SS
「ルカス。起きろ」
ミヤジは、これで七回目、と心の中で数えた。目の前のベッドからは、寝息に混じって時折呻き声が聞こえている。その姿はベッドに潜り込んでいて、長い髪の毛が数束見えるだけだったが。いい加減布団を剥いでしまおうかと、ミヤジが布団に手をかける。すると、内側から引っ張られて「もう少し……」と聞こえた。このやりとりは、これで四回目だった。
三階の執事二人が任務でいない朝。ベッドの中で眠る彼を、揺すり起こす役目がミヤジに回ってきた。彼──ルカスは朝が弱い。弱いというより、夜更かしをしすぎているとも言える。研究熱心な彼は、屋敷の皆が寝静まった後も机に向かい、新薬の研究に精を出していた。はるか昔からずっと変わらず。何度ミヤジが早く寝るようにと声を掛けても、「うん。これだけ」と言って、そのまま朝を迎えることも珍しくない。おそらく昨夜も、遅くまで起きていたのだろう。もしかすると、ルカスがベッドに潜ったのは、朝日が昇ってからかもしれない。
しかしルカスは、打ち合わせを兼ねた会食がある。それも昼間から。身支度を整えて、朝食は軽く済ませるとしても、持ち物の確認をして、会食に来る貴族のリストを見返して……とやるには、既にあまり時間に余裕がない。ミヤジは何故か、自分が追い立てられているような、そんな焦燥感に駆られた。ミヤジが浅黒い手を目いっぱい広げて、布団に包まれた身体を揺する。ルカスは起きない。ミヤジが負けじとまた揺する。けれどルカスはまだ起きない。毎日彼を時間通り起こしている、ここにはいない三階の執事の事を思い、ミヤジは大きな溜息を零した。
「おい。ルカス。いい加減起きろ」
再びミヤジが布団に手をかけると、やはり内側から引っ張られる。ミヤジはそれを無視して、力任せに布団を引っ張った。内側からの抵抗を受けながら、何とか布団を捲る。温もりを引き剥がされたルカスが、体を縮こまらせて顔を顰めた。決して小さくはない身体を、ルカスは胎児のように丸めている。ミヤジは一瞬、ルカスはこのまま寝かせておいて、会食には自分かベリアンが行くべきなのではないか、と考えた。しかし、貴族の中には男女問わず、ルカスと話がしたいと出向いてくる者も少なくはない。その事を考えると、やはり今ルカスを起こす選択しか、ミヤジはとることができなかった。
「起きろ。時間だ」
「ぅうん……。ラムリくん、あと少しだけ……」
ルカスは、瞼を持ち上げることなく、枕に顔を擦り付ける。ラムリであれば、もっと快活に起こすだろうと言ってやりたかった。しかし、相手は寝惚けに寝惚けているのだ。今ミヤジが何を言ったところで理解できないだろう。ミヤジは半分だけ捲っていた布団を、足元まで捲りあげた。
「……私はラムリくんではないよ。早く起きろ」
「ぅん……。ん……? ……ミヤジ? ミヤジが何でここにいるの?」
「ラムリくんもナックくんもいないから、私が起こしに来た。ほら、いいから。布団から出ろ」
ミヤジは薄く目を開けたルカスの、脱力しきった腕を引く。ルカスがきつく目を瞑り、手の甲で瞼を擦った。その際にわずかに呼吸が深くなったのを感じて、ミヤジはもう一度腕を引いた。漸く上体を起こしたルカスが、呻きながらベッドの上から足を下ろした。ミヤジはルカスが目を覚ましたことで、急き立てられるような気持ちが少し落ち着いた。ルカスが寒いだの、眠いだのと文句を言いながら、立ち上がろうとする。しかし、ルカスは、まだ完全に覚醒してはいなかった。ルカスが立ち上がった瞬間、足元がよろけた。それだけならまだ良かったが、ベッドの縁に縺れた足が突っかかる。ミヤジは掴んでいた腕を引いて、薄い腰を支えた。
「……悪いね」
「しっかりしろ」
結果的に、腕の中にルカスを抱きとめるような形を取ることになり、この瞬間ミヤジは、誰もこの部屋の扉を叩かないでくれ、と静かに祈りながら扉へ視線を向けた。腕の中にあるルカスの頭が動く。寝起きでまだ身体中が温かい。寝癖のついて広がった髪が、ミヤジの顎先をくすぐった。
