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 衣とシーツの摩擦音。
室内を満たすのは、肺胞の奥まで染み渡る麝香薔薇。
匂いたつ本能。
混じり合う吐息と体温に、どちらの指か輪郭が不確かになるほど、強く重ねられた手。
この瞬間に触れている唯一のぬくもり。
薄く滲んだ手の汗を、二つの掌の間に閉じ込めて、生成り色のリネンの海に深く、深く沈みこませた。
 鼻先にかかる、フィンレイの零す吐息一つすら、手入れの行き届いた銀食器のように洗練されている。
鋭く突き付けられていても、決して逃げ出そうなどとは思わないほど、優美な銀食器は、鼻先を削ぐように撫で、頬を滑り、リネンへと流れた落ちた。
黒黒とした瞳の奥に見えるのは隠しきれていない蒼炎の焔。
 あと僅か数センチ、寄せてしまえば触れ合える。
その距離のまま、探り合うように瞳の奥の自分自身を見つめる。
映りこんだ自身は、捕食されかけている今を、随分と愉しんでいるようだ。
瞬き一つ前までは泣くことしか叶わなかった、両手が余るほど小さな赤ん坊だった彼が向けてくる、捕食者の眼差し。
その眼差しが、言い訳のしようもなく自分だけに向けられている。
その満ち足りた独占的感情を愉しんでいるのかもしれない。

「……ルカス」
「はい。如何いたしましたか。フィンレイ様」

 つい、言葉の端々にフィンレイを慈しむ音が混ざりこんでしまうのは、幼い彼の姿を知っているが故。
その音を逃さず拾い上げて、かすかに寄せられた眉根。
その仕草さえも幼子のように見え、眉を指でなぞり、詰められた眉間を解したかったが、フィンレイ本人に言えば気を悪くするだろうと黙ったまま、ゆったりと時間をとって一度瞬きをした。
 彼をこんなにも幼子のようだと思いながら、そのように扱いながら、その幼子に狂わされかけているのは、他でもない自分だ。
身に纏わせるように向けられた蒼炎が、融解しそうになるくらいに、高い熱を持っているからだろうか。
 何か言い淀み、飲み下したフィンレイの喉元を見上げながら、口端から吐息とも取れるような薄い笑い声が溢れ出た。

「何かおかしいか」
「いいえ。何もおかしくなどありません。……ただ、頼もしくなられたのだなと、嬉しくは思っておりますよ」
「……それをやめてくれと言っているんだがね」

 離されて浮上する手。
諦めた、といった風に強く息を吐いて、フィンレイが右隣に寝転がった。
 大きすぎるこのベッドは、大人の男二人が寝転がっても、もう一人入れるほどゆとりがある。
シーツに広がるびろうどの艷めく髪を、指の節に絡め取るように撫でると、冬の寒々とした空気のせいで氷晶雨のように冷えていた。
フィンレイの自室に暖炉は備え付けてあったけれど、乾いて突っ張った皮膚が痛い、と消してあったから尚のこと。

 月に一度だけ、この部屋へと招かれる。
屋敷の面々には、月に一度だけは今後の方針を綿密に打ち合わせる、どうしても長引いてしまうから、そのままグロバナー邸に泊まらせてもらっているのだ、と話をしているが、半分以上は嘘に近い。
もちろんこうして顔を合わせていれば、今後悪魔執事達がどういった方針で動いていこうとしているか、という話も全くしないわけではなかった。
けれど仕事の話に託けて、秘めやかな逢瀬を重ねていることも、同じくらい真実だった。
 秘めやかな逢瀬と言っても、決して甘美なキャラメルの味はしていない。
そもそもが、世界の均衡を保つ為に必要なグロバナー家の当主と、世界から恐れられ、忌み嫌われている悪魔執事。
本来であれば必要以上に関わることをしない方がいいことは明白だ。
けれどフィンレイは、いつ頃からだったか、ルカスに対してじりじりと細い黒煙を立たせながら、蒼炎の焔の眼差しを向けるようになっていた。
その焔を見ない、知らない顔をし続けようと決め込みながら、幼き日のフィンレイに目を向けて、目の前にいるのは、産まれたての玉響の命なのだと言い聞かせていた。
そうでなければ隠見しているその焔が、制御不能になるよりも早く、自分の方が彼の焔を求めてしまいそうだった。
 だからこそ、こうして逢瀬を繰り返しているにも関わらず、フィンレイとすることと言えば、仕事の話をし、他に零しどころのない愚痴にも満たない愚痴のようなものを彼の気が済むまで聞き、食事の席を共にする。
そして各々入浴を済ませた後で、星を眺め、その後で同じベッドで眠った。
 眠る時、フィンレイは必ずと言っていいほど毎回、それこそ幼い子供が母親にする時のように縋りついた。
それを受けても何も応えず、びろうどの髪を撫で、世界を背負う脆く儚い背をあやした。
そうすることが、唯一の正しさだと海馬の奥深くに刻みつけながら。
月に一度だけのささやかな儀式。

「ルカス。私は一体いつになったら、お前に一人の男として認めてもらえるんだろうな」
「ふふ。もう充分、認めておりますよ」
「……赤子扱いをしておいて。本当によく回る口だ」

 フィンレイが寝返りを打って、二つ並べられた枕の片方に顔を埋めた。
そこに在るのは紛れもなく、グロバナー家当主としてのフィンレイではなく、ただの、フィンレイ・グロバナーという名すら取り払った、一人の男の姿だった。
 髪の毛に薄く染みた麝香薔薇が、爪先から体内を侵食しようと試みている。
身を委ねてしまえたら良かった。
幼子としてのフィンレイではなく、今の何者でもない男と向き合えたなら、良かった。
 フィンレイが枕に顔を埋めたまま、腕を伸ばしてくる。
腕は探し求めるように、ワルツを踊るように、リネンの上に三度着地をした後、ささやかな力で右の袖口を掴んだ。
決して、蒼炎の焔で焼き尽くそうとはしない。
焼き尽くそうと思えばいつでもできるだろうに。
来ない時を待ち続ける健気な身体は、無理矢理に引き寄せられてしまえば、なし崩し的に捕食されてしまうというのに。
それでもフィンレイは、一人の男して見られたいという渇望を、腕一本の距離に封じ込めている。
掴まれた袖口のかすかな重み。
自分からは応えることのできないその重みに、行き場を求め彷徨う左手で、彼の背中を拍子をとるように軽く叩く。

「……ルカス」
「おっと。申し訳ありません」

 糸より細く、洞穴より深く、呼気を枕に吐き出して、フィンレイがこちらへ顔を向ける。
袖口を掴んでいた指先が離れ、頬に触れた。
滑り込ませるように指先が耳をなぞり、掌が輪郭を沿う。
刺さるように冷たい。
だからといって温めるために擦り寄ることも叶わない。
唇を触れ合わせるには遠すぎる、この距離こそが二人にとっての正しさなのだから。
せめて、と思い沿わされた手の甲に、己の掌を重ねた。
手の甲越しに微かな脈動が伝わってくる。
 いつかこの脈動が抑えきれなくなってしまえばいいのに。
蒼炎の焔がこの身を覆ってしまえばいいのに。

「おやすみ。ルカス」
「……はい。おやすみなさいませ。フィンレイ様」

 今日も制御不能になる事のなかった蒼炎に焦がれながら、夜闇に残って香る麝香薔薇に身を沈めた。
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