微笑う繁縷
窓から見える空は、灰色の分厚い雲に埋め尽くされていた。今に雪でも降り出しそうだと、ルカスは目の前に置かれたキームンティーに手を伸ばした。二人だけのお茶会。
上質な茶葉が手に入ったと、朝早くから息せいて部屋を訪ねてきたベリアンに、久しぶりにどうか、とルカスが誘ったのだ。華やかな甘さを持ったキームンの香り。近頃は多忙で、自分の時間をとることができなかった。久しぶりに過ごす友とのひとときに、ルカスは上機嫌を極めていた。はるか昔に母から教わった童謡を、無意識に口ずさむほど。
しかし、何も機嫌がいいのはルカスだけではなかった。ベリアンもまた、浮かれ調子だった。二人のお茶会の為に、と用意していたマドレーヌを皿の上に並べながら、ルカスも聞き馴染みのない鼻歌を歌っていた。先刻焼きあがったばかりのマドレーヌは、バターの芳醇な香りを部屋いっぱいに広げた。ルカスは、ベリアンの作るマドレーヌが好きだった。差し出された皿に顔を寄せ、肺胞に届くほど匂いを吸い込む。もしも幸せに香りがついていたならば、きっとこんな匂いだろう。ルカスは、席に着いたベリアンを見て、うっとりと微笑んだ。
「ふふ。いい匂い。ありがとう、ベリアン」
「いえいえ。こちらこそ、お時間をいただきありがとうございます」
ベリアンの口調は普段と変わらず、砕けることはなかった。しかし携える微笑みは、後輩達の前で見せるものよりも、随分柔らかかった。陶器の触れ合う音が、軽やかに場を彩った。
二人で過ごす時、決めていることがある。それは、あまり仕事の話をしないこと。ルカスは仲間としてだけではなく、一人の友として、ベリアンと向き合いたかったからだ。ルカスは仕事の話をすることも好きだったから、気を抜くとつい、そればかりになってしまう。ベリアンは文句を言うどころか、幼子の話を聞く母のような顔をして聞いていた。その優しさが申し訳なくなったルカスは、やめにしようと提案したのだ。うっかり仕事の話ばかりになった時に、ベリアンが窘めてくれるように。その決め事もあって、二人はこうしてお茶会を開く時、昔話をすることが多かった。昔、こんな事があった。こんな執事がいた。その話題を共有しきれるのは、屋敷内でお互いだけだったこともある。
そして、 昔話に花を咲かせていると、話題には自然と、長く共に過ごしているミヤジや、今は亡きゼパルの名前が出ることも多かった。この時もルカスは深く考える事なく、ミヤジの名前を口にした。
「そういえば、最近よく目が合うんだよね。ミヤジと」
「うふふ……。仲が良いようで、私も嬉しいですよ」
ルカスは、ベリアンの言葉にかすかなズレを感じた。否定する意味はなかった。ただ、なぜだか「違うんだよ」と、言い出してしまいそうになる口を、ルカスは一度閉じた。二百八十四年間。ルカスとミヤジの断絶を、ベリアンは一番近くで見ていた。当事者よりも余程修復を祈っていた。その彼が今感じているであろう嬉しさは、違うことなんてない。それなのにルカスは、喉奥に潜めた否定の言葉を、口に出してしまいたくて仕方がなかった。果たして何が違うのか。ルカス自身も理解不能だった。
「……本当に、変なんだよ。ミヤジの奴。……今朝、朝食を食べている最中も、顔を上げたら目が合った。ここへ来る前も廊下ですれ違ったけれど……、振り向いたらまだ私の方を見てた。……私、なにか付いてる?」
ルカスは身嗜みを確認する素振りで、全身を軽く叩いた。ベリアンは丸い目をさらに丸くした。それから、上がった口角を隠すように、示指の横腹を唇に当てた。ルカスに目は、ベリアンが楽しんでいるように映った。その理由が、分かるようで分からない。分かりたくないと言った方が、今のルカスには近いかもしれない。
擽ったい気恥しさを誤魔化そうと、ルカスは前髪を一束摘んで、もう一度「なにか付いてる?」と、ベリアンに確かめた。ベリアンは眉尻を極限まで下げた。
「いいえ。……ふふ。ミヤジさんと目が合うと仰っていましたが、……なんだか、ルカスさんがミヤジさんを見ているみたいですね」
「私が?」
「ええ」
