短編

 鶏鳴の頃。いつものように同室のラムリ・ベネットの明るい声に、夢の世界へと沈み込んだ意識が現実へと引き戻される。
布団の外はまだ薄暗く、冬の訪れはもうすぐそこだとでも言いたげな空気が頬を冷やす。
寒さに負けて頭まで布団を被り直すと、起きてと布団ごとゆさゆさ体を揺すられた。
時間の許す限り布団の温もりに包まれていたくて、知らん顔を決め込んでいると

「今日は午前中にグロバナー家で会議があるんですよね?起きてください」

 と言われて渋々布団から顔を出す。
重い瞼を持ち上げると、花が咲いたようなラムリの笑顔が飛び込んでくる。
明朗快活な彼の笑顔は、働かない頭に真っ直ぐ飛び込んできて、このまま籠っていたいという思いごと吹き飛ばしてくれる。

「目が覚めましたか?おはようございます。ルカス様」
「おはよう……いつもありがとう。ラムリくん」

 寒さに体を震わせながらベッドを出ると、ラムリが何やらにまにまとこちらを見ている。
よくよく見れば後ろ手に何か隠し持っているらしい。
 ──何か見せたいものがあるのだろう。
小さな子供のような純真さに眩しさを感じて口元が緩む。
何を隠しているのか聞こうかと思ったが、ラムリの出方を伺った方がいいかと何も気付いていない振りをすることにした。
 いつになくもじもじと言葉を発することを躊躇うラムリを尻目に、天井に向かって思いきり体を伸ばす。
ややあって少し表情を硬くしながら名前を呼ばれて、やっと呼ばれた、とつい食い気味に返事をしてしまう。
しかし後に続く言葉はまったく予想していなかった言葉だった。

「ルカス様、お誕生日おめでとうございます!」
「え……っ?誕生日……?」

 これどうぞ、と渡されたのは黄色のガーベラで作られた小さな花束。
薄暗い部屋の中でもラムリの笑顔と同じくらい目に鮮やかな黄色。
思いがけない言葉とプレゼントに、微かに残っていた眠気は彼方へ飛んで行った。
 差し出された小さな花束を、訳が分からないまま礼を言って受け取る。
渡したことで緊張が解れたのか、ラムリは呆れ半分といった顔で笑った。

「もう、お仕事が忙しくて忘れちゃったんですか?今日はルカス様のお誕生日ですよ」
「そっか……私今日、誕生日だったんだ……。ありがとう、ラムリくん。すごく嬉しいよ」
「えへへ……。この間、ローズくんが黄色のガーベラには究極愛って花言葉があるって教えてくれて。絶対絶対ルカス様にあげたかったんです」
「ふふ、ありがとう。本当に嬉しい。目もすっかり覚めたよ」

 頬を染めて喜ぶラムリに釣られて全身が温かくなった。
花束に鼻を埋めるとほんの微かに甘い匂いがした気がする。
知らないうちにこっそりと準備を進めていたラムリが朝の一番から祝ってくれた、その気持ちへの感謝から香ったものかもしれない。
充分に花を堪能しているとラムリが少し控えめに

「ボク、ルカス様のお誕生日を一番最初に祝えましたか?」

 なんて随分可愛らしいことを聞いてくるものだから、堪らず細い背中を摩る。
本当は頭をわしわしと撫でくりまわしたいところだけれど、既にセットされている彼の髪の毛を乱してはいけないとやめた。
 ああ、今日はなんて素敵な朝なんだろう。
目が覚めてすぐはいつも布団に戻ることしか考えられないというのに、こんな幸せな気持ちで朝を迎えることができるなんて。
憂鬱な会議もいつも以上にうまくこなせる気がする。
この気持ちをくれたラムリの思いやりこそが最高のプレゼントだと伝えると、満面の笑みを浮かべて着替えに行こうと手を引かれる。
 すっかり明るくなった心でいつもの様に燕尾服に袖を通す。
代わり映えのない服だって、重苦しい黒のローブだって、今日はすべてが新品のように清々しい。
今日は特別な日ですから、と髪の毛をいじるラムリの声は弾んでいて、自分自身よりもよほど嬉しそうで、それがまた心を柔らかくした。

「はい。できましたよ」
「ありがとう。助かるよ」

 そう言って鏡の中の自分に顔を向けると、いつもの一つ結び……ではなく、結び目の上に器用に編まれた細い三つ編みがハート型に整えられている。
グロバナー家の会議があるのにこの浮かれた髪型はさすがにちょっと、と思っているとそれを察してか今日は特別な日ですから、ともう一度言った。

