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「夢を見るんだ」
 ルカスはそう言うと、目の前の紅茶に口を付けた。黄金色が波打つ度に、カモミールの甘酸っぱい香りが辺りに広がった。まだ日が高い。はるか上空から鳶の細高い声が降り注いでくる。声に釣られて天を見上げれば、翼を真横に鋭く広げ、大きく旋回する鳶の姿が見えた。鳶は翼で雲を切り裂くように飛んでいた。ミヤジの瞳には、その姿が、自由に飛び回る、ただの無知な鳥としては映らなかった。むしろ、与えられた生を与えられた通りに生きる姿は、人も鳥も、何一つ変わらない。何処へでも行けるようでいて、何処へも行けるわけではないもの。そんな少しの不自由さを携えて映っていた。ミヤジは上げていた顔を下ろし、自分の前に置かれたティーカップに口を付けた。のどかな昼下がりの気候と、カモミールティーは、いたずらに眠気を誘ってくる。ミヤジは休日などではない。それは隣に座る男、ルカスも同じだ。仕事の合間の休息。いつもなら休憩時間だと言っても、地下執事室へと戻り、午後の仕事へ向けての準備をしたり、予定の確認をしたりと、忙しなく過ごしている。それがこの日はルカスに声を掛けられた。断られるつもりは最初からなかったようで、しっかりとバトラーズ・トレイを準備して。ルカスについて行くと、森の木陰にバトラーズ・トレイを広げて、鼻歌混じりに近くの切り株に腰掛け始めた。ミヤジは、ここまで来て今更何か言うのも野暮だろうと、何も言わずルカスに倣って、ルカスが座ったものより一回り程大きな切り株に腰を下ろした。ルカスは椅子は忘れてきてしまったと言っていたが、おそらく持ってくるつもりがなかっただけだろうと、ミヤジは過不足なく準備の整ったテーブルの上を眺めた。上機嫌に刻まれる鼻歌に、ミヤジは聞き馴染みがなかった。どこか子守唄を思わせる鼻歌は、梢の囁きと重なって耳心地の良いものだった。ミヤジはその歌は何の歌か、とは聞かなかった。それよりも、ルカスの血の気の薄い顔色の方が気にかかっていたからだ。白い肌に浮かんだ、影のように濃い隈は、ルカスが昨夜もあまり寝ていないだろう事を証明していた。ルカスはミヤジの視線に気が付くと、鼻歌を止めて眉毛を下げて笑った。理解しているとでも言いたげに、指の背で目の下を一度擦りながら。束の間二人を包んでいたのは、森林の静かなる呼吸だけだった。ミヤジはルカスの用意したカモミールティーに口を付けて、大きく息を吐き出した。リスの親子が一瞬光芒に照らされて、隠れるように木の幹を駆け上がって行く。ミヤジは、足元に咲いていた春紫苑を指先で弄ぶように撫でた。
「……それで? 何か話があるんじゃないのか」
「話というほどのものではないんだけどね……。やっぱり、ミヤジにはお見通しか」
「何年見てきたと思ってるんだ」
 ルカスは目を細めて笑った後に、そうだねとかすかに呟いた。そう言われるのを待っていた。そんな顔をして。自然に出た言葉に、ミヤジは違和感を感じていなかったが、ルカスは噛み締めるようにはにかんでいた。思えば関係が悪くなる前のミヤジは、ルカスに対してそこそこ頻繁に、二人の間の目には見えない時間を、現前に形作る言葉をかけていた。けれどあの日、これが最期だと意識を手離した後。──目覚めてしまった自身と、二度と目覚めぬヨルムを前にして、ルカスに抱いていた友とも家族とも恋とも呼べぬ感情は、失望の渦に飲み込まれてしまった。それからというものの、ミヤジは、それ以前どのようにしてルカスに接していたかが、まるで分からなくなってしまったのだ。強く出すぎている自覚はあった。そしてミヤジが烈しい言葉をぶつける事があっても、ルカスはそれを咎めなかった。ベリアン達も口々に仕方がない、時間が解決するのだと、ミヤジの背に手を添えた。その全てが余計にミヤジを苛立たせる。溢れ出した未練を凝集しきったような感情は、堰き止めようと思って止められる程ささやかではなかったのだ。それは、ルカスに対する失望というよりも、自身に対する失望に近かった。ただどちらにせよ、ミヤジ一人で抱え込むには大きすぎる喪失だったことに違いはない。こうして振り返る事ができるようになったのは、つい最近の話しだ。時間の流れが解決したわけではない。