まさか、とルカスは思いもよらぬ方向から、突如として飛んできた言葉に、瞬きを繰り返す。永久とも呼べる歳月を、同じ屋敷で暮らしてきた。確かにルカスは、ミヤジのことを親友のように思っていたし、気兼ねない関係性である以上、何かと頼る機会も少なくはなかった。だからと言って、休日にわざわざ予定を合わせて、どこかへ遊びに行くことはなかったが。和解したとはいえ、二人きりで酒を酌み交わす機会もない。ミヤジと呑む時は、常に他に誰かがいた。
ルカスはテーブルの隅を二度、指先で素早く鳴らした。鳴った音が耳に届いてから、ルカスは己がその行動を取った理由がわからず、口元を歪めながら笑った。
「それは……ないよ。さすがに。今はミヤジに特別用もないしね」
ルカスはマドレーヌを口に放りこむように運ぶ。ベリアンの作るマドレーヌは絶品だ。けれど、この時ばかりは、ルカスはその甘さを感じることもなく、溶け込んだバターが口腔内に張り付いて、咳き込みそうだった。ベリアンに不審に思われないように、ルカスはキームンティーで口腔内のマドレーヌを胃の腑へ押し流した。芳ばしさが鼻腔を占めて、ルカスは漸く一息ついた。
今のままでは普段とは逆で、すっかりベリアンのペースに嵌っている。ルカスは一度気持ちを落ち着かせようと、窓の外へ目を向けた。重く、時間も感じさせない鈍色の空。ルカスの両目が、ちらちらと揺れ踊る白を見つけた。
──花弁雪だ。
ルカスはお茶会の後、グロバナー邸で定例会議があった。積もらないことを願いながら眺める。
「雪、降ってきましたね」
「うん。積もらないといいのだけれど」
ミヤジの話から話題が逸れて、ルカスは安堵していた。このままミヤジの話はなかったことにしよう。そう決めて、マドレーヌをもう一口、口へ運んだ。今度は正しく美味に感じられ、ルカスは機嫌を取り戻す。
空になったティーカップ。お代りを、と立ち上がろうとしたベリアンを制止して、ルカスは先に立ち上がった。そしてルカスは、ベリアンに「お代わりはいる?」と悪戯ぽく笑った。ティーポットの中で揺れ踊る茶葉が、窓の外の景色と重なる。
「ふふ。こんなに寒いと、ホットワインでも飲みたくなってしまうね」
「もう……。ルカスさん。最近また、セラーの空瓶が増えていることに、私が気付いていないとお思いですか」
「……ごめんね、ベリアン。気を付けるよ。昨日もミヤジに……」
言いかけて、口を噤む。彼の名前を、今口に出すことが憚られた。ルカスが取り返しのつかない道を、自身の手で、選び取ろうとしているように感じられたからだ。
昨夜、やってこない眠気を言い訳に、ルカスは一人で晩酌をした。誰かを誘おうと思ったが、生憎誰も捕まらなかった。ルカスは一頻り呑んだ後、食べ物を探してキッチンへ向かった。チーズにしようか。ナッツにしようか。それとも甘いものでも食べようか。そんなことを考えながら、蛇口から水が滴り落ちるのを眺めていた。そこにミヤジがやってきた。ルカスには扉を開けたミヤジが、中へ入ることを躊躇しているのが、振り返らなくても分かった。
……今更何を躊躇うことがあるのだろう。
ルカスとミヤジの間に流れた二百八十四年の刻は、二人の間にぎこちなさを植え付けたのかもしれない。もしかすると、ルカスを避け続けたミヤジの習慣かもしれないが。けれどミヤジは逃げなかった。怖々と声を掛けてきたミヤジと、二言、三言交わした。
ミヤジに声を掛けられて、調子に乗ったのかもしれない。結局、ミヤジが何をしにやって来たのか。ルカスが知ることはなかった。ルカスがいたことで、用が足せないと判断したのかもしれない。けれどルカスは、もっとミヤジと話がしたかった。真正面から向き合えなかった時間の分も、彼と向き合いたかった。その欲が顔を出して、早々とその場から離れていこうとしたミヤジの背中に、「……君がいい」と声を投げてしまった。ミヤジが振り返った時、やってしまったとルカスは思った。よりにもよって、まるで愛の言葉のような、誤解を受けかねない言葉を投げてしまうなんて。半歩引いたミヤジが、また自分から離れていってしまうのではと、指先がか細く震えた。導き出した、咄嗟の逃げの口上。
「……ほら。ここしばらくの間、君と呑んでいないだろう? 私はまた、君と呑みたいよ。ミヤジ」
きっと何もおかしくは思われなかった。けれどルカスには、なぜだかミヤジが肩を落としたように見えた。
