SS
体香と紙とインク。
古臭い香水のような埃っぽい香り。
書庫に詰め込まれた歴史を凝縮した匂いは、どこか懐かしく、郷愁を擽った。
この日ミヤジは一冊の本を読んでいた。
この屋敷の人間は誰も目を通さないような、子供向けの冒険譚。
百年以上前の教え子の、お気に入りの一冊。
長い年月書庫にある本は、少しかび臭い。
表紙は褪せて、中身も随分と茶けてきた。
もう何度ここに、自分の皮脂を刻んだことだろう。
ミヤジは時折この冒険譚を開いていた。
内容は、一人の少年が木製ボートで海へと漕ぎ出して、心から信頼できる友を探しに行く、という話。
今では長台詞の一つも漏らさずに頭に入っている。
それほど繰り返し読んだ本。
この本を絶対に読んでと勧めてきた少年は、見つけることができたのだろうか。
物語も終盤に差し掛かった頃、書庫の扉が開く音が響いた。
自分しかいない室内で、聞こえる音といえばページを捲る音、規則的な呼吸音、それから自分の服が擦れる音くらいのものだったから、急に鳴ったその音に思わず顔を上げた。
「ルカス」
「やあ。ミヤジ。ここにいたんだ」
特段ルカスの足音が大きいわけでもないけれど、一歩、また一歩と歩を進める度に室内が振動するほど音が響いて聞こえた。
後ろ手に何かを隠し持っている。
悪戯を仕掛けている時の子供の顔だ。
本の世界に没頭して、異世界と化していた書庫の空気が、ルカスが歩く度に揺らいで、現実のものへと移り変わっていく。
埃っぽい静寂を切り裂いて、白く重たい蜜の気配が漂う。
乳白色の柔さを孕んだ気配は、書庫の空気に漂わせるには、やや不釣り合いに感じた。
背中を見せないようにしながら、隣の椅子を引くルカスに、また揶揄うつもりなのだろうか、と視線だけで警戒する。
「読書はもういいの?」
「……ああ。それよりも、何の用だ」
本を閉じると、手元で埃が陽光に照らされて舞い踊る。
ルカスに顔を向けると、早く言いたくてたまらないとでも言うように、にたにた笑っていた。
憎たらしくも感じるその笑顔を、憎みきれずに見惚れてしまうのは、彼のイエロートパーズの輝きを秘めた瞳に眩惑しているからだろうか。
滑らかな肌に産毛が光って見える。
目の下にはそこにいることが当たり前になりつつある、濃いグラデーション。
ルカスが小さな笑い声を漏らす度に、かすかに揺れる長い髪の毛。
目を奪われていることに気付かれたくなくて、大袈裟に吐いた溜息は、乳白色の気配に絡め取られた。
「なんだと思う? ミヤジにとっても懐かしい物だよ」
「懐かしい物?」
「うん。これ」
これ、と言って腕を回し、テーブルに置かれたのは一つの木箱。
随分年季が入っている。
表面の塗装は所々剥げていて、箱についた小さな鍵も錆が付いていた。
見覚えがあるような、ないような、と思いながら眺めてみるけれど、それが何だったかまるで思い出せない。
どうしたものかと思ってルカスを見ると、思っていた反応と違う、というような顔をされた。
「あれ? 覚えてない?」
「……ああ」
「そう。少し残念だな」
中を見れば思い出すかもしれない、とルカスがポケットから鍵を取り出した。
鍵穴にも錆が付いているようで、鍵が入らない。
結局ほとんど無理矢理捩じ込むようにし差し込んだ。
ルカスがくるくる鍵を回しても、何の音もしなければ、鍵は一周くるりと回ってしまうものだから、壊れていて開かないのかと思った。
しかし、何度か試行錯誤をしていると、不意に蓋が持ち上がる。
軽い蓋を開けると中身はディスクオルゴールだった。
開けた瞬間に書庫と同じ、埃とかびが混ざったような匂いが零れた。
