SS
久しぶりの休日。ルカスは誰からも起こされることなく、いつもより遅くまでベッドの中で過ごした。目が覚めてからしばらくの間、ルカスは体温の移った毛布に、体を埋めて温まった。この日は、これまでの休日と少し違う。以前であれば、たとえ表向きが休日であろうと、できる事をやってしまいたくなって、多少なりとも仕事をしていた。しかし、昨夜のうちにベリアンが、「明日は、絶対に仕事をしないでくださいね」と部屋に言いに来たのだ。やらなければならない事があるのなら、他の執事を頼ってくれと。ベリアンの気遣いは、決して押し付けがましいものではない。ただ休めと言っても、結局は机に向かうルカスを何度も見てきたからこそ、釘を刺しにきたのだろう。ルカスもそれは重々承知していた。……していたが、丸っきり何も無い休日を最後に過ごしたのは、一体いつのことだったか。ルカスは休日の過ごし方が分からずに、ベッドの中で何度も寝返りを打った。毛布を剥いだり、また被り直したりしていると、部屋の外から執事達の声が薄く聞こえてくる。何を話しているのは聞き取れない。ベッドの中で声に耳を傾けていると、そのうちにルカスは、自分のいるこの部屋だけが、世界から投げ出されたように感じ始めた。
「……起きるか」
いつもの朝なら、いつまでもベッドの上から動きたくないと思うのに。上体を起こすと、久しぶりにしっかりと眠ったからだろうか。まだ起ききっていないような体が、重力に引っ張られながら遅れてついてくるようだった。身嗜みを整えようと思い、クローゼットを開けたが、中にあるのは、いつも着ている執事服。同じものばかりが数着並んでいる。私服を着る機会など、滅多に訪れることのない毎日を過ごしているのだから、仕方のないことだが。執事服に袖を通せば、机に向かいたくなる事をルカスは知っている。そして、ベリアンがそれを見抜くだろう事も。
「確かこの辺りに……」
クローゼットの奥から、大して出番のない黒無地のTシャツを引っ張り出す。薄手だが、今日は陽気も悪くない。さほど気にはならないだろう。早々と着替えを済ませて、一通り身嗜みを整え終えると、ルカスはいよいよ何をするか頭を悩ませた。束の間考えて、本を読もうと棚を眺める。指先が、無意識のうちに買ったばかりの医学書に触れて、ルカスは伸ばした手を引っ込めた。今この本を読むのは、仕事をしていることになるのでは、と思い至ったからだ。ルカスは医学書の代わりに、推理小説を手に取った。何度も読み返してあって、既に結末は知り尽くしている。しかし、暇潰しにはなるだろうと、椅子に座り本を開いた。この推理小説はもう随分と古い。購入当時に流行ったわけでも、有名になったわけでもなかった。ルカスが、本の中身に特別心を惹かれたわけでもない。それでもルカスは、この本を見える場所に置いておきたかった。忘れたくない思い出の為だけに。
この本を買ったのは、まだミヤジと不仲になるより少し前の話だ。ミヤジと、街へ買い出しに出た帰り道、本屋に立ち寄って購入した。読み終わったら貸してほしいと言うミヤジに、ルカスは頷いて短い返事を返した。仕事の合間を縫って読み進めた本は、思ったよりも早く読み終わった。しかし、この本はミヤジの手に渡ることがなかった。ミヤジと、十五歳にも満たない少年が、瀕死の状態で治療室に担ぎ込まれたのは、本を読み終えた翌日のことだった。その時からこの本は、棚の一番目に着く場所に置いてある。あの日を忘れない為に。確かに生きていた少年を忘れない為に。ミヤジと、共に医療係として過ごした時間が、確かに存在していたことを、忘れない為に。
……ページを捲る音が、耳に鋭い。二頁、三頁と読み進めるが、内容はあまり頭に入ってこなかった。文字を追う目が滑る。ルカスは意識的に視線を動かしながら、ただ文字をなぞっているだけだと、自覚して溜息を零した。本を閉じて立ち上がる。本を手に持ち棚に戻そうと振り返って、ルカスは一度机の上に本を置いた。表紙を撫でながら、顔だけで棚を向く。ルカスは今、この本をミヤジに届けたかった。しかしそんな昔の、会話の中の約束など、ミヤジは忘れているかもしれない。覚えていたとしても、思い出したくないかもしれない。その事がルカスを躊躇させた。しばらくの間、ルカスは本の表紙と見つめあっていたが、本を手に取り部屋を出た。扉を開ける際、足が止まり下唇を噛んだ。真鍮の取っ手に体温が滲む。数秒考えてから、ルカスは地下へ向かうことを決めた。