「おはようのキスは?」
「しないよ……」
ルカスはすっかり目を覚ましたようだった。腕の中で悪戯ぽく微笑みながら、上目がちにミヤジを見ている。うっかりすると、唇が触れそうな距離で。甘く柔いシーツの香り。ミヤジは、無意識に頬を寄せてしまいそうになって、悟られないように惜しみながら体を離した。それすらも、ルカスは気付いていたようではあったけれど。ミヤジはすぐ近くにあった、日頃ルカスが使用しているデスクの椅子を引いた。床に散乱したままの、書類や本を拾い上げながら。拾い上げる時、ミヤジは丁寧な手つきで表紙を払った。本は汚れていなかったが、日焼けし、褪せた医学書。随分と古い物だ。本の背は擦れて斑になっている。ここまで読み込んだのがルカスか、全く知らない誰かなのかはミヤジが知ることではない。けれどミヤジは、長い時間を旅してきたであろうこの本を、労わりたくなったのだ。
本をデスクの上に置くと、ミヤジはルカスに椅子に座るよう促した。言葉尻が丸くなったのを誤魔化すために、咳払いを一つして。ルカスは素直に椅子に腰掛けると、頭だけでミヤジの方を振り返った。ルカスは、眼差しに淡く、けれど確かな期待の色を浮かべていた。
「ふふ。何してくれるの?」
「一人でその髪の毛を直していたら、時間が足りないだろう」
「へぇ。ミヤジが梳かしてくれるんだ?」
「……いいから。前を向いてくれ」
ミヤジは迷うことなく腕を伸ばし、ルカスのデスクの一番上の引き出しを開けた。開けてすぐ左側には、ヘアブラシがしまわれている。ルカスが昔からこの場所を、ブラシの置き場に選んでいることを、ミヤジは知っていた。ラムリやナックがこの屋敷に来るより前は、毎朝ミヤジがルカスの寝癖を直していたからだ。この場所にブラシを置くことを決めたのも、ミヤジだった。散らかり放題のルカスのデスク周りから、毎朝ブラシを探す時間が勿体無く感じて、ルカスにここに置いてくれと頼んだのだ。ルカスがこの場所にブラシを置き続けていたことを知ったのは、ルカスとの蟠りが解消された後のことだった。
長い髪を掬い、毛先にブラシを通す。ルカスの髪は細く柔らかい為絡まりやすい。さらに毛量は多く、長さもある為、一筋縄ではいかない。ルカスは、ナイトキャップを被って眠っているようだった。しかし今朝は、ミヤジが部屋に入った時点で、ナイトキャップは床に寂しく横臥していた。それ故ルカスの髪の毛は、所々が激しく絡まっている。細かく毛束を分けて、四度、五度とブラシを入れて、漸くブラシが大人しく通り始めた。ブラシの豚毛が、ルカスの髪の毛を撫でる音が、静かな室内に響く。単調な音に眠気を誘われたらしいルカスが、欠伸を噛み殺しきれずに口を開けた。
「……ふふ。ミヤジに髪の毛を梳かしてもらうなんて、いつぶりだろう」
「さあな。……できたぞ」
滑らかにブラシの通るようになった髪の毛。ミヤジは、普段ルカスがしているように、髪の毛を一つに束ねた。束ね終える頃になって、先に着替えを促した方がよかったか、と思い至った。しかし今着ている寝巻き、これから着替える執事服、どちらも前開きだ。ミヤジはその事に気が付いて、別に構わないかと自分を納得させた。同時に、崩れたら行く前にはまた直してやろう、とも。
ルカスは束ねた髪の毛に一度指を通してから、ミヤジに礼を言って立ち上がった。そしてクローゼットを開けて、中から皺一つない衣服を取り出す。クローゼットの中にも、本が雑多に積まれていたようだったが、ミヤジは見なかったことにした。
「着替えるから待ってて」
「私は先に戻るよ」
「えぇ? 折角だし、たまには一緒に朝食取ろうよ。それとも、ミヤジはもう食べちゃった?」
「いや……これからだが……」
「なら構わないだろう?少し待ってて」
