマルは、ベリアンやミヤジと同じくらい誘いやすかった。年齢だけの話ではなく、しどけないかと思いきや、決してそういう訳ではなく、一本芯の通った彼の人柄のお陰でもある。
ルカスはワイン。ハナマルは日本酒。各々好きな物を、好きなつまみで。時折交換し合いながら。この自由さもルカスは好きだった。ルカスは屋敷の中では古株で、悪魔と契約した年齢自体も上の方だ。それ故、後輩達との間に引かれた一線は、消えるようなものではない。どうしてもどこかしら気を遣わせてしまう。ルカスは砕けて無遠慮に接してくれとは思わなかったが、時として、若い執事達のやり取りはその余りあるまぶしさに目が眩む。その点ハナマルは、ルカスに対して深く気負いをせず接してくる。ルカスには好適だった。
ルカスは昼間、ベリアンとしたお茶会での話をハナマルに聞かせる。世間話の延長線。会議の話をするよりは、余程面白味もあるだろう。一通り話し終えたあと、ルカスは最後に、「私がミヤジを見ているなんて、そんなわけないのにね」と付け加えた。努めて軽く。適当な相槌を打ちながら聞いていたハナマルは、グラスを手に握ったままテーブルに置いて、含んだ笑顔をルカスに向ける。
「……ていうかさ、俺は付き合ってんのかと思ってたわ。ルカス先生とミヤジ先生」
「いやいや。ないでしょ。普通に。……だって、ミヤジだよ?」
ないない、とルカスは呆れ加減でもう一度言った。笑顔は崩さないままで。何をどうしてハナマルがそう思ったのか。ルカスには理解できなかった。ハナマルは、ルカスとミヤジがほとんど絶縁状態に近かった時も知っているから、尚のこと。からかわれているなと、ルカスはハナマルに話したことを後悔した。指先で二度、机を叩く。出た言葉を戻すことはできないので、すぐに諦めることにしたけれど。
ルカスは日頃からかう側の人間だった。だからこそ、解る。目の前に座る男が、まだこれから、何かを仕掛けて来ようとしていることが。
「ほら。阿吽の呼吸っていうかさ」
「それは、……もう随分長いこと関わりがあるからね。多少言葉足らずでも、伝わることもあるよ」
言いながら、ルカスの海馬の片隅では、互いに話し合いを避けたことも、大きな原因の一つになったことが思い出されていた。拗れに拗れた日々。言葉を尽くして向き合う事も大切だと、今のルカスにはよく分かる。ルカスは心の中でだけ『まぁ、でも現実は、伝わらないことの方が多いのかな』と続けた。今これをハナマルに伝えると、余計に面白がられそうな気がしたからだ。いくら呑み始めてから、それなりに時間が経っているとはいえ、ルカスはそこまで酔いに委ねていない。煽り、グラスの中を空にする。
ルカスはワイングラスの曇りない硝子を、形を確かめるようになぞった。そして蝋燭に照らし出されたワインボトルを掴むと、再び注ぎ入れる。抜ける芳醇な香りが恍惚を誘う。
……所詮は酒の席での出来事だ。
「それにほら、よく見つめ合ってるだろ?二人。だから付き合ってんのかなーと思ったわけよ」
「……え?」
置こうとしたワインボトルが、滑りかける。見つめ合ってるだろと、同意を求められたところで、ルカスに心当たりはなかった。やはりハナマルは、ベリアンの話に便乗しているに違いない。
ここまで露骨だとルカスは、便乗するハナマルの遊びに付き合ってもいいな、と思えてきていた。しかし、相手がいる。ルカスが不用意に思わせぶりな態度を取れば、この場は盛り上がるかもしれない。しかし、明日以降のミヤジにも迷惑がかかる可能性が高い。ミヤジだし別にいいか、と乗ってしまいそうになるけれど。
「……ハナマルくんまでやめてほしいなぁ。見てないよ。ミヤジのことなんて」
「それはそれで、可哀想な気がしてくるけどな……」
ハナマルのグラスが空になったのを見計らって、ルカスは注ぐよと声を掛けた。普段はあまりしない。けれど今、ルカスは動いていたかった。一秒でも多く、考え出しそうになる頭を沈静させたかった。特に気に留める様子もなく、ハナマルはグラスを差し出した。滔々と流れ込む。ルカスは冷えた酒瓶の感触にだけ、意識を集めた。
ハナマルは注がれたグラスを、目線の高さまで持ち上げて眺めた。蝋燭の灯りが溶けた液体が、渦を作るように一瞬揺れた。
「てかさ、ルカス先生。本当に無自覚なの?」
「無自覚も何も、本当に見ていないだけだよ。……もうこの話は終わり。満足したかい?」