地下執事室へ行くと、ミヤジは室内でヴァイオリンの手入れをしていた。ルカスは、ヴァイオリンに触れているミヤジを見て、漸く息を吐き出せた気がした。楽器に触れる時のミヤジは、子供達に接する時と同じ表情をしている。口は真一文字に結ばれているのに、柔さが滲み出ていた。言葉にせずとも伝わる。そんな風に、ルカスが錯覚してしまいそうになる程度には。部屋の扉を閉めて、何も言わず佇立しているルカスに、ミヤジは眉を顰めながら溜息を零した。
「……なんだ。今日は休みだろう」
「ああ、いや、悪いね。気にしないでくれ」
「用件はなんだ」
「用件という用件もないんだけど……。本当に気にしないでよ」
ルカスは話題に上がる前に、手に持っていた本を後ろ手に隠した。この本を持って来なければ良かった、とも思った。やはりこの本は、ミヤジに見せるべきではないと、全神経が警鐘を鳴らしている。彼にとっては、振り返りたくない過去なのだろうから。何よりルカスは、この本がミヤジの傷を抉り、先程の静穏な表情を曇らせることを望んでいなかった。ルカスは何度か頭の中だけで納得をして、それを悟らせないように笑った。ミヤジは暫し手を止めて、ルカスの瞳を覗き込むように見つめた。それを察して、ルカスはすぐにとぼけた笑顔を作り直す。ミヤジの目は鋭かった。いつもならルカスの方がミヤジを、相手を読むことに長けている。しかし、こういう目を向けてくる時のミヤジが、今ルカスが考えている以上に相手を、状況を、見通していることをルカスは知っていた。気付かれそうになったら、部屋を飛び出してしまえばいい。ルカスがそう考えながら、目を伏せるように、横目で背後の扉を確認した事も気付いていたかもしれない。ミヤジは手入れを終えたらしいヴァイオリンを、ゆっくりとした手つきでケースに収めた。蓋を閉める僅かな音さえ、気付いていると言っているようだった。
「……それで? その手は何を隠している?」
「……何も?」
嘘をつくなとでも言いたげなミヤジの溜息。室内の空気に溶けきる頃には、ルカスは手に持った本をミヤジには見せず、部屋へ戻ることを決めた。指先に触れるかすかにざらついた表紙。この手触りと共に、今この瞬間の想いも全て、本棚に戻してしまえばいいのだ。
「邪魔して悪かった。本当に、特に用はないんだ。……それじゃあ、また、夕食の時にでも」
ミヤジへ向けた微笑みの理由は、自分でも理解できなかった。癖になっているのだと納得して、そのまま背を向けた。後ろへ回していた手を、気付かれないように素早く体の前へ回して。帰ろう、と心の中で本に囁く。ミヤジには渡せなかった。けれど、これでいいのだと、ルカスは思い出にひとつ区切りがついたようで清々しかった。真鍮のドアハンドルに手をかけて、扉を開けようとしたその刹那、ミヤジが息を吸い込む音が聞こえた。
「……昔」
ミヤジの深い声音に振り返る。空気の振動が伝わってくるほど低い。しかし、足を止めてしまいたくなる程度に、ミヤジの声には慈しむような穏やかさが滲んでいた。ミヤジはケースに収めたヴァイオリンを見つめていた。窓のない地下で、光を宿す淡い空色の瞳が、薄い瞼に覆われる。ルカスは、ミヤジが何を考えているのか探ろうと、ミヤジの鼻梁を見つめた。いくつかの続く言葉を頭の中で思い描いたが、ルカスはそれらが意味のない想像だと理解して、訝しまれない程度の薄い笑い声を漏らす。それでも、ミヤジは瞼を閉じたままだった。ルカスはミヤジと、それから室内の空気と呼吸を合わせるように、ゆったりとした深呼吸を一度すると、ミヤジと同じように瞼を閉じた。瞼の裏には、ミヤジと買い出しへ行ったあの日の、灼けつく夕焼けが浮かび上がっている。
「……ルカスはもう忘れているかもしれないが、昔、お前に本を貸してくれと言ったことがあった。……共に買い出しへ行った時のことだ」
「……うん。そんな事もあったね」
「あの後、私は結局お前から本を借りなかった。……いや、借りられなかった」
「そう。……うん。そう、だろうね。私が君から、大切な人を奪ってしまったから」
