SS
ずっと孤独だった。
悪魔と契約を交わしてから百年余り。
心を許しきって頼れる先もないまま、自分の命と目の前の命を、天使から護ることだけに精いっぱいの毎日の中に、亡き父と、目が覚めることがあるのかないのか、再び言葉を交わす日が来るのか来ないのか、今はそれすら不確かな眠りについているベレンの偉大さを見た。
不老となったこの身で、いつまで戦い続けるのか。
自問自答する暇もないほどの幾星霜。
いずれは共に戦う、孤独を分け合える仲間を、と考えたことがないわけではなかったけれど、この悠久の地獄を共に歩め、と傲慢に振る舞うような言動をすることは憚られ、結局は一人で抱え込んだまま、景色ばかりが色褪せた刻に閉じ込められていく。
今のままで良いのだろうか、というささやかな疑問が、脳髄をちくちくと刺激する日々の中に、彼は天狗風の如く現れた。
彼、ルカス・トンプシーが悪魔執事の仲間になってから、早いもので半年以上が過ぎた。
整った顔立ちは仮面を嵌め込んだように感情をあまり見せず、言葉は鋭利なダガーナイフよりも余程鋭い。
ただ、決して悪い人ではなかった。
「……随分雑用が多いんだな」
「そう、ですね……。ここ最近は特に」
「馬鹿馬鹿しい。庭の草むしりくらい、自分達でやればいいものを。あの肥えた両腕も泣いている」
吐き捨てるように言いながらも、彼は手を止めようとしなければ、帰るとも言い出さない。
庭の主に聞かれたら、と辺りを見回したが誰もいない。
引き抜かれた湿っぽい草の小山が、あちらこちらにできているだけ。
爪と皮膚の間には土が入り込んで、指先は草から滲んだ汁のせいで、森を凝縮した匂いがした。
前髪の生え際に吹き出てきた汗を、手の甲で拭いながら、横目でそびえ立つ屋敷を見た。
二階の窓の向こう側をメイドが一人、見間違えかと思う速さで通って行ったが、こちら側からはそれ以上確認のしようがなかった。
おそらく依頼主の男は自室にでもいるのだろう。
天鵝絨のソファで寛ぐ姿を身勝手に想像すると、長時間屈んだ体勢でいた為に、筋肉も骨も固定された腰の重みが増す。
──そもそも気にして様子を見張るような貴族であるなら、それこそ草むしり程度は自分で済ませているかもしれない。
口には出さないけれど、先程のルカスの言葉に心の中でだけ同意の声を送った。
今日は鶏が一番最初の鳴き声を上げるより前から、この庭の草むしりをしていた。
本来であれば自分一人に来た依頼であったが、手が空いているから、とルカスがついてきた。
彼の手が空いているわけがない事は分かりきっていたので、再三断る旨を伝えたが、終いには口より手を動かした方が早い、と草をむしり始めた。
不器用ではあるが、彼なりの優しさなのだろうと受け取って、黙々と──いや、時に愚痴や唸り声を草の小山に投げかけながら、作業を進めた。
依頼を受けた時は、広大な敷地を一人の力でどうしたものかと笑顔も引き攣ったが、ルカスのお陰で、まだ昼を少し過ぎたところだというのに、早くも終わりが見えてきた。
明日の腰痛を覚悟しなければならないことに、変わりはないけれど。
「ルカスさん。ルカスさんが手伝ってくださったお陰で、予定よりかなり早く終わりそうですし、あとは私一人でやりますよ」
「ここまでやったんだ。最後までやったところで大差ない」
「ありがとうございます。……では、少し休憩にしましょう。同じ体勢をずっととっているというのも、良くないでしょうから」
立ち上がり、土で汚れた膝を払う。
土汚れと草汚れは綺麗に落とすにはひと手間かかる。
手伝ってもらったお礼に、ルカスの服も自分が洗濯を申し出ようと顔を向けると、早々と木陰に行って涼んでいた。
長い髪では首の後ろが熱いのか、結った髪の束を持ち上げようとして、手を下げた。
おそらく悪魔との契約印が項にあるからだろう。
見栄えの良くなった庭を、ルカスが立っているオリーヴの木陰へと歩いていく。