蓋の裏側にはアラベスクのポーズをとったバレリーナが一人描かれている。
内側に描かれていた為に、古びているわりに真新しく感じるほど鮮やかな色彩。
箱と比べると浮いて見える。
「壊れていてもう音は鳴らないんだけれどね」
「そうか」
「これ、君がくれたんだよ。昔。私に」
こんな物、いつ贈ったのだろうか。
古い記憶をいくら呼び起こしてみても、それらしい記憶が見つからない。
そもそもこの男に贈り物をした記憶も、そんなにいくつもあるものではなかった。
思い出すために木箱に触れると、薄くささくれだっている。
ざらついた木の感触。
触り方を間違えると、棘でも刺さってしまいそうだ。
「ねえ、本当に覚えてないの?」
「……ああ。すまない」
「そうか。……それなら、仕方ないね」
思い出したら教えて。
そう言って立ち上がったルカスは、いつもの通り笑ってはいたけれど、滲んだ哀愁が隠しきれていない。
気付いてほしいと目が訴えていた。
ルカスがこんなにも分かりやすく、感情を顔に出すことはあまりない。
それ故に伏せた睫毛が湿って見えてくるほど。
申し訳なく思って必死に海馬の奥を漁る。
けれど浮き上がってくるのは、当たり障りのない日常のことだったり、そもそもルカスの事ですらなかったりした。
考えている間にも、ルカスは扉へ向かって歩いて行ってしまう。
待ってくれと引き止めたいけれど、引き止めたところで、余計に傷を付けるだけかもしれない。
思い出せ、思い出せ、と頭を抱え込んでも、乾いた木箱を睨んでも、何も出てこない。
ルカスが行ってしまう。
あの寂寥感を背負った背中を、このまま行かせてはいけない気がする。
それなのに思い出せない自分がもどかしい。
きっとこの箱を見つけたルカスは、木箱に詰まった、褪せない懐かしさの中に身を置いたのだろう。
もう一度あの音を、と鳴らそうとしたのだろう。
そして、木箱の思い出を知る者と、戻らない時間を共有したい、とここへ持ってきたのだろう。
それなのに、自分の不甲斐なさと言ったら。
胃液が逆流してくるような気持ちの悪さを覚えて、額に汗が滲む。
何も思い出せない現実から、目を背けてしまいたくて、視線を外す。
歪んで流れる視界の中で、救いを求めるように縋りついたのは、テーブルの上に置かれた冒険譚。
褪せた表紙が閃光のように脳髄を駆けた。
「あ……」
思い出してしまえば、どうして忘れていたのだろうと思う。
──今から千年以上前。
その日は任務の依頼があり、オルゴールが有名な街へと出向いていた。
ルカスと自分、それから今はもうこの世に居ない、三人の悪魔執事達。
依頼内容は確かとある貴族の護衛だった。
数日間の任務を終えて、明日は貴族を送り届けて屋敷へ帰る。
そんな夜のことだった。
執事の中の誰か──おそらくルカスだと思うけれど──が、一足先に慰労会をしようと言い出した。
横柄な態度の貴族に疲れ切っていた事もあり、反対する者は一人もいなかった。
翌朝が控えているから、そんなに多く酒を飲んだわけではない。
けれど日付が変わる頃には、船を漕ぎ出す者もいた。
自分自身も、いつもより飲酒量が多かったのか、あまり酔わない体質だけれど、軽い酩酊状態だった気がする。
夜も更けて、そろそろ寝ようか、という話が出始めた頃に、執事の中の誰かがこんな話をし始めた。
この街では、プロポーズをする時に、指輪と一緒にオルゴールを贈る慣習があること。
自分も天使との戦いを終わったら、いつかオルゴールを贈る人に出会いたいこと。
そして、もしそんな人に出会えたら、命を賭して守り抜きたいこと。
そんな話を聞きながら、明日からまた頑張ろう、とその場にいる誰もが思っていたと思う。
