微笑う繁縷
「……ミヤジ」
縋り付くような甘い声がして、ミヤジは目を屢叩く。辺りは夜闇を落とし込んだように漆黒。暗い以外の情報が入ってこないが、背中の柔らかな感触は、どうやらベッドの上のようである。薄く靄がかかった思考。考えること自体を忘れてしまったように、ミヤジはおそらく天井を見つめていた。暫くそうしてただ一点だけを見つめていると、ミヤジは次第にここが知らぬどこかではなく、地下執事室であることを思い出す。
体が重い。一体なんだと頭だけを動かして、視線を下げて、瞠目した。
「……ルカス……」
ミヤジの体に跨りながら、ルカスは妖しく笑った。彼の洋紅色の髪の毛が、暗闇の中に鮮やかに浮かび上がっていた。ミヤジは一体なぜと口を動かそうとしたが、言葉が形を成すより早く、ルカスの白皙の指先が頬を撫でた。
触れた指先の温度はわからなかった。無意識に行われる嚥下運動。滑らかな指の腹がミヤジの輪郭を沿い、掌が頬を包んだ。影の落ちた表情は目を凝らして漸く口元が見える程度だった。大袈裟なくらい、音を混じえて吐き出された吐息は、熱を孕んでいるように感じられた。
何が起きているのか、ミヤジはまるで理解が追いつかなかった。ただ、そうあることが当たり前で、これまでもずっとそうであったかのように、体は受け入れていた。ミヤジはされるがままだった。働ききらない頭で、ミヤジが薄ぼんやりとルカスを見上げていると、ゆっくりと時間をかけて、ルカスの顔が近付いてくる。顰められた眉は潤んだ月色の瞳と合わさって、切望するようにミヤジに向けられた。
「ミヤジ……。……私は、ミヤジがいい」
耳元に寄せられた唇。吐息が、言葉が、鼓膜の奥に絡みついた。腕を回そうと持ち上げかけたその時、世界が反転した。
浮き上がるような感覚と共に目を見開く。わずかに持ち上げた腕が空を掴んだ。咄嗟にルカスは、と辺りを見渡すがどこにも彼の姿はなかった。
重く清廉な香りが肺に流れ込む。よく知った香りだったが、これは一体──。そう思ったところで、ミヤジは眠りに落ちるより少し前、白檀のアロマキャンドルを灯していたことを思い出した。思い出したのとほとんど同時に、耳の奥が震えていることを自覚した。心臓が肋骨を内側から叩いた。
──また、夢か……。
瞬きすることもできずに天井を見つめる。夢の中と寸分違わぬ天井だった。呼吸を整えながら上体を起こす。ミヤジの手が小刻みに震えているのは、決して寒さのせいだけではないだろう。
震えを誤魔化そうと、ミヤジは自分一人しか乗っていないベッドで、掛けていた布団を握りしめた。
次にミヤジは、部屋の中が乾燥していたからか、喉の渇きをおぼえた。激しい鼓動は、いくらか落ち着いてきているようではあった。しかし依然として、隣で眠るラトに聞こえているのでは、と考えるほど騒がしく喚いている。
ミヤジはここしばらくの間、ルカスの夢ばかりを見た。見始めた頃は、談笑したり、酒を酌み交わしたり、不本意ではあるが共に医療係をしているだけの、日常の延長線上の夢。しかし、日を追うごとにルカスとの距離は近付き、指先が触れ、頬を寄せ、ミヤジはそれだけでも充分すぎるほど自分を責めた。あまつさえ今日は、夢の中のルカスは扇情的に、「ミヤジがいい」などと言い出した。
ミヤジはやはり自分の頭はおかしくなってしまったと、眼球の奥が鈍く痛んだ。昼間、ベリアンと話したことが思い出される。確かにミヤジは、あの場で救われた気持ちになった。ルカスに伝えてみようかという気も、僅かではあったが湧いた。けれど今、ほとんど確信に近い形で、ミヤジは抱いている想いを、ルカスに伝えることは不正解だと導き出している。
夢も、痛みも、全て無かったことにしたかった。ミヤジはベッドに潜り直すと、上下の睫毛が絡むほどきつく目を瞑った。一刻も早く、眠りに落ちることを祈りながら。
…………喉が渇きを訴え続けている。気のせいだと思い込もうとして、唾液を一度飲み込んだ。