雑草があちこち伸びて、庭というより手入れの行き届いていない小さな公園と言われた方が、まだ納得のいく有様だった庭にそぐわない、立派なオリーヴの木だった。
幹は両手で足りないほど太く、梢には房状の白い花がいくつも見えた。
近付いていくと、銀鼠色の葉が揺れる合間から清廉な甘さが零れ落ちてきた。
薄く鼻腔を撫でる、祈りにも似た芳香。
木陰に靴の爪先が触れると、指先の森を凝縮した匂いと溶け合った。
そよぐ東風、流れる雲、眩しさで銀がかって見える空、そして頬に一筋垂れた汗を拭うルカス。
すべてが異空のもののように感じられる。
「お疲れ様です」
「ああ。お疲れ様」
木陰に完全に足を踏み入れたのを確認してから、ルカスが腰を下ろした。
それほど仲が良いというわけでもないのに、隣に座るのは厚かましいだろうかと思ったが、座らないのかと眼差しを投げてくるルカスに甘えて、腕一本分だけ間を開けて、静かに腰を下ろした。
風で揺れた葉が触れて離れる音が、体の芯に響くほど鮮やかに鳴っている。
瞼を下ろし、肺胞に染み渡らせていくように息を吸い込むと、ここが貴族の屋敷の庭で、今が草むしりなどという泥臭い依頼の最中であることを忘れてしまうくらい、清爽としていた。
三度、深く息を吸いこんで吐き出した。
このまま瞼の裏の星空を眺めていると、穏やかな東風に撫でられていると、疲れた体はうっかり眠ってしまいそうだったから目を開けた。
目を眩ませながら草むしりの成果を目の当たりにして、現実に引き戻されながら、これが初めてできた仲間とのピクニックであったなら、と腕を掴んで離さない現実から、逃避をしてしまいたくなる。
いずれそんな時が来るだろうか。来るといい。来ると信じたい。
幼い願望を抱きながらルカスを見ると、臙脂色の長い睫毛を重たげに伏せ、世界の果てを憂慮するような、あるいは産まれたばかりのささやかな生命を掌で包み込むような、酷く痛ましく無垢な顔をして、空を仰いでいた。
彼はどうにも頭を働かせすぎる傾向があるようだけれど、今この瞬間だけは何も考えずに過ごしていてほしい。
横顔はまるで完成されたビスクドール。
汗で頬に張り付いた数本の洋紅色がなければ、この異空の場所を支配する帝王にも見えただろう。
ルカスの左半顔を熱心に眺めていると、遂に視線が交わった。
「何? 何かついてる?」
「いえ。……ルカスさんがいてくださって、良かったなと考えていたのですよ」
「別に。手が空いていたから来ただけだ」
言葉こそ味気なかったが、逸らされた蜜色琥珀が雄弁に語る。
葉漏れ日が揺れるのが陽光を反射する水面のようで、今自分達が座り込んでいるこの場所が丸ごと水底に沈んだようだった。
──長かった。今日まで。
誰かと言葉を交えながら、共に爪の先に泥を詰め、草をむしる日が来ることを願いながら、共有することの叶わない孤独は永遠に自分一人が背負っていくものだと、そう思い込んでいた。
思い込むことで立ち続けられた。
けれど今、確かにこの水の底のような異空を分かち合っている。
孤独の形や色、音を共有することができずとも、揺らぎに触れて伝わる体温。
背負う孤独の重さが変わったわけではない。
けれど、背負っている者が自分の他に隣にもいる安心感は、下手に言葉で理解を示されるよりも拍動を安定させた。
風に揺れた洋紅色の隙間から覗く、耳の手前あたりが土で僅かに汚れているのを見つけた。
おそらく先程汗を拭いていた時についたものだろう。
「ふふ……少し汚れてしまいましたね」
腕を伸ばして、指先が頬に触れる。
ビスクドールのようだと思った肌は、当たり前のことではあるが触れると柔く、体温があり、乾いた汗で指の腹に吸い付いた。
眉尻を下げながら向けられた眼差しは、普段の諦念を含んだ冷たさからは想像もつかない程あどけなく、気丈な仮面の下に眠る彼の幼さが垣間見えた気がする。
