SS

 この頃どうにも疲れてしまった。
こなせどもこなせども、減ったと思う間もなく次から次へと積み上がっていく仕事にも。
何の変化も異常もなくとも、同じ話を繰り返しながら現状を貴族達に報告し続けることにも。
なんだか全てに嫌気がさしてきてしまった。
暗紫色のびろうどが内臓を柔く包み込み、感情はその奥に姿を消した。
疲れただとか疲れていないだとか、そういったことを感じることさえも、疲れる。
ここのところ特に立て込んでいたから尚のこと。
頭の中にある言葉は「疲れた」と「休みたい」だけ。
 しかしそんな事は言っていられないのが現実だ。
変わらぬ笑顔で、変わらぬ声音で、変わらぬ仕草で、今日という一日を乗り越えていかなければ。

「はあ…………」
「……随分と大きな溜息だな」

 一人きりだと思って油断していた。
声のした出入口の方へと顔を向けると丁度ミヤジが中へ入ってくるところだった。
もう少し元気があれば明るく挨拶をすることも、彼を揶揄うこともできたけれど、今はそれすらする気が起きない。
ミヤジの揺れる短い三つ編みを何の感情も持たずに見つめた。
考えすぎの頭が騒がしくて、今は彼に触れたいとさえ思えない。
 近付いてくる足音。
二千年以上もこの足音を聞いているから、体重の乗せ方や、歩く時に足の指で地面を握るようにしている癖も、もう覚えてしまった。

「……また倒れるなよ」
「ご忠告どうもありがとう。最近忙しかったから、少し疲れただけだよ」
「お前の少しは信用できない」

 言葉の強さとは打って変わって、刺々しさの欠片も無い声音。
ミヤジの発する音が嫌なものでないのは、そこに彼の持つ温かみが乗っているからだろう。
あまりの心地良さに暗紫色のびろうども、彼の前でだけは赤子を包む綿紗に変わってしまいそうだ。

「どうしたの?」
「いや、ここに本を置き忘れたままだと思ったんだが……」
「……ああ、すまないね。あとで届けようと思って私が持っていたんだった」

 本を手渡す時に指先が重なった。
互いに手袋を付けているものだから、ほんの僅かに重なった程度では、一体手袋の中にどんな体温を宿しているのか、想像もつかなかった。
こんなに疲れていなければ、体温を教えてほしいと手を握っていたかもしれない。
ミヤジの服の袖でも引っ張って、キスを強請ったかもしれない。
けれど今はそんな気すらびろうどの内側だ。
 余計な心配をかけない為にいつもの通り笑ってはいるけれど、感情が一つもついてこない。

「……ルカス」
「なに? あ、そうだ。今夜空いてる?」
「……空いてはいるが、晩酌には付き合わない」
「そう。残念」

 思ってもいないのに誘って、思ってもいないのに残念と笑って。
体の末端どころか芯から冷えきってしまっている。
 きっと誘う気もなく声を掛けたことを、ミヤジは分かっていないだろう。
ただ、僅かに濃く張り付いた目の下の隈だとか、いつもより少ない言葉数だとか、そういった事から疲れが溜まっていることには気付いていると思うけれど。
 いつまでもここで、彼と時間を共有していたい。
そうすればきっとそのうちに、びろうどの奥で氷漬けになった感情が、ゆったり氷を脱ぎ去ってくれるような気がする。
けれどそろそろミヤジの深い微睡蜜の声音に別れを告げなければならない。
部屋へ戻って仕事の続きをしなければ。

