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「それでミヤジが──」
 ああ、またこの名前だ。
言っている本人は無意識なのかもしれないが、何かにつけてミヤジ、ミヤジと口にしている。
二言目にはミヤジ。
執事達の仲が良好なのは喜ばしいことだけれど、彼がその名前を口にする度、どろどろした黒い靄みたいな感情が腹の奥に溜まっていくのを感じる。
そんな自分の存在がこの世界の中で一番醜い生き物のようで、少しでも溜まった靄を体の外に吐き出したくて、長い息を吐いた。
 せめて隣を歩くこの人が、ほんの一欠片でもこの執着心と嫉妬心を受け容れてくれたとしたら──なんてことが頭に浮かんで、そんな期待を持ってはいけないと慌てて打ち消す。
「ベリアン?何だか浮かない顔をしているけれど大丈夫?最近また、無理をしすぎているんじゃない?」
「すみません。少し考え事をしてしまって」
「私が言ってもあまり説得力がないかもしれないけど……周りを頼って休む事も大切だよ」
 少し身をかがめて覗き込むように向けられた月色の瞳。
彼は本気で心身の不調を心配してくれているのだ。
もちろんそれは彼が医療に携わっているからという面が大きいのだろうけれど、優しいこの人は自分にできる範囲の最大限を使って、より良い方向に向かうよう考え、動いてくれる。
行動の仕方や言葉、伝え方が変わっただけで、心根そのものは今も昔も何も変わらない。
そんな彼の真面目で、ひたむきで、努力家なところは非常に好ましく純粋に好きで、尊敬もしていた。
そして真っ直ぐ向いた彼への好意と同じくらい、彼を一番よく知るのは他の誰でもない自分なのだと思い上がった気持ちも持ち合わせていた。
 陽の光を受けて輝く真昼の月に、この月光が自分にだけ向けられるものであったらいいのにと欲が出る。
──彼の心の向かう先にいるのが、いつでも自分であればいいのに。
「ベリアン程の仕事量ではないけれど……私もよく休めと怒られるんだ。この間もミヤジに──」
 続く言葉を塞き止めたくて咄嗟に腕を掴む。
もうその名前を耳に入れたくなかった。
これ以上ぐちゃぐちゃと醜い感情に支配されることを防ぎたかった。
突然のことに微かな困惑を瞳に宿してどうしたの?と彼が言った。
まさかミヤジの名を口にするななどとは到底言えず、そのまま何も言うことができずに言い淀んでいると、掴んだ手をそっとさすられる。
「……何があったかは分からない。けれど私で良ければいつでも話を聞くよ。もちろん、私に言いにくい事なら他の人でもいいし。とにかく、私もミヤジも君のことを──」
 もう、限界だった。
掴んだ腕を引き寄せて無理矢理唇を重ねる。
何か言いたげに軽く肩を押し返されたけれど、無視して閉じられた唇を舐め上げる。
口端から漏れた吐息までもを飲み込むように何度も何度も離しては口付けた。
「ベリアン、何で」
「……ルカスさんがいけないんですよ」
 この場にいないたった一人の名前ひとつで、こんなにも、こんなにも心を掻き乱して。
時折抗議の声を上げていたが、決して拒むわけではないその姿に心の奥底で眠らせていたサディズムにもよく似た感情が鎌首をもたげる。
「いけない人」
 耳元で囁くと微かに震えた体が愛おしい。
長年秘め続けていた想いは、ぐらぐら煮え滾ってストロンボリ式噴火のように小刻みに溢れ出した。
 これでもかというほど唇を堪能し尽くして、漸く体を離す。
僅かに上がった呼気を整えながら向けられた顔は、予想外に恍惚としていて思わず喉が鳴る。
「ベリアン」
「はい」
「言いたいことと聞きたいことは山のようにあるんだけれど……」
 する、と両の手のひらで頬を包み込まれる。
触れている指の先まであたたかい。
しかしそれ以上に自分の顔が熱を持っている。
「君が私に対して抱いている想いの話を聞かせてよ」
 至近距離で揺れる月に眩惑する。
魅了されて目が離せない。
ぼんやり突っ立っていると一瞬だけ唇に柔らかいものが触れた。
「聞きたいな、君の言葉で」
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