SS
約三百年前。幼い少年の亡骸に縋り付く君の背中が悲しかった。
儚く朧で、せめてその背に手を当ててやりたかったけれど、自分にその資格はないのだと拳を固く握った。
感情をあらわに咽ぶ君の姿に、いつかの自分を重ねながら。
こんなにも悲しく痛々しい思いをさせてはいけなかった。させたくなかった。
底のない悲しみを、もう二度と触れることのできない寂しさを、背負うのは自分一人で十分だった。
君が詰り罵るのを、ただ聞き入れることが自分の役目なのだと思った。
悲しみに飲まれた君の全てを受け入れる。
そうすることしか、できなかった。
どれだけ悲しかろうが、苦しかろうが、ここで止まるわけにはいかないのだと、自分を奮い立たせながら。
君と再び関わりを持つようになって、しばらく経った頃、
「あの時は自分の気持ちを優先し、酷い言葉を投げつけた。すまなかった」
と君は言った。
けれど、君が謝ることなんて、何一つとしてない。
救えなかったのは、取り零したのは、選んだのは、他でもない自分自身だ。
ねえ、ミヤジ。あの頃の君も私も、その時にできる最善を尽くした。
そして私は選んだ道に間違いはなかったのだ、と今もこうして自分に言い聞かせ続ける。
ただ、それだけ。
「……お前、まだ起きていたのか」
「ミヤジこそ。こんな時間に訪ねてきて、何かあった?」
夜半薬の研究に勤しんでいると、ミヤジが治療室を訪ねてきた。
眠れないのだろうか。
今日はあの夜ととても似ている、ひどく寂しげな風が吹いたことが原因かもしれない。
「あまり根を詰めすぎるなよ」
「ご忠告どうもありがとう。けれど、私は大丈夫だ」
大丈夫と口で言いながら、自分自身は知っている。
立ち続ける為に、歩き続ける為に、感情に見ないふりを決め込んでいることを。
もしかしたらミヤジもそれを薄々察しているのかもしれない。
けれどやめろと言わないところを見ると、気付いていないか、もしくは彼なりの優しさなのかもしれなかった。
「……ルカス」
「なに?」
「自分では気付いていないのかもしれないが、お前、随分と酷い顔をしているぞ。……悪いことは言わない。今日は休め」
「へぇ。自分ではどんな顔をしているのか、見当もつかないな」
咎めるような重く深い声に名前を呼ばれる。
聞こえないはずのない距離で、聞こえないふりを決め込んだ。
実験器具と開かれた本。それから自分にしか読めないような字で書かれたメモ書き。
それらが雑多に置かれた机に向き直る。
さあ、早く部屋を出て行ってはくれないか。
今夜はほんの少しでも心に隙ができれば、啜り泣いてしまいそうな程、夜風が悲しい色をしているのだから。
「……これ以上は私は何も言わない。ただ、一つだけ。……あまり、無理はするな」
「……ああ。ありがとう」
その言葉が今夜無意味であるとしても、自分に心を配る人の存在は素直にありがたいものだった。
直にミヤジは部屋を出る。それでいい。
そう思って手元に視線を落とした。
けれどミヤジはなかなか部屋を出ていく気配がない。
気配がないどころか、目を向ければ置きっぱなしの椅子にどっかり腰掛けて、口も開かずむっつりとこちらを見ている。
「え……っと? ミヤジ? まだ何か?」
「気にするな。お前が部屋に戻ったら、私も戻る」
「いやいや……。もう夜も遅いし、早く部屋に戻って寝た方がいいと思うよ」
それはお互い様だと言われてしまって、反論の言葉が喉奥に詰まった。
こうして彼の持つ優しさを私に配るのは、そこにいつかの贖罪も僅かながらに含まれているのではないかと勘繰ってしまう。
「…………もう、お前にだけ背負わせるようなことはしないと決めたんだ」
ミヤジの表情は決意と過去の傷を噛み締めているようで、見ているこちらの眉間に皺が寄るほど痛々しかった。
喪った悲しみは、どれだけの時間が経ったとしても消えることはない。
そっとなりを潜めたとしても、いつまでも同じ場所に在り続ける。
どれだけ思い続けようと、もう届かない"あの日"の幻影。
おそらくミヤジもそんな幻影に手を伸ばし続けているのだ、今も。
その沈痛な面持ちに、もう二度とそんな顔を、そんな思いを、誰にもさせてはいけないと改めて感じた。
君の優しさが深く暗い色を帯びることを避けなければ。
その為に今できる最善を尽くす。
目の前の実験器具に一度目を向けてから、もう一度ミヤジを見る。
「……分かった。今夜は君に従って、眠ることにする。……それでいいかな」
「ああ。一人でここへ戻ってくるなよ」
「うん……。分かった。」
あからさまにほっとしたような顔をして、ゆったりと腰をあげる。
言葉足らずな優しさにいつまでも浸かっていたくなる。
けれど与えられるままに浸かってしまっていては、動けなくなってしまいそうだ。
そうならないように突っ撥ね続けてきた。
向けられた気遣いに目を背けてきた。
