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「お前、男娼をしているんだって?」

 グロバナー家で行われる定例会議を終えて、さあ帰ろうと一歩踏み出した、まさにそのタイミングに、背後から声が飛んできた。
名前を呼ばれたわけでもなかったのに、これは自分に対して向けられた言葉だと、脊椎に流れ落ちるように、五感の全てが一瞬で理解した。
ルカスは、ほとんど自覚の及ばないまま振り返った。
声の主は探さずとも見つかった。
下劣を顔に貼りつけて、歪に口を引き攣らせる男が視界に滑り込み、振り返らなければ良かった、と顎先に指を這わせた。
聞き間違えだっただろうかと、とぼけた顔を作って、その場を去ってしまうこともできた。
けれどそうしなかったのは、そうできなかったのは、男の発した言葉の、あまりの品のなさに、確認を求めてしまったからかもしれない。
 男は半年程前から、頻繁に会議に顔を出していた。
決して有力な貴族などではない。
どちらかと言えば、成り上がりの貴族。
数年ほど前に、男の父が生業としている香料事業が、夜会好きの貴族達から持て囃され、近年表舞台に顔を出すことが増えている。
強固な地盤を持たぬまま、金銭と地位を手に入れた者に多く見られる、傲慢さと強い選民思想で、貴族同士の会話の中でも、あまり好かれていないようではあった。
男は、ルカスに声が届いていないと感じたのか、確かめるようにもう一度、ゆっくりと抉るように、同じ言葉を口にした。
ルカスは男が口にした、下劣極まりない言葉の意味を咀嚼しきるまでに、少し手こずった。
ダンショウ。その言葉を知らないわけではもちろんなかった。
ただ、その言葉を向けられる事に、心当たりがなさすぎたのだ。

「ダンショウ……ですか。……私の知識不足でしたら申し訳ございません。それは香料事業の専門用語か何かでしょうか?」

 視線を外さないまま、ルカスは頬を掻き、笑ってみせた。
男はまだ何か言い足りない様子で、口を二、三度戦慄かせながら開閉していた。
十数秒の間、ルカスは続く言葉を待った後、「先を急ぎますので」と恭しく頭を下げて、男に背を向けた。
後方から、呻くような声が聞こえた気がしたが、ルカスは聞こえてやしないのだと、自身の拍動に重ねて脳髄に伝えることにした。
 ルカスが悪魔執事になってから数千年。
根拠のない噂話から派生した、出処すら不明の悪意を、不意に投げ付けられるのは、今回が初めてというわけではない。
嫌な気持ちにならないと言い切って、笑い飛ばしてしまえば無理が出るが、長い年月を生きる中、人が変われど繰り返される悪意には、自然と慣れが生じた。
その慣れが、良い事か悪い事かは、判断しかねるが。
しかし今回は、向けられた悪意の方向性が、あまりに的外れで、自分自身と乖離していたせいだろうか。
なぜだか男娼という言葉が、バーブのように妙な引っ掛かりを見せた。
傷付いたというわけではない。
納得がいかない、と言った方が近しいかもしれない。
けれど、その気持ちをこれ以上追求することは、男の思惑に嵌っている気がして、やめた。



「今日、お前は男娼なのかって言われちゃった」
「は?」

 下着だけを身に付けて、皺の寄ったベッドの上で気怠く横臥しながら、ルカスはミヤジに世間話をするように、色も温度も無くした声音を、熱の滓が残るシーツに溶け込ませた。
爪の際で逆剥けた薄い皮を弄んで、視線も爪へと向けたまま。
水を飲もうと立ち上がっていたミヤジは、言葉が言葉として成立せずに、手に持っていたグラスを落としそうになった。
ルカスの発したダンショウの響きを、海馬の隅で辞書を引きながら、自分の知っているあのダンショウだろうかと行き着いて、そんな訳がないかと放棄した。

