SS
ルカスは甘え方の下手な人間だ。
普段はミヤジに対して不器用だと笑うけれど、ミヤジから見たルカスも、不器用さを隠す事が上手いだけで決して器用というわけではなかった。
その日ミヤジはこれまでに何度も読み返している、お気に入りの詩集を読みながらリビングのソファーで寛いでいた。
キャメルのカウチソファーは、この家で二人暮しを始める際、家具屋で一緒に選んだ物だ。
明日は久しぶりにルカスと休日が被る貴重な一日。
今朝「今夜は映画でも観よう」と言いながら家を出た恋人の言葉を受けて、アルコールもつまみも既に買い揃えてきた。
もう数え切れないほどの夜を共に越えてきた。
けれど恋人と落ち着いて過ごせる時間は、どれだけ積み重ねても年甲斐もなく浮き足立つ。
横目で時計を確認しながら帰宅を待っていると、つい鼻歌まで口ずさんでしまっていた。
誰もいない部屋で、言い訳をするように頭を掻いていてると、丁度玄関の鍵を解錠する音が軽やかに聞こえた。
「ただいま」
「おかえり」
リビングに入ってきたルカスは、荷物を少し雑に床に置いた。
着ている黒のチェスターフィールドコートもそのままに目の前まで来ると、足を跨いで倒れ込むように抱きついてくる。
何か仕事で嫌な思いでもしたか、溜まっていた疲れが噴出したのだろう。
ルカスが愚痴を零すことは多くなかったけれど、時折抱えきれなくなった孤独を分け合いたいとでも言うように温もることを求めた。
「……ベッド、行きたい」
「夕飯を食べて、風呂に入って、それからだ。体を温めた方がいい」
「夕飯よりミヤジの方がいい」
押し付けるように重ねられた唇。
折角だから湿り気を帯びた熱を堪能しようと細い腰を抱き寄せて、長い髪に指を通す。
冷たい外気に晒されていた鼻先が冷えている。
チェスターフィールドコートの重くざらついたウール。
静寂に包まれた部屋の中で、吐息の音だけが鼓膜に響いて脊椎に触れた。
触れるだけですぐに離れていった唇を追いかけようと顔を寄せると、指の先まで凍りつくような温度の両手が顔を包んだ。
体の冷たさとは反対に潤む蜜色琥珀の奥には爛れるほどの情炎。
「ベッド、行きたい」
言葉はもういらなかった。
ルカスとの境界線を曖昧にぼやかしていくような時間は好きだった。
それはただルカスは自分のものだと感じられるからということ以上に、混ざりこんで一つになった熱の心地良さ。
そして常日頃理知的で、自制心も強く、一人の医者として清廉に過ごすルカスが、自分の前では恥も外聞もかなぐり捨てて、熱を求める一人の男になる様が何よりも喜ばしかった。
──映画を観ることも、夕飯をとることも何もせず、互いの体温を貪り続けて気が付けば深夜三時を過ぎたところ。
冷静になった頭で、こんな時間まで何をしているんだろう、と考えながら熱の余韻が抜けていない体をベッドに横たえる。
「ねぇ、お腹すいちゃった」
「……だから夕飯を食べてからにしろと言っただろう。……何か食べるのか」
寒いと素肌に毛布を巻き付けて、しきりにミヤジは? と聞いてくる。
素直に言えばしっかりとした夕飯はルカスと共に食べようと思って、ルカスが帰ってくるより少し前にサンドウィッチをつまんだだけだったから腹は減っていた。
しかしこんな時間に食事をするのはあまり褒められたことではない。
疲れ果てた体では、ベッドの外の冷えきった世界で食事を作るのも、外に買いに行くのも面倒だった。
「ミヤジ。私ラーメンが食べたい」
名案だとでも言いたげに、掠れた声で無邪気な笑顔を向けてくる。
残念ながらインスタントラーメンの買い置きはこの間使い切ってそれきりだし、カップ麺も家には置いていない。
髪を一束掬いながらそれを伝えると明らさまな不満の声を漏らす。
「そしたら、食べに行こうよ」
「今からか」
「うん。駅前のラーメン屋さん、この時間まだ開いているよ」
「……駅前まで行くのか」
家から駅までは片道十五分程度。
そう遠い距離ではない。
けれどこの時間に、冬の寒さに耐えながら歩くのは、想像だけでもかなり億劫だった。
隣で毛布に包まりながら行こう、と誘ってくるルカスの艶のある唇を奪う。
「……寒くて嫌だと言ったら?」
「この時間に一人で出歩く恋人が心配じゃないなら、眠っていればいいと思うよ」
「お前は……本当に……」
上手く人を動かすものだ。