「それに、ローブを着ちゃえば分かりませんって」
「それは……まあ、そうだけれど……」
「僕のルカス様への気持ちなんです。受け取ってもらえませんか?」

 子犬のように揺れる大きな瞳に、折角の好意を無下にはできず、そのまま一日過ごす覚悟を決めた。
 朝食を取りに食堂へ向かうと、すれ違った執事達、先に食堂にいた執事達が例外なく誕生日を祝う言葉をかけてくる。
プレゼントだと渡されたメモ帳や本、ワイン等を受け取っていたら、すぐに両手がいっぱいになった。
数え切れないほどの祝福に漸く、今日が自分の誕生日なのだと実感が湧いてくる。
 悪魔執事になってもう二千年以上。
誕生日を迎えても毎年変わることのない姿に、年齢を数えることをやめてしまったのは、一体いつの頃からだっただろうか。
その止めてしまったままの時間が、この屋敷が新しい主を迎えてから少しずつ動き出したような気がする。
そのうちまた、誕生日を迎えるその日を楽しみに思う日もそう遠くないのだろうか。
 会議を控えていたため、朝食は簡単に済ませてしまいたくて、他の執事達の朝食とは別でハムと卵のサンドウィッチを作ってもらった。
受け取った贈り物の数々を一度部屋に置いてから会議室で持っていく資料の整理をする。
 ひと通り資料を纏め終えて、作ってもらったサンドウィッチを食べていると、コンコンと会議室の扉をノックされた。
返事を投げかけるとすぐに扉が開いてベリアン・クライアンが入ってくる。

「おはようございます。ルカスさん」
「おはよう。ベリアン」

 ベリアンが纏められた資料に目を向けて、いつもありがとうと改まって言う。
屋敷の交渉係として当たり前のことなのだと伝えると、それでも、と再び感謝の言葉を言われて少し気恥しくなってしまう。
お互いにいやいや、ベリアンこそ、ルカスさんこそ、と終わり所の無いやり取りを続けていると、ベリアンがふ、と笑う。

「私達、いつもこんな話ばかりしていますね」
「うん。でも、本当にベリアンには感謝しているから……」
「私も同じ気持ちなのですよ、ルカスさん。……そんな日頃の伝えきれない感謝を形にしたくて、ささやかではありますがお誕生日プレゼントを用意させていただいているんです」
「えっ、本当に?……なんだか悪いよ。みんなすごく祝ってくれるから……」

 当の本人はラムリに言われるまで誕生日だなんてすっかり忘れていたというのに。
若干の申し訳なさを感じて頬を掻く。
 屋敷の面々が口々に祝ってくれることは心底ありがたいと思っていた。
けれど向けられる思いは身に余る程に大きくて、受け止めきれているか、果たして自分はこんな風に沢山の祝福を受けていいような人間だっただろうかと、つい考えすぎてしまう。
 考え込みすぎて難しい顔をしていたのだろう。
ベリアンが年に一度の誕生日なのだからぜひ受け取ってほしい、と微笑んだ。
その言葉も微笑みも、どうにもこそばゆくて堪らない。
今日言われた中で一番くすぐったく感じたかもしれない。
こうして面と向かって長年付き合いのある友人に祝われるのは、何度経験しても特に照れ臭く、ほんのちょっぴり言わせてしまっているのでは、と引け目を感じてしまう。
 ただありがとうと受け取ればいいだけの思いに、ここまで頭を悩ませてしまうのは、元からの性格もあるだろうが、結局のところ気恥しいからなのだ。
まるで過去の自分ごと祝福されているようで。
 
「……ルカスさんが好きなお店のパウンドケーキを取り寄せたんですよ。きっと会議が終わって帰ってくる頃には届いていると思いますから、一緒にお茶会をしましょうね」
「……ありがとう。ベリアン。本当に、ありがとう」
「いえいえ。私達の仲じゃありませんか」

 柄にもなく目頭が熱くなってくる。
涙が滲んで零れてしまわないように、滲んだ視界を誤魔化してとびきりの笑顔を作った。
 こんなにも思ってくれる人がいる今の自分を、過去の自分が見たらなんと思うだろう。
弱さでしかないと思うだろうか。
甘い考えだと鼻で笑うだろうか。
それとも、当然のように祝福されている姿をほんの一ミリ程であったとしても、羨ましく思うだろうか。
 斜に構えて物事を見ていた過去の自分に思いを馳せながら黒いローブを着込む。
念の為ベリアンにハート型に整えられた髪の毛はきちんと隠れているか確認をすると

「ええ。大丈夫ですよ。……まるで、この屋敷で暮らす私達しか知り得ない、秘めやかな想いのようですね」

 と笑われる。
予期しなかった糖分高めの甘い言葉に顔が熱を持つ。
いい歳の大人をからかわないでとぱたぱた顔を扇いでいると、その様子を見て慈しむような笑顔を向けられた。
 そろそろ出立の時間だとベリアンと別れてエントランスへ向かっている途中、ミヤジ・オルディアに会った。
いつもの調子で歩いてくる姿に特別用も無いのに駆け寄った。