ずっと心の内のどこかで、ヨルムの存在を直視しきれずにいた。家族だと言ったにも関わらず、だ。ヨルムと向き合うことは、ミヤジにとって己の弱さとも向き合うことにほかならなかった。その事が、ミヤジの百九十糎ある逞しい体を二、三糎臆病にさせていたのだ。いつかはと、ミヤジが踏み込みきれずにいたヨルムの存在へ、向き合おうと、先に手を差し伸ばしたのはルカスだった。ルカスは昔からそうだ。ミヤジが立ち竦んでいると、正しいと信じる道へ共に進もうと、頼んでいなくとも手を引いてくる。そしてミヤジが、伸ばされた手を躊躇いながらもとってしまうこともまた、昔からのことだった。けれど、ルカスと改めてヨルムの存在を見つめ直した時間は、ミヤジの中で禁忌の存在に近くなっていたヨルムを、ただの共に生きた一人の少年に戻すには充分だった。だからこそこうして、今一つのテーブルを挟んで自然に身を置けているのだ。
「夢を見るんだ」
 何の脈絡もなくルカスは唐突に口を開いた。いつもの調子で、鼻歌の延長線のような声音で。ミヤジは聞き間違えたかと思い、ルカスの方へ顔を向けた。ルカスは屋敷にいる時より、わずかに気の抜けたような顔をして、「夢を見るんだよ」ともう一度ゆっくりと口にした。夢と聞いてミヤジがまず思い浮かべたのは、悪魔の存在だった。少し前に悪魔化したルカスに、また悪魔の干渉があったのだろうかと、ミヤジは無意識に肩が強張るのを感じた。
「君が医者として、治療室へ来ることを辞めた日の夢だ」
 紡がれた言葉にミヤジは安堵を覚えたが、同時に居心地の悪さが疼いた。消えない痣を、指で押し込まれたようで、ミヤジはルカスから視線を外した。外す際見えたルカスの口元は、いつもと変わらず微笑みを携えていて、痛々しく思える。
「あの日は、……朝からいつも以上に空気が澄んでいて、空は晴れ渡っていた。珍しく私が誰にも起こされずに早起きしたんだ。……ふふ。すごいだろう?」
 ルカスはミヤジがどんな顔をしているかなど、お構いなしだといった調子で話を続けた。ルカスが何を言おうとしているのか、ミヤジは真意を掴めずにいた。しかし、もし責められるのであれば、自分の怒りの全てを受け止め続けていた彼には、責める権利もあるだろうと、ミヤジは耳を傾けた。握った掌の中で、滲み出す汗を拭き取る余裕はない。
「綺麗な朝焼けでね。空が鮮やかな桃色だった。私はその事を君に教えたくて、待ち遠しくてね。随分早くに治療室へ行っていたんだよ」
「……そうか」
「ようやく君が来たと思ったら、開口一番に医療係を降りると言い出すから……。朝焼けが美しかったことを君に伝えるのに、三百年近くもかかってしまった」
 世間話だと意味付けるようにルカスは笑った。それから持ってきていたウィークエンドシトロンを口に運んだ。ミヤジも釣られてフォークを握ったが置き直し、カモミールティーを飲み込むだけに留めた。今頬張ったところで、この爽やかな甘みの一片も感じ取れないだろうと諦めたのだ。その事を察してか、ルカスはミヤジが食べないままにフォークを置いたことについて、触れなかった。
「これ、人気店の物なんだ。おいしいよ」
「そうか。……ルカスが一人で食べても良かったのに」
「うーん……。でも、今日のために用意したんだ。ミヤジと食べたくて」
「私と? 今日のためにと言われても……。元々今日はなんの約束もしていなかったはずだが」
「うん。そうだね。でも、この時間が無理だったら、また夜にでも声を掛けようと思っていたから」
 あっけらかんと言ってのけたルカスに、ミヤジは切り分けられたウィークエンドシトロンへと目をやった。もしも昼も夜も断っていたら、彼は一体どんな顔をして食べるつもりだったのだろうか。ミヤジはつい、一人の部屋で静かに檸檬の風味に包まれるルカスを想像してしまう。実際は、ミヤジが断っていたとしたら、ベリアンや甘い物が好きな執事達と分け合っただろうが。ミヤジはここで漸く、ウィークエンドシトロンを口に運んだ。酸味を引き連れたほのかな甘みが口内に広がる。どこか懐かしさすら感じる味は、偶然森の中を通り抜けた風と、ミヤジの肌を馴染ませる。ルカスは一度唇を舐めると、「ね、美味しいだろう?」と笑った。その顔を見て、ミヤジは心底断らずにこの場所へ着いてきて良かったと、静かに頷いた。
