夏の終わりはエメラルドにて【タイロディ+クレス】[Web再録]
◆
遠き冬。永遠の雪に閉ざされた街。
“辺境の地”エンバーグロウ。
『████た』
――“それ”が。
――「始まり」だった。
◇
『……ディオン、ロディオン……俺を赦すか』
『ええ、ええ、赦します。タイタス。私は貴方を赦します』
◇
真冬。
その日、■■旅団は「権力を極めし者」タイタスを倒し、俺の復讐は成った。
息絶えたヴェルノートを抱えて歩く狩人に、泣いているリンユウ。
悲痛な雰囲気だった。
いつもはおしゃべりな団長のペレディールも今日ばかりはかける言葉がないようで、険しい顔で歩いている。
そんなパーティが「タイタス大聖堂」の中程に差し掛かったときだった。
「ペレディール」
「なんじゃ、ウィンゲート」
「廊下で誰か倒れている」
「死体じゃないのか」
と俺。
「いや……あれは……」
走り出すウィンゲート。
「おい、ウィン」
敵か味方かもわからないのに警戒するべきだ、と言おうとしたが、それよりも早くウィンゲートは倒れている奴のところにたどり着いていた。
パーティは少し遅れて到着する。
「大丈夫か」
倒れている奴の肩をとんとんと叩くウィンゲート。
俺は倒れている奴をじっと見る。
やや乱れたブラウンの髪。胸元には緑色の宝石がついたケープ留めをしている。外見からして、三十代くらいの男だろうか。
整った顔は土気色で生気がなく、息はあるが死んでいるかのような雰囲気だが……
「聖職者か?」
気付けば、口から出ていた。
「いや、薬師だろうな」
ウィンゲートが答える。
「ペストマスクを持っていた」
「そうか」
「う……」
呻く、男。
ウィンゲートが覗き込む。
「あの……人は」
「あの人?」
「…………」
男はごほ、と咳をする。
「そう……ですか」
立ち上がろうとして、再び崩れ落ちそうになる男。
思わず、身体が動いていた。
「無理はするな」
そこで見えた首元に、両手で絞められたような跡がついていることに気付く。
「何があったか知らんが、貴重な生き残りだ。大人しく街に帰って手当を受けるんだな」
敵か味方かもわからないのに、という気持ちはもう消失していた。
敵であろうが味方であろうが、タイタスが死んだ今そんなものは等しく「終わり」だ。
「ありがとう……ございます」
そこで男は再び気を失う。
俺は男を肩に背負い、歩き出した。
それが、俺とこの男との出会いだった。
◆
「クレス」
「なんだ」
「あやつが目を覚ましたらしいぞ」
「誰だ」
「お前さんが運んだ、あの男だ」
「……ああ」
「お前さんに一言礼を言いたいと言っているので、こうして呼んでいる」
「俺なんかに?」
「助けられたのだ、当然じゃろう」
「律儀な奴だ」
「それで、行くのか? 行かんのか?」
「……」
俺は考える。
行っても行かなくても変わらないだろう。
向こうの気が済むだけだ。
それなら、そのようにさせてやろう。
「ああ、行く」
◆
「……」
「おお、連れてきたぞ」
「ありがとうございます、ペレディールさん」
ベッドに起き上がって本を読んでいた男が本を閉じてこちらを見る。
「呼び捨てで良いぞい」
「団長に対してそのような……」
「団長と言っても地位のあるものではないからの。皆に力を借りているだけじゃ」
「……わかりました。では、そのように」
男はペレディールを見て、微笑んだ。
頷くペレディールを確認した後、男はこちらに目を向ける。
「あのときは助けてくれてありがとうございました」
「……」
「私はロディオンと言います。あなたは?」
「……俺なんかに名を聞いてもどうしようもないだろうが」
そんな言葉が口から出ていた。
「恩人の名です。知りたいですよ」
ロディオンはふわりと笑う。
花のような男だ、と思った。
「わかった、お前が知りたいなら。……俺はクレス」
「クレスさんですか。素敵なお名前ですね。花の名だ」
「……いや、堕ちた罪人の名だ。さんはいらない」
「おやおや」
ロディオンは笑う。
「あなたは『堕ちた罪人』などではありませんよ」
「出会ったばかりの奴に、俺の何がわかる?」