ルカスは、うっかり発した名前が、ティーカップが満たされていくかすかな調べに、掻き消されていることを信じることしかできなかった。
注ぎ終えたティーカップを、ベリアンの前に差し出す。ありがとうと向けられた笑顔に、ルカスも笑顔を返した。触れないでくれの意味を込めて。
「……ルカスさん」
ルカスが椅子に座り直したタイミングを見計らって、ベリアンが呼び掛ける。ルカスは惚けた顔を作って、小首を傾げながら返事をした。しかし拍動は速まって、酸素が薄くなりかけた頭が上手く回っていないことを、だよりも自覚していた。
「……今日は、……よく冷えますね」
ベリアンが言おうとした言葉は、これでないだろうということが、ルカスには伝わった。若干様子のおかしいルカスに、気を遣ったのだろう。ベリアンが立ち上がり、ベッド脇に置かれたブランケットを二つ手に取った。そして、その片方をルカスに手渡す。ルカスは差し出されたブランケットを受け取って、足の上に広げた。日頃ベリアンが使っているものなのだろう。ベリアンと同じ、優しさの満ちた香りが、一瞬だけ鼻腔に流れ込んできた。
「……ルカスさん」
ベリアンが椅子に座りながら、再びルカスに声を掛ける。先程とは違い、覚悟の滲んだような声で。
「……なに?」
「先程のお話、なのですが……」
「うん」
「用がなくても見てしまうのであれば、……それは、まるで──」
ティーカップの底が、ソーサーに触れた。無機質な音が、尚のこと静寂を際立たせる。ルカスは、束の間呼吸を忘れた。ベリアンの口から続いたかもしれない言葉を、察せてしまう。そんなわけはないと否定しようとして、薄く唇を開いたままベリアンを見つめた。ベリアンが言葉を繋ぐことはなかった。ただ、ベリアンもルカスと同じように、沈黙してルカスを見た。
カップに添えたルカスの手が、痙攣するように一度震えた。その音がまるで合図だったというように、ルカスが立ち上がる。
「……これから、会議があるんだ。もう行かなくちゃ。お招きありがとう、ベリアン」
一方的に言い切ると、ルカスは足早に部屋を出ようと扉へ向かう。扉を開ける前、ルカスが振り返ると、ベリアンははにかむように笑っていた。
「お気を付けて」
上質な茶葉が手に入ったと、朝早くから息せいて部屋を訪ねてきたベリアンに、久しぶりにどうか、とルカスが誘ったのだ。華やかな甘さを持ったキームンの香り。近頃は多忙で、自分の時間をとることができなかった。久しぶりに過ごす友とのひとときに、ルカスは上機嫌を極めていた。はるか昔に母から教わった童謡を、無意識に口ずさむほど。
しかし、何も機嫌がいいのはルカスだけではなかった。ベリアンもまた、浮かれ調子だった。二人のお茶会の為に、と用意していたマドレーヌを皿の上に並べながら、ルカスも聞き馴染みのない鼻歌を歌っていた。先刻焼きあがったばかりのマドレーヌは、バターの芳醇な香りを部屋いっぱいに広げた。ルカスは、ベリアンの作るマドレーヌが好きだった。差し出された皿に顔を寄せ、肺胞に届くほど匂いを吸い込む。もしも幸せに香りがついていたならば、きっとこんな匂いだろう。ルカスは、席に着いたベリアンを見て、うっとりと微笑んだ。
「ふふ。いい匂い。ありがとう、ベリアン」
「いえいえ。こちらこそ、お時間をいただきありがとうございます」
ベリアンの口調は普段と変わらず、砕けることはなかった。しかし携える微笑みは、後輩達の前で見せるものよりも、随分柔らかかった。陶器の触れ合う音が、軽やかに場を彩った。
二人で過ごす時、決めていることがある。それは、あまり仕事の話をしないこと。ルカスは仲間としてだけではなく、一人の友として、ベリアンと向き合いたかったからだ。ルカスは仕事の話をすることも好きだったから、気を抜くとつい、そればかりになってしまう。ベリアンは文句を言うどころか、幼子の話を聞く母のような顔をして聞いていた。その優しさが申し訳なくなったルカスは、やめにしようと提案したのだ。うっかり仕事の話ばかりになった時に、ベリアンが窘めてくれるように。その決め事もあって、二人はこうしてお茶会を開く時、昔話をすることが多かった。昔、こんな事があった。こんな執事がいた。その話題を共有しきれるのは、屋敷内でお互いだけだったこともある。
