一つ一つ重ねたカミは

「弟子くん、もう帰っていいよ」
 師匠はいつもオレにそう言う。
 こだわりが強くて自分で片付けなければ気が済まないのかと思っていた。そのときまでは。
「あ、ライター忘れた」
 その日も例によって帰っていいよと言われ、荷物をまとめて廊下を歩いていたのだが、休憩時間にライター見せてと言われて見せて置いたきり忘れていたそのライターがなければオレは家で吸えねえ。
 深夜だし、店も開いてねえし。
 そんなわけでてくてくと歩いて戻って、扉の前。漏れる光に師匠まだ残ってるよなと思って手を伸ばしかけたそのとき。
「……せん」
 声が聞こえた。
 師匠だ。
 誰かと会ってるのか?
 伸ばした手を下ろし、駄目だとは思ったが耳をすます。
「すみません、……すみません」
 謝ってる……?
「すみませんパンチさん……次こそは……」
 パンチ……?
「次こそはノれる曲をかけますので、許してください……許して」
「師匠」
 ばたん、と扉を開ける。
「ヒッ」
 怯えた顔の師匠がこちらを向く。
 部屋の中には師匠一人だけ、他に人はいない。
「誰と話してたんすか?」
「いや、別に……」
「廊下まで聞こえてましたよ」
「何がですか?」
「師匠の声が」
「……それは」
「独り言すか?」
「ええ、まあ、そんなところです」
「誰に謝ってたんすか?」
「……」
 頑なに口を閉ざす師匠。視線の先には、オレのライター。黄色。服の色にあわせて買ったんだよな。
「ライター忘れちゃったんすよ。聞いて欲しくなかったんなら謝りますけど」
「いえ……別に」
「悩み事あるなら相談してくれてもいいんすよ」
「大丈夫だよ」
「大丈夫って顔じゃないですよ」
「大丈夫だから」
「……そうですか」
 ライターを懐にしまい、歩き出す。
「あんまり根詰めすぎないでくださいね」
「はい……」
 部屋から出て、扉を閉め、佇む。
 部屋は静かで、泣き声の一つも聞こえてこなかった。
20/82ページ
スキ