もちろん自分も例外ではなく。
恋だの、結婚だのにはあまり興味がなかった。
というよりも、自分はその幸せを享受していい側の人間ではない、と思っていた。
だから彼の話もどこか、遠い世界のように聞こえていた部分があった。
けれど、テーブルの上のグラスを片付け始めていたルカスと不意に目が合った時。
影を帯びたイエロートパーズに意識を絡め取られて、酔いを覚ましてくる、と言って宿を出た。
夜闇に包まれた道は、冬の風が匂いもつけずに吹いていた。
道なりに歩いていると、すぐにオルゴール店を見つけた。
もう店内は暗く、店が閉まっていることは一目見て分かった。
けれど道に面した窓辺に飾られた、一つのオルゴールがどうしても欲しかった。
アラベスクのポーズをとっているバレリーナが、夜の暗闇の中でも鮮やかだった。
言い訳をすると、アルコールのせいもあったと思う。
眠っている店主を起こして、頼み込んで売ってもらった。
帰り道、こんな物を買ってどうするつもりなのだろうと思った。
耳を細切れにするような風の音も、聞こえなかった。
けれど腹の中は、まるでそこだけに血液が溜まっているかのように、温かかった。
滑らかな木箱の蓋に指を滑らせて、おもちゃのように小さい鍵を、掌の中にしまいこんだ。
宿に着くと、片付けを終えたルカスは、今まさにベッドに入ろうとしているところだった。
月明かりに照らされた陶器肌が、青白く浮かび上がって幻想的に網膜を灼いた。
「おかえり。どこへ行ってたの?」
「……これを、お前に。……指輪はないが」
「……これ、私が貰っていいのかい」
辺りは暗くて、表情はよく見えなかったけれど、ルカスは抑えきれないという風に、唇を歪めながら綺麗に笑っていた。
すぐ傍らで執事達が眠っている。
そんな状況では抱き締めることも、唇を寄せることもできずに、無愛想に短く返事を返した。
「ありがとう、ミヤジ。その、……嬉しい。とても」
俯き加減にはにかむルカスに、衝動が抑えきれずに額にキスをした。
髪の毛に絡み付いたアルコールの香りに、覚めた酔いが戻ってきそうになった。
けれどこの場は二人だけの空間ではない。
日が昇れば貴族の護衛をしなければならないし、これ以上は何もできない、と諦めてベッドに潜り込んだ。
──あの夜から、数え切れないほどの夜を過ごした。
甘い言葉を囁きあった夜。
ルカスと関わることを避けた二八四年間の夜は、思い出したくないことの方が多い。
今またこうして、再び関わりを持つことができていることは、奇跡に近い。
ゆっくりと、眺めていた本の表紙から目線を上げると、ルカスはあの夜と同じような、歪んだ笑顔をしていた。
「……思い出した?」
「……ああ。すまなかった、忘れていて」
「いいよ。今日は特別に」
扉の前まで歩いていたルカスが戻ってくる。
その指先一つ、足先一つ、震える声の一つさえも、腕の中に閉じ込めてしまいたくなった。
もしも、こんなに遠回りをせず思い出すことができていたなら、諦念を払いきれない笑顔をさせずに済んだだろうか。
「……指輪、買いに行こう」
その言葉に乳白色の甘い気配が揺れる。
書庫の物言わぬ空気の中に、新しく、けれどひどく懐かしい熱が、確かに脈打ち始めた。
「ふふ。付ける機会、ないかもしれないよ」
「それでも構わない」
むしろ、どこかへしまい込んで置いてほしかった。
掃除の苦手なルカスが無くしたことも忘れて、このディスクオルゴールのように、また持ってきてほしかった。
今度は必ず覚えている、と胸を張れるわけではないけれど。
また、泣き出しそうな笑顔を作らせてしまうかもしれないけれど。
