SS
ある日いつもと変わらない調子でただいまと帰ってきた男の姿にギョッとした。
膝裏まで伸びていた長い髪の毛が、ない。
丸見えになった白い項。
空気に晒されている、浮かび上がった悪魔との契約印。
すっかり短く整えられた赤と黒。
一体何事があったのかと尋ねると、特に何もと笑った。
頭が軽くなったと照れ臭そうに言う男、ルカス・トンプシーの見慣れない姿に驚きを隠せずに硬直する。
「……変、かな」
「いや……。よく似合っている、と思う」
「……なら良かった」
『よく似合っている』、その言葉に嘘はひとつもなかった。
整った顔立ちを飾り付ける赤と黒は長かろうと短かろうと美しかった。
印象がガラリと変わったためか、身に纏う雰囲気も凛として見えた。
見慣れない項と、線の細い背中に緊張を覚える。
本当にとてもよく似合っていると思った。
けれど、それでもミヤジはルカスの長い髪の毛が好きだった。
初めて出会った日、ルカスの髪はもう既に長かった。
それまでの人生で見たことがない長さの髪。
広がった癖毛は艶っぽく光っていて、すっかり目を奪われた。
外が暑くなってくると鬱陶しげに暑い暑いと言っていて、そんなに邪魔なら切ればいいものを、と言いかけた。
しかし一度だけ切らないんですか、と疑問をぶつけた時の、少し困ったような曖昧な笑顔を思い出して口を噤んだ。
それからもずっと、ずっと、つい今朝までルカスの髪の毛は長さを保っていた。
伸びっぱなしにする訳にもいかず、時折切って整えてはいるようだったけれど、長さを大きく変えることはしなかった。
その髪が、跡形もなく消えてしまった。
ミヤジはまるで自分と過ごしてきたルカスが、髪の毛と一緒になってどこか、自分の知らない世界へ消えてしまったような気持ちになって、空虚感が押し寄せてくる。
もちろんそんな事はない。分かっている。
目の前にいるルカスはいつもと変わらない、これまで長い時間を共に歩み続けたルカスだ。
分かっているのに、苦しかった。
気色の悪い考えだとは自分でも思ったが、ゴミ箱に捨てられ、いずれはこの世界にあった形跡を何も残さずに処理されてしまう。
ならばいっそのこと、その髪の毛を毛の一本も残さずに手元に置いておきたいとすら思った。
ルカスが文字通り切り捨てたものを、大切に抱えて綺麗な箱にしまって、共に過ごした時間を弔いたかった。
「……もう、伸ばさないのか」
「うーん。……しばらくはこのままかな」
「そうか」
ルカスは春に吹く風のように清々しい顔をしていた。
大きな荷物を手放したように軽やかで、泣きたくなるほど眩しかった。
甘い香りのする彼の髪が好きだった。
寝起きにあちこち絡まっているのも、白い肌を覆い隠すように包んでいるのも、すべてが好きだった。
当然髪を切ったからといってルカス本人に対する想いが変わるわけではないけれど、この胸の中の一部分をごっそり持っていかれたような空虚は、今後何をすれば埋まるのだろう。
「ミヤジは、長い方が好きだった?」
「いや……。そうじゃない。すまない」
浮かない顔を覗き込まれて、揺れる髪が無いことに気付かされて、鼻がツンとなった。
彼を構成する一部分がなくなった。
たったそれだけの事を、こうも受け入れられないものなのかと思うけれど、例え情けないと笑われたって構わない。
好きだったのだ。彼の髪が揺れ踊るのが。
好きだったのだ。彼の髪に触れるのが。
好きだったのだ。どうしようもなく、好きだった。
膝裏まで伸びていた長い髪の毛が、ない。
丸見えになった白い項。
空気に晒されている、浮かび上がった悪魔との契約印。
すっかり短く整えられた赤と黒。
一体何事があったのかと尋ねると、特に何もと笑った。
頭が軽くなったと照れ臭そうに言う男、ルカス・トンプシーの見慣れない姿に驚きを隠せずに硬直する。
「……変、かな」
「いや……。よく似合っている、と思う」
「……なら良かった」
『よく似合っている』、その言葉に嘘はひとつもなかった。
整った顔立ちを飾り付ける赤と黒は長かろうと短かろうと美しかった。
印象がガラリと変わったためか、身に纏う雰囲気も凛として見えた。
見慣れない項と、線の細い背中に緊張を覚える。
本当にとてもよく似合っていると思った。
けれど、それでもミヤジはルカスの長い髪の毛が好きだった。
初めて出会った日、ルカスの髪はもう既に長かった。
それまでの人生で見たことがない長さの髪。
広がった癖毛は艶っぽく光っていて、すっかり目を奪われた。
外が暑くなってくると鬱陶しげに暑い暑いと言っていて、そんなに邪魔なら切ればいいものを、と言いかけた。
しかし一度だけ切らないんですか、と疑問をぶつけた時の、少し困ったような曖昧な笑顔を思い出して口を噤んだ。
それからもずっと、ずっと、つい今朝までルカスの髪の毛は長さを保っていた。
伸びっぱなしにする訳にもいかず、時折切って整えてはいるようだったけれど、長さを大きく変えることはしなかった。
その髪が、跡形もなく消えてしまった。
ミヤジはまるで自分と過ごしてきたルカスが、髪の毛と一緒になってどこか、自分の知らない世界へ消えてしまったような気持ちになって、空虚感が押し寄せてくる。
もちろんそんな事はない。分かっている。
目の前にいるルカスはいつもと変わらない、これまで長い時間を共に歩み続けたルカスだ。
分かっているのに、苦しかった。
気色の悪い考えだとは自分でも思ったが、ゴミ箱に捨てられ、いずれはこの世界にあった形跡を何も残さずに処理されてしまう。
ならばいっそのこと、その髪の毛を毛の一本も残さずに手元に置いておきたいとすら思った。
ルカスが文字通り切り捨てたものを、大切に抱えて綺麗な箱にしまって、共に過ごした時間を弔いたかった。
「……もう、伸ばさないのか」
「うーん。……しばらくはこのままかな」
「そうか」
ルカスは春に吹く風のように清々しい顔をしていた。
大きな荷物を手放したように軽やかで、泣きたくなるほど眩しかった。
甘い香りのする彼の髪が好きだった。
寝起きにあちこち絡まっているのも、白い肌を覆い隠すように包んでいるのも、すべてが好きだった。
当然髪を切ったからといってルカス本人に対する想いが変わるわけではないけれど、この胸の中の一部分をごっそり持っていかれたような空虚は、今後何をすれば埋まるのだろう。
「ミヤジは、長い方が好きだった?」
「いや……。そうじゃない。すまない」
浮かない顔を覗き込まれて、揺れる髪が無いことに気付かされて、鼻がツンとなった。
彼を構成する一部分がなくなった。
たったそれだけの事を、こうも受け入れられないものなのかと思うけれど、例え情けないと笑われたって構わない。
好きだったのだ。彼の髪が揺れ踊るのが。
好きだったのだ。彼の髪に触れるのが。
好きだったのだ。どうしようもなく、好きだった。