そして、 昔話に花を咲かせていると、話題には自然と、長く共に過ごしているミヤジや、今は亡きゼパルの名前が出ることも多かった。この時もルカスは深く考える事なく、ミヤジの名前を口にした。
「そういえば、最近よく目が合うんだよね。ミヤジと」
「うふふ……。仲が良いようで、私も嬉しいですよ」
ルカスは、ベリアンの言葉にかすかなズレを感じた。否定する意味はなかった。ただ、なぜだか「違うんだよ」と、言い出してしまいそうになる口を、ルカスは一度閉じた。二百八十四年間。ルカスとミヤジの断絶を、ベリアンは一番近くで見ていた。当事者よりも余程修復を祈っていた。その彼が今感じているであろう嬉しさは、違うことなんてない。それなのにルカスは、喉奥に潜めた否定の言葉を、口に出してしまいたくて仕方がなかった。果たして何が違うのか。ルカス自身も理解不能だった。
「……本当に、変なんだよ。ミヤジの奴。……今朝、朝食を食べている最中も、顔を上げたら目が合った。ここへ来る前も廊下ですれ違ったけれど……、振り向いたらまだ私の方を見てた。……私、なにか付いてる?」
ルカスは身嗜みを確認する素振りで、全身を軽く叩いた。ベリアンは丸い目をさらに丸くした。それから、上がった口角を隠すように、示指の横腹を唇に当てた。ルカスに目は、ベリアンが楽しんでいるように映った。その理由が、分かるようで分からない。分かりたくないと言った方が、今のルカスには近いかもしれない。
擽ったい気恥しさを誤魔化そうと、ルカスは前髪を一束摘んで、もう一度「なにか付いてる?」と、ベリアンに確かめた。ベリアンは眉尻を極限まで下げた。
「いいえ。……ふふ。ミヤジさんと目が合うと仰っていましたが、……なんだか、ルカスさんがミヤジさんを見ているみたいですね」
「私が?」
「ええ」
まさか、とルカスは思いもよらぬ方向から、突如として飛んできた言葉に、瞬きを繰り返す。永久とも呼べる歳月を、同じ屋敷で暮らしてきた。確かにルカスは、ミヤジのことを親友のように思っていたし、気兼ねない関係性である以上、何かと頼る機会も少なくはなかった。だからと言って、休日にわざわざ予定を合わせて、どこかへ遊びに行くことはなかったが。和解したとはいえ、二人きりで酒を酌み交わす機会もない。ミヤジと呑む時は、常に他に誰かがいた。
ルカスはテーブルの隅を二度、指先で素早く鳴らした。鳴った音が耳に届いてから、ルカスは己がその行動を取った理由がわからず、口元を歪めながら笑った。
「それは……ないよ。さすがに。今はミヤジに特別用もないしね」
ルカスはマドレーヌを口に放りこむように運ぶ。ベリアンの作るマドレーヌは絶品だ。けれど、この時ばかりは、ルカスはその甘さを感じることもなく、溶け込んだバターが口腔内に張り付いて、咳き込みそうだった。ベリアンに不審に思われないように、ルカスはキームンティーで口腔内のマドレーヌを胃の腑へ押し流した。芳ばしさが鼻腔を占めて、ルカスは漸く一息ついた。
今のままでは普段とは逆で、すっかりベリアンのペースに嵌っている。ルカスは一度気持ちを落ち着かせようと、窓の外へ目を向けた。重く、時間も感じさせない鈍色の空。ルカスの両目が、ちらちらと揺れ踊る白を見つけた。
──花弁雪だ。
ルカスはお茶会の後、グロバナー邸で定例会議があった。積もらないことを願いながら眺める。
「雪、降ってきましたね」
「うん。積もらないといいのだけれど」
ミヤジの話から話題が逸れて、ルカスは安堵していた。このままミヤジの話はなかったことにしよう。そう決めて、マドレーヌをもう一口、口へ運んだ。今度は正しく美味に感じられ、ルカスは機嫌を取り戻す。
空になったティーカップ。お代りを、と立ち上がろうとしたベリアンを制止して、ルカスは先に立ち上がった。そしてルカスは、ベリアンに「お代わりはいる?」と悪戯ぽく笑った。ティーポットの中で揺れ踊る茶葉が、窓の外の景色と重なる。
「ふふ。こんなに寒いと、ホットワインでも飲みたくなってしまうね」
「もう……。ルカスさん。最近また、セラーの空瓶が増えていることに、私が気付いていないとお思いですか」
「……ごめんね、ベリアン。気を付けるよ。昨日もミヤジに……」
