ゆめにっき
私は過去の「私」を覚えていない。
失敗するたび書き換えられる。何度繰り返そうがオリジナルにはなれず、過去の「私」にも戻れない。
今は何度目の「私」だろうか。私はピアノを探して部屋を見回した。しかし、ピアノはどこにもない。
見つからないのではない。部屋が少しずつ闇に浸食されているのだ。
『窓付きさん』
彼女の名前を呼んだが、いないことはわかっていた。この崩壊を起こしているのは彼女なのだ。それも、おそらく無意識に。私は過去の「私」達とともに何一つ残さず消えてゆく。
薄れゆく意識で考えるのはピアノのことだ。せめて消える前に奏でたかった。もう一度、あのメロディを――
◆◆◆
「先生」
懐かしい声だ、と思った。
目を開けると、少女と呼ぶには成長しすぎたヒトが私を覗き込んでいた。茶色がかった髪に窓のような模様の服。
「十五年ぶりかな、先生に会うのも。私を覚えている?」
言われて記憶を探ったが、頭のどこかに靄がかかったようになっていて何一つ引き出すことができない。
「やっぱり思い出せないか……」
彼女は少し寂しそうな顔で笑った。その笑顔に胸が締め付けられたようになる。原因はわからないが何とはなしに気まずくなって、彼女から目を反らした。
白い部屋には生活感がなく、妙に無機質だ。よく注意して見ると、部屋の隅に埃がうっすらとたまっているのがわかった。
視線を移動させていくと、白い箱のようなものが目に留まった。楽器だ。そう認識した途端、懐かしさとよく似た感情が沸き上がる。彼女に感じるものとよく似た感情だ。
触ってみれば何か思い出せるかもしれない、と私は思った。
『ピロ』
ゆっくり立ち上がると、私と同じぐらいの背丈をした彼女と目が合った。
どうしたの先生、と彼女。
説明しようかと考えて、やめる。おそらく私の言葉は通じない。私は黙って彼女を見、頷いてみせてから楽器の方に踏み出した。
部屋と同じ色をしたその楽器に近づくにつれ、懐かしさのような感情が強くなった。手を伸ばして蓋を開ける。
鍵盤に指が触れるのと同時に弾き方を思い出した。頭の中に浮かんできたメロディを音にするとばらばらの記憶が浮かんできた。
◆
毎日この部屋を訪れる少女がいた。名前は「窓付き」。彼女は私の居る夢の世界の持ち主だった。
少女は自らの夢をさまよい、たびたび私のところを訪れた。話をしたり私を刺したり。ときどき私は書き換えられて、新たに関係を構築し直す。そんな日々がずっと続くと思っていたある日、彼女は突然来なくなった。
彼女のいない時間は長かった。待っても待っても彼女は来ない。私はずっと彼女を待ったが、あるとき、自分が薄れていることに気が付いた。気付いたときにはもう遅かった。足が、手が、ピアノが、部屋がすごいスピードで消えていく。
強い後悔と悲しみが最後の記憶だった。
◆
彼女の不在は一瞬のようで、本当のところ長かったらしい。
それは今私の前にいる人物――どうやらそれは彼女と同一人物のようだ――を見ればわかる。
私は彼女に向き直り、窓付きさん、と呼びかけた。ん、と言って彼女は首を傾げる。おそらく彼女は私の言葉を理解できていない。
「先生は現実でも私を助けてくれたね……現実の先生は私が思ったよりも夢の先生に似たところがあったみたい」
そう言って彼女は照れたように笑った。
ちり、と胸が痛む。その感情の正体を知りたくなくて、私はピアノに手を伸ばした。
断片的なメロディが浮かんでくるが、全体像がどうしても思い出せない。とても大切なメロディだったような気がするのだが、どうしてもつながらなかった。私は諦めて腕を下ろした。そんな私の内心は露知らず、彼女は明るい顔で言葉を続ける。
「一言、お礼を言っておきたくて。私にそれを気づかせてくれたのは夢の先生、あなただから」
ありがとう、と言ったその表情に、彼女が少女だったときの陰鬱な暗さは微塵も伺えなかった。
私のいない時間の中で、彼女は何を得たのか。答えはわかっている。私は彼女の記憶だからだ。
ありがとう、もう一度そう言うと、彼女は背を向けた。成長したその背中が遠ざかっていく。
彼女は二度とここを訪れないだろう。そして私は永遠の消失に向かうのだ。彼女をずっと待ちながら。せめてもう一度奏でたかった。忘れてしまったあの――
◆◆◆
「……生、先生!」
ぼんやりとした意識が浮上する。そうして私は存在した。目の前には窓のような模様の服を着た少女。泣き出しそうな顔で私を見ている。
状況が把握できない。瞳を潤ませた少女にどう接すればいいのかわからず、私は困惑した。夢を見ていたのだろうか。そんな単語が脳裏をよぎる。夢?