話しながらルカスはボタンに手をかけて服を脱いでいく。ミヤジは、一応恋人だぞと言いかけたが、この男にそれを言ったところで「うん。そうだね」と言われるだけだろうと、口にするのをやめた。無防備に向けられた白い背中。先日自分が付けた痕が、未だに薄桃色を残しているのを見つけて、ミヤジは目を逸らした。衣擦れの音が、妙に艶めかしく鼓膜を震わせる。ミヤジはルカスに気取られないように、小さく自分の手の甲を抓った。
「お待たせ。それじゃあ行こうか」
「ああ……」
ミヤジは扉の方へ歩き出そうと踏み出すと、袖口が引っ張られる。何かに引っ掛けただろうかと振り返ると、ルカスが満面の笑みを浮かべて、ミヤジの袖口を掴んでいた。何か企んでいる。ミヤジの第六感が告げた。ミヤジはルカスが何を言い出すのか待つが、ルカスはただ微笑んでいる。……と、思いきや「ん」と顎を上げて目を閉じた。ミヤジはあまり解りたくはなかったが、その動作が何を意味するのか、すぐに理解できてしまった。
「いいでしょ? 今ここには私達しかいないんだし」
「……誰か来たらとか、考えないのかお前は」
「はぁ。ミヤジは本当に真面目だね。……分かったよ、諦める」
なぜかルカスの方が、やれやれといった調子で頭を軽く振った。諦めると口にした通り、ルカスはミヤジを通り過ぎて、扉の方へと歩いていく。出遅れたミヤジはその背中を追いながら、ルカスの耳に届く程、大きく息を吐き出した。ルカスが真鍮のハンドルに手を掛ける。追いついたミヤジは、ルカスが扉を開ける前に、ハンドルを握る手に自らの手を重ね合わせた。
「ミヤジ? どうしたの?」
ルカスが言葉を紡いでいる最中の、僅かなひと時。ミヤジは頬を寄せた。吐息が飲み込まれていく。柔いシーツの香りは、砂糖のような香水の甘さに変わった。
ミヤジは早々と唇を離すと、ルカスが話し出すより先に扉を開けて部屋の外へと出る。
「……君は本当に、……真面目だねぇ」
背後でルカスが感心するように呟いた。ミヤジは何も答えず、振り返ることもしなかった。
ミヤジは、これで七回目、と心の中で数えた。目の前のベッドからは、寝息に混じって時折呻き声が聞こえている。その姿はベッドに潜り込んでいて、長い髪の毛が数束見えるだけだったが。いい加減布団を剥いでしまおうかと、ミヤジが布団に手をかける。すると、内側から引っ張られて「もう少し……」と聞こえた。このやりとりは、これで四回目だった。
三階の執事二人が任務でいない朝。ベッドの中で眠る彼を、揺すり起こす役目がミヤジに回ってきた。彼──ルカスは朝が弱い。弱いというより、夜更かしをしすぎているとも言える。研究熱心な彼は、屋敷の皆が寝静まった後も机に向かい、新薬の研究に精を出していた。はるか昔からずっと変わらず。何度ミヤジが早く寝るようにと声を掛けても、「うん。これだけ」と言って、そのまま朝を迎えることも珍しくない。おそらく昨夜も、遅くまで起きていたのだろう。もしかすると、ルカスがベッドに潜ったのは、朝日が昇ってからかもしれない。
しかしルカスは、打ち合わせを兼ねた会食がある。それも昼間から。身支度を整えて、朝食は軽く済ませるとしても、持ち物の確認をして、会食に来る貴族のリストを見返して……とやるには、既にあまり時間に余裕がない。ミヤジは何故か、自分が追い立てられているような、そんな焦燥感に駆られた。ミヤジが浅黒い手を目いっぱい広げて、布団に包まれた身体を揺する。ルカスは起きない。ミヤジが負けじとまた揺する。けれどルカスはまだ起きない。毎日彼を時間通り起こしている、ここにはいない三階の執事の事を思い、ミヤジは大きな溜息を零した。
「おい。ルカス。いい加減起きろ」