またいつか、今日のように。
古臭い香水のような埃っぽい香り。
書庫に詰め込まれた歴史を凝縮した匂いは、どこか懐かしく、郷愁を擽った。
この日ミヤジは一冊の本を読んでいた。
この屋敷の人間は誰も目を通さないような、子供向けの冒険譚。
百年以上前の教え子の、お気に入りの一冊。
長い年月書庫にある本は、少しかび臭い。
表紙は褪せて、中身も随分と茶けてきた。
もう何度ここに、自分の皮脂を刻んだことだろう。
ミヤジは時折この冒険譚を開いていた。
内容は、一人の少年が木製ボートで海へと漕ぎ出して、心から信頼できる友を探しに行く、という話。
今では長台詞の一つも漏らさずに頭に入っている。
それほど繰り返し読んだ本。
この本を絶対に読んでと勧めてきた少年は、見つけることができたのだろうか。
物語も終盤に差し掛かった頃、書庫の扉が開く音が響いた。
自分しかいない室内で、聞こえる音といえばページを捲る音、規則的な呼吸音、それから自分の服が擦れる音くらいのものだったから、急に鳴ったその音に思わず顔を上げた。
「ルカス」
「やあ。ミヤジ。ここにいたんだ」
特段ルカスの足音が大きいわけでもないけれど、一歩、また一歩と歩を進める度に室内が振動するほど音が響いて聞こえた。
後ろ手に何かを隠し持っている。
悪戯を仕掛けている時の子供の顔だ。
本の世界に没頭して、異世界と化していた書庫の空気が、ルカスが歩く度に揺らいで、現実のものへと移り変わっていく。
埃っぽい静寂を切り裂いて、白く重たい蜜の気配が漂う。
乳白色の柔さを孕んだ気配は、書庫の空気に漂わせるには、やや不釣り合いに感じた。
背中を見せないようにしながら、隣の椅子を引くルカスに、また揶揄うつもりなのだろうか、と視線だけで警戒する。
「読書はもういいの?」
「……ああ。それよりも、何の用だ」
本を閉じると、手元で埃が陽光に照らされて舞い踊る。
ルカスに顔を向けると、早く言いたくてたまらないとでも言うように、にたにた笑っていた。
憎たらしくも感じるその笑顔を、憎みきれずに見惚れてしまうのは、彼のイエロートパーズの輝きを秘めた瞳に眩惑しているからだろうか。
滑らかな肌に産毛が光って見える。
目の下にはそこにいることが当たり前になりつつある、濃いグラデーション。
ルカスが小さな笑い声を漏らす度に、かすかに揺れる長い髪の毛。
目を奪われていることに気付かれたくなくて、大袈裟に吐いた溜息は、乳白色の気配に絡め取られた。
「なんだと思う? ミヤジにとっても懐かしい物だよ」
「懐かしい物?」
「うん。これ」
これ、と言って腕を回し、テーブルに置かれたのは一つの木箱。
随分年季が入っている。
表面の塗装は所々剥げていて、箱についた小さな鍵も錆が付いていた。
見覚えがあるような、ないような、と思いながら眺めてみるけれど、それが何だったかまるで思い出せない。
どうしたものかと思ってルカスを見ると、思っていた反応と違う、というような顔をされた。
「あれ? 覚えてない?」
「……ああ」
「そう。少し残念だな」
中を見れば思い出すかもしれない、とルカスがポケットから鍵を取り出した。
鍵穴にも錆が付いているようで、鍵が入らない。
結局ほとんど無理矢理捩じ込むようにし差し込んだ。
ルカスがくるくる鍵を回しても、何の音もしなければ、鍵は一周くるりと回ってしまうものだから、壊れていて開かないのかと思った。
しかし、何度か試行錯誤をしていると、不意に蓋が持ち上がる。
軽い蓋を開けると中身はディスクオルゴールだった。
開けた瞬間に書庫と同じ、埃とかびが混ざったような匂いが零れた。
蓋の裏側にはアラベスクのポーズをとったバレリーナが一人描かれている。