「ダ、ン、ショ、ウ。見えるかな?」
「いや……」

 追い打ちをかけるように、ルカスの声が重なる。
ルカスが言っているのは、おそらく、いや、間違いなく、自分が思い至ったダンショウなのだろう、とミヤジは眉根の中心が重くなった。
飄々として、掴み所もなく、物腰が柔らかなルカスは、男女問わず好意を寄せられる機会が、決して少なくはなかった。
けれど、ルカス本人はというと、向けられた好意の全てに、微笑みを一つ向けるだけで、応じることはなかった。

「なぜ、触れたいと思うのだろうね」

 そう言って、理解ができないと言わんばかりに、小首を傾げていたこともあった。
その当時のミヤジも、既にルカスに触れたいと思ってはいたが、悟らせて、大勢に向けた受容ではない微笑みを、突き付けられるかもしれないことに、臆病さが顔を出して、なぜだろうと曖昧に返すことしかできなかった。
だからこそミヤジは、突き付けられた言葉が、あまりに自分の知る、ルカス・トンプシーという男とかけ離れていて、まさかと思ったのだ。
 ミヤジから見たルカスは、特別傷付いているようでも、悲しんでいるようでもなかったけれど、指先に向けられた冷たい視線は、自分で自分の傷口を、ほじくっているように感じられた。
ミヤジは、水を注いだグラスに口を付けることをせず、横たわるルカスの隣へ腰を据えた。
背中へ腕を回した方が良いだろうかと、腕を持ち上げかけたが、ルカスが今求めているものとは、決定的に何かが噛み合っていない気がして、掌をベッドに沈みこませる。

「……それは、……その、誰が」
「ほら。前に一度話しただろう? 最近になって、香料事業が軌道に乗っている貴族がいるって。その息子」

 何ということはない。ただの世間話だ。
ルカスの声音がそう言い続けていた。
けれどミヤジは、そう思えなかった。
誰が発した言葉なのかが分かって、余計に。
男とミヤジは、全くの無面識というわけではなかった。
かと言って面識がある、という程の関わりもなかったが。
ミヤジが屋敷の音楽係として、依頼された演奏会の打ち合わせの為に、ルカスの定例会議について行った事があった。
その際に、やけに値踏みするような視線を感じ、視線の主を探ると、一人の男がルカスを凝視していた。
異様な空気感に、あの男は誰なのかとルカスに尋ねると、香料商の息子だと教えられたのだ。
その時の男か、とミヤジは柔くこめかみを抑えた。
 ミヤジは、シーツの上に乱雑に散らばった、長い髪のひと束を、指の節に絡ませながら掬いあげた。
冷たい絹糸の手触りが、離すなと言っているようだった。
ルカスの薄い体を、覆い隠す長髪は、まるで繭のようにも見えた。
その密やかに閉じた世界へ、足を踏み入れるように、ミヤジは掬った髪束に口付けた。
 触れられていることに、気付いていない。
そういう顔をして、ルカスは相変わらず指先だけを見つめ、親指の腹で中指の先を撫でている。

「ルカス」
「なに?」

 声を掛けても、視線一つ交わらなかった。
しかし、淡白を貫き通していた声の、言葉尻がかすかに揺らいだ。
ミヤジはその揺らぎを取り零すことはしなかったが、尚のこと、掛ける言葉を慎重に選ばねばと、項の辺りが強張った。

「……私だけだよ」

 お前に触れていいのは。お前に触れることを許されているのは。
続けようと思った言葉は、不器用にも喉奥に張り付いたまま、形を成すことはなかった。
ルカスは、吐息とほとんど差異がない、静かな声で「うん」とだけ言って、髪を絡ませて動かない、ミヤジの骨張った手の甲に、自らの掌を溶け合わせた。
これ以上は充分だとでも言うように。
ルカスは漸く、指先だけを見つめていた双眸を、その姿を確認するように、ミヤジへと向けた。
そして、噛み合った視線の先の、ミヤジの淡い青色の瞳の奥が、自分よりも深く滲んでいるように見えて、瞼を下ろした。
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