「おはよう。ミヤジ」
「ルカス。おはよう」
「これから会議なんだ」
「そうか」

 それじゃあ、と言って歩き出したミヤジの背中を見送る。
たったこれだけの会話が嬉しかった。
嬉しかった、けれど──やはりミヤジは自分の誕生日なんぞに興味は無いよな、と少し残念な気持ちになる。
ベリアンに対してはあんなにも引け目を感じていたというのに、ミヤジに対しては随分と図々しい事を考えたものだと自嘲する。
 ミヤジが他の執事達と同じように、自分の誕生日を祝ってくれるなんてことは最初から期待していなかった。
──いや、正直な気持ちを言うと僅かな期待はあった。
それは単なる願望でもあったから、仕方ないかとすぐに諦めることができたけれど、彼に対しては色々なことを欲深く求めてしまう自分がいる。
 それはミヤジとの関係が恋人関係にあったことも大きいと思う。
とは言っても、恋人同士になってまだほんの三ヶ月程度しか経っていない。
 ──ミヤジとの関係に変化が見られたのは八月某日。
仕事に行き詰まって気分転換に湖に散歩に出た時のこと。
まだ辺りは焦げ付きそうなくらいに暑くて、虫達のさざめきをバックグラウンドミュージックに歩いていた。
暑くて汗もだらだら垂れてきて、散歩に出たことを強く後悔した。
このまま体中の水分が抜けきって干からびてしまいそうだと思いながら、涼を求めて湖畔を歩いていると丁度釣りをしていたミヤジを見つけた。
歩くことに疲れていたこともあって、返事を待たずに隣に座り込んで垂らされた釣り糸を眺める。
当たり障りなくはるか昔の話をしたり、ここ最近の屋敷や執事達や主の様子を話したりしながらミヤジを見た。
ミヤジは短い相槌を繰り返しながら、ただじっと湖に目を向けていて、その横顔が水面に反射した光を受けて、睫毛の一本まできらきら輝いていて、とても美しいと思った。
 ミヤジの事を好きだと初めて自覚したのは一体いつの事だったかもう忘れてしまった。
忘れてしまう程あまりにも長い年月彼に惹かれ続けていて、ただそれは自分の中だけにしまっておくべき感情だと判断し、特に表立ってその好意を彼に向けることはなかった。
けれどその時は茹だるような夏の暑さのせいだろう。
鈍りきった思考の中で、彼の肩に頭を寄せてしまった。
すぐに拒まれると思っていたけれど、意外にもミヤジは拒むことをしなかった。
それをいい事にミヤジの肩を借りて目を閉じると、風の音や水の音、木々の葉が触れる音、虫の声、鳥の羽ばたき。
様々な自然の音に包まれて、散歩に出て良かったかもなんて単純なことを思った。
 そうやってしばらくの間お互い口も開かずに、時折何の反応もない釣り糸を眺めて過ごした。
待っていても一向に何もかからないものだから、釣れないねと言って寄せていた頭を離した。
いつまでもここにいられるのも嫌だろう。
先に帰ろう、と立ち上がろうとしたら不意に体を抱き寄せられて、風の音にかき消されてしまいそうなほど小さな声で好きだと言われた。
 嘘か冗談か、別の言葉を聞き間違えたのだろう。
ミヤジが自分の事を好きだというはずがない。
確認して笑い飛ばしてしまおうとミヤジの顔を見ると、今までに見た事がないくらい耳の先まで真っ赤に染めていて、私も君が好き、なんてまるでよくできたラブストーリーの台詞みたいなことをうっかり言ってしまった。
 その日から二人は恋人関係にある──と思う。
思うというのはこの三ヶ月の間、手を繋ぐことも、キスをすることも、肌を重ねることもしなかった。
二人きりで愛を囁き合うかと言えばそんな事もなく、先程のように顔を合わせた時に必ず挨拶をするくらいでしか関わりもなく、日々は忙しなく過ぎていた。
何度かやはり自分の思い違いだったのではとミヤジに確認をしに行ったが、思い違いではないと言われるばかりで、関係がそれ以上進むようなイベントは特別起きなかった。
もしかするとミヤジの言った好き、と自分の中に沸き起こっている好き、は違う形なのかもしれない。
 だから今日、ミヤジが誕生日を祝ってくれなくともそこまで大きなダメージはない。
自分とミヤジの関係はそういうものなのだと納得できる。
──それでも、当然寂しくはあるが。
 会議の為にグロバナー家の本邸へ出向くと、懇意にさせてもらっている貴族から誕生日を祝う言葉をかけられた。
一執事の誕生日なんぞ知っているのは屋敷内の人間だけだろうと思っていたから驚いて目をぱちぱち瞬かせた。
一体どこで、と問えば関わりのある者の誕生日くらいは知っているものさ、と笑われて結局情報の出処は分からずじまいだった。
 会議自体はなんの滞りもなく終わった。
会議だなんだと集められても、毎回話すことに大差はない気もする。
荷物をまとめてさて帰ろうと歩き始めると、後ろからフィンレイに呼び止められた。
何事かあったのだろうか、と足を止めて振り返ると、にやりと悪戯ぽい笑みを携えたフィンレイがゆっくり歩いてくる。
面倒な任務の依頼でもなければいいけれど。
溜息を零しそうになって、いけないと飲み込んだ。
 目の前まで来ると、先の会議でも話したはずだけれど、最近のデビルズパレスはどうか、ここ最近変わりはないか、などと世間話から始まった。
大きな不備はない旨を伝えるとうんうん頷いて、ところでと本題を切り出した。