しかし、乾燥した喉奥は、湿潤させられるのを待ち望んでいた。ミヤジはこのまま眠れないものか、と瞼に込める力を強めたが、そのせいで余計に眠気は遠ざかって行った。このまま粘り続けていても良かったが、それなら水でも飲んできた方が早く眠れるだろう。そう結論づけて目を開けた。窓のない地下のこの部屋は、夜になると手元すら見えない。
体を持ち上げながら、探り探り爪先を床につける。爪先が、ベッド脇に置いておいたスリッパを探り当てた。足を滑り入れると、長めの毛足に包まれた素足は、冷え切る前にその体温を維持した。
このスリッパは、フルーレが作ったものだった。元々は冷え性のミヤジのために、と作られたものであったが、寝る前素足で過ごすラトを気遣って贈られ、今では地下で暮らす三人は、揃って同じスリッパをベッド脇に並べ立てて眠る。そうすると、こうして暁闇に目が覚めた時などは、特に重宝した。
耳の良いラトがうっかり起きてしまわないように気を付けて、ミヤジは真鍮のハンドルを握って扉を開けた。真鍮の冷たさは、布団の中で温まっていた体温を掠め取っていく。けれどミヤジはその冷たさに心地良さを感じた。夢見が悪かったせいで、火照ったような、悪寒がするような、ミヤジの奇妙な体温を正常に均す手助けをしていたからだ。
夢は所詮夢だ。ミヤジは地上へ向かう階段を踏みしめる度、力んだ高揚感に包まれた。
屋敷の外では冷たい風が吹き荒んでいるようで、窓枠の外れまいと抗う音が、静かな屋敷内に響いていた。
ミヤジがキッチンへ向かって廊下を歩いていると、かすかな物音が近くで鳴った。
鼠の足音だろうかと、足を止め振り返ったが、人の動く気配がする。天使の研究に余念がないベリアンが、まだ起きているのかもしれない。ミヤジは、ベッドを抜け出している身で言えたことではなかったが、ベリアンの体調を案じた。
キッチンへと続く食堂へ入ると、どうやら物音はキッチン内からしているようだった。十三人と一匹が暮らす屋敷内は、いつ誰がいてもおかしくはない。ミヤジはあまり深く考えることなく扉を引いた。中から漏れた蝋燭の灯りが、ミヤジの背後に細長い影を作った。
中にいたのは──。ベリアンではなかった。むしろ、ミヤジが今最も会いたくない人物だった。
おそらく中にいる彼は、既に誰かが扉を開けたことを、振り返らずとも気付いている。そしてその誰かがミヤジであることにも。
ミヤジはこの場から逃げ出すことを諦めた。
「……何、してるんだ。ルカス」
「おや。ミヤジじゃないか。こんな時間に奇遇だね」
振り返ったその人は、ミヤジが声を掛けるのを待ち望んでいたように声を弾ませた。晩酌でもしていたのだろう。ルカスの白い頬は僅かに紅潮していた。ミヤジは扉を横目にキッチン内に足を踏み入れる。浮いた足が床に触れた時、何気無く鼻から息を吸い込むと、甘酸っぱいアルコール臭が漂っていた。
酒に強いルカスは、酔いが回っているようには見えなかったが、心做しかあどけない笑顔をミヤジに向けた。ミヤジはその笑顔に、昼間のベリアンとの会話と、先程自分が見た浅ましい夢が重なって、指先を握りこんだ。
「ふふ……。眠れないの? 一緒に呑む?」
「呑まないよ。……近頃また、飲酒量が増えているんじゃないのか」
ミヤジはどうしてだか、ルカスを前にすると小言ばかりが口をつく。しかし、セラーにルカスの空けた酒瓶が、これでもかと積み上がっていることも事実ではあった。ミヤジは言葉に出さずに、これは正当な、友人への忠告なのだ、と自分に言い聞かせた。飲酒量を咎められたルカスは、ミヤジの言葉を一片も受け取っていないような声色で「ああ。気を付けるよ」と微笑んだ。
本来なら呆れたり、ルカスに対して聞いていないだろうと憤る場面なのだろうが、ミヤジはそうしなかった。握りこんだ指先の力を強めて、爪の先が掌に食い込む。そうしなければ、昼間ベリアンに話したようなことが、うっかり溢れだしそうだったからだ。
蛇口に残った水滴が、シンクに垂れ落ちる。水の弾ける音を聞いて、ミヤジは辛うじて出かかった言葉を腹の奥に収めた。
「……今日は一人なのか」
特別な意味はなかった。
ただミヤジは、ルカスの酒好きは、人と呑むことを含めての好きなのだろう、と思い聞いただけだった。真意はそればかりではなかったかもしれないが。ルカスはミヤジの問いを、訝しむでもなく頷いた。