「……」
ただの思い出話だ。ルカスは瞼を持ち上げて、「その本なら今ここにあるけれど」と差し出したい衝動を抑えこんだ。目を閉じたままで、ミヤジの声に耳を傾けて。同時に、瞼に映る夕焼けがかすかに滲む。喪われた少年の、忘れてしまったはずの声が、ルカスの脳髄に触れた気がした。ルカスは深く息を吐き出して、力の入りそうになる額を緩めた。互いに瞼を閉じているのだから、眉を顰めたところでミヤジには気付かれない。しかし、ルカスはそれが分かっていても、ミヤジだけが瞼を持ち上げている可能性が過ぎった。瞼の裏のミヤジが、思い出の中のミヤジが、あまりに優しく笑っていたからだ。ルカスは目の前のミヤジを確認したくなった。あの頃のようには笑いかけてこない彼を見て、もう戻らない時間なのだと突き付けてほしくなった。そして、それはミヤジも同じなのではないかと思ったのだ。指の腹に触れるのは、身体の奥底に眠っていたささくれを捲るような感触。はじめから、この本は本棚の片隅で、静かに呼吸をしていたら良かった。あの頃の微笑みとともに。
「……ミヤジ」
「なんだ」
「もしも私が、……実は今その時の本がここにある、と言ったら、君はなんと言うかな」
「……」
「貸してくれとは、言わないんじゃないか?」
ミヤジは唸るような声を出した。深く、深く、地の底を揺るがしそうなほど、低い声だった。ルカスは薄く瞼を持ち上げ、部屋を出ようと再びドアハンドルを掴んだ。外は暖かくなっているというのに、真鍮の感触がひたりと掌に張り付くようだった。俯いたミヤジの瞼が閉じていたかどうか、ルカスは気になったが、もう振り返ることはしなかった。
「……もし、もしもその本が、まだこの屋敷の中に存在しているのだとしたら、私はいつか、その本と向き合わなければいけない日が来るのだと、そう、思う」
「……そうか。向き合えるといいね。お互いに」
ルカスは部屋を出て、両手で静かに扉を閉めた。部屋の中に残ったミヤジの姿を思い浮かべ、扉に額を当てながら。向き合った先で、共に笑い合える未来があるとは、ルカスには思えなかった。むしろ少し前のように、言葉もろくに交わさなくなるかもしれない。今度は以前よりも心が離れてしまうかもしれない。けれど、その可能性があったとて、ミヤジはいつかは向き合うと言ったのだ。彼がそうすると決めたのに、自分ばかりが目を逸らすわけにはいかないだろうと、ルカスは本をわずかに角度を変えて持ち直した。鼻の奥にこびりついた薬品の香りは、三百年近くも前の、あの夜のものだった。ルカスは、自分も向き合うのだと、強く祈るように眉間に皺を寄せた。薄暗い地下の奥から、少年とミヤジ並び歩く足音が聞こえた気がした。
「……起きるか」
いつもの朝なら、いつまでもベッドの上から動きたくないと思うのに。上体を起こすと、久しぶりにしっかりと眠ったからだろうか。まだ起ききっていないような体が、重力に引っ張られながら遅れてついてくるようだった。身嗜みを整えようと思い、クローゼットを開けたが、中にあるのは、いつも着ている執事服。同じものばかりが数着並んでいる。私服を着る機会など、滅多に訪れることのない毎日を過ごしているのだから、仕方のないことだが。執事服に袖を通せば、机に向かいたくなる事をルカスは知っている。そして、ベリアンがそれを見抜くだろう事も。
「確かこの辺りに……」
クローゼットの奥から、大して出番のない黒無地のTシャツを引っ張り出す。薄手だが、今日は陽気も悪くない。さほど気にはならないだろう。早々と着替えを済ませて、一通り身嗜みを整え終えると、ルカスはいよいよ何をするか頭を悩ませた。束の間考えて、本を読もうと棚を眺める。指先が、無意識のうちに買ったばかりの医学書に触れて、ルカスは伸ばした手を引っ込めた。今この本を読むのは、仕事をしていることになるのでは、と思い至ったからだ。ルカスは医学書の代わりに、推理小説を手に取った。何度も読み返してあって、既に結末は知り尽くしている。しかし、暇潰しにはなるだろうと、椅子に座り本を開いた。この推理小説はもう随分と古い。購入当時に流行ったわけでも、有名になったわけでもなかった。ルカスが、本の中身に特別心を惹かれたわけでもない。それでもルカスは、この本を見える場所に置いておきたかった。忘れたくない思い出の為だけに。
