SS
「ねえ、このチーズ、すごく美味しいよね。ミヤジと食べたくて買ってきたんだ」
目の前でボルドー型の空瓶を抱えた男が愉快げにチーズを口に運ぶ。
中身はつい先程、この男──ルカス・トンプシーの胃袋に全て収められた。
蝋燭に照らされたアンバーのガラス素材。
揺らぐ炎を閉じ込めた空瓶を、ルカスの陶器のように滑らかな指先がなぞる。
「……ねぇ。食べないの? チーズあまり好きじゃなかった?」
そう。今この酔っ払いが一生懸命になって話しかけているのは、自分で空にしたワインボトル。
褐色の肌は空瓶の琥珀ほど濃い色をしていないだろう、と思うけれど、今の彼には何を言っても通じない。
ルカスは毒々しい深紅に染まった唇で、蕩け落ちそうに潤んだ蜂蜜色の双眸で、恍惚としながら返事のない空瓶に話しかけていた。
アルコールが引き起こしたハルシネイション。
産まれたての赤ん坊に触れるように優しく抱いている空瓶を、時たま淡く桃色に染まった掌で撫でつけた。
「……ミヤジ」
艶のある唇を薄く開いて空瓶にスライドキスを繰り返す。
熱を渇望するように、ガラス瓶を舐めとる舌先。
冷たくはないのかと思ったけれど、抱きしめているから体温が移っているのだろう。
散々ルカスの唾液を擦り付けられたガラスは、蝋燭の灯りにてらてらと妖しく光った。
熱情的な表情をガラスの世界に反射させてルカスは噎せ返る程あまっとろい吐息を吐き出した。
一体何を見せられているんだと頭を抱えたくなる。
二千年以上、途方もない時を共に過ごしてきたけれど、ここまで酔いに身を委ねている様は初めて見た。
「ミヤジ……」
潤みきって歪んだ蜂蜜に、こんな無防備な姿を他の誰にも見せてくれるな、と苛立ちを覚えた。
空瓶から溢れ落ちる、肺に直接絡みつくほどに芳醇で、理性を保っていることが馬鹿らしく感じてくる甘い葡萄の馨香。
ルカスのうじゃじゃけた果実のような吐息と混ざり合って、この部屋の中を支配していた。
目の前に置かれたグラスの中の深い赤を腹の奥で疼く感情とともに喉奥へと押し流す。
「……ルカス。今日はもう寝るぞ。ほら、立って」
「ん……みやじ、すき」
突如空瓶に向けて告げられた好意に、もう知っていると呆れとも諦念ともつかない溜息が、甘い葡萄の香りと混じりあった。
これまで直接好意を持っている旨を聞かされた事があったわけではなかったけれど、何も驚きはしない。
一人でヴァイオリンを弾いていると部屋の外から様子を伺っていたことも知っていた。
書類を受け渡す際に指先が触れると、残った熱を確かめるように、触れた指先を反対の手でなぞっていたことも。
怪我の処置を自分でしようとしていたものだから、代わりに処置を施した際に「ありがとう」と言ったその声が、調子を外して裏返って、微細な振動を起こしていたことも。
ランドリーに置き忘れていたカーディガンに人知れず鼻を寄せていたことも。
全部、気付いていた。
気付いてはいたけれど、何か直接的な言葉や行動を受けたわけではない以上、単なる自分の勘違いかもしれない。
そう思ったまま動けずにいた。
「みやじ、……すき、すき」
相変わらず無機質なガラスに艶めかしく囁き続ける男の手から、空瓶を取り上げる。
目の前にいるのだから、その囁きを砂の一粒分だけでもこちらへ向けてくれたらよかった。
そしたらば必死に抑え込んだ衝動が、ふと溢れ出してしまっても言い訳することができただろう。
「うん? みやじ、みやじだ。おいで」
酔っ払いの戯言とは分かっていても、つい椅子を寄せてしまった。
木製の床に椅子の足が擦れて乾いた音が鳴る。
近付いたことによって一層強くなり、眩む程の芳しさ。
指紋の溶けた滑らかな指先が顔の輪郭をなぞる。
「ルカス。今日はもう部屋へ──」
「……ミヤジ。好きだよ」
蕩けて歪んだ蜂蜜が一瞬、確かな熱を宿した形を作った。
ほとんど無意識だった。
その眼差しにあてられるようにルカスの後頭部に手を伸ばし、髪の奥へと潜り込ませた。
指の節々に絡み付く細い髪の感触が、後戻りができないことを告げている。
──明日の朝には、アルコールのせいになっているだろうか。
情けなくも頭の中で言い訳をしながら口付けた。
温度を持たないガラス瓶を舐め回していた深紅は、ルカス自身の唾液でじっとりと濡れていた。
薄く開いた隙間から舌を伸ばして歯列を舐めると、吐息が吹き込まれて口内が爛れる。
「ン、……っふ、ぅ」
水音を立てて夢中で口内を蹂躙していると、ルカスが膝を擦り合わせたのが分かった。
強い葡萄酒の香りに、かすかに残った理性まで焼き切れてしまいそうだった。
二つの別の生き物として意志を持って動いてた舌先は、絡んだ熱が蕩けて一つの塊に成り果てた。
逃げ場を無くすように後頭部を押さえていた掌に、爪の先まで力がこもる。
脳が溶ける。
鼻に抜ける甘い皮膚の香り。
一歩油断をすれば飲み込まれてしまう。
我を忘れて貪り尽くしてしまう。
熱を飲み尽くすように唇を食んでから離す。
だらしなく伸びた銀糸が垂れて、ルカスの顎先に張り付いた。
指の腹でルカスの顎先の途切れた糸を拭い、熱を分けた唇を舐めた。