厚手の毛布が纏わりついているのかと思うほど重い体を持ち上げた。
零した溜息は呆れ顔をしていたけれど、うっかり甘さが滲んだ気がした。
どうにもこの男には敵わない。
「……ほら。早く行くぞ」
「やった。ミヤジ大好き」
「お前はそういう時ばかり……」
クローゼットから取り出したルカスの服を投げて渡す。
ありがとうと受け取って、毛布を被ったままでモソモソと着替える様子に、むしろ着替えづらいだろうと溜息が出た。
ルカスとまったく同じパーカーに袖を通す。
特別意識してお揃いにしようと買ったわけではないけれど、いつの間にかクローゼットの中には同じ服が二着並ぶことが増えていた。
深夜だし、誰かに会うわけでもないし、これでいいかとゆったりとしたスウェットパンツを選んで履く。
ダウンコートを羽織り、マフラーを巻いて、手袋を身につける。
ラーメン屋に向かう、たった十五分の距離を歩くだけで着込みすぎだろうか。
しかしこれだけ着込んでもこの時間は防寒具が意味をなさないほど寒いしな、と悩みながら振り返るとまったく同じ格好をしたルカスがにんまり笑いながら
「早く行こ」
と手を引いてきて、別になんでも構わないかという気持ちになった。
外へ出ると真夜中の世界は静まり返っていた。
耳を切り裂くように吹く冷たい風に、マフラーの内側に顔を埋める。
住宅街の一角であるこの場所は決して少なくはない人々が道を行き交う。
それも昼間の話ではあるけれど。
今この道を歩いているのは自分とルカスと、追いかけてくる月と星々、それから突き抜ける冬の風だけだった。
「……寒い」
「分かりきっていたことだろう」
身に染みる寒さで無口になる。
四つの靴音だけが静寂を鳴らした。
マフラーの内側が息苦しくて、外気に口元を晒すと真っ白な息が煙のようにもくもく立ち上った。
こうして二人で暗く静かな時間を共有していると、今存在しているのは自分がいつも現実だと思っている世界とは別の世界なのではないかという気さえしてくる。
紺青の凍りついた世界の中に確かな輪郭を持って存在しているのは、自分とルカスの二人だけで、それ以外の全ては朝には溶け落ちる幻なのではないか。
深夜特有の叙情的な気持ちを手と一緒にダウンコートのポケットに詰め込んで歩いていると、それはただの幻想だとでも言いたげに、ポケットの上からルカスがつついてくる。
「なんだ」
「手、出してよ。繋ぎたい」
「……寒い」
「可愛い恋人の、可愛いお願いだというのに」
歩いたせいだろう。
少し上がった呼吸に合わせてルカスの口から吐き出された白が闇に紛れ込んでいく。
街灯の明かりだけではっきりとは見えないが、鼻先と頬が赤く染って見えた。
吐き出した息がルカスの輪郭を甘く扇情的にぼかしていく。
つい今しがた寒いと理由をつけて断ったばかりの
ルカスの手を引いて抱き寄せた。
前髪をどかして薄く口付ける。
ルカスの頭から、自分と同じシャンプーの香りが彼自身の甘い香りと混じって香ってくる。
「ふふふ、帰ったらまた、するの?」
「……今日はもうしない。帰ったら寝る」
妖しく微笑む蜜色琥珀。
もう寝る、なんて言ったところでルカスに誘われれば、断る選択肢なんて初めからあってないようなものだ。
「帰ったら映画観ようよ」
「明日観ればいいだろう」
「なんだか勿体ないだろう。折角君と過ごせるのに」
「私は起きていられる自信ないぞ」
「構わないよ。君が私を置いて先に眠れるなら、ね」
本当に甘えることが下手で、人を動かすことばかりが上手い。
それも分かったうえでこの男からは逃げられない。
──そもそも逃げようと思ってもいないけれど。
深夜の寒風の中で、いつの間にか僅か体が温まったように感じるのは、抱き寄せたルカスの熱が移っているからだろう。
明日は昼過ぎまで眠ってしまうかもしれない。
夕方になってから、折角の休みなのだから出掛ければ良かったと思うかもしれない。
そんな怠惰な休日の過ごし方も、あってもいいのではと思えるのは、腕の中の体温をどうしようもなく愛してしまったからだった。
暗闇の奥にぽつんと揺れる小さな灯り。
こんな時間に、わざわざ外へ出てラーメンを食べるなんて、きっと一人ならばしなかった。
手袋越しに指先を絡めて足音を重ねる。
隣で小さく鼻歌を口ずさむこの男が笑って過ごせるなら、それだけで充分満ち足りてしまうのだ。