内側に描かれていた為に、古びているわりに真新しく感じるほど鮮やかな色彩。
箱と比べると浮いて見える。
「壊れていてもう音は鳴らないんだけれどね」
「そうか」
「これ、君がくれたんだよ。昔。私に」
こんな物、いつ贈ったのだろうか。
古い記憶をいくら呼び起こしてみても、それらしい記憶が見つからない。
そもそもこの男に贈り物をした記憶も、そんなにいくつもあるものではなかった。
思い出すために木箱に触れると、薄くささくれだっている。
ざらついた木の感触。
触り方を間違えると、棘でも刺さってしまいそうだ。
「ねえ、本当に覚えてないの?」
「……ああ。すまない」
「そうか。……それなら、仕方ないね」
思い出したら教えて。
そう言って立ち上がったルカスは、いつもの通り笑ってはいたけれど、滲んだ哀愁が隠しきれていない。
気付いてほしいと目が訴えていた。
ルカスがこんなにも分かりやすく、感情を顔に出すことはあまりない。
それ故に伏せた睫毛が湿って見えてくるほど。
申し訳なく思って必死に海馬の奥を漁る。
けれど浮き上がってくるのは、当たり障りのない日常のことだったり、そもそもルカスの事ですらなかったりした。
考えている間にも、ルカスは扉へ向かって歩いて行ってしまう。
待ってくれと引き止めたいけれど、引き止めたところで、余計に傷を付けるだけかもしれない。
思い出せ、思い出せ、と頭を抱え込んでも、乾いた木箱を睨んでも、何も出てこない。
ルカスが行ってしまう。
あの寂寥感を背負った背中を、このまま行かせてはいけない気がする。
それなのに思い出せない自分がもどかしい。
きっとこの箱を見つけたルカスは、木箱に詰まった、褪せない懐かしさの中に身を置いたのだろう。
もう一度あの音を、と鳴らそうとしたのだろう。
そして、木箱の思い出を知る者と、戻らない時間を共有したい、とここへ持ってきたのだろう。
それなのに、自分の不甲斐なさと言ったら。
胃液が逆流してくるような気持ちの悪さを覚えて、額に汗が滲む。
何も思い出せない現実から、目を背けてしまいたくて、視線を外す。
歪んで流れる視界の中で、救いを求めるように縋りついたのは、テーブルの上に置かれた冒険譚。
褪せた表紙が閃光のように脳髄を駆けた。
「あ……」
思い出してしまえば、どうして忘れていたのだろうと思う。
──今から千年以上前。
その日は任務の依頼があり、オルゴールが有名な街へと出向いていた。
ルカスと自分、それから今はもうこの世に居ない、三人の悪魔執事達。
依頼内容は確かとある貴族の護衛だった。
数日間の任務を終えて、明日は貴族を送り届けて屋敷へ帰る。
そんな夜のことだった。
執事の中の誰か──おそらくルカスだと思うけれど──が、一足先に慰労会をしようと言い出した。
横柄な態度の貴族に疲れ切っていた事もあり、反対する者は一人もいなかった。
翌朝が控えているから、そんなに多く酒を飲んだわけではない。
けれど日付が変わる頃には、船を漕ぎ出す者もいた。
自分自身も、いつもより飲酒量が多かったのか、あまり酔わない体質だけれど、軽い酩酊状態だった気がする。
夜も更けて、そろそろ寝ようか、という話が出始めた頃に、執事の中の誰かがこんな話をし始めた。
この街では、プロポーズをする時に、指輪と一緒にオルゴールを贈る慣習があること。
自分も天使との戦いを終わったら、いつかオルゴールを贈る人に出会いたいこと。
そして、もしそんな人に出会えたら、命を賭して守り抜きたいこと。
そんな話を聞きながら、明日からまた頑張ろう、とその場にいる誰もが思っていたと思う。