それでも、今夜、今夜だけは、片足くらい浸からせてほしい。
儚く朧で、せめてその背に手を当ててやりたかったけれど、自分にその資格はないのだと拳を固く握った。
感情をあらわに咽ぶ君の姿に、いつかの自分を重ねながら。
こんなにも悲しく痛々しい思いをさせてはいけなかった。させたくなかった。
底のない悲しみを、もう二度と触れることのできない寂しさを、背負うのは自分一人で十分だった。
君が詰り罵るのを、ただ聞き入れることが自分の役目なのだと思った。
悲しみに飲まれた君の全てを受け入れる。
そうすることしか、できなかった。
どれだけ悲しかろうが、苦しかろうが、ここで止まるわけにはいかないのだと、自分を奮い立たせながら。
君と再び関わりを持つようになって、しばらく経った頃、
「あの時は自分の気持ちを優先し、酷い言葉を投げつけた。すまなかった」
と君は言った。
けれど、君が謝ることなんて、何一つとしてない。
救えなかったのは、取り零したのは、選んだのは、他でもない自分自身だ。
ねえ、ミヤジ。あの頃の君も私も、その時にできる最善を尽くした。
そして私は選んだ道に間違いはなかったのだ、と今もこうして自分に言い聞かせ続ける。
ただ、それだけ。
「……お前、まだ起きていたのか」
「ミヤジこそ。こんな時間に訪ねてきて、何かあった?」
夜半薬の研究に勤しんでいると、ミヤジが治療室を訪ねてきた。
眠れないのだろうか。
今日はあの夜ととても似ている、ひどく寂しげな風が吹いたことが原因かもしれない。
「あまり根を詰めすぎるなよ」
「ご忠告どうもありがとう。けれど、私は大丈夫だ」
大丈夫と口で言いながら、自分自身は知っている。
立ち続ける為に、歩き続ける為に、感情に見ないふりを決め込んでいることを。
もしかしたらミヤジもそれを薄々察しているのかもしれない。
けれどやめろと言わないところを見ると、気付いていないか、もしくは彼なりの優しさなのかもしれなかった。
「……ルカス」
「なに?」
「自分では気付いていないのかもしれないが、お前、随分と酷い顔をしているぞ。……悪いことは言わない。今日は休め」
「へぇ。自分ではどんな顔をしているのか、見当もつかないな」
咎めるような重く深い声に名前を呼ばれる。
聞こえないはずのない距離で、聞こえないふりを決め込んだ。
実験器具と開かれた本。それから自分にしか読めないような字で書かれたメモ書き。
それらが雑多に置かれた机に向き直る。
さあ、早く部屋を出て行ってはくれないか。
今夜はほんの少しでも心に隙ができれば、啜り泣いてしまいそうな程、夜風が悲しい色をしているのだから。
「……これ以上は私は何も言わない。ただ、一つだけ。……あまり、無理はするな」
「……ああ。ありがとう」
その言葉が今夜無意味であるとしても、自分に心を配る人の存在は素直にありがたいものだった。
直にミヤジは部屋を出る。それでいい。
そう思って手元に視線を落とした。
けれどミヤジはなかなか部屋を出ていく気配がない。
気配がないどころか、目を向ければ置きっぱなしの椅子にどっかり腰掛けて、口も開かずむっつりとこちらを見ている。
「え……っと? ミヤジ? まだ何か?」
「気にするな。お前が部屋に戻ったら、私も戻る」
「いやいや……。もう夜も遅いし、早く部屋に戻って寝た方がいいと思うよ」
それはお互い様だと言われてしまって、反論の言葉が喉奥に詰まった。
こうして彼の持つ優しさを私に配るのは、そこにいつかの贖罪も僅かながらに含まれているのではないかと勘繰ってしまう。
「…………もう、お前にだけ背負わせるようなことはしないと決めたんだ」
ミヤジの表情は決意と過去の傷を噛み締めているようで、見ているこちらの眉間に皺が寄るほど痛々しかった。
喪った悲しみは、どれだけの時間が経ったとしても消えることはない。
そっとなりを潜めたとしても、いつまでも同じ場所に在り続ける。
どれだけ思い続けようと、もう届かない"あの日"の幻影。
おそらくミヤジもそんな幻影に手を伸ばし続けているのだ、今も。
その沈痛な面持ちに、もう二度とそんな顔を、そんな思いを、誰にもさせてはいけないと改めて感じた。
君の優しさが深く暗い色を帯びることを避けなければ。
その為に今できる最善を尽くす。
目の前の実験器具に一度目を向けてから、もう一度ミヤジを見る。
「……分かった。今夜は君に従って、眠ることにする。……それでいいかな」
「ああ。一人でここへ戻ってくるなよ」
「うん……。分かった。」
あからさまにほっとしたような顔をして、ゆったりと腰をあげる。
言葉足らずな優しさにいつまでも浸かっていたくなる。
けれど与えられるままに浸かってしまっていては、動けなくなってしまいそうだ。
そうならないように突っ撥ね続けてきた。
向けられた気遣いに目を背けてきた。
それでも、今夜、今夜だけは、片足くらい浸からせてほしい。