普段はミヤジに対して不器用だと笑うけれど、ミヤジから見たルカスも、不器用さを隠す事が上手いだけで決して器用というわけではなかった。
その日ミヤジはこれまでに何度も読み返している、お気に入りの詩集を読みながらリビングのソファーで寛いでいた。
キャメルのカウチソファーは、この家で二人暮しを始める際、家具屋で一緒に選んだ物だ。
明日は久しぶりにルカスと休日が被る貴重な一日。
今朝「今夜は映画でも観よう」と言いながら家を出た恋人の言葉を受けて、アルコールもつまみも既に買い揃えてきた。
もう数え切れないほどの夜を共に越えてきた。
けれど恋人と落ち着いて過ごせる時間は、どれだけ積み重ねても年甲斐もなく浮き足立つ。
横目で時計を確認しながら帰宅を待っていると、つい鼻歌まで口ずさんでしまっていた。
誰もいない部屋で、言い訳をするように頭を掻いていてると、丁度玄関の鍵を解錠する音が軽やかに聞こえた。
「ただいま」
「おかえり」
リビングに入ってきたルカスは、荷物を少し雑に床に置いた。
着ている黒のチェスターフィールドコートもそのままに目の前まで来ると、足を跨いで倒れ込むように抱きついてくる。
何か仕事で嫌な思いでもしたか、溜まっていた疲れが噴出したのだろう。
ルカスが愚痴を零すことは多くなかったけれど、時折抱えきれなくなった孤独を分け合いたいとでも言うように温もることを求めた。
「……ベッド、行きたい」
「夕飯を食べて、風呂に入って、それからだ。体を温めた方がいい」
「夕飯よりミヤジの方がいい」
押し付けるように重ねられた唇。
折角だから湿り気を帯びた熱を堪能しようと細い腰を抱き寄せて、長い髪に指を通す。
冷たい外気に晒されていた鼻先が冷えている。
チェスターフィールドコートの重くざらついたウール。
静寂に包まれた部屋の中で、吐息の音だけが鼓膜に響いて脊椎に触れた。
触れるだけですぐに離れていった唇を追いかけようと顔を寄せると、指の先まで凍りつくような温度の両手が顔を包んだ。
体の冷たさとは反対に潤む蜜色琥珀の奥には爛れるほどの情炎。
「ベッド、行きたい」
言葉はもういらなかった。
ルカスとの境界線を曖昧にぼやかしていくような時間は好きだった。
それはただルカスは自分のものだと感じられるからということ以上に、混ざりこんで一つになった熱の心地良さ。
そして常日頃理知的で、自制心も強く、一人の医者として清廉に過ごすルカスが、自分の前では恥も外聞もかなぐり捨てて、熱を求める一人の男になる様が何よりも喜ばしかった。
──映画を観ることも、夕飯をとることも何もせず、互いの体温を貪り続けて気が付けば深夜三時を過ぎたところ。
冷静になった頭で、こんな時間まで何をしているんだろう、と考えながら熱の余韻が抜けていない体をベッドに横たえる。
「ねぇ、お腹すいちゃった」
「……だから夕飯を食べてからにしろと言っただろう。……何か食べるのか」
寒いと素肌に毛布を巻き付けて、しきりにミヤジは? と聞いてくる。
素直に言えばしっかりとした夕飯はルカスと共に食べようと思って、ルカスが帰ってくるより少し前にサンドウィッチをつまんだだけだったから腹は減っていた。
しかしこんな時間に食事をするのはあまり褒められたことではない。
疲れ果てた体では、ベッドの外の冷えきった世界で食事を作るのも、外に買いに行くのも面倒だった。
「ミヤジ。私ラーメンが食べたい」
名案だとでも言いたげに、掠れた声で無邪気な笑顔を向けてくる。
残念ながらインスタントラーメンの買い置きはこの間使い切ってそれきりだし、カップ麺も家には置いていない。
髪を一束掬いながらそれを伝えると明らさまな不満の声を漏らす。
「そしたら、食べに行こうよ」
「今からか」
「うん。駅前のラーメン屋さん、この時間まだ開いているよ」
「……駅前まで行くのか」
家から駅までは片道十五分程度。
そう遠い距離ではない。
けれどこの時間に、冬の寒さに耐えながら歩くのは、想像だけでもかなり億劫だった。
隣で毛布に包まりながら行こう、と誘ってくるルカスの艶のある唇を奪う。
「……寒くて嫌だと言ったら?」
「この時間に一人で出歩く恋人が心配じゃないなら、眠っていればいいと思うよ」
「お前は……本当に……」
上手く人を動かすものだ。