「──今日は君の誕生日だそうだな」
「光栄なことに先程他の方にも祝っていただいたのですが、私の誕生日なんてどのようなきっかけでお聞きになったのでしょう?」
「何。又聞きしただけの事だよ」

 その又聞きの大元を教えて欲しいんだけれど──と納得がいかなかったけれど、あまり深掘りしても良くないかと諦めることにした。
そう言えば大分前にとある貴族令嬢に誕生日はいつかと聞かれて答えたような気もする。
その話が巡り巡って、こうして一部の人間の間に知れているのだろうか。
その貴族令嬢は今日の会議には来ていないようだから確認のしようがないけれど。
 フィンレイは手に持っていた長方形の物体を差し出した。
長方形は黒の包装紙に包まれていて、飾り付けられた金色のリボンが高級感を醸し出している。
話の流れからすると贈り物であることに間違いはないのだろうが、相手はグロバナー家の当主である。
差し出されたからと言って、勇み足になって受け取ってしまう訳にもいかない。
まずはこの長方形が一体何なのか確認しなければ。

「フィンレイ様、こちらは一体……」
「君の誕生日祝いだ。日頃依頼等で世話になっている、その礼だとでも思って受け取ってくれればいい」
「ですが……」
「ルカス」

 フィンレイとは彼がまだおしめをしていた頃からの付き合いになる。
その為彼をいつまでも可愛らしい坊やのように思っている面があるけれど、彼は立派にグロバナー家を、この中央の大地を取り仕切っている。
そんな相手からの贈り物など、執事の、それも多くの人々から忌み嫌われている悪魔執事の身分で、ハイと受け取っていいものだろうかと考えて、なんとか体良く断ろうと思った。
彼の気持ちを無駄にしないようにフォローすることも考えて。
けれどフィンレイは窘めて、受け取れとその長方形を押し付けてくる。
 ここまでさせておいて断り続けるわけにもいかず、遂には手に握ることになった。
渡された物は予想していたより重さはなかった。
けれど、これを寄越した相手がフィンレイだというだけでずっしりと重厚感があるように感じられた。

「あの、フィンレイ様……」
「開けてみてくれ」
「……はい」

 やはり受け取れないと言い出したかったけれど、フィンレイに先を越された。
フィンレイが自分の誕生日に贈り物を用意してくれていた嬉しさよりも、本当に受け取ってしまって良かったのだろうかとぐるぐる考えながら、包装紙を破かないようにゆっくり開いた。
中には箱が入っていて、その箱も開けるとネクタイが一本。
深いネイビー地にブラウンでアラベスク模様があしらわれた物だった。
決して安物でないことはひと目でわかる。
 恐縮しきってフィンレイを見ると満足そうにうん、と綺麗に微笑んでいる。

「あの、本当に受け取ってしまって良いのでしょうか」
「私が君にと用意したものだ。受け取ってくれないと困る」
「……お心遣い痛み入ります」
「ああ。君さえ良ければ存分に使ってくれ」

 普段のことであればフィンレイが何かと配慮をしてくれたり、贈り物をしてくれたりしても、その心配りを折角だから有難く受け取ってしまおうと思えた。
そういったやり取りが多少は許される間柄でもあるとも思っていた。
しかし今日はわざわざ誕生日だからと特別に用意されている。
自分の為だけにそこまでしてもらうことへの申し訳なさを未だ抱え込んで、何度も感謝の言葉を伝えた。
 存分に使ってくれとフィンレイは言ったけれど、当分の間は箱に入れたまま大切に保管しておこうと心に決めて帰路に着く。
 屋敷に帰るとベリアンが昼間約束していたお茶会の用意をして待っていた。
先に着替えてくると伝えて自室へ行く。
すると朝の時点ではいつも通り散らかり放題荒れ放題だった机の上がすっかり片付いていた。
机の片隅には朝ラムリからもらった黄色のガーベラが活けてあったけれど、いつの間にやらピンクのガーベラが加えられている。
花瓶の前にはメモ書きが置かれていて

「ルカスさんへ。お誕生日おめでとうございます。既にご存知のこととは思いますがピンクのガーベラには感謝、崇高美といった花言葉があります。贈り物がラムリと被ってしまったことは誠に不本意です。ですが日頃お世話になっている、気高く美しいルカスさんに感謝を込めて。ナック・シュタイン」