「わかりませんよ。ただ……纏っている雰囲気が違うので」
「……」
「あなたは罪人などではない。自分で自分を責めているだけでしょう」
「………………、帰る」
「そうですか。では、また」
にこ、と笑ったらしきロディオンの顔も確認せず、俺はきびすを返した。
◆
数週間後。
「おう、飲んでるねえクレス」
酒場で安いジンを食らっていた俺の前に現れたのは、いつも飄々(ひょうひょう)としている旅団の商人ギルデロイ。
「…………」
「そんなお前さんに俺が一杯、お高い酒を奢ってやろう」
「…………」
「どん! 東方産のたか~い酒だ」
はげかけたラベルに古そうな縄。だが、上物だということはわかる。
「苦労したぜえ? こいつを取り合って切った張ったする盗賊どもにペレディールが火炎魔法をどかーんとやってよ……宙に放り出された酒を危なくウィンゲートがキャッチってわけだ」
「で、なんでそんな酒を俺にやる」
「そりゃあお前……みんなお前さんを心配してんだよ」
「お前たちに心配されるいわれはない」
「仲間なんだ、心配するぜ? あの新入りの薬師もそうさ。お前がどこにいるかって聞いてたぜ」
あの日助けた男、ロディオンは、本人の申し出により薬師として旅団に加入することになった。
確かな薬の調合をするロディオンは、旅団の奴らからも頼りにされ、最近ではすっかり団に馴染んできている。
「……失礼します」
「おっと、ご本人の登場だ。じゃま、俺はこの辺で」
「酒はいいのか、ギルデロイ」
「俺はこの後討伐だからな。残しといてくれたら勝手に飲む」
「……マスターに言っておく」
「おう、頼んだぜ! ……じゃあな!」
ひらりと手を振り、去るギルデロイ。
場にはロディオンと俺だけが残された。
何を言うべくもなく黙っていると、
「お酒がお好きなのですか?」
するりと隣に座ってくる。
「……まあな」
「いけませんね。お酒は身体に毒ですよ?」
ロディオンはくすくすと笑う。
「毒だからいいんだろう」
「おや」
「俺のような奴は、毒でも飲んで早めに死ぬに限る」
「いけませんね、そんなことを言っては」
ロディオンは笑みを崩さない。
読めない男だ。
「早めに死にたいあなたは、何のために生きているんです?」
「…………」
俺はまた、黙る。
答えを要求してくるかと思ったが、ロディオンは柔和な笑みを浮かべたまま沈黙を続けている。
「…………復讐のためだ」
気付くと答えていた。
「復讐……」
ロディオンが繰り返す。
「復讐。のため……だった」
「だった、というと」
「復讐は終わった」
「ほう、終わったのですね」
「先日の戦いで、タイタスが死んだだろう」
「…………ええ」
「タイタスは俺の敵だった。仲間と、恋人の敵だった」
「…………」
「仲間を陥れ、恋人を死に追いやった張本人だ」
「…………それを」
「そうだ。先日、殺した」
「復讐だったのですね」
「そうだ」
「…………やはり、あの人は」
ロディオンがぼそりと呟く。
「どうした」
「いえ。……復讐お疲れ様でした」
「お疲れ様というものでもない気がするが」
「それで、抜け殻になって飲んでいるというわけですか」
「そうだ」
「お疲れ様ですよ、それは」
「そうか?」
「そうです」
どうして俺がこいつに自らのことをぺらぺらと喋っているのか、たぶんそれも自傷なんだろう。
ほとんど知らない新入りの、変な笑みを浮かべた薬師に過去の話をするなんてことは。
「…………復讐なんかしても、死んだあいつらが戻ってくるわけじゃない。そんなことは知ってたし、わかっていた……はずだった」
口が勝手に喋りだす。
ええ、とロディオンが頷く。
「復讐、したら、何もかもが終わる。それまで生きて、この世の闇をはらおう……そう思ってたはずで、復讐が終わってもこの世には闇がたくさんあるから、その闇を、旅団のこいつらとはらっていこう……そう思った、はずだった」
「……」
俺は酒をあおる。
「だが……」
ロディオンは黙ったまま、俺の話を聞いている。
「いざ復讐したら、虚しくなった」
と、とグラスをカウンターに置く。