「ああ。……ふふ。やっぱり、一緒に呑みたくなった?」
「……ならない」
「そう。残念」
その言葉が社交辞令だろうということは、ミヤジの悶々とした心に、うんざりするほどよく伝わった。けれど、ミヤジは願ってしまった。ルカスの口から発せられた言葉が、本心であればいいのに、と。ゆく宛のない願いの存在は、薄まり始めていたミヤジの罪悪感を引き戻した。
「……あまり、呑みすぎるなよ」
ミヤジの声は押し潰されて嗄れた。けれど水を飲む気にもなれず、一度部屋へ戻って出直そうと、ルカスに背を向ける。スリッパの底が床と擦れた音が、やけに大きく聞こえた。
「……君がいいな」
「は?」
ミヤジは脊髄反射に委せ振り返った。ルカスの様子は何も変わらない。ミヤジの方へ顔を向けて、笑っている。幾星霜の関わりを持ってしても、ミヤジはルカスの笑顔に隠された本心を、完全に掴むことができずにいた。今ルカスが発した言葉の意味も、向けられた笑顔の意味も、ミヤジには到底理解が及ばなかった。ミヤジの、血の巡りが悪くなった頭にあったのはただ一つ。ここはまだ、夢の世界なのではないか。その疑念だった。
ミヤジは動かすことのできなくなった体で、ルカスと向き合った。いつの間にか、窓枠の鳴る音は聞こえなくなっていた。
あまりにも都合が良すぎると、ミヤジは笑いそうになった。夢なら早く覚めてほしい。現実ならば趣味が悪すぎる。
後退るようにしてミヤジが半歩後ろへ下がった。それは本能だったのかもしれない。しかしルカスは、半歩分開いた距離を即座に縮めてきた。その表情は、仄暗くてはっきりと見えたわけではない。けれどミヤジにはなぜだか泣き出しそうに映った。
「……ほら。ここしばらくの間、君と呑んでいないだろう? 私はまた、君と呑みたいよ。ミヤジ」
そう続けられた言葉に、ミヤジは硬直した筋肉が一気に弛むのを感じた。握りしめていた拳も開かれた。そしてミヤジは力の入らなくなった肩で、ルカスから顔を背けた。
──夢の続きなど、どこにもありはしないのだ。
縋り付くような甘い声がして、ミヤジは目を屢叩く。辺りは夜闇を落とし込んだように漆黒。暗い以外の情報が入ってこないが、背中の柔らかな感触は、どうやらベッドの上のようである。薄く靄がかかった思考。考えること自体を忘れてしまったように、ミヤジはおそらく天井を見つめていた。暫くそうしてただ一点だけを見つめていると、ミヤジは次第にここが知らぬどこかではなく、地下執事室であることを思い出す。
体が重い。一体なんだと頭だけを動かして、視線を下げて、瞠目した。
「……ルカス……」
ミヤジの体に跨りながら、ルカスは妖しく笑った。彼の洋紅色の髪の毛が、暗闇の中に鮮やかに浮かび上がっていた。ミヤジは一体なぜと口を動かそうとしたが、言葉が形を成すより早く、ルカスの白皙の指先が頬を撫でた。
触れた指先の温度はわからなかった。無意識に行われる嚥下運動。滑らかな指の腹がミヤジの輪郭を沿い、掌が頬を包んだ。影の落ちた表情は目を凝らして漸く口元が見える程度だった。大袈裟なくらい、音を混じえて吐き出された吐息は、熱を孕んでいるように感じられた。
何が起きているのか、ミヤジはまるで理解が追いつかなかった。ただ、そうあることが当たり前で、これまでもずっとそうであったかのように、体は受け入れていた。ミヤジはされるがままだった。働ききらない頭で、ミヤジが薄ぼんやりとルカスを見上げていると、ゆっくりと時間をかけて、ルカスの顔が近付いてくる。顰められた眉は潤んだ月色の瞳と合わさって、切望するようにミヤジに向けられた。
「ミヤジ……。……私は、ミヤジがいい」
耳元に寄せられた唇。吐息が、言葉が、鼓膜の奥に絡みついた。腕を回そうと持ち上げかけたその時、世界が反転した。
浮き上がるような感覚と共に目を見開く。わずかに持ち上げた腕が空を掴んだ。咄嗟にルカスは、と辺りを見渡すがどこにも彼の姿はなかった。