土汚れはすぐに取れた。
けれど掌から流れ込んでくる体温を、いつまでも閉じ込めておきたかった。
「……とれた?」
「はい。もう少しで」
こんなついても仕方のないような嘘までついて。
掌を頬に吸着させて、指で耳を、下顎を、頬骨をなぞった。
しばらくの間そうして体温を味わっていると、流石におかしいと思い始めたのか、ルカスが訝しそうに眉根を寄せた。
けれど彼は拒絶の言葉を口にはしなかった。
褒められ慣れていない子供のように、若干肩を強張らせながら身動きもせず耐えている。
その様がまた何とも庇護欲を刺激して、自分でも驚くほど裏返った、笑い声のようなものが喉奥から飛び出した。
「とれたの?」
「ええ。取れましたよ」
離したくはなかった。
同時にいつまでもこの体温に触れているわけにいかないことも、きちんと利口な頭が理解していた。
できる限り時間をかけて、掌の皺を移すようにゆっくりと離すと、手を引くようにかすかに皮膚がついてくる。
掌に残った体温を散らしたくなくて指を丸めた。
目の前のルカスが、熱の残滓を掠め取るようにして、先程まで触れていた場所を自らの手で撫でた。
「……早く残りも片付けよう」
「そうですね。早く終えて帰りましょう」
清廉な祈りの芳しい香りが揺れる。
立ち上がる時一瞬見えた、彼の項の契約印が鮮烈に網膜を焦がした。
指に触れた、地表に浮き出た血管のような露根が、しっかりと凝視しないと見つからないほど、小さく薄い傷を付けた。
これから先また孤独に苛まれる事があるかもしれない。
いつ終わるか分からない暗闇の中を、途方もなく歩き続けなければならない。
けれど同じ水底を歩く者がもう一人、いる。
帝王でもビスクドールでもなく、体温と孤独を宿した不器用な人。
彼がいるのなら、この暗闇もいずれ悪いものではなくなっていくのではないか。
そう信じることのできるぬくもりだった。
悪魔と契約を交わしてから百年余り。
心を許しきって頼れる先もないまま、自分の命と目の前の命を、天使から護ることだけに精いっぱいの毎日の中に、亡き父と、目が覚めることがあるのかないのか、再び言葉を交わす日が来るのか来ないのか、今はそれすら不確かな眠りについているベレンの偉大さを見た。
不老となったこの身で、いつまで戦い続けるのか。
自問自答する暇もないほどの幾星霜。
いずれは共に戦う、孤独を分け合える仲間を、と考えたことがないわけではなかったけれど、この悠久の地獄を共に歩め、と傲慢に振る舞うような言動をすることは憚られ、結局は一人で抱え込んだまま、景色ばかりが色褪せた刻に閉じ込められていく。
今のままで良いのだろうか、というささやかな疑問が、脳髄をちくちくと刺激する日々の中に、彼は天狗風の如く現れた。
彼、ルカス・トンプシーが悪魔執事の仲間になってから、早いもので半年以上が過ぎた。
整った顔立ちは仮面を嵌め込んだように感情をあまり見せず、言葉は鋭利なダガーナイフよりも余程鋭い。
ただ、決して悪い人ではなかった。
「……随分雑用が多いんだな」
「そう、ですね……。ここ最近は特に」
「馬鹿馬鹿しい。庭の草むしりくらい、自分達でやればいいものを。あの肥えた両腕も泣いている」
吐き捨てるように言いながらも、彼は手を止めようとしなければ、帰るとも言い出さない。
庭の主に聞かれたら、と辺りを見回したが誰もいない。
引き抜かれた湿っぽい草の小山が、あちらこちらにできているだけ。
爪と皮膚の間には土が入り込んで、指先は草から滲んだ汁のせいで、森を凝縮した匂いがした。
前髪の生え際に吹き出てきた汗を、手の甲で拭いながら、横目でそびえ立つ屋敷を見た。
二階の窓の向こう側をメイドが一人、見間違えかと思う速さで通って行ったが、こちら側からはそれ以上確認のしようがなかった。
おそらく依頼主の男は自室にでもいるのだろう。