「……それじゃあミヤジ、私はお先に失礼するよ」

 コンサバトリーから出ようと立っているミヤジの横を通り抜けた。
頭の中では貴族への手紙の返信、任務依頼、明後日に控えているグロバナー家での定例会議の事が複雑に縺れ絡み合っていた。
順番に片付けていかなければ。
再び零してしまいそうになった深い吐息を肺に押し戻す。
 その刹那、後ろ髪を引かれるように振り返りたくなった。
恋人の顔を見れば頑張れるだとか、好きな相手に名残を惜しみたいだとか、そんな甘い砂糖菓子のような理由ではなかったけれど。
何となく、ミヤジの姿を見たかった。
彼の視線が今どこに向いているかだけでも、確認したかったのかもしれない。
 立ち止まって靴の先を見つめていた目を、頭ごとミヤジが立っているであろう方向に向けた。
前髪のせいで仄暗く見えていた視界が、開けて明るくなる。
ミヤジが今そうしたのか、自分が横を通り抜けた時からそうしていたのか分からないけれど、真っ直ぐに射抜かれた。
拍動が鼓膜を震わせるほど大きくなって、ミヤジを確認したくて向けた視線を逸らした。

「見てたの?」

 そう聞ければ良かった。
しかしそれすらも言葉にならない。
迎えを待つ子供のように、一歩一歩踏み締めるようにミヤジの靴が近付いてくるのを黙って見つめていた。

「……ルカス」
「なに?」

 髪の内側に滑り込んでくる手。
手袋の布越しでも、冷え性の大きな手はこれっぽちも温かくない。
思わず声をあげそうになった。
制止する間もなく指の腹に耳朶をなぞられて、唇を結ぶ。
こんなにも甘く誘導されていると、彼の服を握ってしまいたくなった。

「何か私にできることはあるか」
「……大丈夫だよ」
「本当に?」

 なぜミヤジはこうも自分の心の隙間に潜り込んでくるのが上手いのだろうと呆れた。
いや、ミヤジが特別上手いわけではないかもしれない。
自分がミヤジに潜り込んできてほしいのだ。
この暗紫色のびろうどの中へ。
 チューバのように体の内側を震わせる、重く深い声。
耳から潜り込んできて、脳髄を甘く蕩かす。

「本当に、大丈夫……」
「なら、その嘘臭い笑顔はやめるんだな」

 嘘臭いだなんて失礼な、と思ったけれど否定する余地がない。
耳を摘んで形を確かめるように撫でている手の背に手を重ねた。
決して制止の為ではないことを自分自身が一番よくわかっていた。

「……ぎゅ、て、してほしい」

 自分でも驚く程に小さな小さな声だった。
もしかすると聞こえていないかもしれない。
むしろ幼すぎる願いは、聞こえていないならその方が幸せかもしれない。
 それなのにうっかりすれば聴き逃してしまいそうなその声を、ミヤジは当然という顔をして拾い上げた。
 肺の中いっぱいによく知ったミヤジの香りが広がっていく。
かすかに涼やかで冷えて感じる。
けれど涼やかさの奥にある解すような甘さは、ミヤジの持つ温かさと同じ形をしていた。
ミヤジの背に腕を回して、存在していることを確かめながら、厚い布地を指の先が白くなるほど強く、強くしがみつく。

「……無理をしすぎるな」
「……ん、ごめん」

 耳に触れる脈動。
自分の鼓動の音と重なり合って一つ分に聴こえる。
 ミヤジは肩口に頭を凭れさせて、深く息を吸い込んだ。
もしかしすると彼も自分と同じように、もしくはそれ以上に、寄りかかって休みたかったのかもしれない。
髪の表面を撫でると、体温と同じ温度になった息を吐き出して、首筋に勘違いかと思うくらい軽いキスをされた。
触れた唇の熱すぎた残り熱がじんじんと皮膚に張り付いている。

「……ミヤジ」
「なんだ」
「もう少しだけ、このままでいてくれないか」
「……ああ。構わない」

 今は、この瞬間だけは、仕事のことを無理矢理にでも忘れてしまおう。
ミヤジの体温で、感情を氷の中から救ってやって、そうして元の日常に帰っていけばいい。
日常の中にひとさじこの体温を持ち帰って。
そうしたら内臓に覆い被さる暗紫色のびろうども、少しだけ軽くなっているはずだ。
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