 ──その晩、ミヤジはなかなか寝付けずにいた。ルカスが見たという、朝焼けのことがどうにも頭を離れずにいる。窓のない地下からは、朝焼けを覗き見る事ができない。あの日、ルカスが何を思い朝焼けを見て、それをどんな気持ちで伝えたかったのか。その事ばかりが頭を占めていた。もしかするとルカスは、いつも通りの日常をミヤジに見せたかったのかもしれない。どれ程の悲しみがあったとしても陽は昇るのだと、分かち合いたかったのかもしれない。今となってはそう考える余白も持てるようになった。しかし、その当時のルカスに、「朝焼けが美しかった」と言われても、やはりミヤジはそのままの意味では受け取れなかっただろう。悲しみの渦中にある時にそんな話をしないでくれと、突っ撥ねていた可能性の方が高い。それでも、ルカスはルカスなりに、不器用ながらも歩み寄ろうとしていたのではないかと、今のミヤジにはそう思えて仕方なかった。今夜も彼は一人で、薬の研究に励んでいるのだろうか。一人でも多くを救う為に、贖罪にも似た没頭を。ミヤジは治療室に居るかもしれない、丸まった背中を思い浮かべた。ベッドを抜け出して様子を見に行こうかと、一度体を起こし、ベッドに潜り込み直した。彼もいい大人なんだから、と自分に言い聞かせて瞼をきつく閉じ、時が過ぎるのを静かに待った。
 翌朝、朝食を食べに行くとルカスがいた。いつもの調子で笑いながら、片手を上げて短い挨拶を投げかけてくる。ミヤジはロノから朝食を受け取ると、ルカスの斜め前の席へ腰を下ろした。
「おはよう。ミヤジは今日は演奏会の日だっけ? 私も行きたかったな」
「おはよう。わざわざ聴きに来なくても、いつでも聴けるだろう」
「いやぁ。ほら、やっぱりさ、雰囲気ってあるじゃない」
「……そうか」
 よく喋るルカスは、あまり目の前の皿に手が伸びていない。大方寝ずに朝食を取りに来て、食欲がいまいち湧いてこないのだろうと、ミヤジは予想した。ルカスはプレートに盛られたサラダを、フォークでくるくると弄ぶ。後から来たはずのミヤジの方が、皿が綺麗になるのが早かった。
「……今日」
「うん?」
「今日の朝焼けは、曇っていて見えなかったよ」
「……え?」
 サラダをつついていたフォークの動きが止まった。ミヤジはルカスの方へ顔を向けはしなかったが、呆気にとられた顔をしているだろうことは、その声音から容易に想像できる。食堂に置かれた柱時計の音が響いた。ミヤジは半分に切られたトーストの片方に苺ジャムを薄く塗った。ジャムを塗りながらミヤジは、この時間を僅かでも長く引き延ばそうとしているようだと、鳴ったばかりの柱時計に目を向ける。揺れる振り子を見ていると、気持ちが落ち着いていくのを感じた。トーストを齧りながらルカスを見ると、驚いたように目を開いて、黙ったままミヤジの言葉を待っているようだった。ミヤジは、「昨日ルカスが話していた朝焼けが気になって」とはとても言えずに、視線を落とす。トーストが半分ほどの大きさになった頃に、ミヤジは食堂の隅から隅まで一度視線を動かして、もう一度ルカスへと目を向けた。
「……だが、朝靄が幻想的だった。早い時間から鳶の鳴き声も聞こえたよ」
「ミヤジ、それって」
「ご馳走様。……ルカスも、朝食はしっかり食べた方がいい」
 ミヤジは空になったプレートを洗う為に席を立つ。ルカスは手を止めたままだった。おかしく思っただろうか。けれど、ミヤジはルカスに伝えたかった事を伝え終えて、肩から力が抜けるのを感じた。ミヤジが食堂から片足を出した刹那、背後からルカスの声が飛んでくる。
「こ、今度は、……私も君と一緒に見たいな。……朝焼け」
「……ルカスが起きられるならな」
「起きるさ。絶対に」
 ミヤジは振り返らずとも、ルカスの声が弾んでいるのが分かった。……あの日から、再び何かを共に見ようと約束することに、三百年近くを要した。ヨルムと出会う前は、ヨルムが生きていた頃は、ごく当たり前の日常だったにも関わらず。時間は進み続けているというのに、ミヤジはルカスとの関係に関してだけ、過去と現在がゆっくりと融合して、在るべき形に戻っていく音が確かに聴こえた気がした。
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