 と書かれていた。
二色になったガーベラに、同室の二人を思い浮かべて嬉しさと微笑ましさから思わず笑えてきてしまった。
プレゼントの内容が被ることはあることだろうけれど、日頃言い合いばかりしている二人が、自分を思って用意した贈り物が同じものだなんて。
なんて仲睦まじく可愛らしいのだろう。
そんな事を口にすればまた、仲良くはないだの、贈り物を変えろだのと言い合いが始まってしまうことが目に見えているから、決して言わないけれど。
 鼻歌混じりにローブを脱いで、書類を片付けて、フィンレイから受け取ったネクタイの箱は潰してしまわないよう棚の端の方に置いた。
 今日だけで随分多くの物をもらった。
有難いと思いながらもどこか引け目を感じている自分より、祝っている周りの方が余程嬉しそうだった。
 悪魔執事になってから、こんなにもたくさんの柔らかな笑顔に触れた日があっただろうか。
もしかすると忙しい日々に追われて、目を向けられていなかっただけなのかもしれない。
冷淡さ故に孤独だった自分の周りには、気が付けば多くの人がいて、誕生日を迎えたことをこんなにも祝福してくれている。
 過去には人との関わり方を学び直せと言われたことがあった。
その言葉がずっと胸に引っかかり続けていた。
そして意固地になっていた自分に学び直すきっかけをくれたのは、他の誰でもないベリアンだった。
長い長い年月を重ねて、笑い方、話し方、言葉の使い方、振る舞い方を学んだ。
初めは上手くいかずに何度も失敗をしたし、相手を怒らせることも少なくなかった。
それでもベリアンは根気強く向き合い続けてくれた。
人は変わらないものだと突き放して諦めることを決してしなかった。
 その日々のお陰で今日この日の抱えきれない幸せがある。
努力を続けたのは確かに自分の力だ。
けれど、向き合い続けてくれる友がいなければその努力も長く続かなかったかもしれない。

「お待たせ。ベリアン」
「お疲れ様です。ルカスさん」

 コンサバトリーへ行くとまるで今来ることが予想されていたかのように淹れたての紅茶と、スライス林檎の乗ったパウンドケーキが用意されていた。
こちらへ、と促されて引かれた椅子に腰掛けるとテーブルを挟んだ向かい側にベリアンが座る。
穏やかな午後の陽射しが暖かかった。
ベリアンがゆったりと微笑みながらどうぞと紅茶を目の前に置いてくれる。
礼を言って口をつけるとディンブラの甘い香りが鼻に抜ける。

「会議お疲れ様でした。それから、改めてお誕生日おめでとうございます」
「ふふ、ありがとう。ベリアンの淹れてくれる紅茶はいつも美味しいな」
「ルカスさんに喜んでいただけて私も嬉しいです。こちらもご一緒にどうぞ。──種類がたくさんあったので迷いましたが、旬の林檎を使ったものを選んでみました」

 切り分けられたパウンドケーキを口に含むと林檎の爽やかな香りが快い。
程よい甘さが会議終わりの疲れた頭に染み渡る。
食べ終えてしまうことを惜しく感じながら、あっという間に皿に乗っていた一切れを胃の中に収めてしまう。
その様子をベリアンは慈愛に満ちた眼差しで見つめていた。
自分よりも年下──とは言っても生きている年数は彼の方が上だが──の彼が、小さな子供でも見ているようにうっとり微笑んでいることに恥ずかしさを覚えてベリアンも食べてよ、と彼の分を切り分けて渡す。

「ありがとう、ベリアン。すごく美味しい。多分、今まで食べた中で一番美味しい」
「そんな風に言っていただけて嬉しいです。私も、今まで食べた中で一番美味しいです」

 顔を見合せて笑い合う。
こうして掛け替えない友人と時間を共有して、笑い合える幸せ。
この穏やかな時間が永遠に続けばいい。
穏やかで、柔らかで、完成されきった時の中に身を置いていたら、ふと、いつまでこの幸せは続くのだろうかと怖くなってくる。
医者という仕事柄もあるだろう。
常に天使と命を懸けて戦い、また、戦っている仲間達を、命を落とした仲間達を、すぐ傍らで見てきているからだろう。
 時折幸せであることが堪らなく怖くなってしまう。
皆が向けてくれた好意の数々を、両手放しで受け止めきれていないことも、結局はそこに行き着くような気がした。
怖いのだ。失うことが。
今がこんなにも幸せで、でも明日は分からない。
明日どころか一瞬先だって分からない。
その事が堪らなく怖い。
 じっとティーカップの中の紅茶を見つめていると、ベリアンにどうかしましたかと声を掛けられる。
慌てて何でもないと言って、紅茶に口を付けた。
けれどつい今さっきまであんなにも幸せを含んでいた紅茶からは、何の味も感じられなかった。
忙しい中時間を作って祝ってくれているベリアンに申し訳が立たなくて、今浮かない顔をしていないだろうかと不安に思いながら、それでも全力でお茶会を楽しんだ。
 ──結局その後沈んだ気持ちは浮かんでこなかった。
夕食を食べる時、昼間顔を合わせなかった執事達も誕生日を祝ってくれた。
今夜は晩酌をしようと誘ってくれる者もいたけれど、こんな気持ちのままでは誘いを受けることができなくて丁重に断った。
 一人で風呂に入りながら、今日一日の幸せを振り返る。
こんなにも多くの人が祝ってくれて、どこからどう見ても幸せ者以外の何者でもないというのに、その幸せが怖いだなんて、あまりにも贅沢で誰にも言えやしなかった。
いっその事怖いとワンワン泣いてしまえれば良かったのだろうけれど、それすらも出来ずに体に覆い被さってくる恐怖にただ身を潜めた。
もうすぐそこまで来ている。どす黒くて巨大に膨れ上がった恐怖の化身が。
 湯船に浸かっているはずなのに、襲い来る恐怖に体を強ばらせてぶるぶる震えた。
これまでにもたまにこういう事があった。
今日と同じように幸せを噛み締めている最中に、それは今だけの事だと、すぐに失われるものなのだと耳元で囁かれる。
大抵の場合は眠って、朝を迎えれば暗い夜とともに星の彼方へ飛んでいって、そのうちに消えてしまうものだった。
もしくはじっと数日の間、その恐怖に気付かれないよう、飲み込まれないよう大人しくしていれば、そのうちに巨大な恐怖は蟻よりさらに小さくなった。
だから今回も大丈夫。
きっと身に余る幸福に少し怯えてしまっただけのこと。
 大丈夫と自分に言い聞かせていたら、いつになく長風呂をしてしまった。
眠ってしまっているのではと心配して様子を見に来たラムリと共に部屋へ戻る。
今日は幸せな気持ちだけを抱きしめて眠りたくて、ベッドに横たわりながら机の上の花瓶を見つめていると、夜の見回りに行ったはずのナックが部屋へ戻ってきた。