この本を買ったのは、まだミヤジと不仲になるより少し前の話だ。ミヤジと、街へ買い出しに出た帰り道、本屋に立ち寄って購入した。読み終わったら貸してほしいと言うミヤジに、ルカスは頷いて短い返事を返した。仕事の合間を縫って読み進めた本は、思ったよりも早く読み終わった。しかし、この本はミヤジの手に渡ることがなかった。ミヤジと、十五歳にも満たない少年が、瀕死の状態で治療室に担ぎ込まれたのは、本を読み終えた翌日のことだった。その時からこの本は、棚の一番目に着く場所に置いてある。あの日を忘れない為に。確かに生きていた少年を忘れない為に。ミヤジと、共に医療係として過ごした時間が、確かに存在していたことを、忘れない為に。
……ページを捲る音が、耳に鋭い。二頁、三頁と読み進めるが、内容はあまり頭に入ってこなかった。文字を追う目が滑る。ルカスは意識的に視線を動かしながら、ただ文字をなぞっているだけだと、自覚して溜息を零した。本を閉じて立ち上がる。本を手に持ち棚に戻そうと振り返って、ルカスは一度机の上に本を置いた。表紙を撫でながら、顔だけで棚を向く。ルカスは今、この本をミヤジに届けたかった。しかしそんな昔の、会話の中の約束など、ミヤジは忘れているかもしれない。覚えていたとしても、思い出したくないかもしれない。その事がルカスを躊躇させた。しばらくの間、ルカスは本の表紙と見つめあっていたが、本を手に取り部屋を出た。扉を開ける際、足が止まり下唇を噛んだ。真鍮の取っ手に体温が滲む。数秒考えてから、ルカスは地下へ向かうことを決めた。
地下執事室へ行くと、ミヤジは室内でヴァイオリンの手入れをしていた。ルカスは、ヴァイオリンに触れているミヤジを見て、漸く息を吐き出せた気がした。楽器に触れる時のミヤジは、子供達に接する時と同じ表情をしている。口は真一文字に結ばれているのに、柔さが滲み出ていた。言葉にせずとも伝わる。そんな風に、ルカスが錯覚してしまいそうになる程度には。部屋の扉を閉めて、何も言わず佇立しているルカスに、ミヤジは眉を顰めながら溜息を零した。
「……なんだ。今日は休みだろう」
「ああ、いや、悪いね。気にしないでくれ」
「用件はなんだ」
「用件という用件もないんだけど……。本当に気にしないでよ」
ルカスは話題に上がる前に、手に持っていた本を後ろ手に隠した。この本を持って来なければ良かった、とも思った。やはりこの本は、ミヤジに見せるべきではないと、全神経が警鐘を鳴らしている。彼にとっては、振り返りたくない過去なのだろうから。何よりルカスは、この本がミヤジの傷を抉り、先程の静穏な表情を曇らせることを望んでいなかった。ルカスは何度か頭の中だけで納得をして、それを悟らせないように笑った。ミヤジは暫し手を止めて、ルカスの瞳を覗き込むように見つめた。それを察して、ルカスはすぐにとぼけた笑顔を作り直す。ミヤジの目は鋭かった。いつもならルカスの方がミヤジを、相手を読むことに長けている。しかし、こういう目を向けてくる時のミヤジが、今ルカスが考えている以上に相手を、状況を、見通していることをルカスは知っていた。気付かれそうになったら、部屋を飛び出してしまえばいい。ルカスがそう考えながら、目を伏せるように、横目で背後の扉を確認した事も気付いていたかもしれない。ミヤジは手入れを終えたらしいヴァイオリンを、ゆっくりとした手つきでケースに収めた。蓋を閉める僅かな音さえ、気付いていると言っているようだった。
「……それで? その手は何を隠している?」
「……何も?」
嘘をつくなとでも言いたげなミヤジの溜息。室内の空気に溶けきる頃には、ルカスは手に持った本をミヤジには見せず、部屋へ戻ることを決めた。指先に触れるかすかにざらついた表紙。この手触りと共に、今この瞬間の想いも全て、本棚に戻してしまえばいいのだ。
「邪魔して悪かった。本当に、特に用はないんだ。……それじゃあ、また、夕食の時にでも」
ミヤジへ向けた微笑みの理由は、自分でも理解できなかった。癖になっているのだと納得して、そのまま背を向けた。後ろへ回していた手を、気付かれないように素早く体の前へ回して。帰ろう、と心の中で本に囁く。ミヤジには渡せなかった。けれど、これでいいのだと、ルカスは思い出にひとつ区切りがついたようで清々しかった。真鍮のドアハンドルに手をかけて、扉を開けようとしたその刹那、ミヤジが息を吸い込む音が聞こえた。