再びミヤジが布団に手をかけると、やはり内側から引っ張られる。ミヤジはそれを無視して、力任せに布団を引っ張った。内側からの抵抗を受けながら、何とか布団を捲る。温もりを引き剥がされたルカスが、体を縮こまらせて顔を顰めた。決して小さくはない身体を、ルカスは胎児のように丸めている。ミヤジは一瞬、ルカスはこのまま寝かせておいて、会食には自分かベリアンが行くべきなのではないか、と考えた。しかし、貴族の中には男女問わず、ルカスと話がしたいと出向いてくる者も少なくはない。その事を考えると、やはり今ルカスを起こす選択しか、ミヤジはとることができなかった。
「起きろ。時間だ」
「ぅうん……。ラムリくん、あと少しだけ……」
ルカスは、瞼を持ち上げることなく、枕に顔を擦り付ける。ラムリであれば、もっと快活に起こすだろうと言ってやりたかった。しかし、相手は寝惚けに寝惚けているのだ。今ミヤジが何を言ったところで理解できないだろう。ミヤジは半分だけ捲っていた布団を、足元まで捲りあげた。
「……私はラムリくんではないよ。早く起きろ」
「ぅん……。ん……? ……ミヤジ? ミヤジが何でここにいるの?」
「ラムリくんもナックくんもいないから、私が起こしに来た。ほら、いいから。布団から出ろ」
ミヤジは薄く目を開けたルカスの、脱力しきった腕を引く。ルカスがきつく目を瞑り、手の甲で瞼を擦った。その際にわずかに呼吸が深くなったのを感じて、ミヤジはもう一度腕を引いた。漸く上体を起こしたルカスが、呻きながらベッドの上から足を下ろした。ミヤジはルカスが目を覚ましたことで、急き立てられるような気持ちが少し落ち着いた。ルカスが寒いだの、眠いだのと文句を言いながら、立ち上がろうとする。しかし、ルカスは、まだ完全に覚醒してはいなかった。ルカスが立ち上がった瞬間、足元がよろけた。それだけならまだ良かったが、ベッドの縁に縺れた足が突っかかる。ミヤジは掴んでいた腕を引いて、薄い腰を支えた。
「……悪いね」
「しっかりしろ」
結果的に、腕の中にルカスを抱きとめるような形を取ることになり、この瞬間ミヤジは、誰もこの部屋の扉を叩かないでくれ、と静かに祈りながら扉へ視線を向けた。腕の中にあるルカスの頭が動く。寝起きでまだ身体中が温かい。寝癖のついて広がった髪が、ミヤジの顎先をくすぐった。
「おはようのキスは?」
「しないよ……」
ルカスはすっかり目を覚ましたようだった。腕の中で悪戯ぽく微笑みながら、上目がちにミヤジを見ている。うっかりすると、唇が触れそうな距離で。甘く柔いシーツの香り。ミヤジは、無意識に頬を寄せてしまいそうになって、悟られないように惜しみながら体を離した。それすらも、ルカスは気付いていたようではあったけれど。ミヤジはすぐ近くにあった、日頃ルカスが使用しているデスクの椅子を引いた。床に散乱したままの、書類や本を拾い上げながら。拾い上げる時、ミヤジは丁寧な手つきで表紙を払った。本は汚れていなかったが、日焼けし、褪せた医学書。随分と古い物だ。本の背は擦れて斑になっている。ここまで読み込んだのがルカスか、全く知らない誰かなのかはミヤジが知ることではない。けれどミヤジは、長い時間を旅してきたであろうこの本を、労わりたくなったのだ。
本をデスクの上に置くと、ミヤジはルカスに椅子に座るよう促した。言葉尻が丸くなったのを誤魔化すために、咳払いを一つして。ルカスは素直に椅子に腰掛けると、頭だけでミヤジの方を振り返った。ルカスは、眼差しに淡く、けれど確かな期待の色を浮かべていた。
「ふふ。何してくれるの?」
「一人でその髪の毛を直していたら、時間が足りないだろう」
「へぇ。ミヤジが梳かしてくれるんだ?」
「……いいから。前を向いてくれ」
ミヤジは迷うことなく腕を伸ばし、ルカスのデスクの一番上の引き出しを開けた。開けてすぐ左側には、ヘアブラシがしまわれている。ルカスが昔からこの場所を、ブラシの置き場に選んでいることを、ミヤジは知っていた。ラムリやナックがこの屋敷に来るより前は、毎朝ミヤジがルカスの寝癖を直していたからだ。この場所にブラシを置くことを決めたのも、ミヤジだった。散らかり放題のルカスのデスク周りから、毎朝ブラシを探す時間が勿体無く感じて、ルカスにここに置いてくれと頼んだのだ。ルカスがこの場所にブラシを置き続けていたことを知ったのは、ルカスとの蟠りが解消された後のことだった。