「ルカスさん、伝言です。ミヤジさんが見張り台でお待ちしているそうですよ」
「ミヤジが?」
「ええ。今しがたそこですれ違いまして」
「ありがとう。……なんだろう。そこまで来ていたなら、私に直接声を掛ければいいのにね」

 ぼやきながら体を起こすとナックは苦笑しながら部屋を出て行った。
ああもう今日は寝てしまいたいというのに。
微かに痛み始めたこめかみを指で押しながら見張り台へと向かう。
ざわざわ這いずり回る恐怖心のせいか、頭痛のせいか、はたまた元来の性格かは分からないけれど、階段を踏みしめながら別れ話かな、とひねくれたことを考えた。
 夜の見張り台はあまりに寒かった。
カーディガンだけは羽織って出てきたけれど、ピゥピゥ吹く秋風の前では何の意味も成していない。
体を抱くようにしながら前を見ると、自分よりはるかに寒さに身を震わせているミヤジがいた。
中に入らないかと声をかけると、二つ返事で歩いてくる。
 この場所を選んだということは周りには聞かれたくない話なのだろうと思い、会議室へ向かう。
会議室の中も相当に冷えきっていたけれど、風がないだけで随分暖かく感じた。
椅子に座って漸く寒さに詰めていた息を吐き出す。
隣同士の席に腰掛けていると、思いが通じあってから初めて恋人のような事をしているかも、と早とちりした心臓が少し煩くなった。

「はあ。寒かった」
「……すまない。あんなに風が強いと思わなかった」
「別に構わないよ。ミヤジのせいじゃない。それで──私に何か用?」

 ミヤジは口を開きかけて、閉じて、また開きかけて、また閉じた。
やっぱり別れ話かもしれないと覚悟を決めて、ミヤジが話し出すのを待つ。
しばらく互いに何も発さないまま時間が流れた。
あまりの静寂ぶりに欠伸が出てしまう。
いつもなら小言のひとつでも飛んできそうなものだけれど、この日のミヤジは何も言わなかった。
もしかして何か悩み事でもあるのかと思い、ただひたすらにミヤジが言葉を発するのを待った。
 ミヤジは時折悩むような素振りを見せたり、違う、と呟いたりしていたけれど、大きく息を吐き出して漸く口を開いた。

「ルカス」
「なに?ミヤジ」
「……私はお前とは違って口が上手くないから、今もどうやって言葉を選んだら分からずにいる。けれど、最後まで聞いてくれると助かる」
「うん。聞くよ。聞くから、話してくれないか」

 こんな前置きまでして、一体何を言われるのだろうか。
もしかすると先程小言が飛んでこなかったのは、これから長いお説教が始まるのかもしれないと少しだけ身構えた。
ミヤジは眉間に皺を寄せてあーとかうーんとか言いながら、次に適切な言葉を探しているようだった。
いつもの様にズケズケと物を言ってくれて構わないのに、今日は一体どうしてしまったのだろう。
そんなにも言いづらいことはなんだろうかと色々予想を立てようとしたけれど、これと言って答えらしい答えは見つからなかった。

「ルカス、私は、その、──お前の事が好き、だ」
「うん。私もミヤジが好きだよ」
「……お前に、触れたいと思う。し、同時に大切にしたいとも思う」
「うん」

 全く触れ合うことなく三ヶ月も過ぎているけれど、そんな風に思っていたんだとミヤジの胸の内を聞けたことに嬉しくなる。
ぽつぽつ話すミヤジは体ばっかり大きくて、頼りなげで、こちらの方が大切にしてやりたいと思っているよと言ってやりたくなった。

「しかし、……怖いんだ」
「怖い?何が?」
「お前が私を好きだと言ってくれることが。私にとってあまりに大きすぎる幸福のようで。この気持ちを噛み締めてしまったら、途端に失ってしまうのではと怖くなる」