厚手の毛布が纏わりついているのかと思うほど重い体を持ち上げた。
零した溜息は呆れ顔をしていたけれど、うっかり甘さが滲んだ気がした。
どうにもこの男には敵わない。
「……ほら。早く行くぞ」
「やった。ミヤジ大好き」
「お前はそういう時ばかり……」
クローゼットから取り出したルカスの服を投げて渡す。
ありがとうと受け取って、毛布を被ったままでモソモソと着替える様子に、むしろ着替えづらいだろうと溜息が出た。
ルカスとまったく同じパーカーに袖を通す。
特別意識してお揃いにしようと買ったわけではないけれど、いつの間にかクローゼットの中には同じ服が二着並ぶことが増えていた。
深夜だし、誰かに会うわけでもないし、これでいいかとゆったりとしたスウェットパンツを選んで履く。
ダウンコートを羽織り、マフラーを巻いて、手袋を身につける。
ラーメン屋に向かう、たった十五分の距離を歩くだけで着込みすぎだろうか。
しかしこれだけ着込んでもこの時間は防寒具が意味をなさないほど寒いしな、と悩みながら振り返るとまったく同じ格好をしたルカスがにんまり笑いながら
「早く行こ」
と手を引いてきて、別になんでも構わないかという気持ちになった。
外へ出ると真夜中の世界は静まり返っていた。
耳を切り裂くように吹く冷たい風に、マフラーの内側に顔を埋める。
住宅街の一角であるこの場所は決して少なくはない人々が道を行き交う。
それも昼間の話ではあるけれど。
今この道を歩いているのは自分とルカスと、追いかけてくる月と星々、それから突き抜ける冬の風だけだった。
「……寒い」
「分かりきっていたことだろう」
身に染みる寒さで無口になる。
四つの靴音だけが静寂を鳴らした。
マフラーの内側が息苦しくて、外気に口元を晒すと真っ白な息が煙のようにもくもく立ち上った。
こうして二人で暗く静かな時間を共有していると、今存在しているのは自分がいつも現実だと思っている世界とは別の世界なのではないかという気さえしてくる。
紺青の凍りついた世界の中に確かな輪郭を持って存在しているのは、自分とルカスの二人だけで、それ以外の全ては朝には溶け落ちる幻なのではないか。
深夜特有の叙情的な気持ちを手と一緒にダウンコートのポケットに詰め込んで歩いていると、それはただの幻想だとでも言いたげに、ポケットの上からルカスがつついてくる。
「なんだ」
「手、出してよ。繋ぎたい」
「……寒い」
「可愛い恋人の、可愛いお願いだというのに」
歩いたせいだろう。
少し上がった呼吸に合わせてルカスの口から吐き出された白が闇に紛れ込んでいく。
街灯の明かりだけではっきりとは見えないが、鼻先と頬が赤く染って見えた。
吐き出した息がルカスの輪郭を甘く扇情的にぼかしていく。
つい今しがた寒いと理由をつけて断ったばかりの
ルカスの手を引いて抱き寄せた。
前髪をどかして薄く口付ける。
ルカスの頭から、自分と同じシャンプーの香りが彼自身の甘い香りと混じって香ってくる。
「ふふふ、帰ったらまた、するの?」
「……今日はもうしない。帰ったら寝る」
妖しく微笑む蜜色琥珀。
もう寝る、なんて言ったところでルカスに誘われれば、断る選択肢なんて初めからあってないようなものだ。
「帰ったら映画観ようよ」
「明日観ればいいだろう」
「なんだか勿体ないだろう。折角君と過ごせるのに」
「私は起きていられる自信ないぞ」
「構わないよ。君が私を置いて先に眠れるなら、ね」
本当に甘えることが下手で、人を動かすことばかりが上手い。
それも分かったうえでこの男からは逃げられない。
──そもそも逃げようと思ってもいないけれど。
深夜の寒風の中で、いつの間にか僅か体が温まったように感じるのは、抱き寄せたルカスの熱が移っているからだろう。
明日は昼過ぎまで眠ってしまうかもしれない。
夕方になってから、折角の休みなのだから出掛ければ良かったと思うかもしれない。
そんな怠惰な休日の過ごし方も、あってもいいのではと思えるのは、腕の中の体温をどうしようもなく愛してしまったからだった。
暗闇の奥にぽつんと揺れる小さな灯り。
こんな時間に、わざわざ外へ出てラーメンを食べるなんて、きっと一人ならばしなかった。
手袋越しに指先を絡めて足音を重ねる。
隣で小さく鼻歌を口ずさむこの男が笑って過ごせるなら、それだけで充分満ち足りてしまうのだ。