SS
私は一体どうしてしまったんだろうか。
近頃、ルカスの周りだけが、まるで世界から浮いているように光って、鮮彩に映る。
反対に、ルカス以外の全ては、シフォンの薄い膜を被っているようで、まるで世界の方が、彼が主役の舞台背景になってしまったようだった。
ルカスが歩行の為の一歩を踏み出すだけで、拍動は不規則的に騒ぎだし、勢いを付けて巡りすぎた血流によって脳が眩んで、呼吸は一瞬止まった。
ルカスがペンを持つために、指先をほんの少し動かしただけで、喉の固い骨はせり上がり、自分でも自覚の及ばないまま、口内に溜まった唾液を押し込んだ。
何か悪い物でも食べただろうか。
それとも二千年も生きて、いよいよ目がおかしくなったのか。
心の隙を突こうとする、悪魔の干渉だろうか。
そのどれもが違うことを、頭では理解していた。
もしも、ベリアンあたりに一言何か言われてしまったら、そうだろうねと納得するしかないことも。
しかし往生際悪く抗っているのだ。
なぜ認めずにいようとしているのか。
その理由は明確だった。
踏み出したところで、どうにもならないだろうという諦念。
……というのは建前で、本当は安易に踏み込んで、拒まれることがおそろしかった。
その情けなさを、どうにもならないだろうと自分に言い聞かせることで、何とか覆い隠していた。
「ミヤジ、ちょっといいかな」
軽やかな歩みで近寄ってくるルカスの姿に、酸素を肺胞まで行き渡らせるように吸い込んで、口元を引き締めた。
距離が詰まっていくと、辺りの景色は彼方へと過ぎ去って、ルカス・トンプシーという男の存在だけで、この世界が埋まるような気さえしてくる。
珊瑚色の唇は、しっとりと空気を振動させながら音を紡いだ。
名前を呼ばれた。
ただそれだけのことで、空気がルカスによって切り裂かれて起きた、その揺らぎ一つで、鼓膜の奥が痺れた。
目が離せない。
ルカスが言葉を紡ぐ度、柔く形を変える唇は、乾燥して皮膚が少しめくれていた。
冬の澄んだ陽光を受けた、暗赤色の睫毛は、臙脂色に透けて見えた。
白皙の肌に落ちる、濃い色の階調。
ルカスは何も言わずに、いつもと変わりない様子で、目尻を下げてはいる。
しかし、目の下の皮膚を染め上げている階調は、寝不足なのだろう事が窺えた。
「……聞いてる?」
「ああ。聞いているよ」
「そう? それならいいのだけれど」
喉奥から無理矢理絞り出した声は掠れていた。
悟られてやしないかと目を逸らしたが、この男のことだ。
何も気付いていないわけがない。
せめて今、ルカスばかり見ていて、話の内容が全く耳に入っていなかったことは、なんとか隠し通すことにしよう。
それすらも、気付いているのかもしれないが。
ルカスが僅かに頭を動かすと、蕩けるほど甘い香りが空気に混じって、鼻先を悪戯に弄んだ。
消えて、また香って、消えた。
副鼻腔の奥に、名残惜しく居座る甘い残滓。
あと、一度だけ。
ルカスの話を、漏らさず聞く為に体勢を変えているのだ、と自分に言い聞かせながら、ルカスの頭に顔を寄せた。
「ねぇ、本当に聞いてる? 疲れているようなら、また後で来るけど」
「……すまない」
謝ったのは、話を聞いていなかったことに対してではない。
認めてなどやらないと、散々強がっておきながら、その甘やかな香りを漂わせる頭に、うっかり腕を伸ばしそうになった。
あまりに意味を成さない、愚かしい見栄を抱き締めて、清廉な友だ、仲間だと言う顔で、隣に立っている。
今この瞬間の、己の情けなさに対してだった。
ルカスは文句の一つでも言おうと思ったのか、唇を薄く開いたが、再び弧を描きながら結んだ。
「大丈夫。私も昨夜は寝ていないから、部屋で休んでから出直すよ」
ルカスが半歩身を引いた。
そこで見送ってしまえば良かったものを、自分でも意識をしたわけでもなく、ルカスの腕を掴んでいた。
見開かれた、蜂蜜と同じ色をした双眸が、綺麗な満月を形作っている。
掴んでしまったものの、自分でもどうしたら良いかが分からずに、手を離そうか、どうしようかと、忙しなく辺りを見回す。
時間にすれば、一秒にも満たないものだったのかもしれない。
動き続けた眼球は、目を逸らしたい意識とは反対に、ルカスの瞳を終着点に選んだ。
「……どうしたの?」
ルカスは変わらない。
いつもと同じ微笑みを向けていた。
けれど微笑みを作る唇は、いつもより歪に見えた。
そうであってほしいと、自分の行動の何か一つで、彼の心が動けばいいと、そう願ったからかもしれないが。
「……唇、荒れてるぞ」
「ああ。今朝起きたら剥けちゃってた。部屋に戻ったら、リップを塗っておくよ。ありがとう」
自らの唇をなぞる、手袋をはめたルカスの指先。
何かを伝える気もなければ、伝わってほしいとも思っていないが、いくら何でも言いようがあっただろうと、力の抜けた腕を離した。
それじゃあと、小さく手を振ってから去っていくルカスの背を、今度は黙って見送った。