「うーん……。ルカス先生の本音が聞けたら、大満足しちゃうかも」
にたにたという言葉はきっと彼の為にある。わざとらしい声を出しながら笑うハナマルに、ルカスは唸るような、考え込むような声を返した。ルカスにとっては、隠し事をしているつもりでもなければ、誤魔化した返事をしているつもりでもなく、事実を話しているだけだった。それを本音とは認めてもらえないのだろうか。
ルカスはグラスに注ぎ入れようと、ワインボトルを傾けてみたが、既にボトルの中身はなくなっていた。諦めてボトルをテーブルに戻す。ルカスは事前に置いていた、水の入ったカラフェを傾けた。透明な液体が波紋を描く。
──流石に今日は飲みすぎた。
仕事に支障が出ることはないだろう。しかし、若くもないのに幾分か調子に乗りすぎてしまった。ルカスは冷えきった水を流し込み、火照った体内を冷やす。
「……次、この話に触れたら怒るよ」
「ちょちょ、顔怖いって。ルカス先生。ほら、笑って、笑って」
言われた通り、ルカスがこれ以上なく満面の笑みを貼り付けてハナマルを見ると、「いや、こえーって……」と視線を逸らした。たじろぐハナマルの姿に、防戦一方だったルカスは、してやったりと笑った。
「でも、まぁ、恋愛相談ならハナマル様がいつでも乗るからさ。頼ってくれよ、ルカス先生」
レンアイソウダン。その響きを受けて、ルカスは無意識のうちに喉を鳴らした。グラスを持つ手が一度だけ小さく震える。液体の中に浮いている、蝋燭の炎が形を歪めて揺れた。
「……そういえば、ぜひ、ハナマルくんに試してほしい薬があるんだよね」
「あっ、俺そろそろ寝ないと。明日の仕事に響いちゃうなー……なんて」
ルカスは、腰を浮かせたハナマルの腕を掴む。握る掌に大した力は込めていなかったが、逃がすつもりは毛頭なかった。縋るように、ルカスは顎を引いて、ハナマルの瞳を覗き込んだ。とにかくこのまま、一人にはなりたくなかった。
「ベリアンに?」
その日の仕事を終えたルカスは、グラスの中で波打つ葡萄色を煽った。胃が温かい。
願い虚しく雪は降り続け、会議が終わりグロバナー邸から出ると、辺り一面が白銀に染まっていた。今もまだ大粒の雪が空から舞い降りてきているようで、ただでさえ冷える屋敷内は、身体の芯を凍りつかせた。
ハナマルが屋敷へ来てから、ルカスにとってハナマルは晩酌の友だった。同室の執事と呑むこともあれば、数人で盛り上がることもある。けれど、悪魔と契約した時の年齢が近いハナマルは、ベリアンやミヤジと同じくらい誘いやすかった。年齢だけの話ではなく、しどけないかと思いきや、決してそういう訳ではなく、一本芯の通った彼の人柄のお陰でもある。
ルカスはワイン。ハナマルは日本酒。各々好きな物を、好きなつまみで。時折交換し合いながら。この自由さもルカスは好きだった。ルカスは屋敷の中では古株で、悪魔と契約した年齢自体も上の方だ。それ故、後輩達との間に引かれた一線は、消えるようなものではない。どうしてもどこかしら気を遣わせてしまう。ルカスは砕けて無遠慮に接してくれとは思わなかったが、時として、若い執事達のやり取りはその余りあるまぶしさに目が眩む。その点ハナマルは、ルカスに対して深く気負いをせず接してくる。ルカスには好適だった。
ルカスは昼間、ベリアンとしたお茶会での話をハナマルに聞かせる。世間話の延長線。会議の話をするよりは、余程面白味もあるだろう。一通り話し終えたあと、ルカスは最後に、「私がミヤジを見ているなんて、そんなわけないのにね」と付け加えた。努めて軽く。適当な相槌を打ちながら聞いていたハナマルは、グラスを手に握ったままテーブルに置いて、含んだ笑顔をルカスに向ける。
「……ていうかさ、俺は付き合ってんのかと思ってたわ。ルカス先生とミヤジ先生」
「いやいや。ないでしょ。普通に。……だって、ミヤジだよ?」
ないない、とルカスは呆れ加減でもう一度言った。笑顔は崩さないままで。何をどうしてハナマルがそう思ったのか。ルカスには理解できなかった。ハナマルは、ルカスとミヤジがほとんど絶縁状態に近かった時も知っているから、尚のこと。からかわれているなと、ルカスはハナマルに話したことを後悔した。指先で二度、机を叩く。出た言葉を戻すことはできないので、すぐに諦めることにしたけれど。
ルカスは日頃からかう側の人間だった。だからこそ、解る。目の前に座る男が、まだこれから、何かを仕掛けて来ようとしていることが。