重く清廉な香りが肺に流れ込む。よく知った香りだったが、これは一体──。そう思ったところで、ミヤジは眠りに落ちるより少し前、白檀のアロマキャンドルを灯していたことを思い出した。思い出したのとほとんど同時に、耳の奥が震えていることを自覚した。心臓が肋骨を内側から叩いた。
──また、夢か……。
瞬きすることもできずに天井を見つめる。夢の中と寸分違わぬ天井だった。呼吸を整えながら上体を起こす。ミヤジの手が小刻みに震えているのは、決して寒さのせいだけではないだろう。
震えを誤魔化そうと、ミヤジは自分一人しか乗っていないベッドで、掛けていた布団を握りしめた。
次にミヤジは、部屋の中が乾燥していたからか、喉の渇きをおぼえた。激しい鼓動は、いくらか落ち着いてきているようではあった。しかし依然として、隣で眠るラトに聞こえているのでは、と考えるほど騒がしく喚いている。
ミヤジはここしばらくの間、ルカスの夢ばかりを見た。見始めた頃は、談笑したり、酒を酌み交わしたり、不本意ではあるが共に医療係をしているだけの、日常の延長線上の夢。しかし、日を追うごとにルカスとの距離は近付き、指先が触れ、頬を寄せ、ミヤジはそれだけでも充分すぎるほど自分を責めた。あまつさえ今日は、夢の中のルカスは扇情的に、「ミヤジがいい」などと言い出した。
ミヤジはやはり自分の頭はおかしくなってしまったと、眼球の奥が鈍く痛んだ。昼間、ベリアンと話したことが思い出される。確かにミヤジは、あの場で救われた気持ちになった。ルカスに伝えてみようかという気も、僅かではあったが湧いた。けれど今、ほとんど確信に近い形で、ミヤジは抱いている想いを、ルカスに伝えることは不正解だと導き出している。
夢も、痛みも、全て無かったことにしたかった。ミヤジはベッドに潜り直すと、上下の睫毛が絡むほどきつく目を瞑った。一刻も早く、眠りに落ちることを祈りながら。
…………喉が渇きを訴え続けている。気のせいだと思い込もうとして、唾液を一度飲み込んだ。
しかし、乾燥した喉奥は、湿潤させられるのを待ち望んでいた。ミヤジはこのまま眠れないものか、と瞼に込める力を強めたが、そのせいで余計に眠気は遠ざかって行った。このまま粘り続けていても良かったが、それなら水でも飲んできた方が早く眠れるだろう。そう結論づけて目を開けた。窓のない地下のこの部屋は、夜になると手元すら見えない。
体を持ち上げながら、探り探り爪先を床につける。爪先が、ベッド脇に置いておいたスリッパを探り当てた。足を滑り入れると、長めの毛足に包まれた素足は、冷え切る前にその体温を維持した。
このスリッパは、フルーレが作ったものだった。元々は冷え性のミヤジのために、と作られたものであったが、寝る前素足で過ごすラトを気遣って贈られ、今では地下で暮らす三人は、揃って同じスリッパをベッド脇に並べ立てて眠る。そうすると、こうして暁闇に目が覚めた時などは、特に重宝した。
耳の良いラトがうっかり起きてしまわないように気を付けて、ミヤジは真鍮のハンドルを握って扉を開けた。真鍮の冷たさは、布団の中で温まっていた体温を掠め取っていく。けれどミヤジはその冷たさに心地良さを感じた。夢見が悪かったせいで、火照ったような、悪寒がするような、ミヤジの奇妙な体温を正常に均す手助けをしていたからだ。
夢は所詮夢だ。ミヤジは地上へ向かう階段を踏みしめる度、力んだ高揚感に包まれた。
屋敷の外では冷たい風が吹き荒んでいるようで、窓枠の外れまいと抗う音が、静かな屋敷内に響いていた。
ミヤジがキッチンへ向かって廊下を歩いていると、かすかな物音が近くで鳴った。
鼠の足音だろうかと、足を止め振り返ったが、人の動く気配がする。天使の研究に余念がないベリアンが、まだ起きているのかもしれない。ミヤジは、ベッドを抜け出している身で言えたことではなかったが、ベリアンの体調を案じた。
キッチンへと続く食堂へ入ると、どうやら物音はキッチン内からしているようだった。十三人と一匹が暮らす屋敷内は、いつ誰がいてもおかしくはない。ミヤジはあまり深く考えることなく扉を引いた。中から漏れた蝋燭の灯りが、ミヤジの背後に細長い影を作った。
中にいたのは──。ベリアンではなかった。むしろ、ミヤジが今最も会いたくない人物だった。