もちろん自分も例外ではなく。
恋だの、結婚だのにはあまり興味がなかった。
というよりも、自分はその幸せを享受していい側の人間ではない、と思っていた。
だから彼の話もどこか、遠い世界のように聞こえていた部分があった。
けれど、テーブルの上のグラスを片付け始めていたルカスと不意に目が合った時。
影を帯びたイエロートパーズに意識を絡め取られて、酔いを覚ましてくる、と言って宿を出た。
夜闇に包まれた道は、冬の風が匂いもつけずに吹いていた。
道なりに歩いていると、すぐにオルゴール店を見つけた。
もう店内は暗く、店が閉まっていることは一目見て分かった。
けれど道に面した窓辺に飾られた、一つのオルゴールがどうしても欲しかった。
アラベスクのポーズをとっているバレリーナが、夜の暗闇の中でも鮮やかだった。
言い訳をすると、アルコールのせいもあったと思う。
眠っている店主を起こして、頼み込んで売ってもらった。
帰り道、こんな物を買ってどうするつもりなのだろうと思った。
耳を細切れにするような風の音も、聞こえなかった。
けれど腹の中は、まるでそこだけに血液が溜まっているかのように、温かかった。
滑らかな木箱の蓋に指を滑らせて、おもちゃのように小さい鍵を、掌の中にしまいこんだ。
宿に着くと、片付けを終えたルカスは、今まさにベッドに入ろうとしているところだった。
月明かりに照らされた陶器肌が、青白く浮かび上がって幻想的に網膜を灼いた。
「おかえり。どこへ行ってたの?」
「……これを、お前に。……指輪はないが」
「……これ、私が貰っていいのかい」
辺りは暗くて、表情はよく見えなかったけれど、ルカスは抑えきれないという風に、唇を歪めながら綺麗に笑っていた。
すぐ傍らで執事達が眠っている。
そんな状況では抱き締めることも、唇を寄せることもできずに、無愛想に短く返事を返した。
「ありがとう、ミヤジ。その、……嬉しい。とても」
俯き加減にはにかむルカスに、衝動が抑えきれずに額にキスをした。
髪の毛に絡み付いたアルコールの香りに、覚めた酔いが戻ってきそうになった。
けれどこの場は二人だけの空間ではない。
日が昇れば貴族の護衛をしなければならないし、これ以上は何もできない、と諦めてベッドに潜り込んだ。
──あの夜から、数え切れないほどの夜を過ごした。
甘い言葉を囁きあった夜。
ルカスと関わることを避けた二八四年間の夜は、思い出したくないことの方が多い。
今またこうして、再び関わりを持つことができていることは、奇跡に近い。
ゆっくりと、眺めていた本の表紙から目線を上げると、ルカスはあの夜と同じような、歪んだ笑顔をしていた。
「……思い出した?」
「……ああ。すまなかった、忘れていて」
「いいよ。今日は特別に」
扉の前まで歩いていたルカスが戻ってくる。
その指先一つ、足先一つ、震える声の一つさえも、腕の中に閉じ込めてしまいたくなった。
もしも、こんなに遠回りをせず思い出すことができていたなら、諦念を払いきれない笑顔をさせずに済んだだろうか。
「……指輪、買いに行こう」
その言葉に乳白色の甘い気配が揺れる。
書庫の物言わぬ空気の中に、新しく、けれどひどく懐かしい熱が、確かに脈打ち始めた。
「ふふ。付ける機会、ないかもしれないよ」
「それでも構わない」
むしろ、どこかへしまい込んで置いてほしかった。
掃除の苦手なルカスが無くしたことも忘れて、このディスクオルゴールのように、また持ってきてほしかった。
今度は必ず覚えている、と胸を張れるわけではないけれど。
また、泣き出しそうな笑顔を作らせてしまうかもしれないけれど。
またいつか、今日のように。