「復讐は終わった。だが、一体誰がそれを望んでいた? そんなものを望んでいたのは、生きている俺だけじゃないか。こんな惨めに一人生き残って、あいつらはみんな死んだのに。本当は俺が死んであいつらが生き残ればよかったんだ、俺だけこんな……救われない。カレンは死んだ。俺だけ……こんな……何一つ」
ほんの少し言うだけ、のつもりだった。
しかし。
「惨めだろう。笑っていいぞ」
こんなことを言っても相手を困らせるだけだと知っている。それも含めて俺は自傷行為をしている。
ロディオンは、と見やると、
「……笑いませんよ」
存外真面目な顔で、しかし口元だけは微笑んだまま、俺をひたと見据えていた。
緑色の目。
「…………」
「あなたは悪くない」
「いや。俺が悪かったんだ。あんな奴の策に乗せられて……一人舞い上がって。義賊だなどと。そんなものは……」
エメラルドが、見ている。
「俺はただの、愚かな罪人だ」
「罪人などではありませんよ」
「お前に何がわかる」
「いいえ。何も」
「ああ、そうだろう。……俺は罪人なんだ。罪人だから、皆俺に巻き込まれて死んだ。……誰も救われない。お前だってそうだ、きっといつか俺を置いて死ぬんだろう。だから俺は……」
「死にませんよ」
「なぜそう言える」
「私は死にません。だって私はあのとき一度、死んでいるのだから」
微笑むロディオン。
「…………本当にか?」
「どうでしょうね?」
ロディオンは微笑んだまま、表情を変えない。
「……じゃあロディオン、お前は俺の傍にいてくれるのか」
俺は……なぜこんなことを言っているのだろう?
「おりますよ、クレス。私だけじゃない、ギルデロイやペレディール、ウィンゲート。皆、あなたの傍におりますよ」
「ずっとか」
「ずっとです」
「俺がこんな……クズの飲んだくれでもか」
「クズの飲んだくれでもいいんですよ。それだけつらいことがあったのですから。……大丈夫ですよ、クレス。大丈夫です」
「…………ロディオン」
「はい」
「お前はいい奴だな」
「そうでしょうか」
「ほぼ初対面の奴の戯れ言に付き合って、慰めて、約束までして……いい奴だ」
「私たちは旅団の仲間、しかも、あなたは私の命の恩人じゃないですか」
「それでも、いい奴だ」
「ふふ。そうでしょうか。……でも、あなたがそう思われるのなら、そう思っていていただきましょうか」
含みのある返答だった。だが、そのときの俺にはそれを気にする余裕がなかった。
「私、散策が好きなんですよ。そのお酒はマスターに預けて、街の散策にでも行きませんか?」
「……いいだろう」
◆
街を一望できる小高い丘で、夕暮れを眺めながらロディオンが口を開く。
「……私もね。妻と子を殺したんです」
「……そうか」
「まあでもそんなことは昔の話で、全然……気にしてはいないのですけれどもね?」
俺に背を向けて夕日を眺めるその表情は、窺えない。
「あなたが罪人ならば、私も罪人になってしまいます。だから……これは連帯責任でもあるのです。ね?」
ロディオンが振り返って、微笑む。
「あなたに罪はない。ですがあなたがそう思うなら……私はいつまでも付き合いましょう」
「……そう言うならお前にも罪はないぞ、ロディオン」
「ふふ……」
夕日が前方からさして、逆光でロディオンの顔が隠れる。
「あなたに罪はないのです。あなたは罪人ではありません。クレス、素敵な花の名の美しいあなた」
「…………」
「あなたは自分をクズの飲んだくれだと言い、皆はあなたを心配しますが、私は赦します。いつまでクズでもいい。いつまで飲んだくれでもいい。全て私が赦します」
「ロディオン、」
「どうですか? この契約は」
「…………。大丈夫だ。お前に赦してもらわなくても、俺は……」
「ふふ……」
「俺は……そうだな……でも、たまには弱音を聞いてくれるか?」
「もちろんですよ。いつでも頼ってくださいな」
夕日が傾き、影になっていたロディオンの表情が照らし出される。
それはいつも通りの、柔らかな笑み。
「ありがとう、ロディオン」
それから俺はというと、特に何も変わることはなかったが、ふらりと酒場に赴くとそこにはいつもロディオンがいて、何か言うときもあったし何も言わないときもあったが、変わらず傍にいた。