近頃、ルカスの周りだけが、まるで世界から浮いているように光って、鮮彩に映る。
反対に、ルカス以外の全ては、シフォンの薄い膜を被っているようで、まるで世界の方が、彼が主役の舞台背景になってしまったようだった。
ルカスが歩行の為の一歩を踏み出すだけで、拍動は不規則的に騒ぎだし、勢いを付けて巡りすぎた血流によって脳が眩んで、呼吸は一瞬止まった。
ルカスがペンを持つために、指先をほんの少し動かしただけで、喉の固い骨はせり上がり、自分でも自覚の及ばないまま、口内に溜まった唾液を押し込んだ。
何か悪い物でも食べただろうか。
それとも二千年も生きて、いよいよ目がおかしくなったのか。
心の隙を突こうとする、悪魔の干渉だろうか。
そのどれもが違うことを、頭では理解していた。
もしも、ベリアンあたりに一言何か言われてしまったら、そうだろうねと納得するしかないことも。
しかし往生際悪く抗っているのだ。
なぜ認めずにいようとしているのか。
その理由は明確だった。
踏み出したところで、どうにもならないだろうという諦念。
……というのは建前で、本当は安易に踏み込んで、拒まれることがおそろしかった。
その情けなさを、どうにもならないだろうと自分に言い聞かせることで、何とか覆い隠していた。
「ミヤジ、ちょっといいかな」
軽やかな歩みで近寄ってくるルカスの姿に、酸素を肺胞まで行き渡らせるように吸い込んで、口元を引き締めた。
距離が詰まっていくと、辺りの景色は彼方へと過ぎ去って、ルカス・トンプシーという男の存在だけで、この世界が埋まるような気さえしてくる。
珊瑚色の唇は、しっとりと空気を振動させながら音を紡いだ。
名前を呼ばれた。
ただそれだけのことで、空気がルカスによって切り裂かれて起きた、その揺らぎ一つで、鼓膜の奥が痺れた。
目が離せない。
ルカスが言葉を紡ぐ度、柔く形を変える唇は、乾燥して皮膚が少しめくれていた。
冬の澄んだ陽光を受けた、暗赤色の睫毛は、臙脂色に透けて見えた。
白皙の肌に落ちる、濃い色の階調。
ルカスは何も言わずに、いつもと変わりない様子で、目尻を下げてはいる。
しかし、目の下の皮膚を染め上げている階調は、寝不足なのだろう事が窺えた。
「……聞いてる?」
「ああ。聞いているよ」
「そう? それならいいのだけれど」
喉奥から無理矢理絞り出した声は掠れていた。
悟られてやしないかと目を逸らしたが、この男のことだ。
何も気付いていないわけがない。
せめて今、ルカスばかり見ていて、話の内容が全く耳に入っていなかったことは、なんとか隠し通すことにしよう。
それすらも、気付いているのかもしれないが。
ルカスが僅かに頭を動かすと、蕩けるほど甘い香りが空気に混じって、鼻先を悪戯に弄んだ。
消えて、また香って、消えた。
副鼻腔の奥に、名残惜しく居座る甘い残滓。
あと、一度だけ。
ルカスの話を、漏らさず聞く為に体勢を変えているのだ、と自分に言い聞かせながら、ルカスの頭に顔を寄せた。
「ねぇ、本当に聞いてる? 疲れているようなら、また後で来るけど」
「……すまない」
謝ったのは、話を聞いていなかったことに対してではない。
認めてなどやらないと、散々強がっておきながら、その甘やかな香りを漂わせる頭に、うっかり腕を伸ばしそうになった。
あまりに意味を成さない、愚かしい見栄を抱き締めて、清廉な友だ、仲間だと言う顔で、隣に立っている。
今この瞬間の、己の情けなさに対してだった。
ルカスは文句の一つでも言おうと思ったのか、唇を薄く開いたが、再び弧を描きながら結んだ。
「大丈夫。私も昨夜は寝ていないから、部屋で休んでから出直すよ」
ルカスが半歩身を引いた。
そこで見送ってしまえば良かったものを、自分でも意識をしたわけでもなく、ルカスの腕を掴んでいた。
見開かれた、蜂蜜と同じ色をした双眸が、綺麗な満月を形作っている。
掴んでしまったものの、自分でもどうしたら良いかが分からずに、手を離そうか、どうしようかと、忙しなく辺りを見回す。
時間にすれば、一秒にも満たないものだったのかもしれない。
動き続けた眼球は、目を逸らしたい意識とは反対に、ルカスの瞳を終着点に選んだ。
「……どうしたの?」
ルカスは変わらない。
いつもと同じ微笑みを向けていた。
けれど微笑みを作る唇は、いつもより歪に見えた。
そうであってほしいと、自分の行動の何か一つで、彼の心が動けばいいと、そう願ったからかもしれないが。
「……唇、荒れてるぞ」
「ああ。今朝起きたら剥けちゃってた。部屋に戻ったら、リップを塗っておくよ。ありがとう」
自らの唇をなぞる、手袋をはめたルカスの指先。
何かを伝える気もなければ、伝わってほしいとも思っていないが、いくら何でも言いようがあっただろうと、力の抜けた腕を離した。
それじゃあと、小さく手を振ってから去っていくルカスの背を、今度は黙って見送った。