夢とは何のことだろう。ついさっきまでは覚えていたような気がするのだが、抜け落ちてしまったようで見つからない。
思い出そうと探っていると、突然私の世界にノイズが走った。
『逃してはいけない』『もう一度』『私の』『窓付き』
「……先生? どうしたの、」
心配そうにこちらを見つめる彼女に手を伸ばし、引き寄せる。ゼロ距離。ようやく捕らえた、腕の中に感じる彼女の体温。
「せんせい、」
私の胸に押しつけられたまま、彼女はもごもごと私を呼ぶ。その声に困惑はあれど、拒絶はない。
逃がすな、と叫ぶ『私』達の声が私を駆り立てる。意識でも無意識でも彼女の身体を捕らえておきたくて、抱き締める力を強くした。
「痛いよ、先生」
遠慮がちな訴えで我に返った私は腕の力を少しだけゆるめたが、離そうという気にはなれなくて、そのままそっと彼女の背中を撫でる。静かに息を吐く彼女。
『そう、それでいい』
一番遠い『私』の声が掠れて消えていく。
改変された。そう悟った瞬間、忘れたはずのメロディが不気味なほどはっきりと形になった。
背の伸びた彼女の明るい笑顔を思い出す。
もうあそこには戻れないのだ、と思考の片隅で思った。
失敗するたび書き換えられる。何度繰り返そうがオリジナルにはなれず、過去の「私」にも戻れない。
今は何度目の「私」だろうか。私はピアノを探して部屋を見回した。しかし、ピアノはどこにもない。
見つからないのではない。部屋が少しずつ闇に浸食されているのだ。
『窓付きさん』
彼女の名前を呼んだが、いないことはわかっていた。この崩壊を起こしているのは彼女なのだ。それも、おそらく無意識に。私は過去の「私」達とともに何一つ残さず消えてゆく。
薄れゆく意識で考えるのはピアノのことだ。せめて消える前に奏でたかった。もう一度、あのメロディを――
◆◆◆
「先生」
懐かしい声だ、と思った。
目を開けると、少女と呼ぶには成長しすぎたヒトが私を覗き込んでいた。茶色がかった髪に窓のような模様の服。
「十五年ぶりかな、先生に会うのも。私を覚えている?」
言われて記憶を探ったが、頭のどこかに靄がかかったようになっていて何一つ引き出すことができない。
「やっぱり思い出せないか……」
彼女は少し寂しそうな顔で笑った。その笑顔に胸が締め付けられたようになる。原因はわからないが何とはなしに気まずくなって、彼女から目を反らした。
白い部屋には生活感がなく、妙に無機質だ。よく注意して見ると、部屋の隅に埃がうっすらとたまっているのがわかった。
視線を移動させていくと、白い箱のようなものが目に留まった。楽器だ。そう認識した途端、懐かしさとよく似た感情が沸き上がる。彼女に感じるものとよく似た感情だ。
触ってみれば何か思い出せるかもしれない、と私は思った。
『ピロ』
ゆっくり立ち上がると、私と同じぐらいの背丈をした彼女と目が合った。
どうしたの先生、と彼女。
説明しようかと考えて、やめる。おそらく私の言葉は通じない。私は黙って彼女を見、頷いてみせてから楽器の方に踏み出した。
部屋と同じ色をしたその楽器に近づくにつれ、懐かしさのような感情が強くなった。手を伸ばして蓋を開ける。
鍵盤に指が触れるのと同時に弾き方を思い出した。頭の中に浮かんできたメロディを音にするとばらばらの記憶が浮かんできた。
◆
毎日この部屋を訪れる少女がいた。名前は「窓付き」。彼女は私の居る夢の世界の持ち主だった。