それは特別な関係というわけでも何でもなく、ただ少し、同じ秘密を共有する共犯者のような、そういった関係性であり。
「お帰りなさい、クレス」
「ああ」
「お酒は身体に悪いですが、ギルデロイが持ってきてくれたものがありますよ」
「あいつも律儀だな。そんなに俺に気を遣わなくてもいいのに」
「気を遣っている、のとは違うと思いますよ。……心配しているのでしょう、彼なりに」
「……そうだろうか」
いつも飄々としているあの商人の言葉にはいつも少し軽薄な響きがあり、俺は毎回その言葉を心の底から信じ切ることができていなかった。
「あいつは少々……軽すぎるんだ」
「それこそ、あなたに気を遣ってのことだと思いますよ」
「どういう意味だ」
「あの方の言葉を借りるなら、湿っぽい空気にならないようにそうしてんだ、というところでしょうね」
「……そんなことをしなくても、俺は……」
「それがあの方なりの気の遣い方なのでしょう。クレス、人には人なりの気の遣い方があるのです。私に対して必要以上に踏み込まない、あなたと一緒でね」
「…………」
それを直接口に出して言うか? と思うが、黙る。
「ふふ」
「何がおかしい」
「あなたは感情がわかりやすいですね」
「……雪狼にいたときも、そう言われた」
「雪狼」
「俺が前にいた……組織、で、タイタスに殺された仲間たちだ」
「ああ……」
「今はもう、全員死んだがな」
「大事なお仲間さん方だったんですね」
「……当然だ」
そう。当然だ。
俺はあいつらのことが大事で、あいつらの方は……
「雪狼の皆さんもきっと、あなたのことが大切だったと思いますよ」
ロディオンが諭すように言う。
「なぜわかる」
「これは私の推測ですが。感情がわかりやすい、というのは、その分あなたのことをよく見ている、ということであり、あなたのことをよく見て感情を読み取ろうとするのはきっと……皆さんが、あなたのことを大切に思っていたからなのでしょう」
「さあな。……死者が何を思っていたかなんて、考えたって仕方ない」
「それは違いますよ、クレス」
「何が違うんだ」
「死者が何を考えていたかを思うことは、遺された者たちにとっての『供養』なんですよ」
「供養……」
じゃあロディオン、お前もお前の妻子にそれをしたのか?
と聞きたかった。
しかし、目の前で優しく微笑む男にその質問をかけるのは少し残酷な気がして。
そのときの「気の遣い方」があっていたのか間違っていたのかは、今となっては知るべくもない。
◆
何かを喪った者同士、傷の舐め合いをしていたのかもしれない。
それでもそれは確かに「友情」だったように思う。
俺が零した言葉にあいつが返事して、あいつの問いかけに俺が答える。
そんな。
「ねえクレス。死後の世界ってあると思います?」
その日のロディオンは、嫌いだと言っていた酒をペレディールに付き合って少し舐めていた。
「何だ、急に」
「いえ。私の大事な人も……そこに行ったのだろうか、と思いまして、ね」
ペレディールはとっくのとうに酔い潰れてウィンゲートに連れて帰られ、場には俺とロディオンだけが残されていた。
「もし、天国と地獄があるのなら」
「はい」
「俺は地獄行きだな」
「それを言うなら、私も地獄行きですよ」
「同じか」
「同じですよ、ふふ……」
ロディオンがへらりと笑った雰囲気を感じる。
「でもクレス」
「何だ」
「あなたは地獄には行けませんね」
「それを言うならお前もだろう」
「……私は地獄です」
「それなら俺も……」
「いいえ。……違うのですよ」
「違う?」
「私は……罪を犯しました」
その声にいつになく重みを感じて、俺は思わずロディオンを見る。
「ふふ。なんてね」
ぱ、と笑ってみせるロディオン。
「ロディオン」
「大丈夫ですよ。悪は悪、善は善。最後はみんなしかるべき報いを受けるんです。ハッピーエンドなんですよ、この物語は」
「ロディオン……」
「だから、私も……」
その先は、聞き取れなかった。
ロディオンが眠ってしまったからだ。