おそらく中にいる彼は、既に誰かが扉を開けたことを、振り返らずとも気付いている。そしてその誰かがミヤジであることにも。
ミヤジはこの場から逃げ出すことを諦めた。
「……何、してるんだ。ルカス」
「おや。ミヤジじゃないか。こんな時間に奇遇だね」
振り返ったその人は、ミヤジが声を掛けるのを待ち望んでいたように声を弾ませた。晩酌でもしていたのだろう。ルカスの白い頬は僅かに紅潮していた。ミヤジは扉を横目にキッチン内に足を踏み入れる。浮いた足が床に触れた時、何気無く鼻から息を吸い込むと、甘酸っぱいアルコール臭が漂っていた。
酒に強いルカスは、酔いが回っているようには見えなかったが、心做しかあどけない笑顔をミヤジに向けた。ミヤジはその笑顔に、昼間のベリアンとの会話と、先程自分が見た浅ましい夢が重なって、指先を握りこんだ。
「ふふ……。眠れないの? 一緒に呑む?」
「呑まないよ。……近頃また、飲酒量が増えているんじゃないのか」
ミヤジはどうしてだか、ルカスを前にすると小言ばかりが口をつく。しかし、セラーにルカスの空けた酒瓶が、これでもかと積み上がっていることも事実ではあった。ミヤジは言葉に出さずに、これは正当な、友人への忠告なのだ、と自分に言い聞かせた。飲酒量を咎められたルカスは、ミヤジの言葉を一片も受け取っていないような声色で「ああ。気を付けるよ」と微笑んだ。
本来なら呆れたり、ルカスに対して聞いていないだろうと憤る場面なのだろうが、ミヤジはそうしなかった。握りこんだ指先の力を強めて、爪の先が掌に食い込む。そうしなければ、昼間ベリアンに話したようなことが、うっかり溢れだしそうだったからだ。
蛇口に残った水滴が、シンクに垂れ落ちる。水の弾ける音を聞いて、ミヤジは辛うじて出かかった言葉を腹の奥に収めた。
「……今日は一人なのか」
特別な意味はなかった。
ただミヤジは、ルカスの酒好きは、人と呑むことを含めての好きなのだろう、と思い聞いただけだった。真意はそればかりではなかったかもしれないが。ルカスはミヤジの問いを、訝しむでもなく頷いた。
「ああ。……ふふ。やっぱり、一緒に呑みたくなった?」
「……ならない」
「そう。残念」
その言葉が社交辞令だろうということは、ミヤジの悶々とした心に、うんざりするほどよく伝わった。けれど、ミヤジは願ってしまった。ルカスの口から発せられた言葉が、本心であればいいのに、と。ゆく宛のない願いの存在は、薄まり始めていたミヤジの罪悪感を引き戻した。
「……あまり、呑みすぎるなよ」
ミヤジの声は押し潰されて嗄れた。けれど水を飲む気にもなれず、一度部屋へ戻って出直そうと、ルカスに背を向ける。スリッパの底が床と擦れた音が、やけに大きく聞こえた。
「……君がいいな」
「は?」
ミヤジは脊髄反射に委せ振り返った。ルカスの様子は何も変わらない。ミヤジの方へ顔を向けて、笑っている。幾星霜の関わりを持ってしても、ミヤジはルカスの笑顔に隠された本心を、完全に掴むことができずにいた。今ルカスが発した言葉の意味も、向けられた笑顔の意味も、ミヤジには到底理解が及ばなかった。ミヤジの、血の巡りが悪くなった頭にあったのはただ一つ。ここはまだ、夢の世界なのではないか。その疑念だった。
ミヤジは動かすことのできなくなった体で、ルカスと向き合った。いつの間にか、窓枠の鳴る音は聞こえなくなっていた。
あまりにも都合が良すぎると、ミヤジは笑いそうになった。夢なら早く覚めてほしい。現実ならば趣味が悪すぎる。
後退るようにしてミヤジが半歩後ろへ下がった。それは本能だったのかもしれない。しかしルカスは、半歩分開いた距離を即座に縮めてきた。その表情は、仄暗くてはっきりと見えたわけではない。けれどミヤジにはなぜだか泣き出しそうに映った。
「……ほら。ここしばらくの間、君と呑んでいないだろう? 私はまた、君と呑みたいよ。ミヤジ」
そう続けられた言葉に、ミヤジは硬直した筋肉が一気に弛むのを感じた。握りしめていた拳も開かれた。そしてミヤジは力の入らなくなった肩で、ルカスから顔を背けた。
──夢の続きなど、どこにもありはしないのだ。