言いかけて、口を噤む。彼の名前を、今口に出すことが憚られた。ルカスが取り返しのつかない道を、自身の手で、選び取ろうとしているように感じられたからだ。
昨夜、やってこない眠気を言い訳に、ルカスは一人で晩酌をした。誰かを誘おうと思ったが、生憎誰も捕まらなかった。ルカスは一頻り呑んだ後、食べ物を探してキッチンへ向かった。チーズにしようか。ナッツにしようか。それとも甘いものでも食べようか。そんなことを考えながら、蛇口から水が滴り落ちるのを眺めていた。そこにミヤジがやってきた。ルカスには扉を開けたミヤジが、中へ入ることを躊躇しているのが、振り返らなくても分かった。
……今更何を躊躇うことがあるのだろう。
ルカスとミヤジの間に流れた二百八十四年の刻は、二人の間にぎこちなさを植え付けたのかもしれない。もしかすると、ルカスを避け続けたミヤジの習慣かもしれないが。けれどミヤジは逃げなかった。怖々と声を掛けてきたミヤジと、二言、三言交わした。
ミヤジに声を掛けられて、調子に乗ったのかもしれない。結局、ミヤジが何をしにやって来たのか。ルカスが知ることはなかった。ルカスがいたことで、用が足せないと判断したのかもしれない。けれどルカスは、もっとミヤジと話がしたかった。真正面から向き合えなかった時間の分も、彼と向き合いたかった。その欲が顔を出して、早々とその場から離れていこうとしたミヤジの背中に、「……君がいい」と声を投げてしまった。ミヤジが振り返った時、やってしまったとルカスは思った。よりにもよって、まるで愛の言葉のような、誤解を受けかねない言葉を投げてしまうなんて。半歩引いたミヤジが、また自分から離れていってしまうのではと、指先がか細く震えた。導き出した、咄嗟の逃げの口上。
「……ほら。ここしばらくの間、君と呑んでいないだろう? 私はまた、君と呑みたいよ。ミヤジ」
きっと何もおかしくは思われなかった。けれどルカスには、なぜだかミヤジが肩を落としたように見えた。
ルカスは、うっかり発した名前が、ティーカップが満たされていくかすかな調べに、掻き消されていることを信じることしかできなかった。
注ぎ終えたティーカップを、ベリアンの前に差し出す。ありがとうと向けられた笑顔に、ルカスも笑顔を返した。触れないでくれの意味を込めて。
「……ルカスさん」
ルカスが椅子に座り直したタイミングを見計らって、ベリアンが呼び掛ける。ルカスは惚けた顔を作って、小首を傾げながら返事をした。しかし拍動は速まって、酸素が薄くなりかけた頭が上手く回っていないことを、だよりも自覚していた。
「……今日は、……よく冷えますね」
ベリアンが言おうとした言葉は、これでないだろうということが、ルカスには伝わった。若干様子のおかしいルカスに、気を遣ったのだろう。ベリアンが立ち上がり、ベッド脇に置かれたブランケットを二つ手に取った。そして、その片方をルカスに手渡す。ルカスは差し出されたブランケットを受け取って、足の上に広げた。日頃ベリアンが使っているものなのだろう。ベリアンと同じ、優しさの満ちた香りが、一瞬だけ鼻腔に流れ込んできた。
「……ルカスさん」
ベリアンが椅子に座りながら、再びルカスに声を掛ける。先程とは違い、覚悟の滲んだような声で。
「……なに?」
「先程のお話、なのですが……」
「うん」
「用がなくても見てしまうのであれば、……それは、まるで──」
ティーカップの底が、ソーサーに触れた。無機質な音が、尚のこと静寂を際立たせる。ルカスは、束の間呼吸を忘れた。ベリアンの口から続いたかもしれない言葉を、察せてしまう。そんなわけはないと否定しようとして、薄く唇を開いたままベリアンを見つめた。ベリアンが言葉を繋ぐことはなかった。ただ、ベリアンもルカスと同じように、沈黙してルカスを見た。
カップに添えたルカスの手が、痙攣するように一度震えた。その音がまるで合図だったというように、ルカスが立ち上がる。
「……これから、会議があるんだ。もう行かなくちゃ。お招きありがとう、ベリアン」
一方的に言い切ると、ルカスは足早に部屋を出ようと扉へ向かう。扉を開ける前、ルカスが振り返ると、ベリアンははにかむように笑っていた。
「お気を付けて」