ゆめにっき

 薄曇りの冬空、昼の賑わいを見せる商店街は人でごった返している。そんな人々の間を縫うように、一人の少女が早足で歩いていた。
 窓のような模様の服を着たその少女は、三つ編みを揺らしながらアーケードを抜けていく。
 少女はひたすら前方の地面を見つめて歩く。彼女に声をかける者は誰もおらず、気に留める者もいない。目を上げないまま進む彼女の歩みは、だんだんと速くなっていく。
 逃げるように商店街を抜けて裏道に入り、マンションの階段を駆け上がり、部屋の前まで一気に走る。ランドセルからもどかしそうに鍵を取り出して開ける。
 玄関を通り抜けて「窓付き」と書かれた部屋の前に立った彼女――窓付きはドアを乱暴に開けランドセルを机の下へ放り投げ、ベッドに潜り込んだ。布団を目深に被って目を閉じる。ベッドの中はひんやりと冷たく、彼女を世界から隔離した。掛け布団が彼女の体温で暖まっていく。
 彼女はくるりと膝を抱えて丸まり、呼吸を整えた。
 数秒経ち、数分が経った。彼女は眉を寄せ、布団を巻き込んで寝返りをうつ。予想していた眠気がやってこないのだ。
 不安ともやもやした感情が形になる。埋めたはずの記憶のスライドが早回しで浮かび上がる。
 彼女は目を開いた。思考を強引に止め、布団の中の闇を見る。記憶は当分去るつもりがないかのように上映され続ける。彼女は布団を強く身体に巻き付けた。
「ダメ」
 意識に過去の映像が降り積もる。彼女は自分の感情を認識してしまわないように思考を止め、記憶のスライドの中に埋もれていく。少しずつ、重ね塗りされるように意識が薄れる。やっと眠れる、頭の中でそう呟いて彼女は意識を手放した。

◆◆◆

 意識がフェードインする。自室のベッドで彼女は目覚めた。
 テレビを付ける。モノクロの目玉が写る。
 彼女は部屋のドアを開けたがなんとなく外に出る気になれず、再びベッドに潜り込んだ。
 今度はすぐに眠気がやってきた。
 意識が再びフェードアウトする。

◆◆◆

 ぼんやりと浮上する意識の中で階段を下りている。長い長い階段を淡々と下りている。先は見えない。
 燃えさかる火を雪で消火し、図書室を通り抜けて、無機質な部屋の前に着く。
 彼女は深呼吸した。ぐるぐる回る思考をいったん凍結する。
 感情をできるだけ止めてしまってから、彼女は部屋のドアを開けた。窓の側でピアノのようなものを弾いていた人物が振り返る。
「こんにちは先生」
 彼女はピアノのような――以後ピアノと呼称する――ものの側まで行き、「先生」を見上げた。
 背の高いその人物はピロっという音で彼女に応える。
「先生……」
 その先の言葉が出てこなくて彼女は眉間にしわを寄せる。
 彼女は彼に何かを話そうと思ってここに来たはずなのだが、凍結させてしまった感情からは何の言葉も出てこない。
 彼女はしばらく言葉を探していたが、思うようにいかなかったらしく諦めたように首を振った。
「……先生。ピアノを弾いてくれない?」
 それを受けた彼は鍵盤に指を当て、弾こうとして、やめる。彼はそっと彼女の手をとり、鍵盤の上に置いた。
 ピロ。
「私に弾けっていうの? ……できないよ。私は先生みたいにピアノで表現はできない」
 彼は腕を下ろしてピアノから一歩下がる。ピロピロ、と彼は言って彼女を見つめた。
「……少しだけ、全然弾けないよ」
 そう言って彼女は鍵盤を人差し指で押さえた。鍵盤を押さえている間、音は途切れず鳴り続ける。
 始めはおそるおそる鍵盤に触れていた窓付きであったが、弾き続けるうちに響きの探索に熱中していく。
 彼は彼女の作り出す響きに重ねるようにして、自分の指を動かした。そしてしばらく聴いた後、彼女の腕を掴んで曲を止めさせた。
「先生?」
 問われた彼は、これ以上は駄目だ、と言うように首を振る。
「……わかったわ、先生がそう言うんなら」
 彼女はピアノから手をおろした。そして、「先生」と向かい合う。
「えーと先生……最近元気?」
 定型文を引っ張り出し、投げる。
 彼はこくん、と頷いた。ピロピロと何か言う。彼女にはわからない。
「わ、私は元気、だよ……それで、えーとね……」
 「先生」は目を細めてピロ、と言い、彼女と視線を合わす。
 窓付きは必死に言葉を探すが、行き止まりだらけの心の中ではなかなか見つけられない。
 彼はそんな彼女に手を伸ばし、唇にそっと触れた。
 彼女は驚いて彼を見上げる。焦点のずれた瞳が何を考えているのかはわからないが、喋らなくてもいいんだよと言われたような気がした。
「ありがとう」
 お礼の言葉は探さずとも自然に出てきた。
「気が楽になったよ」
 気休めだけど、と続ける。
「私、先生がいないと潰れちゃってるかもしれないね」
 彼女は照れたように笑う。



 少しいただけないですね、と彼、「先生」は思った。
 このまま彼女が依存に走るとまたいつものループですよ、と彼は無意識に考え、そして気付く。
 「いつものループ」? それはいったい何のことだろう。
 記憶の片隅にメロディの断片がよぎる。
『私の最初で、おそらく最後の――』
 捕まえようと意識した瞬間、それは霧散し、もやもやとした感情のみが残った。
 肯定すれば依存を助長するが、負の反応をするのもよくないだろう。彼女は負の反応を極端にとりすぎる傾向がある。下手に刺激してしまうのはまずい。だが、このまま黙っているわけにもいかない。何かしらの反応は返さなければ。……どうやって? 彼には何一つ思い出せない。

 沈黙を続ける彼を見て、窓付きが困ったような顔で笑う。
「……変なこと言っちゃってごめんね」
 彼にはその台詞が妙に引っかかって聞こえた。自分を閉じようとしているように思われたのだ。
 ピロ、と彼は応える。
「先生は優しいんだね」
 穏やかな声で、窓付き。何もない場所から包丁を取り出す。
 それに気づいた彼は条件反射で後ずさる。
 彼女は一気に距離を詰め、彼に包丁を突き刺す寸前で止めた。
「最後にはみんな私を拒絶するから、世界に関わるにはこうするしかないの」
 彼女は後ずさり続ける彼に向かってゆっくりと歩く。
「本当は傷つけたくなんかないし、優しくしてもらいたい」
 俯いた彼女の表情は伺えない。
「でも、みんなは私を拒絶する。私がおかしいの、みんながおかしいの? 私はずれてるの? 嫌われるのが当たり前なの? どうすれば仲間に入れるの。
 ねえ先生……これは仕方がないの。仕方がないことなの」
 彼女の声が震える。
 彼の背中が壁に当たった。これ以上後ろには下がれない。
 彼女は包丁の柄を握りしめ、構える。
 空気を切る音。包丁を刺す感触。鈍い手応えは長くは続かず、彼は消えた。



「先生、」
 記憶のスライドが剥がれ落ち、無意識の奥深くに沈んでいく。
「私はどうすればいいの」
 彼女は一人、問いかける。
「教えてよ、先生……」
 答える者は誰もおらず、無機質な部屋には宇宙の静寂だけがただ満ちていた。
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