少女は自らの夢をさまよい、たびたび私のところを訪れた。話をしたり私を刺したり。ときどき私は書き換えられて、新たに関係を構築し直す。そんな日々がずっと続くと思っていたある日、彼女は突然来なくなった。
彼女のいない時間は長かった。待っても待っても彼女は来ない。私はずっと彼女を待ったが、あるとき、自分が薄れていることに気が付いた。気付いたときにはもう遅かった。足が、手が、ピアノが、部屋がすごいスピードで消えていく。
強い後悔と悲しみが最後の記憶だった。
◆
彼女の不在は一瞬のようで、本当のところ長かったらしい。
それは今私の前にいる人物――どうやらそれは彼女と同一人物のようだ――を見ればわかる。
私は彼女に向き直り、窓付きさん、と呼びかけた。ん、と言って彼女は首を傾げる。おそらく彼女は私の言葉を理解できていない。
「先生は現実でも私を助けてくれたね……現実の先生は私が思ったよりも夢の先生に似たところがあったみたい」
そう言って彼女は照れたように笑った。
ちり、と胸が痛む。その感情の正体を知りたくなくて、私はピアノに手を伸ばした。
断片的なメロディが浮かんでくるが、全体像がどうしても思い出せない。とても大切なメロディだったような気がするのだが、どうしてもつながらなかった。私は諦めて腕を下ろした。そんな私の内心は露知らず、彼女は明るい顔で言葉を続ける。
「一言、お礼を言っておきたくて。私にそれを気づかせてくれたのは夢の先生、あなただから」
ありがとう、と言ったその表情に、彼女が少女だったときの陰鬱な暗さは微塵も伺えなかった。
私のいない時間の中で、彼女は何を得たのか。答えはわかっている。私は彼女の記憶だからだ。
ありがとう、もう一度そう言うと、彼女は背を向けた。成長したその背中が遠ざかっていく。
彼女は二度とここを訪れないだろう。そして私は永遠の消失に向かうのだ。彼女をずっと待ちながら。せめてもう一度奏でたかった。忘れてしまったあの――
◆◆◆
「……生、先生!」
ぼんやりとした意識が浮上する。そうして私は存在した。目の前には窓のような模様の服を着た少女。泣き出しそうな顔で私を見ている。
状況が把握できない。瞳を潤ませた少女にどう接すればいいのかわからず、私は困惑した。夢を見ていたのだろうか。そんな単語が脳裏をよぎる。夢?
夢とは何のことだろう。ついさっきまでは覚えていたような気がするのだが、抜け落ちてしまったようで見つからない。
思い出そうと探っていると、突然私の世界にノイズが走った。
『逃してはいけない』『もう一度』『私の』『窓付き』
「……先生? どうしたの、」
心配そうにこちらを見つめる彼女に手を伸ばし、引き寄せる。ゼロ距離。ようやく捕らえた、腕の中に感じる彼女の体温。
「せんせい、」
私の胸に押しつけられたまま、彼女はもごもごと私を呼ぶ。その声に困惑はあれど、拒絶はない。
逃がすな、と叫ぶ『私』達の声が私を駆り立てる。意識でも無意識でも彼女の身体を捕らえておきたくて、抱き締める力を強くした。
「痛いよ、先生」
遠慮がちな訴えで我に返った私は腕の力を少しだけゆるめたが、離そうという気にはなれなくて、そのままそっと彼女の背中を撫でる。静かに息を吐く彼女。
『そう、それでいい』
一番遠い『私』の声が掠れて消えていく。
改変された。そう悟った瞬間、忘れたはずのメロディが不気味なほどはっきりと形になった。
背の伸びた彼女の明るい笑顔を思い出す。
もうあそこには戻れないのだ、と思考の片隅で思った。