 そう言って足の上に置かれた拳を握った。
ミヤジはいかにも一大決心という感じで話し始めたけれど、なんだ、先程までの自分と全く同じではないかと吹き出してしまいそうになる。
笑ってしまえば気を悪くするだろう。
だから笑わずに、強く握りしめられた拳に手を添えた。
同じ恐怖を抱えた情けのない男がもう一人、ここにいるぞと伝えたかった。
 ミヤジの手が血が通ってないのかと思うほど冷たいのは、きっと夜風にあたっていたからという理由だけではない。
恐怖に飲み込まれてしまいそうになる身体を必死で支えて、なんとか踏ん張っている。
そんな状況でこの三ヶ月触れることをしなかったのは恐怖からなのだと、散々言葉を選んで一生懸命伝えてくる。

「ミヤジ、私もね、怖かったんだ」
「……お前も?」
「ああ。──今日、私の誕生日だからとたくさんの人が祝ってくれた。プレゼントもたくさんもらった。とても有難かったし、嬉しかった。けれど、私は自分の事を果たしてその祝福に値するだけの人間であるだろうかと思ってしまう。……なぜそんな引け目を感じてしまうのか一日を通して考えてみた。詰まるところ、私は今のこの幸せを失うのがたまらなく恐ろしいのだと気付いたんだ」

 いい歳の大人が情けない話だけれどね。
そう言って笑うと、ミヤジはふうとひと息吐いた。
張り詰めていた緊張の糸が緩んだように、どこかスッキリとして、安堵感に満ちた表情で。
繰り返しそうか、と小さく呟くミヤジの空色の瞳が、蝋燭の薄明かりの中できらきら光った。
もしかしたら少し泣いていたのかもしれない。
もしそうであるのなら、見られたくないだろうと思い、視線を逸らす。
窓の外には星と月が眩むほど輝いていて、強い風に吹かれた夜雲がぐんぐん流れて行った。
 頭の中にある細々とした理屈や、依然背後に控えている恐怖心をすべて空っぽなものにしたくて、窓の外をぼうっと眺めていると、添えていただけの手が遠慮がちに握られた。
ゆっくりとミヤジに顔を向けると、先程までの自分と同じように窓の外を眺めていた。
心の中を覗き込めやしないから、何を考えてそうしているのかは分からないけれど、同じ気持ちなのではと推察する。
 ゆるく手を握り返して、また窓の外を眺める。
一体後何度こんな夜があるだろう。
一人で過ごすにはあまりにも長くて、寄る辺がなくて、一瞬油断をすると飲み込まれてしまいそうになる漆黒の夜を、後何度繰り返すだろう。
その度に身を寄せ合って、ここに存在していても良いのだと確認し合っていけるだろうか。
それともどれだけ自分達の存在を認めあったとしても、その愛を受け止めきれずに突き返してしまいたくなったり、手放してしまいたくなったりしながら、吹きすさぶ風が過ぎ去るのをじっと耐え忍ぶのだろうか。
 今繋がっている手の温もりだけが確かで、この手を離してしまえばもう二度とこの場所には居られないような気さえして、離すことが怖くなって、ミヤジの手を指先で撫でた。

「ルカス」
「なに?」
「……触れていいか」
「……いいよ」

 視線を外の景色から互いに移す。
今にも泣き出してしまいそうな顔をしているのはお互い様なのだろう。
繋いでいない方の腕が伸びてきて、何度も頬を撫でた。
ここに今生きていることを確かめるように、何度も何度も輪郭をなぞった。
 同じように確かめたくなって、空いた腕を伸ばしてミヤジの頬を撫でた。
首筋を、肩を、腕を、胸を、腹を撫でた。
一つでも多く彼を感じてみたかった。
こつ、とミヤジが額と額をくっつけた。
 鼻をくすぐるシャンプーの香りと、ミヤジ自身の香りが混ざりあって甘ったるい。
少しでも頭を動かせば唇が触れ合いそうな距離で、互いの呼吸の音だけが鮮やかに聞こえてくる。
頼りなげで、幼くて、力の限り抱きしめてやりたくて、僅かに縮こまった大きな背中を撫でた。

「……キス、してもいいか」
「……いちいち聞かなくていい。君の好きにして」

 じい、と目を合わせられて逃げ出したくなる。
けれど目を背けることも、離れてしまうこともできずにいると、一瞬だけ唇が触れて、離れた。
離れた唇の後を追いかけて、ミヤジの唇を捕まえる。
食むように何度も唇を重ねる。
確かに今、この瞬間を生きているのだとミヤジの体温を感じたかった。
 数え切れないほど唇を重ね合わせて、ようやく顔を離した。
微かに上がった呼気が夜の闇に溶ける。

「ルカス……その、誕生日、おめでとう」
「えぇ……今?」
「……本当は昼間のうちに祝いたかった。……情けない話だけれど、お前の顔を見たら怖気付いてしまって何も言えなかった」
「なんだいそれ。けれど……ふふ。ありがとう、ミヤジ。君は私の誕生日になんて興味が無いだろうと思っていたから、すごく嬉しい」

 興味が無いわけじゃないと口をもごもご動かしてから小さくすまないと言う。
日頃はあまり向けられることの無い表情が愛おしい。
貰い慣れていない幸福の大きさに怯える贅沢な夜。
そんな日は失うことへの恐怖の色が見えなくなるまで、互いだけを見つめていればいいのかもしれない。