天鵝絨のソファで寛ぐ姿を身勝手に想像すると、長時間屈んだ体勢でいた為に、筋肉も骨も固定された腰の重みが増す。
──そもそも気にして様子を見張るような貴族であるなら、それこそ草むしり程度は自分で済ませているかもしれない。
口には出さないけれど、先程のルカスの言葉に心の中でだけ同意の声を送った。
今日は鶏が一番最初の鳴き声を上げるより前から、この庭の草むしりをしていた。
本来であれば自分一人に来た依頼であったが、手が空いているから、とルカスがついてきた。
彼の手が空いているわけがない事は分かりきっていたので、再三断る旨を伝えたが、終いには口より手を動かした方が早い、と草をむしり始めた。
不器用ではあるが、彼なりの優しさなのだろうと受け取って、黙々と──いや、時に愚痴や唸り声を草の小山に投げかけながら、作業を進めた。
依頼を受けた時は、広大な敷地を一人の力でどうしたものかと笑顔も引き攣ったが、ルカスのお陰で、まだ昼を少し過ぎたところだというのに、早くも終わりが見えてきた。
明日の腰痛を覚悟しなければならないことに、変わりはないけれど。
「ルカスさん。ルカスさんが手伝ってくださったお陰で、予定よりかなり早く終わりそうですし、あとは私一人でやりますよ」
「ここまでやったんだ。最後までやったところで大差ない」
「ありがとうございます。……では、少し休憩にしましょう。同じ体勢をずっととっているというのも、良くないでしょうから」
立ち上がり、土で汚れた膝を払う。
土汚れと草汚れは綺麗に落とすにはひと手間かかる。
手伝ってもらったお礼に、ルカスの服も自分が洗濯を申し出ようと顔を向けると、早々と木陰に行って涼んでいた。
長い髪では首の後ろが熱いのか、結った髪の束を持ち上げようとして、手を下げた。
おそらく悪魔との契約印が項にあるからだろう。
見栄えの良くなった庭を、ルカスが立っているオリーヴの木陰へと歩いていく。
雑草があちこち伸びて、庭というより手入れの行き届いていない小さな公園と言われた方が、まだ納得のいく有様だった庭にそぐわない、立派なオリーヴの木だった。
幹は両手で足りないほど太く、梢には房状の白い花がいくつも見えた。
近付いていくと、銀鼠色の葉が揺れる合間から清廉な甘さが零れ落ちてきた。
薄く鼻腔を撫でる、祈りにも似た芳香。
木陰に靴の爪先が触れると、指先の森を凝縮した匂いと溶け合った。
そよぐ東風、流れる雲、眩しさで銀がかって見える空、そして頬に一筋垂れた汗を拭うルカス。
すべてが異空のもののように感じられる。
「お疲れ様です」
「ああ。お疲れ様」
木陰に完全に足を踏み入れたのを確認してから、ルカスが腰を下ろした。
それほど仲が良いというわけでもないのに、隣に座るのは厚かましいだろうかと思ったが、座らないのかと眼差しを投げてくるルカスに甘えて、腕一本分だけ間を開けて、静かに腰を下ろした。
風で揺れた葉が触れて離れる音が、体の芯に響くほど鮮やかに鳴っている。
瞼を下ろし、肺胞に染み渡らせていくように息を吸い込むと、ここが貴族の屋敷の庭で、今が草むしりなどという泥臭い依頼の最中であることを忘れてしまうくらい、清爽としていた。
三度、深く息を吸いこんで吐き出した。
このまま瞼の裏の星空を眺めていると、穏やかな東風に撫でられていると、疲れた体はうっかり眠ってしまいそうだったから目を開けた。
目を眩ませながら草むしりの成果を目の当たりにして、現実に引き戻されながら、これが初めてできた仲間とのピクニックであったなら、と腕を掴んで離さない現実から、逃避をしてしまいたくなる。
いずれそんな時が来るだろうか。来るといい。来ると信じたい。
幼い願望を抱きながらルカスを見ると、臙脂色の長い睫毛を重たげに伏せ、世界の果てを憂慮するような、あるいは産まれたばかりのささやかな生命を掌で包み込むような、酷く痛ましく無垢な顔をして、空を仰いでいた。