「……朝には忘れていてくれ。全て」
目の前でボルドー型の空瓶を抱えた男が愉快げにチーズを口に運ぶ。
中身はつい先程、この男──ルカス・トンプシーの胃袋に全て収められた。
蝋燭に照らされたアンバーのガラス素材。
揺らぐ炎を閉じ込めた空瓶を、ルカスの陶器のように滑らかな指先がなぞる。
「……ねぇ。食べないの? チーズあまり好きじゃなかった?」
そう。今この酔っ払いが一生懸命になって話しかけているのは、自分で空にしたワインボトル。
褐色の肌は空瓶の琥珀ほど濃い色をしていないだろう、と思うけれど、今の彼には何を言っても通じない。
ルカスは毒々しい深紅に染まった唇で、蕩け落ちそうに潤んだ蜂蜜色の双眸で、恍惚としながら返事のない空瓶に話しかけていた。
アルコールが引き起こしたハルシネイション。
産まれたての赤ん坊に触れるように優しく抱いている空瓶を、時たま淡く桃色に染まった掌で撫でつけた。
「……ミヤジ」
艶のある唇を薄く開いて空瓶にスライドキスを繰り返す。
熱を渇望するように、ガラス瓶を舐めとる舌先。
冷たくはないのかと思ったけれど、抱きしめているから体温が移っているのだろう。
散々ルカスの唾液を擦り付けられたガラスは、蝋燭の灯りにてらてらと妖しく光った。
熱情的な表情をガラスの世界に反射させてルカスは噎せ返る程あまっとろい吐息を吐き出した。
一体何を見せられているんだと頭を抱えたくなる。
二千年以上、途方もない時を共に過ごしてきたけれど、ここまで酔いに身を委ねている様は初めて見た。
「ミヤジ……」
潤みきって歪んだ蜂蜜に、こんな無防備な姿を他の誰にも見せてくれるな、と苛立ちを覚えた。
空瓶から溢れ落ちる、肺に直接絡みつくほどに芳醇で、理性を保っていることが馬鹿らしく感じてくる甘い葡萄の馨香。
ルカスのうじゃじゃけた果実のような吐息と混ざり合って、この部屋の中を支配していた。
目の前に置かれたグラスの中の深い赤を腹の奥で疼く感情とともに喉奥へと押し流す。
「……ルカス。今日はもう寝るぞ。ほら、立って」
「ん……みやじ、すき」
突如空瓶に向けて告げられた好意に、もう知っていると呆れとも諦念ともつかない溜息が、甘い葡萄の香りと混じりあった。
これまで直接好意を持っている旨を聞かされた事があったわけではなかったけれど、何も驚きはしない。
一人でヴァイオリンを弾いていると部屋の外から様子を伺っていたことも知っていた。
書類を受け渡す際に指先が触れると、残った熱を確かめるように、触れた指先を反対の手でなぞっていたことも。
怪我の処置を自分でしようとしていたものだから、代わりに処置を施した際に「ありがとう」と言ったその声が、調子を外して裏返って、微細な振動を起こしていたことも。
ランドリーに置き忘れていたカーディガンに人知れず鼻を寄せていたことも。
全部、気付いていた。
気付いてはいたけれど、何か直接的な言葉や行動を受けたわけではない以上、単なる自分の勘違いかもしれない。
そう思ったまま動けずにいた。
「みやじ、……すき、すき」
相変わらず無機質なガラスに艶めかしく囁き続ける男の手から、空瓶を取り上げる。
目の前にいるのだから、その囁きを砂の一粒分だけでもこちらへ向けてくれたらよかった。
そしたらば必死に抑え込んだ衝動が、ふと溢れ出してしまっても言い訳することができただろう。
「うん? みやじ、みやじだ。おいで」
酔っ払いの戯言とは分かっていても、つい椅子を寄せてしまった。
木製の床に椅子の足が擦れて乾いた音が鳴る。
近付いたことによって一層強くなり、眩む程の芳しさ。
指紋の溶けた滑らかな指先が顔の輪郭をなぞる。
「ルカス。今日はもう部屋へ──」
「……ミヤジ。好きだよ」
蕩けて歪んだ蜂蜜が一瞬、確かな熱を宿した形を作った。
ほとんど無意識だった。
その眼差しにあてられるようにルカスの後頭部に手を伸ばし、髪の奥へと潜り込ませた。
指の節々に絡み付く細い髪の感触が、後戻りができないことを告げている。
──明日の朝には、アルコールのせいになっているだろうか。
情けなくも頭の中で言い訳をしながら口付けた。
温度を持たないガラス瓶を舐め回していた深紅は、ルカス自身の唾液でじっとりと濡れていた。
薄く開いた隙間から舌を伸ばして歯列を舐めると、吐息が吹き込まれて口内が爛れる。
「ン、……っふ、ぅ」
水音を立てて夢中で口内を蹂躙していると、ルカスが膝を擦り合わせたのが分かった。
強い葡萄酒の香りに、かすかに残った理性まで焼き切れてしまいそうだった。
二つの別の生き物として意志を持って動いてた舌先は、絡んだ熱が蕩けて一つの塊に成り果てた。
逃げ場を無くすように後頭部を押さえていた掌に、爪の先まで力がこもる。
脳が溶ける。
鼻に抜ける甘い皮膚の香り。
一歩油断をすれば飲み込まれてしまう。
我を忘れて貪り尽くしてしまう。
熱を飲み尽くすように唇を食んでから離す。
だらしなく伸びた銀糸が垂れて、ルカスの顎先に張り付いた。
指の腹でルカスの顎先の途切れた糸を拭い、熱を分けた唇を舐めた。
「……朝には忘れていてくれ。全て」