長い髪を掬い、毛先にブラシを通す。ルカスの髪は細く柔らかい為絡まりやすい。さらに毛量は多く、長さもある為、一筋縄ではいかない。ルカスは、ナイトキャップを被って眠っているようだった。しかし今朝は、ミヤジが部屋に入った時点で、ナイトキャップは床に寂しく横臥していた。それ故ルカスの髪の毛は、所々が激しく絡まっている。細かく毛束を分けて、四度、五度とブラシを入れて、漸くブラシが大人しく通り始めた。ブラシの豚毛が、ルカスの髪の毛を撫でる音が、静かな室内に響く。単調な音に眠気を誘われたらしいルカスが、欠伸を噛み殺しきれずに口を開けた。
「……ふふ。ミヤジに髪の毛を梳かしてもらうなんて、いつぶりだろう」
「さあな。……できたぞ」
滑らかにブラシの通るようになった髪の毛。ミヤジは、普段ルカスがしているように、髪の毛を一つに束ねた。束ね終える頃になって、先に着替えを促した方がよかったか、と思い至った。しかし今着ている寝巻き、これから着替える執事服、どちらも前開きだ。ミヤジはその事に気が付いて、別に構わないかと自分を納得させた。同時に、崩れたら行く前にはまた直してやろう、とも。
ルカスは束ねた髪の毛に一度指を通してから、ミヤジに礼を言って立ち上がった。そしてクローゼットを開けて、中から皺一つない衣服を取り出す。クローゼットの中にも、本が雑多に積まれていたようだったが、ミヤジは見なかったことにした。
「着替えるから待ってて」
「私は先に戻るよ」
「えぇ? 折角だし、たまには一緒に朝食取ろうよ。それとも、ミヤジはもう食べちゃった?」
「いや……これからだが……」
「なら構わないだろう?少し待ってて」
話しながらルカスはボタンに手をかけて服を脱いでいく。ミヤジは、一応恋人だぞと言いかけたが、この男にそれを言ったところで「うん。そうだね」と言われるだけだろうと、口にするのをやめた。無防備に向けられた白い背中。先日自分が付けた痕が、未だに薄桃色を残しているのを見つけて、ミヤジは目を逸らした。衣擦れの音が、妙に艶めかしく鼓膜を震わせる。ミヤジはルカスに気取られないように、小さく自分の手の甲を抓った。
「お待たせ。それじゃあ行こうか」
「ああ……」
ミヤジは扉の方へ歩き出そうと踏み出すと、袖口が引っ張られる。何かに引っ掛けただろうかと振り返ると、ルカスが満面の笑みを浮かべて、ミヤジの袖口を掴んでいた。何か企んでいる。ミヤジの第六感が告げた。ミヤジはルカスが何を言い出すのか待つが、ルカスはただ微笑んでいる。……と、思いきや「ん」と顎を上げて目を閉じた。ミヤジはあまり解りたくはなかったが、その動作が何を意味するのか、すぐに理解できてしまった。
「いいでしょ? 今ここには私達しかいないんだし」
「……誰か来たらとか、考えないのかお前は」
「はぁ。ミヤジは本当に真面目だね。……分かったよ、諦める」
なぜかルカスの方が、やれやれといった調子で頭を軽く振った。諦めると口にした通り、ルカスはミヤジを通り過ぎて、扉の方へと歩いていく。出遅れたミヤジはその背中を追いながら、ルカスの耳に届く程、大きく息を吐き出した。ルカスが真鍮のハンドルに手を掛ける。追いついたミヤジは、ルカスが扉を開ける前に、ハンドルを握る手に自らの手を重ね合わせた。
「ミヤジ? どうしたの?」
ルカスが言葉を紡いでいる最中の、僅かなひと時。ミヤジは頬を寄せた。吐息が飲み込まれていく。柔いシーツの香りは、砂糖のような香水の甘さに変わった。
ミヤジは早々と唇を離すと、ルカスが話し出すより先に扉を開けて部屋の外へと出る。
「……君は本当に、……真面目だねぇ」
背後でルカスが感心するように呟いた。ミヤジは何も答えず、振り返ることもしなかった。