ロディオンを背負って宿屋に帰って、次の日、彼がその話を覚えていたのかどうか確認するのも酷な気がしたし、そのままなんとなく過ごしているうちに俺はそれを忘れてしまった。
そのときは。
◆
「おうクレス! ロディオン! やってるか~?」
「ふふ。やっておりますよ、ギルデロイ」
「おいギル、営業中みたいに言うんじゃない」
「いいじゃねえか。クレスとロディオンのなかよし酒場! 旅団でも評判だぜ~? 美人さん二人が相手してくれるってな」
「ギルデロイ、その言い方は……」
「ふふふ……」
意味ありげに笑うロディオン。そこで気付く。
「待て。それは俺も美人の範疇に入っているということか?」
「あったりめえだろぉ! 雪国美人のクレスさんよ」
ぐいぐいと肩を組んでくるギルデロイ。
「やめろ、鬱陶しい」
「いいじゃねえか、減るもんじゃなし」
「減るからやめろ」
「今日もうま~い酒を仕入れてきてやったんだぜぇ? ちょっとぐらいサービスしてくれたって……」
「ギルデロイ。ハラスメントだ」
「は、はらすめんと…………」
がーん、という古典的な擬音がつきそうな顔をしてギルデロイが固まる。それを見てロディオンはおかしそうに笑う。
この商人のスキンシップ過剰が最近ではそこまで嫌でもなくなってきた、なんてことは、口が裂けても言えないのだが。
「それじゃ、飲もうぜ~酒だ酒だ!」
「……はあ……」
「ふふふ……」
ロディオンが傍にいて、ギルデロイが酒を持ってきて、そのうちにウィンゲートやペレディールやらが参加して、騒いでいるのを肴に飲み。
旅団に入った頃は避けていたそんな空間を、いつしか俺は受け入れられるようになっていた。
一人で酒を飲んでいたころと比べて、ロディオンを含めた仲間たちの傍は不思議と居心地がよく、本当に「ずっと一緒」にいられるのなら……それはもしかすると、「楽しい」のかもしれない。なんて思い始めた晩冬の頃。
ロディオンが、旅に出ます、と告げた。
◆
「旅に出ます」
「そりゃあまた、急にどうしたんじゃ?」
「私の目的はグレース熱の根絶であり、この治療法をオルステラ全土に広めることであることは以前皆さんにもお話ししましたよね」
「うむ」
「この度、慈善活動をされている貴族の共同体が協力してくれることになりまして」
「ほう!」
「旅団から独立し、そこと共同して事業を進めていこうと思うのです」
「それは、よかったのう」
「ええ。なので、近々出立しようかと」
「うむうむ。旅団全員で見送るぞ。な、クレス」
「そう……だな」
出立。
ロディオンが自身の目的のために出発するというなら、俺にそれを止める理由はない。
そう思っているはずなのに、どうしてだろう、何かが心に引っかかる。
ざわりとした、予感めいた何かだった。
そして、その夜。
「おお!」
追憶の塔からしたペレディールの大声に、何事かと皆が駆け付ける。
そこに立っていた男……誰かはわからない。そいつは自らのことを■■■■と名乗った。
追憶の覇者らしいぞ、と説明するペレディールの話を聞く皆を余所に、ロディオンの顔が蒼白になっていたことが。
◆
「ロディオン」
「どうかしましたか、クレス」
「お前、あの旅人と面識があるのか?」
「……どうしてそう思うのです」
「ひどい顔をしていたから」
「……そう、見えましたか」
「ああ」
「何も、ありませんよ。心配させてしまったならすみません」
「…………」
明らかに、何もないという顔ではない。しかし、言うつもりがないならこれ以上聞いても仕方がない。
それに俺たちは特別な関係でも何でもなく、こういう関係性だ。
最初に全てを開示して、そこからはもう踏み込みすぎない、傷つけない。
いつの間にかそれが心地よくなっていたし、今更それを変えるつもりもなく。
もうすぐロディオンは旅団から立つのだし、それまでは何も言わず穏やかに見送ってやろう。
そう、思ったのだが。
出立の予定はしばらく延ばします、とロディオンが言ってきたのはその日の深夜のことだった。
[クレス編:傷を持つ狼]
[了 ――タイタス編へ]
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