「……昔」
ミヤジの深い声音に振り返る。空気の振動が伝わってくるほど低い。しかし、足を止めてしまいたくなる程度に、ミヤジの声には慈しむような穏やかさが滲んでいた。ミヤジはケースに収めたヴァイオリンを見つめていた。窓のない地下で、光を宿す淡い空色の瞳が、薄い瞼に覆われる。ルカスは、ミヤジが何を考えているのか探ろうと、ミヤジの鼻梁を見つめた。いくつかの続く言葉を頭の中で思い描いたが、ルカスはそれらが意味のない想像だと理解して、訝しまれない程度の薄い笑い声を漏らす。それでも、ミヤジは瞼を閉じたままだった。ルカスはミヤジと、それから室内の空気と呼吸を合わせるように、ゆったりとした深呼吸を一度すると、ミヤジと同じように瞼を閉じた。瞼の裏には、ミヤジと買い出しへ行ったあの日の、灼けつく夕焼けが浮かび上がっている。
「……ルカスはもう忘れているかもしれないが、昔、お前に本を貸してくれと言ったことがあった。……共に買い出しへ行った時のことだ」
「……うん。そんな事もあったね」
「あの後、私は結局お前から本を借りなかった。……いや、借りられなかった」
「そう。……うん。そう、だろうね。私が君から、大切な人を奪ってしまったから」
「……」
ただの思い出話だ。ルカスは瞼を持ち上げて、「その本なら今ここにあるけれど」と差し出したい衝動を抑えこんだ。目を閉じたままで、ミヤジの声に耳を傾けて。同時に、瞼に映る夕焼けがかすかに滲む。喪われた少年の、忘れてしまったはずの声が、ルカスの脳髄に触れた気がした。ルカスは深く息を吐き出して、力の入りそうになる額を緩めた。互いに瞼を閉じているのだから、眉を顰めたところでミヤジには気付かれない。しかし、ルカスはそれが分かっていても、ミヤジだけが瞼を持ち上げている可能性が過ぎった。瞼の裏のミヤジが、思い出の中のミヤジが、あまりに優しく笑っていたからだ。ルカスは目の前のミヤジを確認したくなった。あの頃のようには笑いかけてこない彼を見て、もう戻らない時間なのだと突き付けてほしくなった。そして、それはミヤジも同じなのではないかと思ったのだ。指の腹に触れるのは、身体の奥底に眠っていたささくれを捲るような感触。はじめから、この本は本棚の片隅で、静かに呼吸をしていたら良かった。あの頃の微笑みとともに。
「……ミヤジ」
「なんだ」
「もしも私が、……実は今その時の本がここにある、と言ったら、君はなんと言うかな」
「……」
「貸してくれとは、言わないんじゃないか?」
ミヤジは唸るような声を出した。深く、深く、地の底を揺るがしそうなほど、低い声だった。ルカスは薄く瞼を持ち上げ、部屋を出ようと再びドアハンドルを掴んだ。外は暖かくなっているというのに、真鍮の感触がひたりと掌に張り付くようだった。俯いたミヤジの瞼が閉じていたかどうか、ルカスは気になったが、もう振り返ることはしなかった。
「……もし、もしもその本が、まだこの屋敷の中に存在しているのだとしたら、私はいつか、その本と向き合わなければいけない日が来るのだと、そう、思う」
「……そうか。向き合えるといいね。お互いに」
ルカスは部屋を出て、両手で静かに扉を閉めた。部屋の中に残ったミヤジの姿を思い浮かべ、扉に額を当てながら。向き合った先で、共に笑い合える未来があるとは、ルカスには思えなかった。むしろ少し前のように、言葉もろくに交わさなくなるかもしれない。今度は以前よりも心が離れてしまうかもしれない。けれど、その可能性があったとて、ミヤジはいつかは向き合うと言ったのだ。彼がそうすると決めたのに、自分ばかりが目を逸らすわけにはいかないだろうと、ルカスは本をわずかに角度を変えて持ち直した。鼻の奥にこびりついた薬品の香りは、三百年近くも前の、あの夜のものだった。ルカスは、自分も向き合うのだと、強く祈るように眉間に皺を寄せた。薄暗い地下の奥から、少年とミヤジ並び歩く足音が聞こえた気がした。
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