「……一応、プレゼントも用意してある。……プレゼントと言っても、そんなに物珍しくもないワインだからあまり期待はしないでくれ」
「本当に?ありがとう、ミヤジ。すごく嬉しいな。……ミヤジさえ良ければ、このまま一緒に飲まないか」
「私は構わないが……お前は明日も早いんじゃないのか」
「今日くらいは一緒に過ごさせてくれないか。ほら、一応私の誕生日なわけだし」

 もうすぐ日付も変わってしまうけれど。
冗談めかして言うと、分かったと言ってミヤジが立ち上がる。
感じていた寂寥感の塊はまだ胸の奥の方でじくじく蠢いている。
それでも繋いだ手の温もりを信じていれば、受け止めきれなかった山盛りの愛情を、ほんの微かであったとしても飲み込めるような気がした。
 歩き出そうとしたミヤジの手を引いて頬に唇を寄せた。
褐色の肌に唇を押し付けてから気恥しくなってしまって、驚いた顔をして固まるミヤジを置いて、さっさと部屋を出ようとする。
すると今度はミヤジが手を引いてきて、引かれるままに振り返ると口付けられた。
小鳥が啄むように繰り返し唇をつつかれる。
お互いに二千年以上も生きているというのに、随分と不器用な生き方をしているものだなと笑えてきてしまう。
 唇が離れたあとでミヤジを見ると顔を赤らめてそわそわと居心地が悪そうで、そんなに恥ずかしいのならしなければ良いのに、と自分のことを棚に上げてまたおかしくなる。

「ふふふ、ミヤジ、変な顔してるよ」
「……見なくていい」
「……もっと見たいな。私の知らないミヤジのこと」
「……これからいくらでも見られるだろう」
「うん……そうだね。楽しみにしておかなくちゃ」

 お前はまた、と小言を始めようとしていたミヤジが口を噤んだ。
それから覆い被さるように、縋り付くように抱きしめられて、ミヤジの顔が肩に埋められる。
こんな些細な会話でさえ、失うことを意識しなければいけないだなんて。
せめて彼が抱える寂しさを、ほんのひとさじでもいいから飲み込めたらとミヤジの背中に腕を回す。
大きいはずの背中は随分小さく感じられた。

「……来年も、また祝わせてくれ」
「ああ。……今度は一番に祝いに来てくれないか」
「ああ。必ず」

 ──来年。来年も、必ず。
この上なく不確かで曖昧な口約束。
来年、果たして自分はこの日を迎えられるだろうか。
この屋敷の住人は誰一人欠けずにいるだろうか。
つい、そんな考えが浮かんでしまってミヤジにしがみついた。
恐らく似たようなことを考えているのだろう。
背中に回されたミヤジの腕は微かに震えていた。
 例え今夜限りの口約束であったとしても、いくつもいくつも重ねていきたい。
重ねて、来年の今頃にそういえばあの時はそんな話もしたねと笑い合いたい。
誰も欠けることがないままで、そんな日を迎えたい。
そうやって、何度も何度も、数えることも忘れてしまうくらい季節を巡らせて、いつの日かこんな恐怖は感じなくなって、ただ渡された愛を全身で受け止めたい。
 ささやかで大きすぎる望みがいつか叶う日が来ることを願って、まだ戦い続けなければ。
愛しのあえかな恋人は自分が護らなければ。

「ミヤジ」
「なんだ」
「もう一度、好きだと言ってよ」
「……好きだ」
「ミヤジ、キスして。もっと私に君を感じさせて」

 目と目が合って触れるだけのキスをする。
ああ彼はこんなにも優しい。
蜘蛛の巣に掛かった蝶のように、この優しさに永遠に捕まえられていたい。
優しさにどろどろ溶かされて捕食されてしまいたい。
ミヤジの顔を両手で挟み込んでもう一度キスをした。
触れた唇の温かさが心地良い。
 悠久とも言える時間を過ごしてきて、これまで多くの人と出会い別れた。
それでも今この時ほど体温を感じたことはない。
触れた肌の温もりを確かめるようにミヤジの胸に耳を当てる。
確かに鳴っているミヤジの鼓動と自分の鼓動がとくとく重なり合って、体の奥底からじっくり時間をかけて満たされていく。
溶け合う二つの熱と鼓動は確かに今生きてることの証そのものだった。

「ミヤジ、どうか私を離さないで」
「悪いが……頼まれても離してやれそうにない」

 再度重ねた唇はミヤジと、それから自分自身への誓い。
今日を明日を生き延びる。
大切なものをすべて護る。
君の色んな顔を知って、君の好きなこと、嫌いなこと、誰も知らないようなことまで全部教えて。
そのうちに言葉が要らなくなってしまうほど分かち合って、二つの輪郭がぼやけて一つになって。
そうして来年もまた、君とこの日が迎えられますように。
大切な君を護り抜けますように。
立てた誓いの燈を密やかに宿して、決して気取られてしまわないように微笑んだ。
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