「ほら。阿吽の呼吸っていうかさ」
「それは、……もう随分長いこと関わりがあるからね。多少言葉足らずでも、伝わることもあるよ」
言いながら、ルカスの海馬の片隅では、互いに話し合いを避けたことも、大きな原因の一つになったことが思い出されていた。拗れに拗れた日々。言葉を尽くして向き合う事も大切だと、今のルカスにはよく分かる。ルカスは心の中でだけ『まぁ、でも現実は、伝わらないことの方が多いのかな』と続けた。今これをハナマルに伝えると、余計に面白がられそうな気がしたからだ。いくら呑み始めてから、それなりに時間が経っているとはいえ、ルカスはそこまで酔いに委ねていない。煽り、グラスの中を空にする。
ルカスはワイングラスの曇りない硝子を、形を確かめるようになぞった。そして蝋燭に照らし出されたワインボトルを掴むと、再び注ぎ入れる。抜ける芳醇な香りが恍惚を誘う。
……所詮は酒の席での出来事だ。
「それにほら、よく見つめ合ってるだろ?二人。だから付き合ってんのかなーと思ったわけよ」
「……え?」
置こうとしたワインボトルが、滑りかける。見つめ合ってるだろと、同意を求められたところで、ルカスに心当たりはなかった。やはりハナマルは、ベリアンの話に便乗しているに違いない。
ここまで露骨だとルカスは、便乗するハナマルの遊びに付き合ってもいいな、と思えてきていた。しかし、相手がいる。ルカスが不用意に思わせぶりな態度を取れば、この場は盛り上がるかもしれない。しかし、明日以降のミヤジにも迷惑がかかる可能性が高い。ミヤジだし別にいいか、と乗ってしまいそうになるけれど。
「……ハナマルくんまでやめてほしいなぁ。見てないよ。ミヤジのことなんて」
「それはそれで、可哀想な気がしてくるけどな……」
ハナマルのグラスが空になったのを見計らって、ルカスは注ぐよと声を掛けた。普段はあまりしない。けれど今、ルカスは動いていたかった。一秒でも多く、考え出しそうになる頭を沈静させたかった。特に気に留める様子もなく、ハナマルはグラスを差し出した。滔々と流れ込む。ルカスは冷えた酒瓶の感触にだけ、意識を集めた。
ハナマルは注がれたグラスを、目線の高さまで持ち上げて眺めた。蝋燭の灯りが溶けた液体が、渦を作るように一瞬揺れた。
「てかさ、ルカス先生。本当に無自覚なの?」
「無自覚も何も、本当に見ていないだけだよ。……もうこの話は終わり。満足したかい?」
「うーん……。ルカス先生の本音が聞けたら、大満足しちゃうかも」
にたにたという言葉はきっと彼の為にある。わざとらしい声を出しながら笑うハナマルに、ルカスは唸るような、考え込むような声を返した。ルカスにとっては、隠し事をしているつもりでもなければ、誤魔化した返事をしているつもりでもなく、事実を話しているだけだった。それを本音とは認めてもらえないのだろうか。
ルカスはグラスに注ぎ入れようと、ワインボトルを傾けてみたが、既にボトルの中身はなくなっていた。諦めてボトルをテーブルに戻す。ルカスは事前に置いていた、水の入ったカラフェを傾けた。透明な液体が波紋を描く。
──流石に今日は飲みすぎた。
仕事に支障が出ることはないだろう。しかし、若くもないのに幾分か調子に乗りすぎてしまった。ルカスは冷えきった水を流し込み、火照った体内を冷やす。
「……次、この話に触れたら怒るよ」
「ちょちょ、顔怖いって。ルカス先生。ほら、笑って、笑って」
言われた通り、ルカスがこれ以上なく満面の笑みを貼り付けてハナマルを見ると、「いや、こえーって……」と視線を逸らした。たじろぐハナマルの姿に、防戦一方だったルカスは、してやったりと笑った。
「でも、まぁ、恋愛相談ならハナマル様がいつでも乗るからさ。頼ってくれよ、ルカス先生」
レンアイソウダン。その響きを受けて、ルカスは無意識のうちに喉を鳴らした。グラスを持つ手が一度だけ小さく震える。液体の中に浮いている、蝋燭の炎が形を歪めて揺れた。
「……そういえば、ぜひ、ハナマルくんに試してほしい薬があるんだよね」
「あっ、俺そろそろ寝ないと。明日の仕事に響いちゃうなー……なんて」
ルカスは、腰を浮かせたハナマルの腕を掴む。握る掌に大した力は込めていなかったが、逃がすつもりは毛頭なかった。縋るように、ルカスは顎を引いて、ハナマルの瞳を覗き込んだ。とにかくこのまま、一人にはなりたくなかった。