彼はどうにも頭を働かせすぎる傾向があるようだけれど、今この瞬間だけは何も考えずに過ごしていてほしい。
横顔はまるで完成されたビスクドール。
汗で頬に張り付いた数本の洋紅色がなければ、この異空の場所を支配する帝王にも見えただろう。
ルカスの左半顔を熱心に眺めていると、遂に視線が交わった。
「何? 何かついてる?」
「いえ。……ルカスさんがいてくださって、良かったなと考えていたのですよ」
「別に。手が空いていたから来ただけだ」
言葉こそ味気なかったが、逸らされた蜜色琥珀が雄弁に語る。
葉漏れ日が揺れるのが陽光を反射する水面のようで、今自分達が座り込んでいるこの場所が丸ごと水底に沈んだようだった。
──長かった。今日まで。
誰かと言葉を交えながら、共に爪の先に泥を詰め、草をむしる日が来ることを願いながら、共有することの叶わない孤独は永遠に自分一人が背負っていくものだと、そう思い込んでいた。
思い込むことで立ち続けられた。
けれど今、確かにこの水の底のような異空を分かち合っている。
孤独の形や色、音を共有することができずとも、揺らぎに触れて伝わる体温。
背負う孤独の重さが変わったわけではない。
けれど、背負っている者が自分の他に隣にもいる安心感は、下手に言葉で理解を示されるよりも拍動を安定させた。
風に揺れた洋紅色の隙間から覗く、耳の手前あたりが土で僅かに汚れているのを見つけた。
おそらく先程汗を拭いていた時についたものだろう。
「ふふ……少し汚れてしまいましたね」
腕を伸ばして、指先が頬に触れる。
ビスクドールのようだと思った肌は、当たり前のことではあるが触れると柔く、体温があり、乾いた汗で指の腹に吸い付いた。
眉尻を下げながら向けられた眼差しは、普段の諦念を含んだ冷たさからは想像もつかない程あどけなく、気丈な仮面の下に眠る彼の幼さが垣間見えた気がする。
土汚れはすぐに取れた。
けれど掌から流れ込んでくる体温を、いつまでも閉じ込めておきたかった。
「……とれた?」
「はい。もう少しで」
こんなついても仕方のないような嘘までついて。
掌を頬に吸着させて、指で耳を、下顎を、頬骨をなぞった。
しばらくの間そうして体温を味わっていると、流石におかしいと思い始めたのか、ルカスが訝しそうに眉根を寄せた。
けれど彼は拒絶の言葉を口にはしなかった。
褒められ慣れていない子供のように、若干肩を強張らせながら身動きもせず耐えている。
その様がまた何とも庇護欲を刺激して、自分でも驚くほど裏返った、笑い声のようなものが喉奥から飛び出した。
「とれたの?」
「ええ。取れましたよ」
離したくはなかった。
同時にいつまでもこの体温に触れているわけにいかないことも、きちんと利口な頭が理解していた。
できる限り時間をかけて、掌の皺を移すようにゆっくりと離すと、手を引くようにかすかに皮膚がついてくる。
掌に残った体温を散らしたくなくて指を丸めた。
目の前のルカスが、熱の残滓を掠め取るようにして、先程まで触れていた場所を自らの手で撫でた。
「……早く残りも片付けよう」
「そうですね。早く終えて帰りましょう」
清廉な祈りの芳しい香りが揺れる。
立ち上がる時一瞬見えた、彼の項の契約印が鮮烈に網膜を焦がした。
指に触れた、地表に浮き出た血管のような露根が、しっかりと凝視しないと見つからないほど、小さく薄い傷を付けた。
これから先また孤独に苛まれる事があるかもしれない。
いつ終わるか分からない暗闇の中を、途方もなく歩き続けなければならない。
けれど同じ水底を歩く者がもう一人、いる。
帝王でもビスクドールでもなく、体温と孤独を宿した不器用な人。
彼がいるのなら、この暗闇もいずれ悪いものではなくなっていくのではないか。
そう信じることのできるぬくもりだった。
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